僕の時間を君にあげる
私が住み込みで働く「オルセン魔道具工房」は、王都の職人街の真ん中にある。
親方のオルセンさんは腕はいいけど気難しくて、朝から晩まで仕事は山積み。それでも、私がこの街を好きなのは、広場の真ん中に立つ「刻告げの鐘」があるからだ。
大きな時計塔みたいなその鐘は、一時間ごとに美しい音色で時を知らせてくれる魔道具。……のはずだったんだけど、最近はどうも調子が悪いみたい。
ある時は五分遅れて鳴ったかと思えば、次の時間は十分早く鳴ったり。昨日の昼なんて、三回鳴るはずが、一回鳴って、忘れた頃にまた一回、なんていう気まぐれっぷり。
「これじゃ仕事の時間がめちゃくちゃだ!」
「うちの子なんて、鐘の音で学校に行く時間を決めてるのに」
広場でおしゃべりする人たちの声が、工房の窓から聞こえてくる。みんな困っているのだ。私も、お昼休憩の時間が分からなくて、お腹がぺこぺこになるまで作業しちゃうことが増えた。だからなのか、最近良くなっていた生まれつき悪い心臓の調子がまた悪くなってきた。
私はリナ・ベルウッド、16歳。田舎の子爵家の次女だけど、家は名前ばかりで貧乏だから、こうして見習いとして働いている。いつか一人前の魔道具職人になって、家族に楽をさせてあげるのが夢だ。
だから、専門外の大きな魔道具の修理なんて、本当はしちゃいけないって分かってる。親方にバレたら、きっと雷が落ちる。
でも、あの鐘の音が、私の心臓の心音のようになんだか苦しそうに聞こえてしまうのだ。
「助けて」って、言っているみたいで。
その日の夕方、仕事を少し早く終えた私は、こっそり工房を抜け出して広場へ向かった。ポケットには、使い古しの工具をいくつか忍ばせている。
見上げる鐘は、やっぱり大きくて、どこから手をつけていいか分からない。とりあえず、根本にある点検口の扉を、えいっと開けてみた。
「うわ……」
中は、びっくりするくらい複雑だった。歯車やゼンマイみたいな機械部品と、魔力を流すための魔石や回路が、蜘蛛の巣みたいに絡み合っている。ホコリもたくさん積もっていて、これじゃあ調子も悪くなるはずだ。
「よし、まずは、お掃除からかな」
誰に頼まれたわけでもない。お給金が出るわけでもない。でも、放っておけなかった。
私は持ってきた布で、部品を一つ一つ丁寧に拭き始めた。トントン、と軽く叩いて調子を見たり、緩んだネジを締め直したり。そんなことを、日が暮れるまで毎日少しずつ続けた。鐘の調子も私の心臓の調子も早く良くなって欲しいなと思いながら。
そんなある日の午後。いつものように鐘の内部にもぐり込んで作業をしていると、不意に外から声が聞こえた。
「そこで何をしている?」
低くて、落ち着いた、綺麗な声。
ビクッとして頭をぶつけながら外に出ると、そこに立っていたのは、一人の男性だった。
上等そうな、でも飾り気のないシンプルな服を着ていて、顔の半分くらいが夕日に照らされている。歳は、私より少し上くらいだろうか。何より印象的だったのは、彼が両手に、寸分の隙もなくきっちりとした黒い手袋をはめていることだった。
「あ、あの、これは……」
どうしよう、王宮の役人の人だったら、勝手に魔道具をいじったって怒られちゃう!
しどろもどろになっている私を、彼はじっと見つめている。その目は、なんだか全てを見透かすようで、心臓がドキドキと音を立てた。
「君が、これを修理しているのか? 一人で?」
「は、はい! ごめんなさい! 鐘の音が、なんだか可哀想で……」
正直に言うと、彼は少しだけ驚いたような顔をした。そして、ふいっと私から視線を外し、鐘の本体にそっと手を伸ばす。
その、手袋に包まれた指先が、鐘の冷たい金属に触れた、瞬間。
「……っ!」
彼が、息をのんだのが分かった。
彼の目が大きく見開かれ、その表情が、驚きから、信じられないものを見るような、深い哀れみのような……そんな色に変わっていく。まるで、この鐘を通して、私の知らない何か、とんでもないものを見てしまったかのように。
「君は……」
夕日に染まった彼の唇が、何かを言おうとして、やめた。
ただ、私を見つめるその瞳が、あまりにも優しくて、そして、あまりにも悲しそうだったから。
私は、どうしてそんな顔をするのですか、と聞くこともできず、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
翌日も、その次の日も、彼は同じ時間に広場へやって来た。
最初はただ遠くから私の作業を眺めているだけだったけれど、三日目には、点検口のそばまで来て、私に話しかけた。
「手伝おう」
「え?」
「一人では大変だろう。私も、魔道具には少し詳しい」
彼はセオと名乗った。それ以上のことは何も話してくれなかったけれど、その手つきを見れば、彼が「少し詳しい」なんてレベルじゃないことはすぐに分かった。
私が一日かかって磨いていた歯車の汚れを、彼は特殊な薬品を使って一瞬で落としてしまう。私が首をかしげていた複雑な魔力回路の繋がりも、彼は図面でもあるかのようにすらすらと解き明かしていく。
「すごい……! セオさん、もしかして本職の魔道具師なんですか?」
「……まあ、そんなところだ」
彼はいつも少しだけ寂しそうに笑う。そして、決して手袋を外すことはなかった。工具を持つ時も、細かい作業をする時も、その黒い手袋は彼の手の一部みたいだった。
不思議な人。それが、セオさんに対する私の印象だった。
二人で作業を始めてから、鐘の調子は目に見えて良くなっていった。
不規則だった鐘の音は、少しずつ正確な時間を刻むようになる。街の人たちも「最近、鐘の音が綺麗になったね」「誰か直してくれてるのかしら」なんて噂をするようになった。
親方にバレないように、こっそり続ける修理の時間は、私にとって宝物のようなひとときになっていた。
「リナは、どうして魔道具職人に?」
ある日、休憩中にセオさんが不意に尋ねた。
「えっと、私、昔から壊れたものを直すのが好きで。古いおもちゃとか、動かなくなったオルゴールとか。元通りに動いた時、なんだか『ありがとう』って言ってもらえた気がするんです。それに、家族を楽にさせてあげたいっていうのも……あります」
「……そうか」
「そういえばセオさんは、どうしていつも手袋を?」
セオさんから質問を受けたので。私もずっと気になっていたことを尋ねた。セオさんは一瞬動きを止め、自分の手を見つめた。
「……これは、呪いのようなものだ」
「呪い?」
「ああ。私は、素手で物に触れると、その物の記憶や持ち主の強い感情を読んでしまう。時には、未来の断片のようなものまで……。だから、こうしていないと、情報が流れ込みすぎて頭がおかしくなりそうになる」
彼の告白は、あまりに衝撃的だった。
「そんな……。じゃあ、あの時、鐘に触れた時も……」
「ああ。君のことが、少しだけ見えた」
セオさんは静かに言った。
「君が、どれだけ優しい心で、この鐘を大切に思っているか。そして……」
「どうされました?」
「……いや、なんでもない。……私には、妹がいた」
ぽつりと、彼は続けた。
「体が弱く、ずっと部屋で過ごしていた。私は毎日、彼女のために新しいおもちゃの魔道具を作ってやった。それに触れるたびに、妹の『ありがとう、お兄様』という喜びの記憶が流れ込んでくるのが、何よりの幸せだった」
彼の声が、少しだけ震える。
「だが、ある日、いつものように彼女の手を握った時、見えてしまったんだ。彼女に残された『時間』が、砂時計の砂のように、サラサラとこぼれ落ちていく映像を……。私には、その砂を止めることができなかった。何もできずに、ただ、その時が来るのを見ていることしか……」
セオさんの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「それ以来、私は素手で人に触れるのが怖くなった。大切な人の終わりを知ってしまうのが。何もできない無力な自分を、再び思い知らされるのが。だから、この手袋は、私を世界から守るための壁なんだ」
彼のトラウマを知って、私はかける言葉が見つからなかった。ただ、彼の隣に寄り添うことしかできない。でも、その時、私は心に決めたのだ。この人の悲しみを、少しでも私が和らげることができたなら、と。
修理を始めて二週間が経った頃、私たちは一番の原因だと思われる大きな魔石に行き着いた。鐘の心臓部とも言えるその魔石は、表面がくすみ、内部には不純物のような黒い影がいくつも見えた。
「魔力の流れが滞っているんだ。この魔石を浄化しないと、根本的な解決にはならない」
「浄化、ですか……。でも、こんなに大きな魔石、工房の設備じゃ……」
途方に暮れる私に、セオさんは「少し、試してみよう」と言った。
彼は懐から、見たこともないくらい純度の高い、小さな銀色の魔石を取り出した。そして、それを鐘の魔石にそっと近づける。
手袋をしたまま、彼は目を閉じ、何かに集中しているようだった。すると、銀色の魔石が淡い光を放ち始め、その光が、まるで水が染み込むように、古びた魔石の中へと流れ込んでいく。
見て、とセオさんが言う。
鐘の魔石を見ると、中の黒い影が、ゆっくりと、本当にゆっくりと薄れていくのが分かった。
「すごい……! こんな方法、初めて見ました!」
「共鳴を利用した、応用技術だ。時間はかかるが、これなら君の親方に気づかれずに浄化できる」
その日から私たちは毎日、魔法の秘密の儀式みたいに、魔石の浄化を続けた。
並んで座り、光が移っていくのをただ静かに見つめる時間。セオさんは、色々な話をしてくれた。遠い国の神話のこと、空に浮かぶ星座の物語、歴史に埋もれた偉大な魔道具師の話。それはどれも、私が知らなかったきらきらした世界の話だった。
「リナは、何か夢はあるか?」
「夢、ですか?」
「ああ。職人になる、というのとは別に。行ってみたい場所とか、見てみたいものとか」
「そうですね……」
私は少し考えて、恥ずかしそうに答えた。
「王宮で開かれる、『星祭りの夜会』に、一度でいいから行ってみたい、です」
星祭り。それは、一年に一度、建国を祝って開かれる王宮最大の舞踏会。貴族なら誰でも参加できるわけではなく、招待状がなければ門をくぐることもできない、雲の上の催しだ。街全体もお祭りのように活気が良くなる。夜通し続く夜会では、真夜中になると庭園の天井が魔法で開かれ、満天の星空の下でワルツを踊るのが伝統だと聞いている。
「お母様が、若い頃に一度だけ参加したことがあるそうで。その時の話を聞くのが大好きだったんです。『まるで星屑の中を歩いているようだった』って……。まあ、私には縁のない話ですけどね」
自嘲気味に笑う私を、セオさんはじっと見つめていた。
その時の彼の顔を、私は忘れることができない。
いつもの悲しそうな瞳の奥に、強い決意のような光が宿っていたのを。
「……そうか。星祭り、か」
彼はそう呟くと、浄化されて輝きを取り戻しつつある魔石に、ぽつりと言った。
「もう少しだ。もう少しで、君は本当の音色を取り戻せる」
その言葉は、鐘に向けて言ったのか。
それとも、すぐ隣にいる、私に向けて言ったのか。
私には、分からなかった。
セオさんと出会ってから、一月が経った。最初に比べると鐘の調子もかなり良くなった気がする。私の心臓も最近は調子が良くなっている気がした。
星祭りの夜会まで、あと一週間。街は少しずつお祭りムードに浮かれ始めている。私も、いつか行ってみたいな、なんて夢みたいなことを考えながら、最後の仕上げに取り掛かっていた。
鐘の心臓部だった魔石は、すっかり曇りが晴れて、生まれたてみたいにキラキラと輝いている。
「リナ、最後の調整だ。君の手でやってくれ」
セオさんに促され、私はごくりと唾をのんだ。鐘の音程を合わせる、一番大事な作業だ。私は小さな音叉を片手に、慎重に、慎重に、歯車の噛み合わせを調整していく。
カチリ、と最後の歯車がはまった。
広場に、静寂が訪れる。
ちょうど、午後三時になるところだった。私とセオさんは、固唾をのんで鐘を見上げる。
――ゴーン……
一つ目の音が、空に溶けていく。
それは、今まで聞いたことがないくらい、澄み切った優しい音色だった。
――ゴーン……
二つ目の音。広場にいた人たちが、何事かと顔を上げる。パン屋のおかみさん、八百屋の主人、遊んでいた子供たち。みんなの視線が、鐘に集まる。
――ゴーン……!
三つ目の音が、完璧な間隔で響き渡った。それはまるで、鐘が「ありがとう」と、高らかに歌っているようだった。
瞬間、わあっと広場が歓声に包まれた。
「直ったぞ!」
「なんて綺麗な音だ!」
みんなが、まるで自分のことのように喜んでくれている。その光景を見たら、なんだか胸がいっぱいになって、涙がこぼれそうになった。
「やった……やりましたね、セオさん!」
隣を見ると、セオさんは手袋に隠された口元を少しだけ緩めて、優しく微笑んでいた。
「ああ。君が頑張ったからだ」
その日の夕方。いつものように別れようとした私を、セオさんが引き止めた。
「リナ。君に、渡したいものがある」
そう言って彼が差し出したのは、一通の分厚い封筒だった。蝋で固く封をされた、立派な封筒。
「これは……?」
「星祭りの夜会への、招待状だ」
「え……?」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
招待状? 星祭りの? どうして、セオさんが?
私が混乱していると、彼は静かに続けた。
「私は、アークライト侯爵家の者だ。正式な名は、セオドア・アークライト」
「アークライト……侯爵家……」
その名前は、私のような見習いでも知っている。王宮魔道具研究室を代々束ねる、由緒正しい大貴族。今の室長は、若き天才と名高い……。
「まさか、あなたが……?」
「黙っていて、すまなかった」
セオさん――セオドア様は、申し訳なさそうに頭を下げた。
頭が、ぐらぐらする。あのセオさんが、雲の上の人だったなんて。
「鐘を直してくれたお礼だ。君の夢を、叶えたい」
「で、でも、私、こんな格好ですし、ドレスなんて……」
「心配いらない。全て、手配してある」
セオドア様は、もう一枚の紙を私に手渡した。それは、王都で一番高級な衣装店の名前が書かれた案内状だった。
「当日は、私が馬車で迎えに行く。だから……来てくれるか?」
まっすぐに私を見つめる、真剣な瞳。
いつもの、悲しそうな色じゃない。強い意志を宿した、きらきらした瞳。
断るなんて、できるはずがなかった。
「……はい!」
私は、夢の中にいるみたいな気持ちで、力いっぱい頷いた。
星祭りの夜。
工房の前に停まった、アークライト家の紋章が入った豪奢な馬車に乗り込むと、セオドア様が息をのむのが分かった。
案内された衣装店で仕立ててもらったドレスは、夜空の色をしたシルクに、星屑みたいな銀糸の刺繍が施されたものだった。髪も綺麗に結ってもらって、いつもの作業着姿の私とは、まるで別人。
「……綺麗だ、リナ」
セオドア様も、王宮魔道具師の正装に身を包んでいる。いつもと違うその姿に、私の心臓もトクンと跳ねた。いつも以上に心臓の鼓動が大きく聞こえる。
王宮の舞踏会場は、お母様の話で聞いていた以上に、きらびやかで、夢のような場所だった。高い天井にはシャンデリアが輝き、着飾った貴族たちの楽しそうな話し声と、楽団の奏でる優雅な音楽で満ちている。
あまりの光景に圧倒されている私の手を、セオドア様が優しく取った。
「大丈夫。私がそばにいる」
その手は、いつものように黒い手袋に覆われていたけれど、確かな温かさが伝わってきた。
「あら、セオドア様ですわ。なんて凛々しくて上品な方なのかしら」
「隣の人は誰でしょう?見たことない方ですが、とても綺麗な方ですわ」
セオドア様に手を握ぎってもらい、徐々に落ち着いてくると、あちらこちらで注目を浴びていることに気がついた。
セオドア様を皆んな見てるんだろうなぁ。確かに、女の私ですら目が奪われてしまうもの。
それから私たちは、会場の隅で美味しいお菓子を食べたり、珍しい魔道具の展示を見たりして過ごした。セオドア様が、私の知らない世界のことをたくさん教えてくれる。その時間は、鐘を修理していた時と同じくらい、楽しくて、あっという間だった。
そして、真夜中を告げる鐘が鳴る。
ふっと、会場の照明が落ちた。ざわめきが静まり、誰もが天井を見上げる。
すると、魔法で出来ていたはずの天井が、ガラスのように透き通り始めた。その向こうには――息をのむほど美しい、満天の星空が広がっていた。
「わぁ……」
まるで、星屑の海の中にいるみたい。
見とれている私に、セオドア様が手を差し伸べた。
「リナ。一曲、踊っていただけますか?」
ワルツなんて、習ったこともない。でも、彼の瞳を見たら、頷くことしかできなかった。
セオドア様に導かれるまま、フロアの中央へ。彼のリードはとても上手で、私はまるで魔法にかけられたみたいに、軽やかにステップを踏んでいた。
くるくると回りながら、視界の端で星が流れる。
幸せだ。こんなに幸せで、いいんだろうか。
生まれつき弱かった心臓が、今日だけは、喜びで力強く脈打っている。
――でも、その時だった。
ズキン、と胸に鋭い痛みが走った。
「……っ!」
一瞬、息が止まる。視界がぐにゃりと歪み、足から力が抜けていく。
「リナ!?」
セオドア様の焦った声が、遠くに聞こえる。彼の腕の中で、私の意識は、ゆっくりと闇に沈んでいった。
――アークライト家の人間には、代々受け継がれる特殊な能力がある。
物に触れることで、その物の持つ「記憶」や「時間」を読み取り、わずかながら干渉する力。
セオドアはその力が誰よりも強く、そして、誰よりも優しい心を持っていた。
彼は、初めて刻告げの鐘に触れたあの日、全てを知ったのだ。
懸命に鐘を直そうとする少女の、純粋な優しさ。
そして、彼女の心臓に刻まれた、残りわずかな時間を。
本来は、直接その人に触れないと知り得ないことだったが、彼女の強い想いが鐘に伝わっていたために起こった、まさに奇跡の出来事。
運命は変えられない。それが、アークライト家の教えであり、彼の心を縛り付けていたトラウマだった。生命の時間に干渉することは、術者の命を削る最大の禁忌。
どうして、セオドアは命をかけてまでリナを助けようと思ったのか。
それは、力が強いばかりに幼い頃から色々な人の「記憶」をのぞいてしまい、人の欲望や醜さを知り尽くして人間不信に陥っていた彼の心を、リナのひたむきさが溶かしたからだ。
自分の心臓が苦しいにも関わらず、ただ「鐘が可哀想だから」という理由だけで、誰に知られることもなく鐘を修理し続ける少女。その姿は、彼が今まで見てきたどんな人間の記憶よりも、清らかで、美しかった。そして、彼女の運命は、かつて何もできずに見送った、愛する妹と同じだった。
だが、彼は諦められなかった。
妹を救えなかったこの手で、今度こそ、愛する人を救いたい。それは、彼が初めて抱いた、運命への反逆だった。
鐘の修理は、口実だった。彼は、王都の時間を司る古代の魔道具である「刻告げの鐘」に少しずつ自らの魔力を注ぎ込み、その膨大な時間の中から、ほんのひとしずく分の力を「借り受けよう」としていた。禁忌中の禁忌である、命の時間を巻き戻す、ただ一度の奇跡のために。
舞踏会の夜。周りの慌てるような声が飛び交う中、腕の中で意識を失っていくリナを抱きしめ、セオドアは決意した。
彼は、妹のことがあって以来ずっと着けていたその黒い手袋を外した。
震える素肌の指先で、そっとリナの頬に触れる。流れ込んでくる、彼女の短いけれど温かい記憶。そして、消えかかっている、命の灯火。
「すまない」
彼は、誰にともなく謝った。
「君の誰よりも優しい心とひたむきさに心を奪われた。君は死なせない、愛してるよ、リナ」
鐘から借り受けた時間の力と、自らの生命力の全てを、彼女の心臓へと注ぎ込む。
まばゆい光が、二人を包んだ。
五年後。
職人街の広場には、今も「刻告げの鐘」が立ち、毎日美しい音色を響かせている。
その鐘の管理を任されているのは、一人の若い女性魔道具職人だ。
「リナさん、今日もいい音だねぇ!」
「ありがとうございます!」
リナ・ベルウッドは、すっかり元気になっていた。親方の工房を継ぎ、街の人気者だ。
彼女は時々、不思議な夢を見る。
満天の星の下、顔も名前も思い出せない、とても優しい誰かとワルツを踊る夢。
目が覚めると、いつも胸が温かくて、少しだけ切ない気持ちになるのだった。
その頃。
王都から遠く離れた、静かな田舎町。
一人の老人が、窓辺の椅子に座り、遠く空を眺めていた。白髪に深い皺。だが、その瞳だけは、二十代の頃の聡明な輝きを失っていない。
彼の名は、セオドア。
彼はあの日、リナに自らの「時間」の大部分を譲り渡し、侯爵家の全てを捨てて姿を消した。
風が、遠く王都からの便りを運んでくる。
その風に乗って聞こえてくる気がするのだ。今日も変わらず時を刻む、あの鐘の音が。
彼女が、元気に生きている証の音が。
セオドアは、机の上に置かれた、一つの小さな歯車を指でそっと撫でた。それは、かつて彼女が修理中に落としていった、鐘の部品。
それに触れるたび、彼の脳裏には、夜空色のドレスで微笑む少女の姿が鮮やかに蘇る。
命が救われた代償として、彼女が倒れる前の数ヶ月の記憶は消えてしまった。
彼女は彼のことを忘れてしまったのだ。
それでも、彼は後悔していなかった。
「君が、君の時間を生きてくれれば、それでいい」
老人は、誰にも聞こえない声でそう呟くと、満足そうに目を閉じた。
窓の外では、まるで祝福するように、きらきらと光る雪が舞い始めていた。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
自分の作品では珍しく切ない系のお話となりました。
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