加賀山桃香4
十一月二十日は桃香の両親の命日だ。学生の頃は学校を休むことができなかったから、命日に墓参りができないこともあったが、社会人になってからは有給休暇をとって十一月二十日に桃香と一緒に墓参りをしている。
命日の前日、桃香はやはり精神のバランスを失っていた。本当はこの日も仕事を休んだ方が良いのだが、それは甘えだと桃香は言って俺の言うことは聞かない。こういうところは頑固なんだ。ただ、重要な仕事はこの日に入れないようにしているらしい。精神が病んでいる時にそういう仕事を入れてしまえば、失敗することは確実だと自覚しているらしい。
長い間こういう状況と付き合ってきただけのことはある。だから、今は俺もあまり心配はしない。ただ、やはり気になるので仕事の合間を見て桃香の姿を覗きに行ったりはしている。姿を見るだけで安心できる。俺のための行動だ。
夜、俺は定時に仕事を終え、一階のラウンジのソファで桃香が来るのを待っていた。一緒に帰り、外食をして帰る。これも習慣になっている。
なるべく桃香のそばにいてやりたい、そんな俺の気持ちを分かってか桃香もこの習慣に従ってくれている。どんなに恋人がいようとも。
俺がソファに座り本を読んでいると、誰かが俺の前に立った。顔をあげると、的場だった。
「おつかれさまです」
「おつかれ。どうしたの?」
「いえ、わたしも帰りで。加賀山さんをお見かけしたのでごあいさつに」
「ああ、そうか。どう?保坂は優しい?」
「ええ。とてもよくしてもらっています。最初は不安でしたが、皆さん優しいですし、女だからなんて偏見も持たずにきちんと教えてくれますし」
「偏見?」
「はい」
偏見をなぜそこで持つのか俺には分からなかった。嫌なことでもあったのか?などと深入りして聞く気にもなれない。一所懸命な人間に一所懸命に応えるのは当然のことだ。
「まあ、みんなが的場さんを認めているって事だろうね。十二月からは俺だね。次々と先生が変わって大変でしょう?」
「いいえ。そのほうが色々学べますし、早く和めますから」
「まあ、それぞれのいいところをとっていけばいいよ」
俺の言葉に的場はにこりと微笑んだ。しっかりしている的場で、大人っぽいところが多くあるが、本当に笑うと幼くなる。そのギャップは魅力的だ。
「保坂はまだ仕事?」
「はい。なんか用事があるようで」
「デートかな?」
「加賀山さんもそうですか?」
「なんで?」
「ここで本を読んでいたので」
「まあ、そんな色気のあるものではないんだよ」
俺はそう言った後、エレベータがある方に眼を向けた。もうそろそろ桃香が来てもいい頃だと思ったからだ。
「やはり誰かをお待ちなんですね?」
「まあね。デートじゃないけどね」
俺が的場に眼を向け苦笑して見せると、的場は楽しそうに笑った。
「おまたせ」
桃香の声が聞こえ、振り返ると無表情の桃香が立っていた。やはり、命日の前日だけある。よく今日を乗り越えたな、という感じだ。
「おつかれ、モモ」
俺はかばんに本をしまい、立ち上がった。
「では、加賀山さん、わたしは帰りますね」
気を遣ってか的場は焦ったように言った。
「駅まで行くんでしょう?一緒に行こう」
俺の言葉に的場は戸惑っている感じだった。
こういう時、普段の桃香ならばにこりと微笑んで場の雰囲気を和ませるのだが、今日の桃香は頼りにならない。
「嫌ではないなら、という誘いなんだけど」
「あの、わたしはいいんですが、でも……」
ちらりと桃香を見た的場を見て、何を考えているのかやっと俺にも分かった。無表情の桃香を見て、機嫌が悪いと勘違いしたのかもしれない。俺たちが恋人同士だと勘違いしたのだろう。
「モモのことは気にしなくていいよ。今日はいつもと様子が違うんだけど、あまり気にしないで。明後日には元通り」
「え?あ、はい、すみません」
慌てたように取り繕う的場の姿がおかしくて笑ってしまった。
「さあ、行こうか」
俺は桃香の背中に腕をまわし、歩くように促した。俺の姿を見たからだと思うが、すでに桃香は人形のようになっていた。その姿は出逢った頃の痛々しい姿に似ていて胸が苦しくなる。これからもずっとこんな風になってしまうのだろうか?そう思うと手放せなくなってくる。
的場は終始不思議そうに桃香を見ていたが、何かを聞いてくることはなかった。もしかしたら、一緒に帰ろうと言わない方が良かったのかもしれない。とても居心地が悪そうで、俺は申し訳ない思いでいっぱいだった。
桃香は何も話さないので、どうしても俺と的場で会話をするのだが、桃香が機嫌悪いように見えて、ずっと的場は桃香を気にしていた。まるで、兄を奪われた妹の姿のようだ。
それでも、途中で別れるわけにも行かなくて、的場と同じ電車の車両に乗り、四駅一緒に過ごした。的場が電車を降りる時、俺もホッとしたが、的場は本当にホッとした笑顔を見せた。素直な表情に笑いそうになったが、俺がそれに勘づいていることを知ったら、的場が心地悪いと思い、笑う事を抑え込んだ。
家の近くのレストランに入り、一番奥の席に座った。桃香に食べたい物を聞くこともせず、勝手に俺が注文した。これもいつもの事だ。気の抜けた桃香はもう自分を持っていない。だから、いつも俺はここに連れてきて、バランスの良い食事を取らせる。
注文したのはディナープレート。ローストビーフとサラダとバケットとスープのシンプルなものだ。こういう時は食べやすいものに限る。俺はそれでは物足りないのでナシゴレンのディナープレートを注文した。少し高くなるが、タンドリーチキンとサラダとスープで少しだけボリュームが出る。
いつもなら弾む会話もこの時はなく、まるで付き合い始めのぎこちないカップルか、別れ話を今にも切り出しそうなカップルのように沈んでいる。まあ、後者に見えるだろうとは思うのだが、その辺はあまり気にしない。
周りの視線も会話もシャットアウトするために俺は本を取り出し読みだした。それを桃香が気にすることもなく、じっと桃香は一点を見ていた。一点を見ていたと言っても、それは傍から見たらの話で、実際はぼうっとしているだけで、何も見ていない。本当に色を失った人形になってしまう。
本当にこれから先俺がいなくてもやっていけるのだろうかと心配になるが、きっと桃香が愛した男だから、こんな時も温かく見守ってくれるのだろう。俺の役割がもう少しで終わる。そう思うと切なくなるが、その反面楽しみにもなる。桃香がどう変化していくのか。
注文したものが届くと、無言で食べ始めた。桃香のためにバケットでローストビーフとサラダを挟み、それを桃香に持たせる。
「ほら、食べて」
俺が促すと、頷くこともなく手を動かし始める。毎回の事だが痛々しい。俺はその姿を見たくなくて、食べることに集中する。そして時々、俺のおかずを桃香の口に運んでやる。おいしいそれらの食事も今の桃香にとっては味も素っ気もないものでしかない。ただの栄養補給。店の人には悪いが、仕方のないことだった。
桃香が初めて俺の家に来て、食事をする時驚いた。母が桃香の隣に座り、離乳児にしてあげるように母は桃香に食べ物をやっていた。
小さく切ったおかずをスプーンに乗せ、口まで運んでやる。そんな風にしないと桃香は何も口にはしない。俺が呆然とそれを見ていると、母は俺に微笑みかけた。
「明日からは陸のお仕事だからね」
俺はそれに驚いた。明日から俺が桃香の世話を総てするのだという事実。総てを俺に任せるつもりなのだと知ったその時、自分の役目が重大なのだと思った。小さい俺にそんな事をさせるなんて、と思ったが、きっと俺たちの絆を強いものにさせるために両親が考えたものなのだろう。
血がつながっていない分、どうすればいいのか両親が考えた作戦は、想像以上の結果を出したのではないだろうか。今考えればそれは正解で、もしあの時ずっと母がこの仕事をしていたら、母が事故で亡くなった後、俺はこの行為に戸惑いを覚えていただろう。
今、こんな事が平気なのはずっと当たり前のようにしてきたからにすぎない。大人になってから知り合った棚島はこういう桃香に戸惑うのだろうか。こういう行為に戸惑いを覚えるのだろうか。できれば平気な顔でやってほしいと願う。
本当は家で俺が夕飯を作ってやることが一番なのは分かっているのだが、料理はどんなに頑張ってもうまくいかない。想像力が足りないと桃香に何度も言われた。どの調味料を入れればいいのか分からないのだ。なぜか本を参考にしても同じなのは不思議だと言われた。
ずっと母が料理を用意してくれると思っていた。だから、俺が料理をするなんてあの時まで思ってもみなかったんだ。
両親が事故で亡くなって、桃香の面倒を俺だけが見なくてはならなくなって、それでもすっかり料理のことは忘れていた。だから、桃香の両親の命日前日、俺は焦った。あの時俺はバイトを始めて、食事作りはすべて桃香に任せていた。恥ずかしい話しだが、オーブンレンジの遣い方も炊飯器の遣い方も俺は知らなくて、レトルト食品さえ遣いこなせなかった。
今はそのくらいできるが、こんな時くらい手の込んだおいしいものを食べさせてやりたいと思う。俺が料理が得意だったら――そんな事を思うけれど、こんな風に過ごすのもまたいいのかもしれないとも思う。
家に帰ると、桃香は気が緩んでずっと涙を流しているから。無表情で涙を流している姿は見ていたくはない。それは俺の我が儘で桃香には悪いけれど、そのくらいは許して欲しいと思っている。
食事を終え、部屋に帰ると、桃香は力が抜けたように座りこんだ。俺は桃香を抱え、リビングへ向かう。ソファに座らせると、桃香はコロンと横になる。俺はそれを確認した後、シャワーを浴びた。今日も桃香はお風呂に入れないだろう。こういう時、夏でなくて良かったと思う。まあ、俺たちの両親は五月に亡くなっているので苦労するのだが。俺たちが本当に血がつながっているのならば遠慮なく俺がお風呂に入れさせてやっただろうが、そんなわけにはいかない。況して、今は結婚を約束している男がいる。いくら俺にその気がないと言っても、血のつながりのない男に裸など見られたくはないだろう。桃香はそんなこと気にしそうもないけれど、相手は別だ。
シャワーから出ると、桃香は人形のように倒れていた。眼は閉じていない。ただ、涙を流す人形のようだ。俺はゆっくりと桃香を起こし、そっと優しく包み込むように抱きしめた。
「モモ、もう離れないから大丈夫だよ」
耳元で囁くと、桃香がピクリと動いたのが分かった。何も聞こえないわけでも感じないわけでもない。ただ、現実が怖くて拒否しているだけだ。ゆっくりと髪を梳くように頭を撫でると、桃香は身体を委ねるように俺に凭れかかった。
「大丈夫。お兄ちゃんはどこにも行かないよ。ほら、ここにきちんといるでしょう。確認できるでしょう」
桃香の腕が俺の背中にまわり、俺を逃さないと言う風に強く掴んできた。こんな意思を見せてくれるだけでホッとする。もう苦しませたくない、悲しませたくない。ずっとそう思っていた。
でも、どうしても命日の前日から命日までは助けてはあげられない。幸せな気分にも楽しい気分にもさせてあげられない。それをどんなに俺が望んでも、桃香が望んでも、桃香の心の奥底に潜んでいる苦しみや恐怖がそれをさせてくれない。もう、両親を失ってから大分経っているのに、どうして解放されないのかと苦しくて仕方ない。そして、俺はずっとこうするしか解決方法を見つけることができない。
なんて無力なのだろう。そう思う度、虚しくなってくる。俺が守ると思いながら守りきれていない。本当に無力だ。
「モモ、もうベッドに行こう。そこでゆっくりとお休み」
俺は桃香の身体を抱き上げ、俺の部屋に連れて行った。今日はこの狭いベッドで一緒に眠る。毎回の事だ。これで少しでも桃香が救われるのならば俺の存在価値は充分にある。そう信じている。馬鹿な思い込みだとしても、そう信じるしかなかった。
桃香にしっかりと布団をかけ、まるで恋人にするかのように両腕で包み込んでやる。桃香には誰かの温もりが必要だ。それをできるのは俺しかいない。
出逢った頃、俺たちはいつもこうやって眠っていた。それの名残でもある。俺はいつもよりも力強く桃香を抱きしめた。少しでも苦しみから解放されるように。
「おやすみ、モモ」
ゆっくりと眼を閉じ、桃香が見る夢が素敵なものであるように願った。
次回はお墓参りです。
陸は桃香の世話を焼くことに生きがいを感じています。そうさせたのは両親。
次回もお付き合いください。




