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第1話 五百年後の目覚め

 まだ五十歩も歩いていないというのに、もう全身が悲鳴を上げている。気管からは、木枯らしに吹かれた電線のような音が鳴り響き、足は主要な筋肉はもちろんのこと、土踏まずや指一本に至るまで硬直し、これ以上の伸縮を拒否する意思を表明していた。

 

 私はついに音を上げて、草むらに頭から倒れ込んだ。(うつぶ)せで倒れたため、胸が圧迫されて苦しい。窒息の恐怖から逃れるため、脳からの命令を拒絶する全身の筋肉に最後の通達を送りつけ、なんとか仰向けに姿勢を変える。するとようやく、少しばかり楽になった。

 

 そのまま眼前に広がる青空を見つめる。数ヶ月ぶり、いや数百年ぶりの懐かしい景色。天高くたなびく鰯雲が目に入る。体の周囲にそそり立つ草は、おそらくススキだろう。

 歩いてきた方向を見やると、かき分けられたススキの隙間から、紅く色付いた広葉樹の林が広がって見える。

 どうやら季節は秋。ここは四季が存在する緯度にあるらしい。


 私は風にそよぐ草の音を聞きながら、脱出モジュール内に表示されていた今日の日付をあらためて思い返した。2596年11月28日月曜日。あれから五百年以上も経っているというのか。

 私の感覚では、五百年もの昔と言えば戦国時代だ。

 そう言えば、最近目にしたニュースでは、五百年という節目を迎えた信長公忌(のぶながこうき)が京都の本能寺で催されるようなことを言っていた。そう考えると、五百年後だというこの世界はどうなっているのだろう。


 科学技術は、凄まじい進歩を遂げているのだろうか? 想像さえつかない爛熟した文化が、私を待っているのだろうか?

 いや、そんなはずはない。脱出モジュールで地球へ降下してきた時点で、そんなものは幻想に過ぎないということが証明されたようなものなのだから。




 2082年6月4日。その日、世界は突如として地獄と化した。死者が生者を無惨に屠り、死した屍が蘇る。それは再び生者を襲い、その肉と腑を食らう。そして、その繰り返し。


 古くから、映画や小説の一大ジャンルを築いていた所謂(いわゆる)“ゾンビ”禍が、現実のものとなったのだ。

 何が始まりで、どんな経緯で、今がどういう状況なのか、私は知らない。

 なぜなら、災いの発生前から今日までの間、私は地球にいなかったのだから。


 あの日の朝、ウェイクアップコールが宇宙ステーション内に流れることはなかった。地上管制との通信リンクが全面的にトラブルを起こしているようで、目覚まし替わりに流れるはずだったリクエスト曲を楽しみにしていた仲間のウェインは残念がることもなく、貴重な経験だと笑っていた。


 しかし、その後も地上管制との通信は回復しなかった。宇宙ステーション側の機器に異常が無いことは既に何度も確認済みだったので、私達はただ待つことしかできなかった。

 そして、ようやく通信が回復したのは、それから二時間後のことだった。


 地上管制のモニターに、顔なじみのキースが現れたが、何故か彼の白いシャツには一面に赤い飛沫がついていた。

 そして彼の口から、その、おなじみで有りながらも、絶対に起こり得ないはずの災いの発生を聞くこととなったのだ。

 私達クルーは、一斉に噴きだした。あのクソ真面目なキース・リヴィングストンが、良くもこんなにふざけたジョークを言ったものだと。


 その後、地上管制経由で配信された報道番組をみても、キースと結託したスタッフのいたずらだと笑っていたが、いつの間にかキースはどこかへ行ってしまい、再びモニターに現れることはなかった。

 そしてその後、地上管制と連絡がつくことはなかった。

 趣向を凝らしたジョークニュースの配信もいつの間にか途絶え、地上管制以外の関連施設や機関とも連絡が取れず、原因も分からないまま、宇宙ステーションは完全に孤立した。


 その二日後、南アフリカのアマチュア無線家と通信が繋がった。

 このネット時代に、未だにアマチュア無線を趣味としているという彼の話によれば、世界中が等しく屍の災いに曝され、既にほとんどの政府が機能していないという。そして、軍は戦わずして壊滅し、今や世界は屍が歩く地獄だということだった。

 キースは最期まで、間違いなくクソ真面目だったのだ。


 その数時間後、彼とも連絡が取れなくなった。以降、地上とは一切連絡が取れず、眼下の青く美しい星の様子は全く分からなかった。

 一度だけ、中国の月面基地と連絡が取れたが、すぐに音信は途絶えた。それが彼らの意思によるものなのか、それともそうではないのか、私達には知る由もなかった。


 それから、二ヶ月の時が過ぎた。天空から見る地上は、相も変わらず青い大海原が鮮やかだ。だが夜の面ともなれば、そこには闇しか見えなかった。

 時が経つにつれ、災いとは無縁に思えた宇宙ステーションにも、死の恐怖は忍び寄ってきた。

 水と酸素には困らないものの、次第に食料の在庫不足が深刻になってくる。


 私達クルーを災いから護ってくれた堅牢な城郭は、今や巨大な棺桶と化しつつあった。

 自分たちの生命に差し迫る危機を実感したとき、ついに私達は決断した。

 宇宙ステーションの実験モジュールに設置された、冷凍睡眠モジュールの使用を。

 

 大気圏突入型脱出モジュール兼用の冷凍睡眠モジュールは、将来の惑星間航行用宇宙船において発生した致命的な事故の際、宇宙船から脱出して地球へ帰還する事を目的としたものだ。

 そのシステム開発の一環として今後行われる実験に使用するための、五つの装置。


 私達四人のクルーは、宇宙ステーションの制御AIに軌道維持制御を指示するとともに、地上への救難信号を発信し続けるよう、併せて命じた。

 そして、成功するとは限らない冷凍睡眠に掛けることにして、各々眠りに就いたのだ。


 私が今、秋のさわやかな風を顔に受けているということは、宇宙には誰も助けに来ることもなく、ただただ長い年月が過ぎたことを意味している。

 本来ならば、まだまだこの先も宇宙で眠っていたはずのところ、何かの原因で軌道維持ができないなどのトラブルが発生したのだろう。

 脱出モジュールとしての機能に問題が無いことを、冷凍睡眠実験装置は証明してくれたようだ。

 私が何事も無く地上に降りてこられたのだから、他の三名もおそらく無事だろう。

 彼らは今、どこに居るのだろうか。


 さて、このままこうしていても仕方が無い。

 雲に映える日差しが赤くなりつつあるところを見ると、間もなく日没の時間なのだろう。

 早く仲間たちと合流しなければ。

 いや。それよりも、まずはどこか落ち着ける場所を探さねば。

 もしも人間が生き残っているのならば、その街を探さねば。

 あるいは、既に人類が滅び、死者だけの世界となっているのならば、すぐにでも身を隠さねば。


 しかし何より、当面の課題は食料と水の確保だ。脱出モジュールには、飲料水と携行食糧を入れておくべきだ。例え実験機材であったとしても。

 もしも実験スタッフに会うことができるのなら、そう伝えたくて仕方が無かった。


 なんとか、体を起こすことに成功し、再びススキ野原を歩き出す。

 体が重くて仕方が無い。腕に触れると枯れ枝のように細くなっていた。当然、足も同様だろう。

 しかし、ブカブカで不格好な冷凍スーツの上からは、足の様子がよく分からない。触って確かめてもいいが、歩く気力を失いそうなのでやめた。

 とりあえず、百メートルばかり前方に見える大木の根元へ辿り着こう。雨が降っても大丈夫なように。

 再び言うことを聞きたくないと駄々をこね始めた両足を引きずりながら、私は歩を進める。


 その時突然、すぐ右後ろに何者かの気配を感じた。ゼイゼイという息も聞こえる。

 もしかして仲間の誰かもこの近くに降りたのだろうか。

 期待を込めた目をそちらに向けると、私はようやく対面することができた。

 災いそのものに。


 男、あるいは女だろうか。その何かは、辛うじて人間の姿をしていた。

 着衣を纏わない全身の皮膚は薄汚れた灰色で、象の皮のように皺だらけだ。

 その左大腿部の肉は裂けているものの、肉色の赤味はどこにもない。とはいえ腐敗しているわけでもなく、硬い角質のように見えた。

 その裂け目からは、象牙色の大腿骨が覗いている。その下の両膝は骨折しているのだろうか、一部の骨が皮膚の外に突出しており、非常に不安定な歩き方だ。

 眼球は両目とも抜け落ちており、前方に頼りなく突き出された両腕は、いずれも前腕が折れ曲がっていた。


 およそ生物とは思えない不気味な存在。

 それが、迷うことなく私の方へ向かってくる。

 筋肉の伸縮性など微塵も見られない、醜悪に干からびた顔面であるにもかかわらず、何かを咀嚼するかのように顎を動かし続けるその生物、いや死物は、間違いなく私を追ってきている。


 眼球もないのに。内耳組織も崩壊しているはずなのに、どうやって私の場所が分かるのだろうか。

 幸運なことに、そいつの動きは決して速くはなかった。

 しかし不幸なことに、無重力と冷凍処理で衰えきった私の体は、それにもまして遅い動きだった。


 悔しかった。情けなかった。悲しかった。

 地球に帰還してすぐに、終わりを迎えるなんて。これじゃあ、凍てついた宇宙空間で五百年近く生きながらえてきた意味が無いじゃない!

 あまりの理不尽さに、突然涙が溢れてくる。止まれ、涙よ! 止まるのよ!! 水分が勿体ないじゃないの!!


 そのとき、涙で滲む前方の大木周辺に複数の光点が現れたかと思うと、私の周辺が真っ白に明るくなった。


『救助に来た! そこは非常に危険だ! 早くこちらへ来い!』


 救助! その言葉をどれだけ待ち望んだことか。

 やはり人類は滅んではいなかった。組織的に死者に抵抗し、文明を維持してきたのだ。

 早く、私も彼らのもとへ行かなければ――。


『生者はそのまま、こちらに来い! モルデグラは、そこで止まれ! 止まらねば発砲する!!』


 な、何言ってんの? ゾンビに向かって命令なんかしてどうすんのよ! 

 そう思ったとき、突然左側から黒い人影が飛び出してきて、私のすぐ後ろに追いついてきていたゾンビに飛びかかった。

 私は、思わず歩みを止めて振り返る。

 するとそこでは、全身黒ずくめの服と黒いヘルメットに黒いバイザーをつけた人物が、ゾンビを組み伏せていた。その背中には「POLICE」とある。彼は私を振り向いて「早く逃げろ」と怒鳴った。


 その時、ゾンビが暴れ出し、彼の右腕に制服の上から思い切り噛み付いた。

 恐ろしさに足が(すく)む私に、彼は再び「いいから早く逃げろ」と大声を上げる。

 その彼の頭にゾンビが大きく振り回す枯れ枝のような腕が当たって、バイザーが跳ね上がった。


 私はそこに見た。土気色の皮膚。眼窩に深く落ち窪み濁った目。逃げろと叫ぶ口は防毒マスクに隠れて見えないが、そのかわりに頬の肉が剥がれかけて揺らめいているのが目に入る。

 まだ、噛まれてから十秒も経っていないのに。ゾンビへの転化とはこんなにも早いものなのか。


 呆けたように立ち止まる私に、最期の力を振り絞るように、再び警官は「逃げろ」と叫ぶ。


「ごめんなさい」


 何とか気を取り直した私はそう言い残し、再び大木へ向かって足を踏み出した。

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