第2話
「セラ殿、近くの宿から余っているシーツを何枚か貰ってきたぞ!」
最初の場所に戻ると、アルダードとマルタがシーツを広げて待っていた。少しでも衝撃を吸収しようという算段なのだろう。
「旅鳥郵便の竜人族にも声をかけてみたけど、やっぱりダメだって」
「あの空島も無人のようだ。空からの助けは期待できないな。ところで、そちらの御仁は?」
「力を貸してくれるっていう魔導師の爺さんだ。って言っても、魔導で生き物は浮かせられないんだろう? 一体どうするんだ?」
一緒に来た老人は呼吸が少し乱れているものの、セラの全力疾走に対して問題なく追いついてきていた。こちらに目もくれず、青空に浮かぶ小島を凝視している。
「何も物体を浮かせる手段は一つではないということだ──来るぞ」
黒い点のようなものが小島から剥がれ落ち、徐々に人の姿をとる。細身の人間だった。長い黒髪が尾を引くように激しく靡いている。背中から落ちたようで顔は見えない。
老人が外套の中から細剣を取り出した。鞘に収まったままの剣先を、空中に向ける。両目を瞑って深く息を吸い、開くと同時に鋭く吐いた。
途端に街中の風が吹き荒れた。風は細剣の先を中心に渦巻き、どんどんきつく凝縮していく。周囲の雲も引き寄せられ、ネリエンスの空は暗転した。
アルダードと共にシーツを広げていたセラは、吹き荒ぶ風に思わず顔を顰め、砂埃が入らないように目を細めた。閉じていても反応がある右眼からは、人型の反応が近づいくるのを感じ取っていた。
急に変化した天候に、街の人々は慌てふためいていた。セラとてこんなに大掛かりな魔導を駆使するとは思ってもみなかった。様子を見にこようとする人に対して、家の戸を閉めて籠っているように叫ぶのが精々だ。
しばらくして暴風がぴたりと止んだ。街の空には巨大な風の繭が浮かび、引き寄せられた暗雲が街の空に蓋をしている。
凝縮された空気がひと所にとどまり、いくつものうねりが折り合う繭の様子は、閉じ込められた鳥が解放されようともがいているようにも見えた。
落ちるに任せて繭の中心に細身の女性が近づいていき、うねりのひとつがその背中を撫でた。同時に、険しい顔で唇を引き結んでいた老人が、宣言するように口を開く。
「ここだ」
一つに縮こまっていた風が真上に向かって噴出していき、女性の体はそこで止まった。風の流れと勢いに任せて暗雲が散り散りになり、繭は少しずつ小さくなる。
女性と風の繭は老人の剣先が下がるのに合わせて徐々に降りていき、アルダードとセラが引っ張っていたシーツの上に着地した。
着地と同時に最後まで渦巻いていた風がふわりと散っていく。セラの右耳についていたイヤリングが巻き込まれて激しく揺れた。終わりの合図のような風だった。
少しの間を置いてセラの後ろから、からん。と細剣が転がる音がした。老人は魔素切れを起こしたらしく、膝をついて息を切らしている。
「爺さん!」
「あれほどの風を操るのは、流石に、堪える……我のことは、良い。小娘は」
真っ先に女性に駆け寄ったアルダードが様子を確認する。体格や顔立ちを見るに、成人前後の若い女性だった。彼女はダークレッドの両目をぱちくりとさせ、長い黒髪をシーツにつけてぺたんと座り込んでいる。見たところ怪我はないようだ。
「あー、もしもし? 聞こえてる?」
女性の肩に飛び移ったマルタが、頬をぺちぺちと叩く。ぼんやりと空を見ていた女性は、肩をびくつかせてマルタの方を見た。口をぱくぱくと動かし、不思議そうにマルタの頬をつついている。
「むぅ……お姉さん、ツェダリアは初めて? 御山の獣ならこのくらいは話せるから、いちいち驚いてちゃキリがないよ。じゃなくて、お加減いかがですかって」
指を退けられた女性は、マルタを手のひらに乗せて目を輝かせるばかり。返事らしいものは特になかった。
「セラ、ダメかもしれない」
対話を諦めたマルタは、アルダードの肩に戻っていった。
「せっかく協力してもらったのに悪いね、爺さん」
遠巻きに眺めていたセラは、老人の背に当てていた両手を離した。魔素切れへの対処なら、魔導の使えないセラでも難しくない。
「テムロスだ。テムロス・メーロランドと言う。魔素の譲渡、感謝する」
老人は立ち上がると、顔を顰めて名乗った。爺呼びが嫌だったのだろう。酒場の時から眉根を寄せているのは気づいていた。
「テムロス爺さんね。アタシはセラ・キャロロフ。セラとでも呼んでくれ」
「……随分と肝が据わっているようだな、娘。しかし傭兵一家キャロロフ──嵐斧のセラか」
「知ってるのかい?」
「クロノメイアの双頭鬼ともなれば、旅人ならずともギルドに属していれば知っておろう。かく言う我も、学術同盟のギルド員だ」
テムロスは白い髪をかき上げて右耳の銀の飾り──ギルドカフを見せた。テムロスが受け取った魔素を僅かに流してやると、表面にびっしりと描かれた幾何学模様が、鮮やかな新緑色に輝いた。間違いなく北ウェラリオ大陸の旅人ギルドのものだ。
「姫様の瞳みたいだね、アル」
「うむ。これは見事だな」
いつの間にやら側に来ていたアルダード達が耳飾りをセラの隣で眺めていた。姫というのはツェダリア王女のことだろう。
テムロスのギルドカフは助けた女性も一緒になって眺めており、暗いと思っていた赤色の瞳は、いつしか紅玉のような明るい輝きを宿していた。
長い黒髪に紅玉の瞳。その場にいた三人と一匹は、女神の影を彼女に見ていた。
僅かな沈黙ののち、はっとしたようにアルダードが背筋を伸ばした。
「申し遅れたな、テムロス殿。自分はアルダード・レグルス。ツェダリアの王国騎士だ」
「今は休暇中みたいなものだけどね。ボクはマルタ。アルの相棒だよ」
アルダードはマルタを落とさないよう慎重に頭を下げた。擦れた甲冑が音を立てて騒ぐ。その様子を目に留め、テムロスはひとつ頷いた。
「喋る獣を連れた白銀の鎧騎士となれば想像はつく。しかし、ハリネズミを連れた騎士というのは珍しいな」
「騎士の相棒には牙のある獣か、大型の鳥類が理想とされているからな。事実、同輩は猫より大きい方々ばかりだ」
ネリエンスの警備を一瞥しても、騎士の隣には様々な種類の四つ足の獣、獰猛で知られる鳥類の姿が窺える。爪や牙での牽制と洗練された剣術による猛攻は、攻め込む上でなかなか厄介だった。セラは身体中にできたミミズ腫れのせいで、風が吹くだけで全身がひりついた日々を思い出す。
「成る程。戦力になるかどうかといったところか。理に叶っているのは間違いないな」
「アタシは実際に打ち合ったから分かるけどさ、アルダードはそいつらよりもイケる口だろ。酒はからっきしだけど」
セラは背中の大きな戦斧に手をかけて口を挟んだ。小さな頭をぶんぶんと振るマルタが続ける。
「アルは強いよ。お酒はダメダメだけど」
「酒の強さは関係ないだろう!」
恥ずかしそうに声を荒げるアルダードを見て、セラとマルタは揃って笑い声を上げる。テムロスの眉根の皺も僅かに緩んだ。ような気がする。常に仏頂面を貼り付けた老父の感情はなかなか難しい。
「夏の戦か。少し前まで敵同士だった者と、斯様に打ち解けるとは。貴様らも大概、変わり者のようだな」
「傭兵なんてこんなもんさ。うちの一家はクロノメイアに仕えちゃいるけど、金が切れたらそれもおしまい。なら、アタシが誰と仲良くなろうと勝手だろ?」
「では、アルダードとマルタとやらは?」
「セラ殿はマルタ殿の友人であるからな。疑う余地など無いさ」
「戦の前から知り合ってたしね。それに、恋唄好きに悪いのはいないから」
マルタとセラは揃って微笑んだ。
恋唄とは、旅詩人が歌う最近流行りの楽曲だ。その名の通り、色恋にまつわる話が主題となっていて、人気の歌い手が酒場に来ると若い女性でいっぱいになる。セラとマルタ達が出会った酒場も、ちょうどそういった機会だった。
「成る程。芸能が繋いだ縁か。興味深いな」
「それで、そっちの姉さんは──」
セラは降ってきた女性を探して辺りを見回した。近くにいるのは三人と一匹。人間の女はセラだけだった。
「さっきまで隣にいたはずだけど……セラなら魔素を辿れば分かるんじゃないの?」
「さっきからやってるんだけどね」
右眼を凝らしつつ、セラは答えた。
「見えるのか?」
「見える。けど、あまりしたい話じゃないんだ」
少し棘のある言い方になってしまったが、テムロスの眉根の丘は少しも動かなかった。
女性を包んでいた魔素は、ネリエンスの街を揺蕩うものと大差がなく、セラの右眼でも正しく捉えるのが難しい。
「魔素を纏ってたのも不思議だったんだ。いつもは体内の魔素が反応するってのに」
「大方、精霊の悪戯であろう。彼奴等は時々、我等を騙す」
テムロスが嫌そうに口を挟んだ。精霊とは、意思を持った魔素の塊のようなものだ。魔素の豊富な北ウェラリオ大陸に多いのは知っているが、セラはあまり詳しくない。
「ふむ。本人が魔素を持っていないということは、魔人族か魔族のどちらかに精霊が纏わりついていた。ということだろうか?」
「でも魔素って異界の、ヘリヤのモノとは相性が悪いんじゃなかったっけ」
「精霊共が好き好んで魔族に近寄ることは滅多にないはずだ。少なくとも我は知らぬ」
女性の正体について議論を交わすも、答えは出ない。ひとまず手分けをして探そうと分担を決めていると、灰色の狐を伴った騎士がアルダードの元に駆け寄ってきた。聞けばゴシキの御山に登った人物の捜索を手伝ってほしいという。
「この時間にか? 地元民でも無いのに日暮れの山は危険だぞ」
「そう伝えましたが、何も言わずに行ってしまって。多分、アルダードさん達と一緒にいた方です。女神様によく似た方」
セラ達は一斉に顔を見合わせた。間違いなく探している人物だ。テムロスが真っ先に駆け出していった。
「自分達が探してこよう。貴殿は持ち場に戻っていてくれ」
アルダードが騎士にそれだけ伝えると、セラ達はテムロスの後を追った。