9. バラの魔塔
久々に、食料を調達するため、近隣の安全都市へ行ってきた後、オルブレムはひどい風邪をこじらせてしまった。帰路の途中、冷たい雨に打たれ続けたのが原因だった。
混沌の地では、転移魔法がまともに機能しない。オルブレムほどの魔法使いでも、ごく短距離の移動しかできないため、悪天候の中を歩いて帰るしかなかったのだ。
ニスベットが回復術を使おうとすると、オルブレムは首を振った。
「回復術は基本的に、傷を癒し、体力を回復させるものだ。病を治すのは、また別の領域だよ。人間を含むすべての生物には、自ら回復する力がある。
回復術は確かに便利だが、それに頼りすぎると、本来の治癒力が衰えてしまうこともある。こんな風邪程度なら、症状に合う薬を飲み、しっかり休めば治る。だから心配しなくていいよ」
薬を飲んで、オルブレムが部屋で休んでいる間、ニスベットは家の前でゴーレムの創造の練習をしていた。
ガラガラ……ゴゴゴ……。
丘の下に立たせている石のゴーレムが動く音に、ニスベットはふと顔を上げた。
見知らぬ者たちが、険しい顔つきで丘へ向かってくるのが見えた。荒くれ者の集団――混沌の地を彷徨い、略奪や暴力を繰り返す無法者どもだった。
「おいおい、こんなところに、あんな可愛らしい娘が隠れていたとはな?」
「しかも、家まであるじゃねえか。何かいいモンが手に入りそうだぜ」
「あの娘、どう見ても手つかずの小娘だろ? まずは俺がいただくぜ」
「ふざけんな! 俺が先だ!」
彼らはニスベットを獲物のように見て、下卑た言葉を浴びせた。
ニスベットは恐怖に震え、思わず家を振り返った。しかし、熱を出し、体を壊しているオルブレムのことを思い出し、彼を呼ぶことをためらった。
(私が……私がどうにかしなきゃ……)
高鳴る鼓動を無理に抑え、決意を固めたその瞬間――扉が開き、オルブレムが姿を現した。
ニスベットの前で、〈造形の核〉が光を放ち、回転し始める。周囲の石が引き寄せられ、瞬く間に巨大な岩の騎士が形成された。
「お父さん?」
「大丈夫だ」
やつれた顔に微笑を浮かべ、オルブレムはニスベットを安心させた。
「だが、ここは聖域だ。この地で血を流すわけにはいかない」
オルブレムは、風の魔法を発動し、丘を登ってくる無法者どもに向けて強烈な突風を放った。彼らは抵抗する間もなく吹き飛ばされ、丘の下へと転げ落ちていった。
同時に、2体の岩のゴーレムが巨大な石槌を振りかざしながら素早く動き、無法者たちの進路を塞いだ。少し離れた後方には、鋭い石の剣を手にした岩の騎士が戦闘態勢を整え、静かに待機していた。
「な、なんだよ! あのじじい、ただ者じゃねぇぞ!」
「だが、相手はせいぜいあの3体だけだ。それに、あのガキはただの小娘だろ」
「やっちまえ!」
無法者たちが一斉に襲いかかる。ゴーレムたちがそれを合わせて動き始めた。
敵の魔法使いがオルブレムを狙い、炎の魔法を放つ。
オルブレムは、魔法障壁でそれを防ぎ、次の魔法を準備しようとした。その時だった。
突然、オルブレムとニスベットの前に、何の気配もなくカラナエルが現れた。この混沌の地で、それも聖域の内部で、転移魔法が発動するのを目の当たりにしたオルブレムは、思わず動きを止めた。
「何事かと思えば……騒がしいことになっていますね」
カラナエルは冷静に辺りを見渡し、静かに言った。
「ここは私に任せてください」
オルブレムを振り返る彼の瞳は、氷のように冷たく沈んでいた。カラナエルは、無法者どもへと視線を移し、淡々と、それでいて背筋が凍るほど冷酷な口調で告げた。
「業火の焔よ。
その業とともに、無へと燃え尽きよ」
その言葉が響いたとたん、無法者たちの足元から巨大な炎の柱が噴き上がった。烈火が彼らの身体を包み込む。
「ぎゃあああああ!!!」
耳をつんざく悲鳴とともに、無法者たちは必死に逃れようともがいた。だが、炎は意志を持つかのように彼らを追いすがり、さらに激しく燃え盛る。
やがて彼らは絶望に満ちたうめき声を最後に、一握りの灰へと変わった。どこからともなく風が吹き、残された灰を散らし、遥か遠くへと運び去った。
それを冷ややかな眼差しで見送ったカラナエルは、静かに息を吐き、オルブレムとニスベットに目を向けた。
「やはり、この地もお2人にとって安息の場とはなりませんでしたね」
そう言う彼の声は、淡々としながらもどこか寂しげだった。
「ちょうど良い機会です。今日、お2人にご提案しようと思っていたことがありまして」
「ご提案……?」
「お2人が安全に暮らせる場所をご案内しようかと思います。誰の目にも触れることなく、静かに過ごせるでしょう。食料をはじめ、必要なものは不自由なく揃えて差し上げます」
思いがけない申し出に、オルブレムは驚きながらも、素直に頷いた。
「ありがたいお申し出です。喜んでお受けしましょう」
「では、すぐに出発しましょう。最低限の荷物だけお持ちください。他の物は、後ほど取りに来られるよう手配いたします」
「承知しました。少しだけ持ち物を取ってまいります」
オルブレムはニスベットの手を取り、家へ戻ろうとした。
ニスベットは彼の手がまだ熱を帯びているのを感じ、立ち止まった。
「ちょっと待ってください」
このまま無理をさせるわけにはいかない。そう思ったニスベットは、今回ばかりはオルブレムの言葉に逆らい、治癒魔法を発動した。銀色の月の光が彼女の手からあふれ出る。それがオルブレムを包み込むと、彼の体を蝕んでいた熱が消えていき、顔色もずいぶん良くなった。
「すみません。言いつけを破ってしまいました」
ニスベットが申し訳なさそうに言うと、オルブレムは穏やかに微笑んだ。
「いや、今はそれが正解だったようだ」
2人が家の中へ入っていくのを見届けたカラナエルは、静かに混沌の地へと視線を向け、低く呟いた。
「月の子よ……積み重なる悲しみの海を、ただ一人で照らす孤独な月……」
オルブレムとニスベットは、貴重品をいくつかだけ持ち出し、すぐに家を後にした。2人が外へ出るや否や、カラナエルは転移魔法を発動し、瞬く間にその場から姿を消した。
*** ***
彼らが降り立ったのは、とある建物の内部だった。
そこは円形の広々とした空間で、高い天井まで壁一面に本がぎっしりと並んでいた。
中央は広く開けており、各階を繋ぐ階段とバルコニー状の回廊がぐるりと取り囲んでいる。
天井には、金と銅の光を帯びた天体模型が宙に浮かび、淡い輝きを放ちながらゆっくりと回転していた。
一階の床の一角には、大きな机と椅子が置かれ、反対側には長いテーブルと複数の椅子が並んでいた。
四方を埋め尽くす本の光景に、オルブレムの顔がぱっと明るくなった。
「ここは書庫を兼ねた研究室です」
カラナエルが説明を始めた。
「ここにある書物や道具は、すべてご自由にお使いください。上の階には寝室や浴室、それ以外の設備も整っています。移動は床に描かれた転移魔法陣を利用するといいでしょう」
好奇心旺盛なニスベットは、興味津々であちこちを触ったり眺めたりしていた。
その一方で、オルブレムの表情は次第に真剣になっていった。並ぶ書物の背表紙を指でなぞりながら、彼はついに口を開いた。
「……カラナエル様、ここは一体?」
「ここは、混沌の地の北部にある都市、シエストの魔塔です」
カラナエルは淡々と答えた。
「人々は『バラの魔塔』とも呼んでいるようですね」
オルブレムは驚きに目を見開き、カラナエルを振り返った。
「安全都市にある魔塔には、誰も出入りできないはずでは? 一体、あなた様は……?」
カラナエルは意味深な微笑を浮かべ、静かに答えた。
「キベレの管理を任されている者……とだけ、言っておきましょう」
その言葉に、オルブレムは瞬きをしながらしばし言葉を失った。信じられないといった表情でカラナエルを見つめていた彼は、やがて状況を飲み込んだのか、ゆっくりと頷いた。
「どうですか? この書庫は、お気に召しましたか?」
カラナエルの問いに、オルブレムは満面の笑みを浮かべた。
「気に入るも何も……ここで一生を過ごしてもいいくらいです!」
「それは何よりです。では、他の場所も案内いたしましょう」
カラナエルは、2人を連れてさらに館内を案内した。
そこは、まるで二人のために用意されたかのように、完璧な住居空間だった。それぞれに与えられた居心地の良い寝室、清潔な浴室、快適なトイレ、そしてあらゆる調理器具が揃った広々とした厨房まで――必要なものが何一つ欠けることなく整えられていた。
ニスベットの部屋には、ふかふかの寝具が敷かれた大きなベッド、美しい鏡のついたドレッサー、そして立派な衣装棚が備えられていた。その衣装棚を開くと、色とりどりの新しい衣服がずらりと掛かっていた。
「これ……本当に私の部屋ですか?」
信じ難い光景に、ニスベットは呆然とつぶやいた。
ついさっきまで、命の危機に怯えていたというのに――同じ日に、こんなことが起こるとは夢にも思わなかった。
最後に転移した先は、穏やかな春の草原だった。暖かな日差しが心地よく降り注ぎ、名も知らぬ野の花々がそれぞれの色と香りで草原を彩っていた。
「ここは、菜園や花壇を作ってもいいですし、魔法の練習や散歩など、自由にお使いください」
「薬草畑があればいいなと思っていたところでした。ちょうどいいですね。それに、『バラの魔塔』に住まうのなら、小さなバラの花壇を作るのも悪くありませんね」
オルブレムは、久しぶりにあらゆる憂いを忘れ、のどかな風景を心から楽しんだ。
ニスベットはとうとう靴を脱ぎ、草の上に立った。
「まさか、これが夢じゃないですよね? もし夢なら、どうか覚めないでほしい……」
ふかふかの草を踏みしめながら、大きく息を吸い込む。柔らかな春の空気には、ほのかに花の香りが溶け込んでいた。
「まるで夢の世界みたい。すべてが美しくて、完璧すぎて、本当に信じられないくらいです」
そう言ってから、ニスベットは瞳を輝かせながらオルブレムを振り返った。
「……でもね、私たちが一緒に建てた、あの家のことは、私はずっと、ずっと忘れません」