表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

サグメ

作者: 諸林 瓶彦

 学校のトイレは、いつもじめじめと湿っぽく、漂白剤と汚物の混じった独特の臭いがした。瀬山は、個室の扉を何度も何度も叩いた。その扉も、所々ペンキがはげ、合板がむき出しになっている。

「瓜生さん、こんな所に隠れてないで、出ておいで」

 中からは、クソ、とか、死ね、とか、キモイとかいう暴力的な言葉が、若い少女の声で返ってきた。瓜生から聞くその言葉は、瀬山の尻の穴あたりから蟻の群れのように駆け上り、脳天にまで達すると、脳下垂体から何かのホルモンが大量に分泌された。

「ぞくぞくさせてくれるじゃないか、瓜生さん。フフ、でも君にそんな汚い言葉は似合わないよ」

 ショートケーキに砂糖をかけたような甘い声。おそらく、個室の中で瓜生は吐き気を催しているだろう。その光景を思い浮かべるだけで、笑みが止まらなくなる。

「さあ、瓜生さん。出てきなよ。君が出てくるまで、僕はずっとここにいるよ。食べ物はどうするのかなぁ。トイレの水を飲めばしばらくは生きられるだろうけど、その内餓死しちゃうよ。瓜生さんの即身仏のできあがりだ。そんなの、僕は嫌だなあ」

 瀬山は、おなかが減りすぎて助けを求めてきた瓜生の泣き顔を想像して興奮した。

「出てくれば、何でも食べさせてあげるよ。ステーキがいいかい、パスタがいいかい? 僕はお金は一杯持っているんだ、何不自由させないよ。あ……、それとも僕のナニが食べたいってことかなぁ。あひゃひゃひゃひゃ……」

 個室の中からは、罵詈雑言が聞こえてくる。それが瀬山を余計に燃えさせることを、少女は知らない。

「午後三時か……。僕は教室で瓜生さんをずっと観察してきたけれど、いつもトイレに行く時間だよね。それも大便。そろそろしたくなってきたんじゃなあい? 僕も嗅いでみたいなぁ、瓜生さんの大便の臭い……」

 トイレの扉を思い切り蹴り飛ばす音がした。鍵の部分がメチャクチャに壊れ、扉は回転して壁にぶつかり、その反動で逆回転してまた戻った。

「おやおや、鍵が壊れちゃったようだね」

 待ってましたとばかり、瀬山は扉に方から体当たりする。当然、瓜生は押し返してくるが、瀬山の力の方が強い。突然、抵抗がなくなり、個室の中に瀬山は踏み込んだ。

「瓜生さん……」

 瀬山は、瓜生の身体に抱きついてやろうかと思った。そこにいたのは、無数の人だった。みな、派手な格好をして、手には団扇や、ケミカルライトを持っている。人混みで正確なところは分からないが、とうていトイレの個室程度の広さではない。体育館以上ある。

 瀬山は自分の背後を見て、入口を捜したがそこにあるのは人の群れだけだった。

「皆さん、今日は会場に来てくれてありがとう! 俺達は全力で歌うから、みんなもノリノリでいこうぜ!」

 人が皆顔を向けている方向から、美しい青年の声が聞こえてきた。

 瀬山は、背伸びして人々の肩越しから、声の主を見た。ステージはカラフルなライトで照らされており、マイクを前にした青年が一人、その脇に瓜生、その他ドラムやベースなどのメンバーがいた。みな、南国の蝶のような出で立ちをしている。

 青年が、ギターを弾きはじめた。間違いない、瀬山から瓜生を奪った、あの男だ。バンドをやっているとは聞いていたが、これだけの人々が集まるほどの実力があったのか。

青年の声が、会場の隅々まで通る。

「さあ、踊ろうよみんなと……さあ、歌おうよ愛の歌を……、君は月から来たのさ。僕たちは……」

 耳障りな歌詞だ。昔から、瀬山は健全な歌詞を聴くとイライラした。そこで歌われている人の姿が、瀬山の実像とあまりにもかけ離れていたから……、こいつらは俺と対極に位置する者たちだ。神の罰を……!

 皆、リズムに合わせてケミカルライトを振るっている。彼らに合わせて自分もライトを振らねばと思う。ここは、瀬山にとって敵地。敵に擬態しなければ、何をされるか分からない。

 足下に落ちていたライトを二本拾い、皆に合わせてそれを振り回す。どうしても、激しいリズムに合わせることができない。クロマニヨン人の中に一人だけホモ・エレクトスが混じっているような疎外感を感じる。

「おい、ちょっと。一人変なのが混じっているぞ!」

 筋肉質で、ちんぴらのような男が瀬山を指さした。

「本当だわ、オタクよ。キモオタが混じっているわ」

 狐みたいな顔をした女が叫ぶ。

「臭え、臭えぞ! おい、近寄るな!」

 引き潮のように、瀬山の周りから人々が消えた。自分はそんなに悪臭を放っているのかと、鼻をひくつかせる。確かに、古い雑巾と小便が混ざった臭いがするかも知れない。だが、臭いで人を差別するのは、憲法に反する。

「誰だ、こんな場違いな奴を会場に入れたのは!」

「追い払え!」

「夜のとばりを引き裂いて、あなたは町にやってきた」

 騒ぎは会場中に伝染していったが、歌は続いている。

 誰かが、瀬山に向かってケミカルライトを投げつけた。それが引き金になって、皆手元にあるもの……ジュースの瓶、団扇、パイプ椅子などを投げつけはじめる。

 それが、頭、方、太もも、頭……と瀬山をめった打ちにする。血みどろになった彼が倒れても、攻撃は止まない。

「君よー、今立ち上がれ! 戦いの時は来た!」

 皆で代わる代わる、瀬山に蹴りを入れ、パイプ椅子で骨を砕く。瀬山の身体は、真っ赤に染まったボロ雑巾のようになった。

 歌が終わった。皆会場から出て行き、瀬山だけが残された。彼は、ぬらりと立ち上がると、ゆっくりと歩き始めた。もう、自分が何処を目指しているのかすら分からなくなっていた。

 扉を開けると、青年と瓜生がキスをしていた。瀬山の存在には気がつかない。

「愛してるよ、忍」

 忍とは瓜生の名前だった。

「二人なら、何処へだっていける」

「ねえ、わたし達、これからずっと味方よね」

 瓜生は、青年のズボンのベルトを外しはじめた。瀬山や、他のバンドのメンバーがいるというのにだ。

「昔、わたしに付きまとっていたキモイ男がいたでしょう。なんで、あなたみたいな綺麗な顔した男と、ああいうのと、世の中には居るんでしょうね……。ああいうのは、死んだ方がいいわ」

 瀬山の背骨を、ミミズが走り抜けた。そのミミズは、身体の中心から分岐して、手足の指先や、頭のてっぺんにまで達し、ぐねぐねと動き回った。やがて、瀬山の皮膚を貫き、触手のように外界に顔を出す。

 驚いて、瓜生達やそのバンド仲間は瀬山達の方を見た。すぐに、恐怖で顔がひきつる。青年は、瓜生をかばうように、自分の背後に隠した。いい覚悟だ、お前達を食らいつくし、もう愛だの味方だの語れないように消化しつくしてやる。

 瀬山の身体はアメーバのように不定型に溶け始めた。それと共に身体の自由がきかなくなる。瓜生達を喰らってやろうという思いはまっすぐ対象には向かわなかった。それを熱望すればするほど、触手は対象物を襲わずに、周囲にいるバンド仲間達を捕まえていく。

 触手に絡め取られた男達は、抵抗むなしく引きずり込まれ、今や餅のようになった瀬山の身体に包み込まれ、消化されていった。

 巨大化した瀬山は、建物の天井を突き破ると、駅前の歓楽街に出た。ネオンサインが輝くそこは、遊び人の大学生や、酔っぱらったサラリーマン、風俗嬢などでごった返していた。ゾウよりも大きな瀬山の姿に、皆奇声を上げる。

 逃げるまもなく、人々は瀬山に飲み込まれていく。逃げまどう人々は醜かった。転んだ女性は次々踏みつけにされ、自動車は通行人が居ることなどお構いなしに走り去ろうとする。そうして出来上がった死体もろとも、瀬山は飲み込んでいく。

 瓜生瓜生瓜生忍忍忍しのぶしのぶ……お前をこうしてやりたい、なのにからだがいうことを聞かない!

 誰かが、カビとり用のジア塩素酸水溶液が入った容器を瀬山に投げつけた。柔らかい瀬山の表皮は爛れ、粘液が流れ出す。それに効果があることを知った人々は、ドラッグストアから薬品を持ち出し、次々に投げつける。

 薬品が化学反応を起こし、毒ガスが発生、人々は倒れていく。

 パトカーのサイレンの音が響いた。

 瀬山は、マンホールのふたを開け、その柔らかい肉体を下水道に流し込んだ。

 汚物まみれになり、それらと半ば同化しながら、下水の中を進む。どこかの水洗トイレから、再び地上に出よう。


 瀬山は、トイレの個室にこもって、母親の作った弁当を食べていた。下水から立ち上る臭いに何度もえずいたが、他に安心して食事ができる場所がないのだから、仕方がない。

 放課後、好きだった女の子、瓜生の机を、舌ベロでなめ回したり、生殖器を押しつけたりしていたのを目撃されて以来、クラス中の人間が瀬山のことを無視した。以前から始まっていたいじめはよりエスカレートした。

 もう、自分の安らぎの場所は、トイレの個室だけになってしまった。

 ドン・ドン、と扉を叩く音がした。

「瀬山くーん、この中に居るんだろ?」

 この声、自分をいじめている主犯格のものだ。瓜生と付き合っており、先の事件以来執拗に攻撃してくる。せっかく見つけた安住の地を失ったのだと理解するのにかなりの時間を要した。

「出てこいよー。遊んでやるからさ。それとも、昼休み中ここにいるか?」

 瀬山の膝の上から、弁当箱が落ちた。 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 破壊的で絶望的な空気にはまりました。 Twitterでお聞きしたところ瓜子姫を下敷きになさったそうですが、現代社会の思春期の負のエネルギーが全体を包み込んで、その凄まじさに巻き込まれました。…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ