第6話 地獄
地獄の釜の蓋が開いたあの日、翌々日に控えた娘の結婚式に列席するため、成田からの長いフライトから解放された富樫は、妻とともにサンフランシスコ国際空港のタクシー乗り場にいた。
予約していたバリアフリータクシーに車椅子のまま乗り込み、乗車を補助してくれた運転手がハッチを閉めて運転席に戻ろうとしたとき、それは起こった。
運転席に乗り込もうとドアに手を掛けた運転手の首に、若い男が突然噛み付いたのだ。
突如車外で起こった事件に、富樫と助手席の妻は声も出なかった。
大きく首筋を噛み千切られた運転手は、信じられないといった表情を浮かべるが、すぐに男に押さえ込まれて窓の下に姿を消した。
しかし、次の瞬間、運転手を襲った男は立ち上がり、車中の富樫に凄まじい形相を向けると、激しく窓を叩き出した。
口もとを血塗れにしたその男の横で、ゆっくりと起き上がる運転手の影が見えると、妻はすぐ運転席に手を伸ばして、彼のためにドアを開けようとする。
だが富樫は、大声でそれを制した。なぜなら、首から鮮血の飛沫を上げる運転手は、手で傷を押さえることもなく、自分を襲って来た男と並んで唸り声を上げ、タクシーの窓を叩き始めたからだ。
車体や窓を大きく叩いて威嚇してくる二人の男に怖れをなした富樫夫妻は、誰か助けを呼ぼうと考えるが、車窓の向こうに見えるのは、逃げ惑う人々と、それを追って走る異常者の群れだった。
発砲する警官に襲いかかる異常者達の姿に意を決したのか、妻は運転席へ移動するとシートベルトを締め、乱暴な運転で車を出す。
混乱する空港を後にした富樫夫妻だったが、市街地はより一層危険な状況だった。
あらゆるところを駆け回って人々に噛み付く異常者の群れと、無遠慮に発砲する警官や市民。
さらには、慣れない右側通行と、暴走する無数の自動車。
そして、美しいと耳にしていたサンフランシスコの街には、あらゆるところから火の手が上がっていた。
様々な危険に遭遇しながら、富樫は娘の住む家に向かおうとするが、あらゆる道が軍に封鎖されている状況では、地理に疎い彼らにとって無理な相談だった。
道中出会った軍人に、避難施設に向かうよう助言を受けた夫妻は、娘と婚約者もそこへ向かったはずだと信じて目的地を変更するが、その途中、車は暴走するトレーラーと衝突する。
大きく拉げて傾いた車の中で、本当の意味での災いが富樫に降りかかることとなった。
富樫は車椅子ごと床に固定されていたため、さして大きな怪我は無かったが、運転席の妻は下半身を車体に挟まれているうえに、太い金属パイプが胸に刺さっていたのだ。
妻を助け出そうとシートベルトを外し、富樫は彼女のもとへ近寄るが、バランスを崩して床に倒れた。すぐに立ち上がろうとするものの、それは片足が不自由な彼にとって容易なことではなかった。
その時、痛みに耐えながら富樫の方を振り向いた妻は、小さくひと言口にすると、彼に弱々しく微笑んだ。
そして、彼女の瞳から命が消えゆくのを、夫は見守るしかなかった。
間をおくことなく、妻は悍ましい形相を浮かべると、夫に襲いかかろうと牙を剥く。
シートベルトを締めたうえ、車体に挟まれたままの愛妻は、それ以上富樫に近付くことはできなかったが、彼の心に噛み付いて貪り食った。
幸い、近くで道路封鎖をしていた軍人が駆けつけ、富樫は車椅子とともに助け出される。
そして、同意を求めてきた軍人に、彼が小さく頷くと、一発の銃声が鳴り響いた。
その後、彼は軍の避難施設に収容されることとなる。
妻が亡くなってから二日後、それは起きた。
前夜、この辛い現実に、二度と目覚めぬよう祈ったのにもかかわらず朝を迎えた富樫は、妙なことに気付く。
辺りがやけに眩しいのだ。どこからともなく降りてくる黄色い光が満ちる世界。
持病の白内障が悪化したのかとも思ったが、どうやらそうでは無さそうだった。
周りの避難民や軍人も、皆どこか不安げな表情を浮かべ、無言の時間が流れていた。
その時、富樫は気付いた。少し離れて立っている、だらりと銃をぶら下げた軍人の背後に立つ民間人の姿に。
よく見ると、それは人間ではなかった。
確かに服を着てはいる。だが、二本の太い角を生やした頭に頭髪はなく、その目は赤く光っていた。
そして、その皮膚は炭のように黒く、口は耳まで裂けており、節くれ立った指の先には鋭く尖った長い爪。
それは、悍ましい悪魔の姿だった。あれは、殺さなければならない存在だ。それも、この牙を突き立てて――。
富樫が大声を出すと、周りの人々も怒声を上げる。
そして皆、悪魔に向かって駆け出した。
軍人も銃を放り出し、悪魔に掴みかかってゆく。
富樫も彼らに続こうと車椅子から立ち上がるものの、その場で転倒し、彼は悪魔祓い師達の背中を眺めることしかでず、威嚇の唸り声を上げるだけだった。
その時、自動小銃の銃声が響いた。
悪魔に制裁を加えていた者達が、一斉にそちらを向く。
誰が銃を撃ったのだ。銃など撃っても、悪魔には効かない。奴らは、牙で噛み付かなければ斃せないのに。
そう考えながら彼が顔を向けた先に見たものは、戦闘服を着て銃を手にする何体かの悪魔だった。
悪魔達は、避難民に向けて小銃を乱射する。
何名かの軍人が前に出て、悪魔に向かって突進し、他の者も後に続いた。
間もなく銃声は聞こえなくなり、悪魔を貪る音が聞こえてくる。
自分もその場に向かおうと、富樫は身を捩るものの、一向に前に進めない。
もどかしさに、思わず声を上げようとしたとき、彼は頭が朦朧とするのを感じた。
今頃、昨夜の願いが叶えられるのか――。
そう思いながら、富樫は意識を失った。
「その後、私の意識は長い眠りについていた。その間も、この身体は何かしらの“本能”のようなものに突き動かされて、他者を転化させていたようだ」
「――――」
「だが、それはあくまでも推測に過ぎない。辛うじて残っていた当時の映像――つまり、転化してから相当時間が経ったゾンビがヒトを襲う様子を見る限りのね」
「-――なら、どうして、あなたは今、こうやって話しているんですか。私という人間を前にして襲うこともなく」
「それは判らない。神の思し召しとしか言いようがないのだよ。突然、ヒトであったころの意識が戻ったのだ。あの日からおよそ三百年が経過した、西暦2372年にね。そして、多くの者が時を前後して、私と同じく記憶と意識を取り戻したのだ」
その後、人間としての思考能力を取り戻したゾンビは少しずつ集まり、社会を形成した。
彼らは、風化し朽ち果てて過去に消えた文明の残滓から、少しづつ知識と技術を回収し、さらには人間であった頃の専門性を活かして、新たな文明を花開かすべく、未来に向けて足を踏み出した。
この部屋から私が見たあの街は、その結果として完成した都市のひとつだそうだ。
そして富樫も、構造エンジニアであった頃の知識を活かし、中心人物としてこの街の建設に携わっていたという。
しかし、私は疑問に思った。2372年といえば、今から二百年以上も前のことだ。そして、ゾンビ禍の発生から約三百年後。
ゾンビは死なないのかも知れないが、それほど長い年月を活動し続けられるとでも言うのだろうか。
その疑問を富樫にぶつけると、すぐに答えが返ってきた。
「それは君の言うとおり、ゾンビが死なないからだ。死なないと言うよりも、死ねないのだ。そもそも、我々ホモ・モーティスは、生物ではない」
「生き物じゃない?」
「ああ、そうだ。君も科学者だから知っているだろう? 生物の定義を」
「ええ、もちろん。外界との隔離、エネルギー変換、自己増殖。あと、恒常性の維持――」
「実は、それらの幾つかは、我々には当てはまらない」
「え?」
「我々には、性欲がない。つまり、自己増殖を行わないということだ。そもそも、生殖器自体が機能しないからね。そして、外界とは隔たれてはいるが、細胞膜によってではない。そもそも、細胞がないのだから当然だ」
「細胞がない? でも、人の体ですよね。お体を見る限り……」
「確かに、朽ちた人体に見える。だが、実はそうではないのだよ。我々は意識を失っていたある時点で、生物からそうでない存在へ変化したらしい。骨や内臓といった人体組織の名残は残っているものの、その性質は流動性を持った鉱物と言った方が近いだろう」
「鉱物――」
「実のところ、謎の物質としか言えん。腐敗せず、伸縮性を持ち、思考し記憶する物質。そのようなものは、有史以来発見されてはいないからね」
私には、彼が何を言っているのか分からなかった。
ゾンビは元々人間だ。間違いなく、肉体を持った生物だったはずだ。なのに、その身体をそのまま受け継いでいるはずのゾンビが生物でないなんて。
「副市長、そろそろ――」
混乱する私の耳に、不意にカサンドラの声が入ってきた。
それに応じた富樫は手を挙げて、会話を打ち切る素振りを見せる。
「残念ながら、時間が無いようだ。興味があるなら、また話をしてあげよう」
そう言った富樫は、車椅子を黒ずくめの男に押されて、隣室を出て行った。
そして、理解に苦しむ情報を処理しきれない私の耳を、カサンドラの声が通り過ぎてゆく。
「それじゃサナエ、お楽しみの時間よ。資料を一式渡すから、しっかり目を通しておいてね!」