第4話
ユピテスでは死後、魂になって楽園を目指す旅に出ると言われている。魂の行方は女神によって見守られ、正しき旅路へ導かれるという。
旅程は生前の行いによって一人一人異なり、善行を積めばそれだけ幸多きものに、悪行を重ねればそれだけ苦しいものになる。
というのが、ユピテスで最も信者が多い女神教会の教えであった。
女神の名が世界中に知れている理由は他にもある。かの神は誰もが知るおとぎ話の主人公でもあった。
はるか昔、パルネの地──今で言うツェダリアに降り立った女神は世界を巡る旅に出た。
当時のユピテスは今以上に異界ヘリヤからの侵攻が盛んで、行く先々で遺体の転がる廃村を目にするような状態だったという。
星の状況を知った女神は、旅の途中で出会った四人の若者と共に魔物への対処に当たることにした。
ある時は蔓延る魔物とその首領たる悪魔を退け、またある時は人と友好的な魔物──魔族との間を取り持ったという。最終的に異界ヘリヤでユピテスへの侵攻を指揮していた存在を討伐することで彼女の旅は終わり、力を使い果たした女神は神の住む世界に戻った後、休息を取りながらユピテスを見守っているという。
ユピテス各地には今もヘリヤへと繋がる扉のような穴から魔物が出てくるが、腕に覚えのある旅人であれば十分に追い返せる程度なのは女神のおかげなのだという。
旅に同行した四人の若者はその後、それぞれの得意分野を活かしてユピテスを豊かにし、天寿を全うしたという。彼らも英雄として人々の信仰の対象になっていき、それぞれ技雄・武雄・幸雄・海雄として慕われている。
これらの話は旅人の口伝や詩人の歌、数々の文献といった形で残っている。加えて、ヘリヤからやってきた魔族の語りや各地に残る女神と英雄を象った石像、果ては女神一行が旅の途中で訪れた国々の遺跡などが、物語に真実味を持たせていた。
「そんな高名な女神サマがこの子だって? 何回聞いても信じられないね」
御山を降りたセラ達は、ネリエンスの大衆食堂で食事をとっていた。テーブルの上には適当に注文した大皿の料理がいくつか並び、セラとテムロスの席の前では林檎酒のグラスが爽やかな音を立てていた。配膳された時に林檎と聞いてか、マルタが羨ましそうに見つめている。
件の女神はというと、大皿に乗った野菜炒めや干し肉の和え物を自分の皿に取り分けては、顔を綻ばせて味わっていた。量はそれほど多くないものの、皿に盛ってから平らげるまでのペースが異様に早い。両手で握っていた丸パンがいつの間にか消え、女神の両頬は限界まで膨れ上がっていた。
「良く食う小娘だな。忙しない」
テムロスが呆れたように林檎酒に口をつける。舌の上で炭酸が弾けたらしく、眉間の皺がわずかに深くなる。小食なのか、取り皿にはチーズと味付きジャーキーが少しだけ乗っていた。
「テムロス殿は手厳しいな。女神様に喜んでもらえたとなれば、ツェダリアの民としてこれ以上の誉はあるまいに」
対して、アルダードは嬉しそうに女神を見つめている。無精髭をミルクに浸しながら、あれもこれもと料理を女神に勧めていた。
「ヌシサマの言ったこととはいえ、アルダードは少し信用しすぎじゃないかい?」
「詐欺師にとっては有難い魚であろうな。よく素寒貧にならずに済んでいるものだ」
セラとテムロスは御山のヌシの話をどうにも信用しきれず、遠慮することもなく女神の様子を観察していた。当人は気にする素振りもなく、時折目が合うとにっこりと微笑んでくる。
「たしかに自分は騙されやすい性分だが、ヌシ様のことを疑われるのは心外だな。我らがツェダリアは、ヌシ様のお陰でこうして栄えているのだから」
隣でマルタがため息を吐く。
「ヌシ様がウソをつかないっていうのは同意するけど、アルはこの前23回目の詐欺に遭いかけたところだよ。いい骨董品だからって言って、ただの壺を押し付けてくるやつ。誰が防いでると思ってるのさ」
「……苦労しているのだな」
テムロスが手元のチーズを差し出すと、マルタは首を横に振って断った。セラが嫌いなのかと尋ねると、夜は控えているのだと返ってきた。
マルタの苦労話を聞いているうちに女神はグラスのフルーツジュースを飲み干し、両手を合わせて口を開いた。音にならなかったものの「ごちそうさまでした」と呟いたのは、読唇術の心得がないセラにもそれとなく読めた。はっとした女神は恥ずかしそうに口を塞ぐ。
「気持ちは伝わってるから大丈夫だよ。それにしても、聖堂の地下かぁ……」
女神の隣でマルタが呟いた。握りしめている一口大に切り分けられたバースの実には、可愛らしい歯形がいくつも付いていた。
御山から降りる前。女神の名を聞いた一行が唖然としていると、御山のヌシが一つ唸った。
『……ふむ。君達の話から女神というのは彼女のことかと思っていたが、もしや何か違ったかい?』
「違うどころか、見た目だけに関して言えば麓の女神像そのまんま。目と髪の色も聞いてる描写そっくりだよ」
我に帰ったマルタが最初に反応する。
「目の色はちょっと暗い気もするけどね。紅玉にしちゃあ輝きが足りないというか」
そう言いつつ、セラは女神の姿を目の端で捉えた。彼女は落ち着きなく辺りを見回し、まるで何かを探しているようだった。瞳の色は宝石のような鮮やかな赤というより、煮詰めた赤ワインの方が近いのではないだろうか。テムロスのギルドカフを眺めていた時は見間違えたのだろうと、セラは納得していた。
『それなら思い違いはなさそうだ。彼女のことだから、今のユピテスであれば瞳の色もすぐに戻るだろう。正しく伝わっているようで何よりだ』
「戻る、とな」
『気になるかい? 興味を持ってもらえて何よりだ』
焦らされたと感じたのか、テムロスの目つきが明らかにきつくなる。御山のヌシは対称的に機嫌が良さそうだ。子供自慢をする親のような声音で続ける。
『語るよりも見てもらった方が良いだろうね。1番早いのは体験を語らうような会話なのだが』
「お話かぁ。やっぱり、声が出ないとやりづらいよね」
「……小娘、スノアと言ったな。ひとつ尋ねるが、読み書きの心得はあるか?」
右の拳を口元に当てて思案していたテムロスが、視線を投げて問いかけた。話せないなら書けばいい、ということらしい。
はっとしたように顔を上げた女神は、広場の端に向かっていく。セラが何をするつもりなのかと眺めていると、手頃な大きさの枝を一つ拾って戻ってきた。どうやら地面に書こうということらしい。
陽はとうに沈んでいた。御山のヌシが『そのままでは暗かろう』と呟くと、仄白く輝く月光蝶が寄ってきた。手元が見やすくなった女神は、時々思い出すようにして手を止めつつ、
「白、建物、地下」
「双子、魔女」
と、二つに分けて書き上げた。
続いてそれぞれを丸で囲んだ間に、「会う」と「行く」を掛け合わせたような奇妙な単語を綴ってみせる。セラは生活に困らない程度には読み書きができる方だと自負しているが、見たことがない綴りだった。
「古ライラス語か。神話の時代よりも更に昔という話だったはずだが」
「爺さん、読めるのかい?」
「傭兵風情と比べるでない。などと言いたいところだがな。我も知り合いの考古学者から聞き齧った程度だ。意味するところは皆が迷っているもので相違ない。会うと行く。どちらの意味もあるからな」
「つまり、女神様はこの二つに用事があるってこと? なんだかどっちも曖昧だなぁ……」
そうマルタが呟くと、女神は「白い建物」という部分を筆代わりの枝で示し、続いて御山の麓を指した。枝の先では、街の明かりが暖かく揺らめいていた。
家々の間から飛び出していた大きな鐘が一回鳴った。夜を告げる五番目の鐘だろう。松明の明かりを反射して煌めく鐘は白い建物に吊り下げられていた。
「ネリエンスで白い建物となると、女神教会の聖堂くらいのものだな」
「あ、そっか。普段は地下室に置いてるんだっけ。第二部隊の管轄だから詳しくは知らないけど」
アルダードとマルタが揃って頷いた。セラが詳しく聞こうとしたところで、鋭く息を吐いた音がした。音のした方では、女神が恥ずかしそうに鼻を押さえている。くしゃみをしたらしい。
『御山の夜はいつだって冷えるからね。続きは暖かい食事でも摂りながらするといい。何かあったらまたおいで』
その後、月光蝶の案内で無事に下山し、腹ごしらえにと適当な食堂に入って今に至る。マルタがネリエンスで一番大きな店だと語る店内は、多くの客で賑わい、心地良い喧騒に包まれていた。