的場幸菜1
月曜の朝、会社のエレベータの前に立つと、新入社員の的場幸菜がそこにいた。今年入社した女子社員で、営業部には何名かの女性がいるが、俺が所属している課には初めての営業の女の子だ。だからなのか、営業の男らはどう扱っていいのか戸惑っている。
新入社員らしく紺色のスーツを着て、就職活動中の学生のようだ。少しふっくらとした彼女は愛嬌があって事務の女性陣にはかわいがられている。
「おはよう、的場さん」
「おはようございます」
彼女は丁寧に俺の方を向き、頭を下げる。営業陣がどう扱っていいのか分からないのは、今まで接してきた女性とひと味違うからだろう。真面目だし、一所懸命だからみんなそれに応えようとしているのだが、自分より結構年下の女の子とどう接していいのか戸惑うのは仕方ないだろう。五歳差は大きい。
「仕事は慣れた?」
「どうなんでしょう。皆さん優しいですし、それに応えなくては、と思うんですけれど、空回りというか、なんというか」
「でも、みんな言っているよ。みるみる吸収していくって。だから、空回りはしていないんじゃない?」
「ならいいんですけれど」
的場は恥ずかしそうに笑った。ふっくらした頬が一層ふっくらして見えて、突きたくなる。
「おはよう」
ちょうどエレベータが開き、乗り込もうとした時、後ろから声をかけられた。振り向くと保坂が立っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
やはり的場は丁寧に頭を下げた。
的場は四月に入社し、五月半ばまで新人研修を行っていた。そして、五月の連休明けに配属が決まり、営業畑へとやってきた。不器用な営業男が三人いる課。
五月、六月、七月、八月の三ヶ月半を先輩である日野竜也が面倒を見、九月、十月、十一月の三ヶ月を保坂が面倒を見ている。そして、十二月、一月、二月、三月の四ヶ月間を俺が面倒見ることになっている。
この順番はじゃんけんで決めた。想像通り俺が一番に負けた。女の子の面倒を長く見たい、長く近くにいたいと言う男はいなく、なるべく面倒を避けたいと言う思いだけで決まった順番だ。
今面倒を見ているのは保坂だ。二人長く一緒にいるのだからもう少し距離が縮まっていてもいいと思うのだが、保坂がきちんと距離を測り、壁を作っているようだ。何度か二人が一緒のところを見たが、最初の頃と今とで関係が変わった様子が見当たらない。保坂をずっと見てきた俺としてはその距離が珍しく感じ、貴重なものを見ているようで好ましい。そんなからかいをしたら、保坂は不貞腐れるだろうか。
俺たちは無言のままエレベータを降り、事務所に入った。
午前中、デスクワークを終え、昼食でも食べに行こうかと席を立つと、保坂が外から帰ってきた。保坂の二歩くらい後ろを歩くのが的場流。保坂はそれを気にするでもなく、当たり前のようにしている。まあ、隣に立たれても困るのだろう。
「おつかれ。これから昼行こうと思っていたんだけど、一緒にどう?」
「いや。さっき食べてきた」
保坂の事だからそういうところはしっかりしているとは思っていたが、きちんと世話係としてしっかりやっているようだ。
俺たちのあとから入社してきた男は何人かいた。だから教育をする事も世話をする事も慣れてはいるが、なぜかみんな辞めていってしまう。それが、俺たちの教育のせいなのか、本人のせいなのか未だに答えは出ない。だから、今でも試行錯誤で新入社員と接している。それはきっとほかの二人も一緒なのだろう。
保坂は保坂なりに的場に気を遣っているのかもしれない。そう考えると俺はなぜか嬉しくなり、ニヤニヤしてしまった。保坂はそんな俺を怪訝そうに見ていたけれど、別に構わない。俺は気にすることなく、保坂に手を振り、事務所を出た。
夕方、外回りから帰ると、的場がパソコンに向かい苦闘していた。その隣に保坂が立ち、顔を近づけながら指導している。ここの課の女性事務員たちだったら顔を真っ赤にさせ、仕事どころではないシーンなのだが、的場は保坂に興味がないのか、それどころではない状況なのか、難しい顔をしたままだ。
多分、保坂はそんな的場を気に入っている。女性としてではなく人間として。二人がふざけた会話をしているところも、笑い合っているところも見たことがないが、こんな風に異性を感じさせずに近づける関係は多くはない。相手が俺ならまだしも、甘いマスクと甘い言葉と甘い雰囲気を持ち合わせている保坂には貴重な存在なのは確かだ。だからこそ、保坂はふざけることもせず、期待をもって接しているのかもしれない。微笑ましい子弟愛というところだろうか。
「おつかれ」
俺が声をかけると、二人一斉に顔をあげ、俺を見つめた。気が合っているようで笑える。
「ああ、おつかれ」
「おつかれさまです」
二人はそう言った後、同じタイミングで仕事に戻った。俺は二人の前の席に腰かけ、パソコンを起動させる。残るは事務仕事のみ。週報に今日のことを記入して今日は解放される。パソコンが起動するまで余裕があったのでコーヒーを飲もうかと立ち上がろうとしたら、事務の女性、佐原が俺の机にコーヒーを置いてくれた。
「ありがとう」
「いいえ」
わざとらしい笑みを俺に向ける。いつも俺に気を遣ってくれるのは嬉しいが、この会社にはそんなシステムはない。セルフサービスの飲み物。何かを飲みたいのなら自分で用意するのがこの会社の決まりだ。別にするなとは言わないが、下心丸見えのところが気に食わない。
彼女が立ち去り、溜め息をついた後、真正面を見るとニヤニヤした保坂と眼が合った。あれだけあからさまに態度に示してくるのだから、保坂が気づかないわけがない。おもしろがっていることもよく分かる。だからこそ気に食わない。
「保坂、その顔気持ち悪いぞ。的場さんが嫌そうな顔している」
的場は保坂など気にせずにパソコン画面を睨みつけていたが、俺の言葉で顔をあげ、保坂を見た。二人の眼がばっちりと合うと、俺はおかしくなりクスクスと笑ってしまった。
「嫌な趣味だな」
保坂の溜め息まじりの言葉に俺はまたしても笑った。
「おまえの方が嫌な趣味しているだろう。あんなのを見て楽しんでいるなんてさ」
「だって女に興味のない加賀山陸があからさまに言い寄られているんだぜ。おもしろいだろう」
「おまえ、別に俺は女に興味がないわけじゃない」
「いやいや、隠さなくても分かるよ」
「あのなあ」
「でも、まあ分かるな。あんな美人の妹がずっと近くにいるんだ。理想は高くなるよな」
保坂は楽しそうに笑った。こうなったら俺に勝ち目はない。俺が保坂を睨みつけると、的場がクスクスと笑いだした。
「的場さん、悪い趣味持っているね」
俺が言うと、的場はピタリと笑うのを止めた。
「すみません」
「何で的場が謝るんだよ」
「まあ、そうなんですけれど。でもなんとなく」
「何、そのなんとなくってさ」
「お二人、仲が良いんですね」
にこりと微笑んだ的場は年相応のあどけないかわいらしさがあり、俺も保坂も一瞬見入ってしまった。俺たちみたいに穢れてはいない真っ白な笑み。そんな風に思った途端、恥ずかしくなって俺は仕事に入った。
次の日の昼、俺は保坂と一緒に昼食をとりに定食屋に入った。俺はこの店のショウガ焼き定食が好きで、保坂はかつ丼が好きだ。俺たちはいつもの通りそれを注文し、出された水を何口か飲んだ。
「なあ、的場さんってどう?」
俺はずっと気になっていた事を尋ねた。十二月からは俺が世話をしなければならない。
「真面目だしいい子だよ。遠慮も知っているし、今時珍しいかもね」
「どんな会話をしているの?」
「どんなって、まあ、仕事の話ばかりだよ。日野さんは彼女に色々尋ねたみたいだけど、俺はあまり興味ないからね。そんなの場が持たないからって聞くもんじゃないし」
「おまえらしいな」
「そうか?」
「日野さん何を聞いたって?」
「大学生活のこととか家族構成とか。でもそれって立ち入り過ぎると色々あるだろう?パワハラやセクハラになるのもね」
「まあそうだよな。男に聞けることも女の子には聞けない事って多くあるもんな」
「そうそう。彼氏いるの?なんて口が滑っても言えないし」
「なんだ、それが本当は聞きたいこと?」
俺がからかうように言うと、保坂は俺を睨みつけた。
「違うよ。だけどさ、新人の男だったら当たり前のように聞くだろう?」
「まあ、女と聞けば口説く保坂が、会話に悩むなんておもしろいし、俺は楽しいけれどね」
「おまえなあ、次は自分だって分かっていて言っている?」
「モモと接するように接したらやっぱりまずいだろうな」
これは独り言のようなものだった。なんとなく、そんな風に接してしまいそうで怖かったのもある。何かがあるたびに頭を撫でてしまったらそれこそセクハラと言われてしまう。だけれど、なんのけなしにしてしまいそうで怖いのだ。
「妹にどんな風に接するんだよ」
「いや、あまり言わない方がいいな。たださ、年下だとどうしてもそんな風に見てしまうんだよ。まあ、モモは年下といっても数ヶ月なんだけどさ」
「数ヶ月?」
「そう。まあ、同い年なんだよな」
保坂は不思議そうに俺を見つめていた。多分聞きたいけれど聞いていいのか分からない。踏み込んでいいのか分からない。と悩んでいるのだろう。どうでもいい事は遠慮なく踏み込んで来るが、そうではないものに対しては彼は慎重になる。
「お察しの通りだよ。血がつながっていない。モモは養女なんだ。だけどね、俺たちには血のつながりなんて関係ない。兄妹の信頼関係がしっかりと築かれているんだよ。だから、変な風には考えないでほしいんだ」
「なんか、色々あるんだな」
「まあね。これだけ生きていれば何かしらあるもんだろう?」
「なんかジジイみたいな言い草だな」
「そういう意地悪は言われたくない」
「でも、なんとなく分かったよ。だからこそ過保護なんだな」
「モモには色々あったからね。もう悲しませたくないんだ」
俺の言葉をさえぎるように注文した品が届いた。俺たちはこれで会話を終え、もくもくと昼食を食べた。なぜ、桃香のことをここまで話したのか分からない。だけれど、なんとなく話したことで、何かから解放されたような軽さがあった。
新人の的場さんが登場。
次回は妹桃香のもう一つの姿。
ごゆっくりお付き合いください。




