(1/4) エレベーターの攻防
「止まりましたね」
立花光太郎は独り言のように静かに言った。
「そうですね」
と、同じエレベーター内の若い女性、大藤久美子が答える。
5分ほど前、立花光太郎は自宅マンションに帰宅しエレベーターに乗った。扉を閉じる直前、エントランスに入ってきた女性に気付き、扉を止め、2人でエレベーターに乗る。
これは、よかったのだろうか、エレベーターで見知らぬ男性と2人きりというのは嫌がる女性が多いのではないか、などと光太郎が考えることはない。光太郎は空気が読めない、周りの様子を考えない男であった。ともあれエレベーターは上昇を開始した。
その時、地震が起きたのだ。
そして、エレベーターが止まった。地震自体はそこまで大きなものと思えなかったが、とにかく、エレベーターは止まった。
「今のエレベーターは地震があると、最寄りの階に自動で止まり、扉が開くそうです」
と、光太郎は淡々と言った。
「でも、開きませんね」女性が言う。
「そこに付いているインターフォンで話してみます」
光太郎が操作ボタンの下にあるインターフォンを使って見るが応答がない。書いてある緊急連絡先にスマフォでかけてみるが相手が出ない。
「もしかしたら、あちこちの同じ状況になっていて応答センターの手が回っていないのかもしれません」
光太郎はスマフォで検索して言った。
「こういった場合、閉じ込め対応が最優先されるようなので、待っていたら大丈夫でしょう」
そう答えた光太郎は横を向いてスマフォを触る。そのため、女性が憎しみを込めた目で睨んでいる事に気づかない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大藤久美子は直ぐに気が付いた。エレベーターの扉を開けて待っている男が憎きエンジニアである事に。
ちょうど2週間前だ。会社の会計システムが動かなくなった。集計結果を帳票形式で表示しようとパソコンのF12キーを押しても反応しない。会計システムを担当した会社に連絡するとちょうど近くにエンジニアがいるのでそちらに向かわせますと言ってきた。仕事が止まってイライラしながらもエンジニアの到着を待つ。大藤久美子がイライラしているのが周りも分かっているので誰も近づかない。仕事はできるが冷徹な大藤久美子に近づいて来る者は元々いやしないのではあるが。
その時やってきたのが、このエレベーターに今いる奴だ。開発会社の担当エンジニアとか言っていたが名前は忘れた。そいつはツカツカとやって来ると言った。
「ああ、HHKDのコンパクトキーボードですね。F12キーを使うためには、こっちのキーも同時に押さないと駄目なんですよ」
大藤久美子は今日キーボードを変えたのを思い出した。昨夜見かけたキーボードがシンプルで無骨な所が気に入って衝動買いしたのだった。
「あ、そうなんですね」と動揺を隠しながら言う大藤久美子にその男は追い打ちをかける。
「このキーボード、見た目に惹かれて買っても使いこなせない人がほとんどですよ」
周りが静かだ。きっと息を潜めてハラハラしつつ成り行きをうかがっているに違いない。
「ありがとうございます。助かりました。本当につまらない事でお呼びして申し訳ありません」と大藤久美子は努めて明るく言った。自分としては最高レベルの笑顔も付けたつもりだった。
「そのキーボード、新しそうですからメルカリに出すなら早い方がいいですよ。では」とエンジニアは出ていった。
何様だあいつは、と机をひっくり返しそうになったのを、思い出した。
思い出しただけではらわたが煮えくり返る。そいつがなぜかここにいる。何か言ってやらないと気がすまない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
何か言ってやろうと思っていた大藤久美子の方に、立花光太郎は急に振り向くと言った。
「トイレ、行きたくないですか?」
大藤久美子は困惑した。見知らぬ女性にいきなり、それを言うか、この男は。
いや、初対面ではないけどこの男は絶対私の事を覚えていない。そういうタイプの人間だ。
「大丈夫ですよ」と大藤久美子は明るく言った。
「僕は行きたいです」そう言うや立花光太郎は天井を見る。
「エレベーターって天井から外に出れるんですよね」
はぁ、何を言い出すんだ、と大藤久美子は思ったが、笑顔で返す。
「危ないから、そんな事しちゃ駄目でしょう」
「緊急時なので、ありです」と立花光太郎は真顔で言う。
「いや、そこまで緊急ではないですよね」
「僕のお腹が緊急なんです。ここで大きいのを出してもいいですか。向こう向いててくれるなら、しますけど」
大藤久美子は思った。こいつは少し変だ。いや、前から分かっていた事だが。
と思う間もなく、天井の一部を開けジャンプして手をかけぶら下がる立花光太郎。
大藤久美子は、意外に運動神経が良いな、とつい思ってしまう。が、すぐに冷静さを取り戻す。いやいや駄目でしょう。
でも、立花光太郎は懸垂で天井の穴から上がろうとしている。
「やめて!」と大声で叫んで大藤久美子は立花光太郎の両足を掴んだ。その弾みで立花光太郎が落ちてきてエレベーターの床に倒れ込む。大藤久美子の上に立花光太郎に覆い被さる形だ。
それと同時にエレベーターの扉が開いた。
保守員や警備員が複数到着したのだ。
先程の大藤久美子の悲鳴と今の二人の状況。
誤解を生むには十分だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「大丈夫ですか!!」
「おい、すぐに女性から離れろ!」
複数の怒声が頭上から降ってくる。
「警察呼びますか?」
大藤久美子を起こしてくれた男性が声をかける。
立花光太郎のほうを見ると警備員から腕を捕まれている。
「すみません、全然大丈夫です。誤解があったかもしれませんが、そういう状況ではないですから」
「しかし、、、悲鳴が聞こえましたが」
困った。どう説明すればいいのか。大藤久美子は少しパニックになっていたのだろう。つい、言ってしまった。
「彼と痴話喧嘩になっただけですから。ね?」と立花光太郎に振り返る。
「いや、僕はその女性を知りません」
おい、場を読めよ。心の中で大藤久美子は頭を抱えた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「それでママはどうしたの?」
絵美が無邪気に聞いてくる。膝の上に愛娘をのせた久美子が言う。
「もう、一生懸命、説明したわよ。だって、あの人、まともに会話もできないんだから」
「だってよ、パパ」
そう言われた方向にはパソコンを打っている立花光太郎がいた。




