第4話 リハビリ
木漏れ日が降り注ぐ緑のトンネルを抜けると、さざ波が煌めく大きな湖が目に入る。
爽やかな風に髪をなびかせながら、私は湖畔に向かってペダルを漕いだ。
舗装されていない土の坂道を軽やかに走り下って、ボート小屋らしき建物の前に自転車を乗り捨てると、今にも崩れ落ちそうな木の桟橋を早足で歩いてゆく。
そして、桟橋の先に腰掛けて釣り糸を垂れる人物の背後に立つと、口を開いた。
「今日で四か月よ。そろそろ、いいんじゃないの? ねえ、ロイ」
すると、ロイ・マーカスは小さな釣り針だけを釣り上げて、私に振り向いた。
「サナエが変な声を出すから、大物が逃げちゃったじゃないか。折角、旨い魚料理をご馳走してあげようと思ってたのにさ」
「あのねえ、こんなところで、魚が釣れるわけ無いでしょうが」
「ホントに君は、夢の無い人だね。もっと、イマジネーションを楽しむべきじゃないかな。人間なんだからさ」
「こんなところに監禁されてて、夢もへったくれも無いわよ! いい加減、外に出してくれてもいいんじゃないの!?」
「僕に言われても困るよ。それについては、女王様に全ての決定権があるんだから」
「だったら、カサンドラさんを呼んできてよ! 今すぐに!! もうウンザリなのよ、こんな生活はっ!!」
「だから今日、釣りに誘ってあげたんじゃないか。それに、ここに来るまでサイクリングも楽しめただろ? 五感全てが現実と変わらないんだから、外にいるのと同じだと思うけど」
「そんなワケないでしょっ! いくら現実と同じように思えても、こんなの、ただのまやかしじゃないのっ!! いいから、あの女を呼びなさいっ!!」
私の怒声に、やれやれといった仕草をあからさまにしながらロイは立ち上がると、いつものように掌を宙で操る。すると一瞬にして、ロイの姿と湖畔の仮想風景は消え去り、四方の壁が白い、いつもの無機質な部屋に私は戻っていた。
あまりにも怒りが込み上げていた私は、部屋の中央に鎮座するベッド上の枕を引っ掴むと、その向こう側にロイがいるであろう白い壁に向かって、思いっきり投げつけた。
この部屋に収容されたあの日、カサンドラは私に真実を教えてくれた。だがそれは、決して全てでは無かった。
確かに、彼女は語ってくれた。ゾンビ禍が発生してから現代文明が滅びるまでの出来事を。
あの災いの原因については、未だに諸説入り乱れているものの、当時発見されたという未確認生物が大きな原因だとする説が有力であること。
東アジアと北米で同時多発的に発生したゾンビ禍が、瞬く間に全世界に波及し、一週間も経たずして社会が崩壊したこと。
ゾンビの襲撃から辛くも逃れた人々が、小さなコミュニティを作って細々と生き延びようとするものの、組織同士の衝突で、更に多くの者が命を失い、歩く屍と化したこと。
カサンドラは、災害発生後の各国の動向や、ゾンビに対する反攻作戦、コミュニティ間の抗争についても、非常に細かく教えてくれた。そして、そのいずれもが、物語性に富んだ興味深いものであり、ゾンビ禍を描いた古のエンターテイメント作品の多くが預言書であったことを示していた。
その反面、彼女は明かそうとはしなかった。人類が再び文明を取り戻すまでの、復興の道のりについてを。そして、現在の社会の様子も。
人類が、いかにしてゾンビ禍に終止符を打ち、どのようにして高度な未来技術を有する文明を築いたのかをいくら尋ねても、「それはまた、いずれ」と言って、のらりくらりとはぐらかす。
いい加減腹が立った私は、「あの都市の姿は全て嘘で、実際は復興なんかしていないのだろう。何が目的で自分を騙すのか」とカサンドラに荒い言葉を放ったが、彼女は落ち着いた様子で「そんなことはない」と否定するだけだった。
それならばと、私を部屋から出して街を見せるように要求するものの、許可されることはなかった。
カサンドラ曰く、私の体内にはゾンビに転化する病原体は存在せず、至って健康ではあるものの、非常に免疫力が低下しており、外気に含まれる転化性病原体が僅かでも体内に侵入すれば、即刻ゾンビになるらしい。
また、過去から来た私は、未来人が免疫を持たない病原体を保有している可能性があるらしく、慎重に培養検査を行っているとのことだった。
そして何より、長期にわたる宇宙環境下での生活に加え、冷凍睡眠という特殊環境におかれていた私の身体を地球環境に順応させることが、目下最大の目標だそうだ。
この部屋に私を閉じ込める理由として、それらを挙げられては、現役の宇宙飛行士として返す言葉が無かった。
そして、私はあの日以降、一向に見つからないという仲間の行方を待ち侘びながら、長期に渡る『ポストフライトリハビリプログラム』に、補助者をつけることもなく、一人っきりで取り組むことになった。
最初の一週間は、軽いストレッチ。翌週からは有酸素運動に取り組み、半月後から軽い筋トレ。
そして、ひと月後から始めた高負荷トレーニングによって、痩せ細っていた私の身体は見違えるようになった。
女性特有の丸みは保ちつつも、全身の肌と脂肪の下には強靱な筋肉が隠れている。決して大きな胸ではなかったはずなのに、発達した大胸筋に押し上げられ、今や乳房が豊かになった。――もとい、そんな気がした。
これで、地球環境に順応できていないとは言わせない。
だから、四か月の節目を迎えた今日、私はカサンドラに再び訴えるつもりだった。この部屋から外に出せ、と。
怒りの形相で、白壁の向こうにいるはずのロイを睨みつけていると、突然壁が透明になった。
その向こうには、カサンドラ達世話役の控え室が現れ、案の定、ロイがこちらに視線を向けている。
そして、その隣にはカサンドラが立っていた。彼女の姿を見た私は、外に出すよう訴えるべく口を開きかけたが、それより先にカサンドラの声が聞こえてきた。
「サナエ。今日は、あなたに会わせたい人がいるの。彼は、あなたが聞きたがってたことを話してくれるわ。今のあなたの気力と体力なら、この事実を知っても堪えられるはずだと、審議会が判断したのよ。だから、心して聞いて欲しいの。世界の復興の歴史と、この都市の真実を」
「突然何を――」
「あら、いつも教えろって言ってたじゃない。もっと、喜んでくれると思ってたんだけど。そうそう。それと、話が終わったら、街に出掛けるわよ。まあ、あなたが嫌じゃなければの話だけど」
「嫌なわけ無いじゃない。早く話を終わらせて、外に連れてって! もう、こんな部屋に閉じ込められてるのは嫌なのよっ!」
「果たして、話を聞いたあとでも、そんなことを言っていられるかしら――」
カサンドラは、何か含むような話し方をすると、私から目を離し、机の上のマイクに向かって「入ってもらって」と短く言った。
すると、彼女達の後ろにあるドアが開いて、誰かが入ってくる。
それは、全身黒ずくめの男だった。特殊部隊のような黒いコンバットスーツらしきものを着ており、どこにも素肌は見えなかった。頭には黒色のヘルメットを被り、同じく黒いバイザーが下がっているため、その表情は窺えない。
黒い男は、一台の車椅子を押していた。そこに座っているのは、上等そうなスーツを着る小柄な人物。
その姿を目にした瞬間、私の全神経はアラートを発し、全身が総毛立った。
その人物の右足は、膝から下が無かった。車椅子に乗っているのだ。それだけならば、何もおかしいことは無い。
だが、その人物の顔は、およそ人間のものとは思えなかった。頭蓋骨に灰褐色の皮膚を貼り付けただけのようにも見える顔面には無数の皺が刻まれ、頭部には僅かな毛髪しか残っていない。
更に、右の眼窩には空洞だけがあり、残された左の眼球は艶も無く、鼠色にくすんでいる。
そして極めつけは、右側頭部が大きく削がれており、かつては脳であったと思われる灰色の組織が、そこに覗いていた。
間違いない。ゾンビだ。でも、なぜ、こんな所に。まさか、そこに来るまでの僅かな間に、付き添いの男が気付かぬまま転化したのだろうか。
「逃げてっ! ロイッ! カサンドラさんを連れて、はやくっ!!」
透明な壁越しに、私は叫ぶことしかできなかった。
未来に落ちてきて、初めてできた知人達に向かって。