第10話 菩提寺
茜空を背にする山の姿を頼りにして、道なき道を彷徨うこと十数分。
既に鐘の音は途絶えていたものの、ようやく私は見覚えのある石段の上り口に辿り着いた。
幼い頃には、途方もない長さの石段に思えていたが、数百年ぶりに見たそれは、たかだか十五メートル程度のものだった。
とは言え、防護服を着た身にとっては非常に上り辛くて、とても長い。
「この石段、かなり綺麗に整備されているな。雑草も生えていないぞ。どうやら、誰かが手入れしているようだな」
境内へ続く石段を見つけたことに浮かれていたのか、ヘンリーのその言葉を聞いて、初めてその事実に私は気付いた。
本当だ。誰かが草を引き、落ち葉を掃かない限り、この石段がこれほど綺麗な訳がない。
だが、誰が。
やはり、住職が寺にいるのだろうか。そして、日々鐘を撞き、石段や境内を清め、経を上げているのだろうか。
子供の頃、その石段の数から、別名「九十九寺」とも称されていたこの寺の境内で集落の友人達と遊んでいると、お菓子を手にした住職に本堂へとよく誘い込まれたものだ。
そして、「人は生きている限り、悟りへの道を歩み続ける」だの、「存在しない百段目は空であり、悟りの境地を迎えて初めて超えられるのだ」だのと、石段の数の由来と併せて教えを説かれ、般若心経を聞かされた。
幼い私にとっては、そんな教えなどどうでも良く、ショートケーキや桜餅といった美味しい菓子の対価として大人しく聞いていただけだったが、宇宙飛行士への道を歩み始めてからというもの、住職の言葉が常に頭を過ぎるようになった。
そして、宇宙ステーションに着任した際、住職の説法が初めて根底から理解できたような気がしたのだ。
宇宙ステーションを構成するモジュールや太陽電池パネル、通信設備に生命維持設備など無数の部品や装置類。
そして、それぞれの部品も小さな電子部品や細かい配線によって成り立っており、更にそれらも多くの人々の工夫やひらめきによって考案された設計思想に基づき、発電システムから生み出された電力を用いて、様々な素材から造り出されている。
つまり、「宇宙ステーション」なる実体は、「縁」という関係性の中で仮に名付けられているだけであり、独立して存在しているわけではないのだ。
それは、ステーションクルーにおいても同様だ。
宇宙飛行士は個人の存在ではなく、厳しい訓練の教官や関係者、地上管制チームや技術スタッフに家族や友人。そして、食料や機器類の製造に関与した多くの人々という無数の支えによって、はじめて宇宙で活動できる。
全ては自分ひとりの力で存在するのではなく、無数の縁によって成り立っており、固定的な日常などは存在せず、全ては流動的な関係性の中での行いに過ぎないのだ。
そして、目前に浮かぶ青い惑星には国境も戦場も見えず、自己と他者、国と国といった境界などというものは、本来存在などしないのだ。
色即是空 空即是色
私は決して、敬虔な仏教徒ではない。実家が檀家というだけの、なんちゃって信徒だ。
だから、悟りだの涅槃だのと言われても、とんと理解できないし、分かりたくも思わない。
しかし、住職の言っていた「空」という概念だけは、理解できたような気がするのだ。実際のところは、大きな勘違いに過ぎないかも知れないが。
ようやく九十九段目に足を掛けると、古びた山門がそこにあった。
そして、その向こうには砂利敷きの境内が広がり、奥には荘厳な本堂が、あの頃のままの姿で建っている。
長い石段に少しばかり息を上げながら、信じられない気持ちで私はそこに立ち止まった。
数百年前と全く変わらない寺の姿。地蔵までもが風化するほどの永い時を、どうして崩れることもなく建ち続けていられたのだろうか。
今は手入れをする者がいるかも知れないが、ゾンビ禍以降の三百年近い永き時を風雪に晒していたにもかかわらず、ここまで完全な形で木造建築物が残るものなのだろうか。
広い境内には、誰の姿も見えなかった。聞こえてくるのは木々のざわめきと、本堂から聞こえてくる微かな読経の声だけだ。
おそらくその声の主は住職だろう。そして彼は、家族の辿った運命を知っているに違いない。
私は深呼吸すると軽く一礼して、門を潜った。私を真似て頭を下げたヘンリーも、私のあとを着いてくる。
読経が厳かに響くなか、凜とした空気に満ちた境内を、私達は本堂に向けて静かに歩む。
そして、脱げない防護服の靴の上から新しいシューズカバーを履いて、本堂の縁側に上がった。もちろんヘンリーには靴を脱がせ、式台の隅に揃えさせる。
そのまま私は、少しばかり開いた扉の戸口にそっと立つと、小さく手を合わせながら静かに声を掛けた。
「ご住職、失礼します。少しお話を伺えますか」
木の床と柱が油煙に黒光りし、線香の香りが満ちている本堂の経机の前で一人の僧侶が経を読んでいたが、私の声に経を納めた彼は数珠を経机に置いて静かに立ち上がり、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
静寂が戻った本堂に、ただ衣擦れの音だけが耳に届く。
「ようおいでくださいました。ちょうど読経の最中でしてね、大変失礼いたしました」
すぐ側にやって来た僧侶は手を合わせて緩やかに頭を下げると、本堂の奥へ入るようにと私達を招いた。
だが私は一礼することもなく、フェイスシールドの内側から、彼の顔を食い入るように見つめることしかできなかった。
「佳佑さん――」
年上の幼馴染み。初恋の相手。そして、姉の夫。
法衣の上から絡子を掛けたその僧侶は、私の義理の兄だった。