保坂連4
事務所に入ると、多くの視線が俺に向かった。何とも不愉快だ。席につくと、目の前の保坂がニヤニヤと俺を見ていた。こんないやらしい笑みも様になるから男前は嫌いだ。
「おはよう。朝から疲れていないか?」
「心配無用だね。いたって元気」
精神的には疲れたけれど。とは言わないが、昨日の夜が長く感じられたのは本当だ。御世辞にも楽しかったとは言えない。
「それよりお前の方が張り切りすぎたんじゃないか」
「なに、いつもの事。特別なことなんて一つもないさ」
爽やかな表情で生々しい事を言う。この男のどこがいいのか分からない。女性に対して歪んでいるのに誰も気づかないのだろうか。それでもいいと言う女の神経も理解できない。
仕事中は保坂から逃げていたが、帰りに見ごとに捕まった。保坂の事だからこのくらいはするだろうとは思っていたが、無駄な労力だとは思わないのだろうか。こういう時この男を理解できない。そして、連れられて行ったのはおでん屋。カウンタの端を陣取り、ぬる燗でお疲れの乾杯を済ませた。
「それで、どうだった?」
興味津々と言う表情を隠さない保坂に溜め息をプレゼントしてあげた。そんなのでは折れない事を俺は知っている。逃げられないのだ。無駄な攻防は避け、俺は事の顛末を話した。見事に大笑いされた。
「おまえらしいな。一線を飛び越えられない、割り切れない、無責任になれない。まあ、それがお前のいい所だけれど、男としてそれはどうかなあ。据え膳食わぬは――て言うしね」
保坂は丁寧に一口大にがんもどきを箸で切っていた。
「腰抜けと言いたけ言えばいい。後の事を考えたらできなかった。それだけだ」
「それにしても頑強な理性だね。隣で抱きつかれてもその気が起きないなんて立派だよ。聖人君子でも目指すつもり?」
「そんなものを持ち合わせていたら、佐原と一緒に過ごしてなんていない」
「まあ、そうだろうけれどね」
保坂はとても楽しそうだ。
「そっちは聞くまでもないんだろうな」
「うん。想像通り熱い激しい夜を過ごしたよ。彼女がそれを求めるんだからね。俺の身体がクリスマスプレゼントってな感じ」
よく恥ずかしげもなく口にする。しかも爽やかな笑顔を浮かべて。
「彼女も大満足と言った表情だったしさ」
この男、どれだけすごいテクニックを持っているのか興味を抱く。だからと言って聞いたら生々しいし、覗き見るなんてことは絶対お断りだけれど。
「今日、陸君を愛してあげようか」
俺の心を覗くように言って来る保坂をじっと見つめた。これは反撃を試みるべきか、それとも流すべきか。
「満足させてくれるの?」
「自分でも聞いたことのない声が聞けるかもね」
「すごい自信だな」
「すみません、いか巻きとこんにゃくとつみれ」
保坂は呑気に注文をし、日本酒を飲みほした。
「俺のテクニックで腰抜け。早速これを食べたら試す?」
変な方向へ流れてきた。俺がどう答えるか悩んでいると、保坂が盛大に笑った。
「こういう話は苦手か?」
「いや。どう答えるのが一番適しているのか考えていただけだ」
「だから、それが苦手だって事だろう。安心しろよ。見境ない俺だって、男には手を出さない」
「見境ないって?どこがだよ。きちんと色好みしているだろう?いつも同じような女ばかりだ」
「派手で遊んでいそうって?」
「違うよ。自分に自信を持っていて、我が強い女」
保坂はハハハと笑った。
「よく観察しているな。言われてみればその通りかもな」
呑気な口調で興味なさそうに言われてしまった。
「おまえってどうしてそう投げやりなの?」
「投げやり?」
「そう。なんかトラウマがあるとか?」
「うーん。そうかな」
いつもははきはきした口調も今は影を潜めている。あまり踏み込んではいけない域のようだ。まあ、トラウマなど誰にも踏み込まれたくはない域だろうが。
「まあ、程々にしろよ」
俺の言葉にまたハハハと保坂は笑った。
「まあ、聞いてもらうのもまたおもしろいかもしれない」
その口調がいつもの調子いい保坂のものとは思えなかったので、俺は焦って保坂を見た。何とも憂いを帯びた色っぽい顔をしていた。
「保坂ってさ、偽名なの。本名は葉迫。社長の息子」
「は?」
保坂はクハハとわざとらしく笑った。
「予想通りの反応を返すね。いいよ、悪くない。俺、おまえの勤めている会社の社長の息子。保坂は偽名だよ。本名は葉迫。
社長の息子だと分かった途端、大体の女は眼の色を変える。今までそんな思いを何度もしたんだ。そのせいかな、人間を信じられない。俺をどんな眼で見ているのか、っていつも疑うんだ」
保坂から似合わない自嘲気味な笑みが浮かんだ。
「女性を本気で愛したこともあるよ。そんな初心な時もあった。だけどさ、どんどん信じられなくなるんだ。こいつは本当に俺を愛しているのかってさ。疑い始めたら止まらなくなる。そして、それに比例するように俺は相手を傷つけていくんだ。本気で愛した女を大切にできない。これでもかというくらい傷つけて確かめるんだ、俺はさ。だから――」
だから本気にはならない。そんな冷めた口調で言われたら苦しくなる。
「なら、これからは俺も疑われるのか?」
「さあ、どうだろうね」
投げやりな態度に俺はなぜか保坂の頭を掻き雑ぜるように撫でた。励ましたりする方法をあまり知らない。いつもその対象は桃香だったから、こんなことしかできない。抱きしめてやるわけにもいかないし。
「おまえ、俺を子供扱いか?」
「だって、不貞腐れているじゃないか」
「おまえの育った環境も大変だと思うよ。経験したことないから分かんないけれどさ、想像くらいはできる。それに比べたら俺の育った環境は恵まれているのかもしれない。でも、それでも俺にとっては深刻なんだ」
「分かっているよ。責めたりなんかしない。どんな風に傷つけられてきたか知らないけどさ、人それぞれ深い傷ってものはあるもんだよ。誰にも気づけないものがさ」
「それにさ、俺にはもう結婚相手がいるんだ」
「とびきりの金持ちでとびきりの美人?」
保坂はテーブルに伏せてクツクツと笑った。
「会ったことがないからとびきりの美人かは分からない。そうだったら、俺の人生バラ色かもな」
「悪かったよ。そう自虐的になるなよ」
俺は保坂の頭を二回軽く叩いた。
「おまえ、頭に触れるのが癖か?」
「妹にずっとしてきているからね」
妹扱いかよ、と嬉しそうに保坂は呟いた。俺は冷めてしまった大根を口入れる。冷めてもおいしい。
「彼女には、俺が中学生の頃挨拶程度で会っているな。それから、彼女の高校入学祝いに一度。その時は今時の女子高生だった。あれからは会っていない。今は――二十三歳か」
「会っているんじゃん」
「まあな」
保坂は眼の前で煮込まれているおでんの湯気を見つめながら呟いた。そして、そっと眼を閉じる。
高校時代、保坂の家庭教師の女が父親の愛人だった。その家庭教師はおしゃべりで、ある事ある事、父親との関係を保坂に話していたと言う。
大学時代、お金を目当てに女が近付いてきた。保坂が社長の息子だと知った女が、しおらしい態度で近づいて来て、付き合うようになる。この時点で、女性不審気味だった保坂は、彼女がどういうタイプの人間か分かっていながら、気づかないふりをして付き合っていた。彼女が強請るものは何もかも高価なものだったが、何一つ買ってあげることはなかった。それにうんざりした女は「ケチな男」と捨て台詞を吐いて別れを告げた。三ヶ月の付き合いだった。
その後も何人か派手な女が近付いてきたが、三ヶ月を待たずに別れを告げられる。人間不信に陥り、友人さえ疑うようになり、周りには多く友人がいるが、孤独だった。
「援交のつもり?俺は女性を買ってまで飢えてはいないよ。自分の身体がそれだけ価値があるなんて勘違いしちゃいけない。自惚れないでほしいな。君だって気持ちよかっただろう?」
投げ捨てた言葉に逆上した女は保坂を罵り、ボコボコに蹴りを入れて去ったと言う。
保坂の他人事のような淡々とした口調に苛立った。悲し過ぎるではないか。なぜ、悔しいとか悲しいとかそんな感情を抱かないのだろう。なんか、本を読んでいるような感覚で保坂は語り、おでんを食べる。
「なあ、そんなやつらばかりじゃない。見極めるのは大変かもしれないけど、自分のことは大切にするべきだよ」
保坂の人生を変えるような一言なんて持ち合わせてはいない。いつも俺は言葉ではなく行動で愛情を感情を示してきたから。だから、俺は保坂の頭を軽く二回叩いた。
「分かっているよ。おまえは違うと言うことも分かっている。だから話したんだ。疑っていたら話しはしない」
「まあな」
俺の言葉にクックと笑った。少し浮上しているようだ。
連君は勤めている会社の社長の息子。この設定を考えた時、この会社に勤める女の子を主人公に鉄板の物語を作れるかも……と思ったり。でも、私には書けないのです。読むのは好きなんですけれどね。
次回は桃香の誕生日。桃香と連君ご対面。
女性に対して厳しい陸君ですが、妹に対してはとても甘いのです。
次回もお付き合いください。




