第6話
翌朝、身支度を簡単に整えたセラは集合場所の広場に向かって走っていた。太陽の位置から察するに、日の出を知らせる最初の鐘が鳴ってからそれなりに経っているはずだ。間違いなく寝坊した。神比べには間に合うだろうが、このままでは偏屈爺──もとい、テムロスに何を言われるか分かったものではない。
よく焼けたパンの香りに誘惑されつつ、朝食で賑わう酒場通りを抜けて女神像のある中央広場へ。広場を陣取る噴水の縁では、動物達が水を飲みながらおしゃべりしているのが見てとれた。隣では人々が世間話をしている。
通りがかりに聞いた内容によれば、話題はツェダリアの王女ソシア姫についてのようだ。国王夫妻の一人娘である彼女は、王国のしきたりによって諸国漫遊の旅に出ていると、アルダード達から聞いていた。
両親の死後、王位継承の為に帰国すると考えられていた王女は、ついぞ葬式に顔を出すことは無かった。騎士団や国の重鎮からの発表はひと月過ぎた今も無く、人々がその身を案じているところだった。件の井戸端会議もそういったもののようだ。セラも以前、マルタにそれとなく聞いてみたが、小さな獣は少しの沈黙の後、鼻先を左右に振るばかりだった。
あの否定の意味は敵将に言える情報は無いという意味なのか、本当に知らないだけなのかは分からない。しかし、どことなく寂しそうな顔をするマルタを見て、それ以上深く聞こうとは思わなかった。
旅商人が露店を広げる通りを抜ければ、目的の『夏の王の広場』だ。
君主を四季で捉えるツェダリアにとって、夏は武功を司るという。夏の王に率いられる兵は負けを知ることはなく、士官学校にも猛き若人が集う。勢いづいた国に当てられて民も仕事に精を出すので、街の様子は活気に満ち溢れていた。そんな風に当時の若人と若ハリネズミこと、アルダードとマルタが言っていた。
言い伝えにあやかろうと、勝負事は夏の王の広場で行われることが多く、神比べもその中の一つに当たるそうだ。
家々の間を抜けて、右手にゴシキの御山を望む開けた場所に出る。広場の奥には、山頂で眠るヌシに背を向けた男性の石像が聳えていた。右の手のひらを天に向け、左腕には三本足の梟が止まっている。
石像は水路で区切られた楕円型の土地に鎮座しており、催し物をするにはちょうど良さそうだとセラはひとり納得する。
石像の正面には頭を兜で覆った銀鎧の騎士が一人、その左側にも同じ鎧姿の騎士が立っていた。左の騎士の足元に雪のように白い狼が寝そべっていて、呑気に欠伸をしている。どうやらルクセオとルーフェンはすっかり準備万端らしい。
広場側の水路には丈夫そうな板が一つ橋代わりに立て掛けてあり、一本の道が伸びていた。道の両翼に広がるように、丸太をくり抜いたベンチが列を成し、そのうちの一つに気難しそうな老人の背中を見つける。
テムロスは小ぶりのパンを咥え、つまらなさそうに旅報を読んでいた。表紙には旅鳥新聞と記載されている。昨日見た覚えが無いデザインなので、出たばかりのものらしい。アルダードとマルタ、女神の姿はなかった。
「アタシが最後かと思ったんだけど、爺さんだけかい?」
セラは一声掛けてテムロスの隣に座った。
「朝の挨拶も真っ当に出来ぬのか。奴等なら試合前の腕鳴らしに出かけたぞ。女神の方はその前から歩き回っていたようだが」
テムロスの最初の一声は小言だった。普段のセラなら言い返すところだが、寝坊した落ち目もあるので今日は大人しく従うことにした。
「……おはよう。武器とかはどうしたんだい?」
「良く寝たようで何よりだ。寝坊助。何でも、神比べ用に貸し出す木剣があるそうだ。殺生防止に他の武具の使用は認められていないらしい」
「ああ、そう」
テムロスの達者な口ぶりに呆れていると、広場の売り子がミルク瓶とパン籠を持って近寄ってきた。テムロスと同じパンを二つとミルク瓶を受け取り、銅貨を十枚ほど握らせる。ツェダリアのパンはやや高いが、香り高いトラドナ小麦の生産地だけあってどれも美味い。秋空に晒されていたとは思えないほど湯気の立つふかふかのパンにかぶりつき、ミルクと共に飲み干すことの贅沢たるや。
マルタとアルダードが戻ってきたのは二つ目のパンに手をかけた時だった。
「疲れた……アルと女神様がずっと打ち合ってるから、ボクもうくたくただよ……」
セラの肩に飛び移り、パンを少し分けて欲しいとせがむマルタ。指先ほどの欠片をマルタに渡す。
「マルタ殿にはすまないことをした。ツェダリア流の剣術を軽く見てもらうだけのつもりが、思いの外楽しくなってしまってな。噂に違わず女神様は筋がいい」
むくれるマルタの横にアルダードが腰を下ろした。
「件の女神が見当たらないようだが」
テムロスが辺りを一瞥する。セラも後ろを振り返ってみたが、あの印象的な黒髪は見当たらない。清流のように流れる長髪を思い出し、癖毛を短く揃えて誤魔化す自分との違いに羨ましくなる。
「もう少し体を動かしてから来るって。神比べはこれからだっていうのに元気だよね……」
「試合前に宣誓があるから早めに来た方が良いとは伝えていたのだが……おっと、間に合ったようだな」
直後にセラの耳飾りが揺れた。舞台に向かう通りを駆け抜けた女神は、水路の前で速度を落とし、橋代わりの板を軽く飛び越えてみせた。寝そべっていたルーフェンが驚いて立ち上がり、ルクセオは軽く拍手をしながら女神を開始位置に誘導する。両者が定位置に着いたところで、中央に立っていた騎士が合図の代わりに咳払いをした。
「これより神比べの儀を執り行う!」
審判を務めると名乗った騎士は、続けて試合の決着条件と禁止事項を誦じる。
武器を落とすか手足以外の部位に当てられた方が負け。獣の参戦は一匹まで認められているが、獣による流血沙汰は禁止。人間側も武器以外での攻撃や、過度な暴力と判断された場合も失格らしい。加えて、舞台から外れて水路に落ちる、降参の宣言などでも試合の終了条件を満たす。とのこと。
「随分安全重視なんだね。そんなんで盛り上がるのかい?」
「元々、武雄祭の催しだったらしいよ。お祭りで死人が出たら面白くないでしょ?」
「そういうもんかねぇ…」
クロノメイアで囚人剣闘士の試合を見慣れたセラには分からない感覚だ。
「昨日も思っていたが、獣の参戦も認められているのだな。女神が数的に不利ではないか」
審判の説明を熱心に聞いていたテムロスが呟いた。
「ツェダリアにおいて人と獣は文字通り一心同体なのだから当然だろう。それに、おいそれとハーレイを渡す訳にもいかないのでな。ヌシ様からも『本物の女神であればそれでも負けないだろう』と太鼓判を押されている。とはいえ、神比べの決まり事は全て獣にも適用されるからな。ルーフェン殿を狙う輩も多いぞ」
「ああ、武器当てたら勝ちってところか」
「そういうこと。逆にボクらは武器を持てないから、半端な獣だと弱点が増えるだけなんだよね」
「その話は女神にしたのか」
「うむ。今話している決まりは全て伝えてある」
長い説明が終わり、審判はそれらを遵守するかの確認を取る。
「以上の決まりを守り、武雄パリムに恥じぬ戦いを納めると誓いますか?」
「誓いましょう」
「当然」
ルクセオとルーフェンが口々に肯定する。声の出ない女神は大きく一つ頷いた。後ろ姿からは表情が読めなかった。
「試合は二番目の鐘から三番目の鐘まで。それでは両者、位置について」
綺麗なお辞儀を見せたルクセオは、ゆっくりと木剣を構え、強く握り直した。女神は二度ほどその場で飛び跳ねた後、胸を膨らませて大きく息を吐いた。
審判が離れてすぐのこと。がらんがらんと鐘は鳴った。白亜の鐘楼が街を揺らす中、舞台の上だけが静まり返る。
二人の剣士は攻め時を測って睨み合っていた。左手に立つルクセオは平均的な大きさの木剣を両手に中段で構え、美しい姿勢を保っていた。夏の戦で散々同じ構えを見てきたセラは、盾を持たないツェダリア騎士の模範的な構えなのだろうと納得する。
対する女神は細剣と見まごう軽量の木剣を右手で握り、剣先を地面に向けている。普段の立ち姿と大差ない姿勢だった。
ルーフェンがルクセオの右前に立ち、じりじりと女神の背後に立とうと移動する。距離を取るように女神が反対側に回り込み、全体が右回りに半周した頃、ついに女神が地面を蹴り出した。水平に振り上げた鈍い刃で脇腹を狙う。ルクセオがそれを悠々と受け止めると、強い衝撃音が辺りに響いた。柔らかい剣筋に見えたが、それなりに威力があったようだ。
反動を利用して間合いをとった女神が再度突進する。
しばらく激しい打ち合いが続いた。ルクセオが女神の剣を弾き返し、女神がルクセオの剣を危なげなく受け流す。剣舞のような小気味良いリズムを刻んでいるうちに女神が大きく飛び退き、もう一度ルクセオの懐を目掛けて駆けていく。
ルクセオが軽く振った一撃を、女神は全身を捻って避けた。長い黒髪が踊り、足元のルーフェンは毛先が顔に当たるのを嫌がるように距離を取った。
姿勢を戻した女神が剣を振り抜こうと持ち直す。今度は打ち合いが始まる前に、女神が横方向へと飛び退いた。入れ替わるようにして牙を剥き出しにしたルーフェンが突っ込んでくる。セラがよく気がついたと感心していると、間髪入れずにルクセオの剣が女神の頭上を掠めた。
しゃがんだ女神はそのままルクセオの脇へ転がり込み、騎士達の包囲をどうにか抜け出した。
振り返ればルクセオの背中が見えるだろうが、女神の体勢も良くはない。ここはもう一度間合いをとって攻めかかるところだろう。などとセラが予想していたところ、女神が振り向きざまに横向き一閃。木剣は脇腹に当たるかと思われたが、ルクセオの剣がどうにか防いでいた。その顔から初めて余裕が消える。
「ルクセオ!」
突然のことにバランスを崩した相棒を見て、ルーフェンがすかさず女神への体当たりでフォローに入る。打ち合った反動を利用して追撃を、と構えていた女神は後退を余儀なくされた。
「すまないルーフェン。油断していたようだ」
「オレも細っこいからって舐めてた。お互い様だ」
気合いを入れ直した狼と騎士だが、飛び込んできた女神の猛攻は尚も続く。
「今は、女神の方が優勢と捉えて良いのか」
開始早々、近接戦闘は分からない、と愚痴を溢していたテムロスが呟いた。若干ではあるが、セラの目から見ても有利に見える。
「ちょっとずつ女神様の剣が速くなってるね。ボクも目で追うのが辛くなってきたよ……」
マルタがアルダードの肩で両目を擦っている。
「この分だと決着にもう暫くかかりそうだな。先に息切れを起こした方の負けとなりそうだ」
「こんなに激しく動いて戦って立ってるなんて、ルクセオも女神様も本当にヒトなのか疑っちゃうね……」
開始から見て太陽の高さは随分と上がっていた。緊張状態での観戦で固まった体をほぐそうと、セラはもぞもぞと背筋を伸ばした。
教会の鐘は一日に五回鳴ると決まっている。最初と最後の鐘が日の出と日の入りを知らせ、三つ目は太陽が最も高い時、二つ目と四つ目がそれぞれのちょうど間に鳴る決まりだ。現在の太陽の位置は中天に近く、セラも普段なら昼食のメニューについて考えながら街をぶらついているところだ。
気づけば広場は随分と賑わっていた。ぽつぽつと埋まっていたベンチは空席を見つける方が難しくなり、立ち見の観客がヤジを飛ばしている。
広場を見回している間にも観客は増えていき、誰もがルクセオの相手を見て女神の名前を口にした。
「やっぱり、みんな似てると思うんだね」
セラと同じように辺りを見回していたマルタが呟いた。
「無理もない。今の小娘は髪も目も伝承の女神スノアそのものだ。目の色が変わるのは運動量……いや、他の要因か」
よくよく観察しようとテムロスの視線がより険しくなる。釣られてセラが舞台に目を向けると、お互い距離を取って息を整えているところだった。口角を上げて楽しそうに戦う女神の赤目は、いつの間にか明るい色に変わっていた。
ルクセオの右側に控えていたルーフェンが前足を出したのを見て、女神が何度目かの攻勢に出た。防御の構えを取っていたルクセオの目の前で両膝を曲げ、そのまま高く跳躍する。
意表を突かれて固まっているルクセオの頭上を通り過ぎ、女神はルクセオの背中側に着地した。彼女の視線はルクセオの首を捉えて離さない。後ろから刃を入れる算段のようだ。セラは模擬戦とは思えない強い殺気に身震いする。
「させるかっ!」
女神が突きに勢いをつけようと右腕を引く。いち早く動いたのはルーフェンだった。雪のように白い狼はひとっ飛びで女神の懐に飛び込み、相棒を狙う右腕に噛みついた。
「駄目だ、よせ! ルーフェン!」
獣による流血沙汰は失格とみなす。
審判の宣誓がセラの脳裏をよぎった。刀護の二人が散々遵守してきた決まりのはずだが、ルクセオの制止は間に合わない。女神の袖が赤く染まり、雫がルーフェンの白い毛を染めながら滴り落ちる。
血を見慣れていない娘達から悲鳴が上がり、広場中がどよめいた。
誰もが動揺する事態の中、女神だけは勝負の目的を見失わなかった。振り返ろうとしたルクセオの視界の端で素早く影が過ぎ去り、女神の方を向いた頃には彼の首筋に木剣が当てられていた。剣を辿れば女神の左腕が突き出されている。いつの間に持ち替えたのだろうか。
三番目の鐘が鳴ったのはその時だった。