佐原誓4
十二月二十四日が来てしまった。まあ、休日でないだけまだましというものだろう。桃香はいつもの通りだった。多分宿泊もせず、帰って来るのだろう。俺は佐原に言われた通り、下着とワイシャツとネクタイと靴下を持った。見事に『泊まりです』と言っているようで居た堪れない。それに、次の日が仕事だと思うと宿泊も面倒くさい。
「今日は泊まり?」
電車に揺られながら桃香が聞いてきた。乗り始めはまだ早い時間だけあり、あまり混んでいない。だからと言って座れるわけでもない。桃香は壁に寄りかかり、俺は桃香の正面に立っている。いつものスタイルだ。
「そう、泊まり」
「節度ある、責任ある行動を、ね」
桃香は冗談まじりに言う。なんとなくこの言葉が胸を刺す。口調は冗談だが、俺をたしなめているのだろう。
「心得ているよ」
俺の言葉に桃香はにこりとした。桃香の方は心配いらないだろう。今までも節度あるお付き合いをしてきたのだ。相手は可哀想だが、桃香は決めたことは破らない。こういうところは頑なだ。
「ずっと彼女がいなかったから心配していたけれど、最近、また学生時代に戻ってきているんじゃないの?」
「心配いらないよ。あの頃と比べて俺は大人になった」
俺の言葉に桃香はクツクツと笑った。
「見境無くではなくなったって?」
「今日のモモは毒舌だね」
「わたしの誘いを断ったから」
「あのね。棚島に申し訳ないだろう?俺だって居心地悪いし。俺の心はそこまで頑強でも鈍感でもない」
「うん、分かっている」
桃香はこれでもかというくらい幸せそうな笑みを俺に向けた。
今日の保坂の格好はいつにも増してスマートだった。すれちがう女性たちの眼を惹くくらいには決まっている。俺とは大違いだ。今日は隣にいたくない。
「今日はデート仕様だな」
朝、エレベータ前で呟くように言ってやった。
「雰囲気は大切だよ。ムードを作って盛り上げて楽しまないと損でしょう?」
俺にまで色っぽい笑みをむける。
「俗っぽいな。おまえらしい。俺には真似はできない」
「だけれど、おまえだってこの習慣に漏れず、王道のデートコースなんだろう?」
「そうらしいな。俺は分からないけど、ホテルも予約しているって言っていた」
俺の言葉に保坂は噴き出した。
「すごい積極性だな。いまどきの女性は見た目じゃわからない」
いまどきとかそういう問題ではないと思う。
「この行動力は感心するね。事務じゃなく営業向きじゃないかな」
「確かに」
保坂は笑いが止まらないと言った風でずっとにやけている。俺たちはエレベータに乗り、事務所を目指した。
「おまえもホテルなの?」
「いや、そんな面倒なことはしないよ。金もかかるし、勘違いもさせる。相手の部屋でしっぽりだ」
そっちも勘違いする女は勘違いするのではないだろうか。
「なにがしっぽりだよ」
俺は思わず、保坂の後頭部を叩いた。
「今日一日を表している言葉だろう」
そう言ってニヤッと笑う保坂の表情は俺をからかうような悪い笑みだった。
「でも、この前、言っていたじゃないか。ホテルまで予約取れたと準備万端な女の話」
「ああ。ああいうのは面倒なんだよね。だからその時点でお断り。まあ、今年は相手の部屋でゆっくりしっぽりがテーマだったから、それを提案してくれた子に決めたの」
選び放題の男はこうやって楽しむのが常なのか。羨ましいやら嘆かわしいやら。
「はめを外し過ぎるなよ」
「おまえに言われたくないよ、陸君」
保坂にポンと肩を叩かれた。
佐原がいつもより浮き立っているのは傍から見ていても分かった。事務仲間にからかわれているのも分かる。そんな輪から逃れるように俺は的場を連れて午前中から営業回りに出た。多分事務所にいづらいだろうと思い、予定をびっしり入れていた。
「今日は佐原さんと過ごすんですか?」
野次馬はここにもいた。
「そういうことになっている」
「……そうですか」
何か言いたそうな表情で俺を見つめる的場を無視し、俺は早足で駅に向かった。
どこもかしこも同じだ。会う人会う人なぜか今日の予定を聞いてくる。からかうようないやらしい笑みを向けられて、こちらも戸惑う。
「淋しい身分ですよ。独身ですし、出逢いはないですしね。私の良さを知ってくれる女性に未だ出逢えませんよ」
なんて、もごもごしながら答えてみる。そうするとターゲットは的場にかわる。
「加賀山と違うのは家族で過ごすということですね。実家暮らしなので、母がそれなりの料理を用意しています」
と無難な返事をひょうひょうとする的場を見ると、事実かもしれないと思った。戸惑いやら躊躇いやらがない。
「二人して淋しいねえ」
なんて言うこの男にはどれだけ幸せな一日が待っているのだろう。太い指にもう抜けないだろうと思える程締め付けている銀色のリングが光っている。結婚何年目で子供は何人いるのだろう。家族には歓迎されているのか。奥様とはいまだ寝室は同じなのか。様々な質問が頭に浮かぶが口にできるものは何一つない。
「飯島さまは今日はご家族でお過ごしですか?」
何の躊躇いもなく的場が奇襲攻撃に出た。こんな反撃、相手も望んでいなかっただろう。相手は真正面を向いたまま右上をじっと見た。
「ああ、今日は妻とディナーなんですよ」
作り笑みで答える飯島。嘘を吐くのは下手なようだ。
「いいですね。素敵な過ごし方だと思います」
俺はこの時的場の怖さを知った。平然とした表情と口調で思ってもいない事を口にする。結構腹の中は黒いようだ。
取引先を出ると、何だか嬉しそうに的場が笑っている。
「今度言われたら反撃してやろうって思っていたんですよね。大成功でちょっと快感です」
にこにこしながら俺の方を向くものだから、俺は思わず微笑み、的場の頬を人差し指でつついてしまった。今までこんな事、したことなかったものだから、的場はその場で呆然と立ち尽くしてしまった。口も半開きで、なんともおかしい。思わず両手で的場の頬を包み込み、おもいっきり押してやった。的場の口がタコみたいにすぼまる。その顔がかわいらしくて俺は笑った。
「的場さんのほっぺは想像通り柔らかいんだね」
「え?あ、え、はい」
思考停止の後、エンジンがかかって間もない思考はおかしな挙動をし、俺は声をあげて笑ってしまった。的場をからかうのはやはり面白い。
「さあ、次に行こうか」
夕方四時頃事務所に戻ると、営業は保坂しかいなかった。みんな直帰のようだ。課長は所帯持ちで子供が生まれて間もない。きっと楽しいクリスマスイブを過ごす予定なのだろう。日野さんは最近結婚した。いわゆる新婚。きっと甘いひと時を過ごすのだろう。羨ましい限りだ。
俺たちは席につき、週報を作成し始めた。俺はそれと仕様書を作成しなければならない。週報を作成し終えた的場に仕事をお願いして、十八時までに終わるように集中する。
「加賀山さん、すみません」
的場がパソコンと睨めっこしたまま俺を呼んだ。俺は立ち上がり、的場の席まで行く。的場の隣に立ち、画面を覗きこんだ。右手は机の上、左手は椅子の背もたれに。これが一番楽な姿勢だった。それだけだ。
的場の用事を終え、俺が席に着くと、佐原がコーヒーを持ってきてくれた。
「ありがとう」
丁度喉が渇いていたので助かった。
「的場さんと近づき過ぎです」
佐原がぼそりと呟いた。俺は驚いて、佐原を見上げる。そこには無表情の佐原がいた。俺を見ず、的場をじっと見ている。恐ろしいと思った。
「そんなことないだろう。仕事の範疇だと思っている。でも、そうだな。後で本人にも確かめるよ。嫌な思いをさせていると悪い」
俺の受け答えが気に食わなかったのか、佐原はキッと俺を睨みつけてその場を去った。女って恐ろしい。すでに俺は佐原のものになっているようだ。
十八時に佐原と事務所を出た。エレベータに乗った途端、佐原は腕を腕に絡めてきた。甘い香りが狭い箱に充満してくる。このまま一時間程ここに閉じ込められたら、この匂いで倒れてしまうだろう。クラクラする。
箱から解放されて、俺たちは歩きだした。眼の前に見えるのは――桃香だった。とても幸せそうに微笑んでいる先には棚島が優しい笑みでいる。二人は触れ合ったりはしていなかったが二人が信頼し合っている恋人同士だとすぐに分かる空気が漂っていた。幸せそうに微笑む桃香を見ると俺の胸はグッとなる。
愛しくてかわいらしくて、込み上げてくる涙を抑えるのに必死だった。幸せそうに笑っていてよかった。俺のいない場所でも幸せなのだと知って嬉しかった。
「加賀山さん?」
じっと桃香を見ていた視線を佐原に戻した。俺は絶対佐原をあんな笑みにする事はできない。そして俺も棚島のように微笑み返すことはできない。
「ごめん。さあ、行こうか」
「うん」
俺たちは桃香たちの後をついて行くように歩いた。一定の距離を保っているのは、今桃香に気づかれたくないからだ。情けない話だが、まだ棚島を紹介してほしくない。それと同時に、佐原を恋人として紹介したくなかった。
電車で目的の店まで行く。佐原は相変わらず俺の腕にしがみついている。
「今日行くお店はやはりすごいところなの?」
何か話しかけないと間が持たなかったので、俺は当たり障りない事を聞いたつもりだった。
「ええ、予約をとるのも大変なところなの。一度行ってみたかったんだけど、一緒に行ってくれる人がいなくて。やっと相手を捕まえたって感じ」
佐原の弾けた口調を聞いて頭が痛くなってきた。それ以上に、これから行く店の事を考え、頭が痛い。この前の事もある。きっと高級な店なのだろう。一応現金もそれなりに財布に入れてきた。どうして俺はこうも損をするのだろう。アリバイ作りのためにいくら遣うのだろうか。
連れられた店は想像以上に高級感に溢れていた。ホテル内にあるフレンチレストラン。姿勢の良い店員に案内されたのは夜景が望める窓際。まるで披露宴会場のような豪華さがあり、足がすくむ。
白いテーブルクロスは当たり前だがきちんと糊が利いている。セッティングされている食器やグラスを見ていても財布の中身が気になり始める。メニューなどは当然渡されることなく、当たり前のように総てが始まった。まずはシャンパンから。グラスを軽く当て、乾杯する。
「今までの人生で無縁だった域だね。こういう事がない限り絶対に踏み込めない聖域だよ」
嫌味のつもりはなかった。正直な気持ちそのものだ。
「張り切りすぎちゃいました?」
遠慮というものを知らな過ぎる。とは言えない。短時間で俺の全財産をむしり取るつもりかもしれない。それが彼女の作戦か?ならば、こちらも堪能しなければ馬鹿だ。君が俺の財産を喰い尽くすのならば、俺は君の身体を喰い尽くしてあげよう。なんて少し思ったりもしたが、そんなこと考えるだけで実行できない小心者だということは二十八年付き合っている俺自身で充分分かっていたので、シャンパンを飲んで打ち消した。それにしても、いくらのお給料をもらっていると思っているのだろう。
運ばれてくる料理はきれいだった。色鮮やかな皿の上の芸術。それを見るたび佐原ははしゃいだ。計算なのか自然なのかは分からない。ただ、俺自身テンションが上がったのは確かだ。
食べるのがもったいないと思える程のものを、崩して食べる。眼でも楽しめるが舌でも楽しめる。お値段相応なのだろう。きちんとしたタイミングで運ばれてくる食事はどれもおいしかったし、どれも食べたことのないものばかりだった。
「どれもおいしいね」
佐原は嬉しそうにグラニテを食べながら言った。口がさっぱりしておいしい。俺はフレンチのコース料理に、食事の間にこういった氷菓が提供される事を初めて知った。これがデザートとばかり思っていたので、食事が運ばれてきた時には驚いた。
「今年のクリスマスは幸せだなあ。おいしい食事と大好きな人。今までにないくらい幸せで怖いくらいなの」
佐原はデザートのケーキのクリームを舐めた後、呟くように言った。俺は会計が怖い。
「俺にとっても今日は特別だよ。初めての経験ができたからね」
眼の前に桃香がいたら、なんて考えるが、もう妹離れをしなければならないだろう。
「一生こういった雰囲気を味わえないかもしれない」
「来年も一緒に来ようよ」
当たり前のように未来の約束をされ、俺は返事に困った。多分、一年後俺は佐原と一緒に過ごしてはいない。
「そうだね、機会があったらね」
俺は佐原と眼を合わせる事ができず、窓の外の夜景をじっと眺めた。
周りは恋人同士ばかり。華やかな服に身を包んだ女性たちが嬉しそうに微笑んで、その反応に満足をして男たちが微笑んでいる。男とは単純なものだ。華やかな笑い声を聞くたびに心が痛む。根本的に間違っていたのだ。総てにおいて俺が間違っていた。
正面を見れば頬をピンク色に染めたかわいらしい佐原がいる。黙っていれば文句のつけようのない女性だ。今日はパープルのワンピースを着ている。ドレープの利いた不思議な形のものだ。胸元も開き過ぎず、清楚なものだ。二連の華やかなアクセサリーをつけ、この場に溶け込んでいる。先程までじっくり見ることさえ忘れていた。クリーム色のコートの下はこの姿だったのだと今気づくなんて男として失格ではないだろうか。
「加賀山さん?」
俺の不躾な視線に気づいたのか、佐原は恥ずかしそうに上目遣いで俺を見ていた。
「ああ、ごめんね。今日のおしゃれをじっくり見ておこうと思ってね」
どこまでいい思い出を作ってあげられるか分からないが、少しだけ保坂を見習って甘い言葉でも囁いてあげようと思った。見事に気まぐれだ。
「この服は一目惚れだったの。よかった、気に入ってもらえたようで。加賀山さんの隣にいて恥ずかしくない女性を目指してみました」
少し照れたように言う佐原に微笑みかけ「似合っているよ」と囁いた。
「馬子にも衣装でしょう?」
「いや、そんな事はないよ。いつもきれいだから、相応に似合うんだ」
「どうしちゃったの?」
「なにが?」
「ううん。なんだか幸せ」
佐原は唇近くで両手を合わせ、はにかんで見せた。その仕草がかわいらしくて俺は自然に微笑んでいた。
店を出て、部屋に戻った。レストランに行く前にチェックインをし、部屋に一度は来たが、あの時は予約時間もあり、あまりきちんと見ずに部屋を出た。だから、今驚いた。
部屋はジュニアスイートだった。広々とした部屋はスタイリッシュだ。キングベッドがドンとあり、ローテーブルと立派なソファがあった。テレビも大きい。仕事で遣うのはいつもビジネスホテルのシングルだ。あの狭いところしか知らない俺は部屋に入った途端驚いた。お風呂もまた驚く。シャワールームとバスルームが別にあるのだ。
――なんだ、この造り。
まるで子供のように心が弾んだ。それを悟られないようにするのが大変だった。大きな窓から見えるのは煌びやかな夜景。佐原はそこへ駆け寄って、夜景に見惚れていた。
時間がまだあったので、ホテルのバーに行った。初めてづくしで心地が悪い。薄暗い店内は高級感で溢れていた。そのせいで落ち着かない。それは佐原も同じだったようだ。カクテルを一杯いただいて出てきてしまった。
部屋に入った途端、俺たちは顔を見合せて笑ってしまった。慣れないことはするべきではない。カクテル一杯に何千円も出せない。
「あの価格にはびっくりした」
佐原はそう言いながら、コーヒーを入れ始めた。俺はその後ろ姿を見ながら、ソファに座った。
眼の前に夜景が広がる。それをぼうっと眺めていると、佐原がコーヒーを持ってきてくれた。佐原は俺の隣に座る。凭れかかり、一瞬にして甘い空気を漂わせる。覚悟を決めなければならないのだろう。俺は右手でコーヒーカップを持ち、左手で佐原の肩を抱いた。ゆっくりと佐原の唇を撫でると、佐原の唇が僅かに開いた。
「明日は上のラウンジで朝食が食べられるの。それを食べてから出ようね」
「へえ、サービスいいね」
「本当にね。初めてだから、勝手が分からなくて戸惑うけれど」
「身分不相応?」
「それって虚しい」
佐原はクスクスと笑った。俺はその顔をじっと見つめる。佐原はそれに気づき俺を見つめた。空気が変わった。俺は本能に従い、ゆっくりと佐原との距離を縮め、唇にキスをした。唇を離すと、佐原は眼を閉じていた。俺にも勢いがつき、何度かキスをした後、ゆっくりとキスを深めていった。髪を梳くように撫で、身体のラインを確かめるように手の平を這わせ始めると。佐原も積極的になった。スカートの裾に手を忍ばせ足を撫で始めると、それに答えるように佐原の甘い声が漏れた。
「シャワーを浴びてくる」
甘い声が耳を擽った。
「ゆっくり温まっておいで」
囁くと、佐原は俺の耳に唇を落とした。
佐原の後姿を見送ってから、俺は広いソファに寝転がった。ベッドは見たこともないキングサイズ。広いのだから問題ないのだが、出来ればツインが良かった。ここまで来ても踏ん切りがつかない。若かった時は、若気の至りというのだろうか、結構やんちゃをし、相手を傷つけてきた。据え膳食わぬは――といった感じだった。心が無くても快楽におぼれることができた。相手のことなど気にする必要もなかった。それでも心は痛まなかった。だけれど、今は違う。あの時はどうかしていたとしか思えない。
「さて、どう切り抜けようか」
別に相手が求めているのならば身体の関係を持っても構わない。それ相応のお金は払っているし、サービスもしている。だけれど、相手が俺の心を求めているのなら、関係を持つべきではないだろう。勘違いされて、あとで面倒くさいことになるのは好まない。だからと言ってこの状況で、何もしないのは相手に失礼というもの。相手は求めているのだから。それに、男としてもどうだろう?という感じだ。
「今、寝ちゃおうかな」
大きな欠伸を丁度した事をいいことに、眼を閉じた。寝てしまうのが一番いい方法だ。相手が無理やり俺を起こさなければの話だけれど。
優しい声が俺を呼んでいる。温かい手がそっと頬を撫でる。意識は浮上し、ゆっくりと眼を開けた。
「おはよう、陸」
もうすっかり準備万端の姿をした佐原がベッドに腰かけて俺を見下ろしていた。
「もう、朝か」
伸びをして欠伸をした。
「よく眠っていたね」
「ああ、いいベッドだね。おはよう佐原さん」
「誓。誓って呼んで」
甘い口調で強請られ、まだ覚めきっていない頭が考える事を拒否した。
「おはよう誓」
俺の言葉に微笑んだ後、額にキスをしてきた。
「準備をして。朝食を食べ損ねるから」
夜、佐原がバスルームから出てきた時俺は起きていた。だが、寝たふりをしていた。佐原はクスリと笑って、俺の髪をいじっていた。気になったが、俺は眼を開けず寝たふりを続けた。
「加賀山さん、寝るならベッドの方がいいよ」
楽しそうに囁く佐原に応えるように俺は眠たそうに装って眼を開けた。
「さあ、移動。せっかくのキングサイズのベッドなんだから」
「ああ」
俺は促されて起き上がり、わざとらしくふらつきながらベッドへと移動した。そのまま倒れ込むようにしてベッドに横になる。
「ほら布団」
まるで世話をするのが楽しいと言った風の口調で、佐原は俺に触れてくる。
「おやすみなさい。陸」
俺の唇に軽く唇を落とし、クスリと笑った。その後佐原もベッドに潜り込んできて、俺に抱きつくようにしていたが、それ以上の事はしてこなかった。申し訳ないと思いながら、自己嫌悪に陥りたくないのでじっとしていた。しばらく俺はじっとしていたが、そのまま眠ってしまったようだった。
ホテルを出ると、俺たちは電車に乗り、会社を目指した。
「また、どこか食事に行きましょうね」
佐原はずっと俺の腕にしがみついたまま離れない。俺としては昨夜の罪悪感もあり、無下にはできず諦めていた。
「駅で別れよう。一緒に出社はちょっと恥ずかしい」
俺の言葉に佐原は楽しそうに笑った。
「うん。そうだね。一緒に朝を迎えたことがバレバレだもんね。生々しいよね」
その通りだ。みんな分かっている事だとは知っている。だけれど、分かっていることと感じることはまた違う。想像していたことが事実だったのだと実感した途端、生々しい想像が湧き立つのではないだろうか。そういうありもしない想像だけは勘弁してほしい。腰抜けとは思われたくないので何もなかったとは口が裂けても言いたくない。保坂に無理やり言わされそうな予感がするが。
「今度はお寿司かな」
「財布の中身と相談してね」
「え?あ、うん」
ホテルでチェックアウトした時驚いた。思ったよりは安かったから。それでも一ヶ月の食事代よりはるかに高く、なのに、「ごちそうさま」も「ありがとう」もなかった。あったのは枕元に置かれていたシルバーのネックレス。一応「ありがとう」と言ったが、俺のどこを見てこれをプレゼントしてきたのか不明だった。どう考えても俺には似合わない代物。まあ、俺からプレゼントをあげなくても何の催促がなかっただけいいのだろう。と思うことにした。
陸君は別に節操なしなわけではないのです。だけれど、少々打算的。気まぐれ屋でもありますね。
次回は陸君と連君。そして、またまたおでん屋。そして、連君の秘密が明らかに……。
こんな陸君と連君でも嫌いにならずにお付き合いください。




