第3話
「遅い。小娘の発見が遅れたらどうしてくれる」
セラが御山の山道前に着くと、テムロスが不機嫌そうに待っていた。太陽はほんのりと赤みを帯びている。降りる頃には真っ暗だろう。
クロノメイアの部下達には、来る途中で事情を説明しておいた。荷馬車の準備も問題無さそうに見えたので、あとは子供のように駄々をこねるジルヴァを引きずって帰るだけだろう。女神像の調査団とはネリエンスで別れる予定だったので、本国にいるもう一人の団長ゼクベルに報告を送れば、セラの今回の仕事は終わりになる予定だ。
「爺さんが速すぎるんだよ。あんた本当に年寄りか?」
「その爺に負ける貴様こそ、鍛錬が足りぬのだろう」
「ちょっと、2人とも! 今はケンカしてる場合じゃないよ!」
「些事はよい。しかし間近で見ると迫力のある山だな。小娘を探すあてはあるのか?」
テムロスの小言に食ってかかりたいところだが、後半の言い分にはセラも気になっていた。
ネリエンスの二つの大きな山の間に挟まれた街だった。山の一つはツェダリアの都と城のあるタシキの御山。山一つが完全に拓かれており、山頂の城から広がるようにして王都サロームは形成されている。
現在いるのは反対側のゴシキの御山だ。すらりと高いタシキの御山と異なり、こちらは裾野が広い山のようだ。マルタ達は獣の領域であると言っていたが、旅人が用もなく立ち入る場所ではないとのことで、詳しくは聞いていなかった。何やら重要な場所らしく、麓の監視を行う騎士の数は特に多いように見えた。
「ヌシ様を頼ろうと思う」
近くの騎士と話をつけたアルダードが『来てくれ』と身振りで伝え、三人は山に入った。曲がりくねった山道を何度も横切って獣道を通り抜け、最短距離で突き進む。
遠目から見ていた時は他の野山と変わらないような印象を受けたが、木々の剪定具合や山道の舗装加減を見るに、随分と丁寧に管理されているようだ。動物達はセラ達をそれほど警戒していないらしく、臆病な兎の兄弟や山猫の子供達が戯れる姿を間近で観察できた。
「随分と慣れているもんだ」
「ここはヌシ様のお膝元だからね。何もしなきゃ獰猛なパルネベアーも襲ってこないし、ボクらも人間をあんまり怖がらなくて済むんだ」
獣同士で狩りはするけどね。と、マルタは付け加える。
「その、ヌシ様とやらは?」
テムロスは興味深そうに辺りを見回している。黄色く色付いた桜銀樹の枝ぶりを見れば無理もない。足元は草花で埋め尽くされ、視界の全てが美しい。普段景色など気にも留めないセラでさえ、先の景色に期待を寄せているほどだ。
「ツェダリアの獣達の──いや、二つの御山の主だな。ツェダリアの建国以前からゴシキの御山に住んでいる巨大な猪殿だ」
「つまり、300年は昔か。斯様な獣が存在するとは、俄かには信じられんな」
「自分もあそこまで長く生きる獣はヌシ様しか知らないな。会えば分かるが、穏やかで気の良いお方だ」
アルダードはテムロスの言葉を肯定するように頷く。
話している間も一行は進み続け、ネリエンスの街を一望できるほどの高さまで来ていた。山頂まではあと半分といったところだろうか。
「ボクら獣がこうやってお話しできるのも、人間と契約して命を分かち合えるのも、ぜんぶヌシ様のお陰なんだよ」
ツェダリアの獣と人は、御山のヌシの前で手を取り合うことを誓うことで、命を分かち合うのだという。そのため、マルタのように人と同じだけ生きる獣はツェダリアでは珍しくないそうだ。
「長寿の獣には神秘が宿るというのは真であったか。して、そのヌシが消えた小娘と如何様に関係する?」
「そんなに難しい話じゃないよ。ヌシ様は御山のことは枯草一本でも分かるから、例のお姉さんの居場所も知ってるんじゃないかと思ってさ」
「探すにしても、下から闇雲に探すより上から降りた方が分かりやすいだろう」
聞く限り、マルタ達の言うヌシ様は御山において随分と万能なようだ。夏の戦でクロノメイアが御山の方まで攻め込めていたとしても、神秘の獣が相手では戦上手の傭兵団でも厳しかったはずだ。
「それで、あとどのくらいで着くんだ?」
「もうとっくに見えてるよ」
それだけ言うと、マルタは「ヌシ様!」と呼びかけて藪の中に飛び込んだ。アルダードが藪をかき分けた向こうには、大きな空間が広がっていた。
広場には色とりどりのコスモスが咲き誇り、外周を囲う桜銀樹の黄色い葉が、茜の沈む空に輝いていた。
空気が一段と澄んでいる。砂埃と鉄錆の匂いで育ったセラにはなかなか慣れないものだった。ルアス茸の青白い胞子の光がちらちらと輝く。舞い踊る月光の欠片は、眠りにつく御山を優しく静かに見守るのだろう。
ここでも獣達が寛いでいた。鹿、狸、山猫──先ほど見た子猫の親だろうか。遠くで雪のように白い狐と瑠璃色の小鳥が戯れている。
広場の向こうには、御山の続きが壁のように構えていた。登ってきた道中と同じく、枝ぶりの良い木々と野花が敷き詰められ、白い山道が蛇行している。
『おや、お客人かな』
御山全体を揺るがすような低い声だった。
テムロスの声のように雷雲を呼ぶ轟きではない。深く根ざした大樹のような、力強くも優しい声音だった。
声は広場の向こう、山の続きから響いていた。途端に山道の始まりが浮かび上がる。白い道だと思っていたものは鼻筋の模様だった。姿勢を低くして寛いでいたらしい。
てらてらと輝く湿った木の根が二つに裂かれ、それが瞼だったとようやく気がつく。五人乗りの小舟ほどはありそうな右目が、セラ達を捉えた。
『マルタとその友アルダード。それから──二人のお友達かな。クロノメイアとクランタナの匂いがするね』
山のように巨大な獣は、僅かに浮かせた鼻先をすんすんとひくつかせている。セラとテムロスは想像以上の大きさに、目を見開いて固まったままだった。
「そんなところ。それにしても、ヌシ様が起きてるなんて珍しいね。秋の儀式は終わったんじゃないの?」
マルタは普段と変わらない口調で接している。異様なほど警戒心の高い彼女が心を開いているところから見るに、ずいぶんと気心の知れた仲のようだ。
様子を見ていたセラとテムロスは山のような猪に近づいていき、アルダードと肩に乗ったマルタの隣に立った。
御山のヌシは低い唸り声をあげている。どうやら質問に対して肯定しているらしい。
『君たちの他に、懐かしい子が来ていてね』
巨体の隙間から女性が出てきた。長い黒髪に赤く暗い瞳。間違いなく探していた人物だった。彼女は気まずそうに眉尻を下げ、視線をセラ達から逸らしている。
「お姉さん!」
『やはり、彼女を訪ねて来たのだね。何も言わずに飛び出すのは彼女の悪い癖だが、今回は許してやっておくれ。なにせ声が出ないのだから』
「喉を、やられたのか?」
テムロスが大股に近寄り、女性の喉を確かめる。肩を両手で押さえると、首筋を睨め付けるように観察した。女性はダークレッドの瞳を丸くし、のけぞるように首を後ろに引っ込める。
『あなたの起こした風によるものではないよ。体に異常は無いはずだ』
「生まれつき話せないとか?」
マルタの問いを御山のヌシは優しく否定した。
『いいや。彼女の声は鈴のように転がる可愛らしいものだ。口数は多くなかったが、あの笑い声はよく覚えている』
「じゃあ、なんで話せないの?」
『……そればかりは私にも分からないんだ。こちらに来てから気付いたようだから、想定外の出来事でもあったのだろう。なにせ彼女は……いや、何でもない』
「歯切れが悪いな。何か言いづらいことでも?」
アルダードが珍しそうに尋ねると、御山のヌシは女性をちらりと見た。目の合った女性は一つ瞬いて、静かに首を縦に振った。
御山のヌシは少し考えた後、『そうか』とだけ呟き、神妙な口ぶりで続けた。
『まずは紹介からだね。話せなかったということは、ろくな挨拶もしていないのだろう』
次に御山のヌシが発した名前は、何度もセラ達の頭をよぎり、あり得ないとしていた架空の人物のものだった。
『彼女の名前はスノア・クリアス。目立つ容姿だから気付いていたかもしれないが、麓で言うところの女神その人だ』