8. 白い杖の男
翌朝は、前日とは打って変わって気温が上がり、地面にわずかに積もっていた雪もすっかり溶け、ぐしゃぐしゃの泥となっていた。雪の騎士もすでに溶けてしまい、ただの雪の塊になっていた。
前日、『明るくなったら詳しく観察したい』と言っていたジョゼは、それを見てがっかりした。
「ああ~、もっとじっくり観察したかったのに。もったいないなあ」
雪玉の前で、ジョゼはしゃがみ込み、枝を使って慎重に雪玉をかき分けてみた。
「やっぱり、コアは回収されたんだね。どうやって作られていたのか、気になっていたのにな」
実のところ、雪の騎士は、気温が上がったから、溶けたわけではなかった。無用に注目を集めることを避けるため、オルブレムがあらかじめ解体しておいたのだ。
人懐っこいジョゼは、ニスベットの家事を手伝いつつ、積極的に話しかけてきた。
「お祖父様はすごい魔法使いに違いありませんね。こんな場所で、しかもお2人だけでしばらくでも暮らせるなんて」
「そうですか? 私にはよくわかりません」
オルブレム以外の人と、まともに会話をしたことがないニスベットは、必要最低限の受け答えにとどめた。しかし、ジョゼの語る自分の知らない世界の話には、自然と耳を傾けてしまう。
西大陸出身のジョゼは、故郷の話や混沌の地での冒険譚をいくつも語ってくれた。
*** ***
3日間、オルブレムの家で休んだカービス一行は、回復術士の体調が回復し安定すると、近くの安全都市へ向けて出発することとなった。カービスたちは、感謝の意を込めて、何かお礼をしたいと申し出たが、オルブレムが最後まで固辞したため、代わりに狩った剣牙イノシシの肉や、持っている穀物、干し果物、ナッツ類など、できる限りの食料を置いていった。
家の前に立ち、カービスたちが遠ざかっていく姿を見送っているニスベットの胸には、妙な寂しさが広がった。何かが突然なくなったような、そんなぽっかりと穴が空いたような感覚。オルブレムと2人きりでも充満していると感じていたこの家が、今は不思議と広く、がらんとして見えた。
その気持ちを察したのか、オルブレムはそっとニスベットの肩に手を置いた。
「人は、人と交わって生きるのが自然の摂理だ。それをさせてやれなくて、すまんな」
ニスベットは勢いよく首を振った。
「そんなこと言わないでください。私のせいで、お父さんまでこんな風に隠れて暮らさなきゃいけないのに……。謝るべきなのは私の方です」
「悪いのは、理不尽なことをした連中だ。君が謝ることはない」
「それなら、お父さんだって同じです。私に謝る必要なんてありません」
ニスベットは、自分の肩に置かれたオルブレムの手をぎゅっと握った。
「私は大丈夫です。お父さんさえいてくれれば、ほかには何もいりません」
オルブレムの瞳は、遥か遠い空の向こうを見つめていた。
(いつか、この子が世の中へ飛び立つ日が来るのだろう……)
*** ***
3度目の春が訪れた。
家の前の小さな畑で、育ち始めた野菜の間に生えてきた雑草を抜いていたニスベットは、ふと、誰かの視線を感じて顔を上げた。
丘の下に一人の男が立っていた。灰色の質素なローブをまとい、自身の背丈ほどもある白い杖を持った男だった。フードの下からのぞく端正な顔立ち、神秘的な雰囲気を湛えた灰色の瞳が、ニスベットをじっと見つめていた。
ニスベットは、慌てて家の中にいるオルブレムを呼んだ。
「お父さん、丘の下に誰かがいますよ」
「家の中に入りなさい」
オルブレムは、手招きしてニスベットを家の中へ引き入れると、扉を閉め、窓のそばに身を寄せて、わずかに開いた窓から外の様子をうかがった。しばらく男を見つめていたオルブレムは、何か考えがあるのか、扉を開けて外へ出ると、まっすぐ男のもとへと向かった。
2人はその場に立ったまま言葉を交わし、やがて一緒に家へと向かってきた。
予想外の展開に、ニスベットは驚きを隠せなかった。オルブレムの様子からして、知り合いではないようだった。なのに、彼がまるで警戒する素振りも見せないのは、珍しいことだった。
家の中に入ると、男はフードを後ろへと下ろした。滑らかに流れる深い青の髪。緑がかった灰色の瞳を持つ、30代前後の男だった。
「挨拶しなさい、ニスベット。この方はカラナエル様だ」
オルブレムが男を紹介した。
オルブレムが他人に本名を明かすことも、初めてである。戸惑いながらも、ニスベットはカラナエルに挨拶した。
「はじめまして。ニスベットと申します」
カラナエルは穏やかに微笑んだ。
「カラナエルという」
彼は、ニスベットがこれまでに出会ったどの人間とも異なる存在だった。耳や姿形に違いがあるわけではないが、それでも、一般の人間ではないように感じられた。
ニスベットは、勇気を出して尋ねてみた。
「カラナエル様は……もしかして森のエルフなのですか?」
「無関係ではないが、私はエルフではないよ。なぜそう思ったのかな?」
「すみません。ただ、なんだか、普通の人とは違う気がして……」
カラナエルは謎めいた笑みを浮かべたが、それ以上は答えなかった。
代わりにオルブレムが言った。
「カラナエル様と話をしているから、君は外でやっていたことを済ませておいで」
「はい」
なぜか、2人の邪魔をしてはいけない気がして、ニスベットはカラナエルへの興味を抑え、畑へと向かった。
オルブレムはカラナエルに茶を淹れ、向かい合って座った。
カラナエルの白い杖は、まるで彼の分身のように、彼の手を離れてもなお、彼の傍らに静かに立っていた。太い木の幹から細かい枝を払い落としただけのような、まったく加工されていないその杖は、雪のように純白だった。
「聖域に勝手に住み着き、生活していること、どうかお許しください」
オルブレムが恭しく頭を下げると、カラナエルは興味深げに目を細めた。
「なぜ私に謝るのですか?」
「あなた様がここを見回りに来たように感じたからです。それに、混沌の地を1人で歩く魔法使いなど、聞いたことがありませんので」
カラナエルは微笑んだ。
「混沌の地で、子どもと2人きりで暮らしている魔法使いに言われることではないようですが」
そう言って、カラナエルは開かれた扉の向こうにいるニスベットに視線を向けた。
「ここが忘れられた聖域であることは確かです。ですが、それを覚えている者も、敬う者も消え去った今、この地で静かに暮らすことに、問題はないでしょう。ただ、どのような事情で世を捨て、ここでの生活を選ばれたのか、それくらいは教えていただけますか?」
オルブレムは、目の前にいる神秘的な存在をじっと見つめた。
かつて混沌の地を旅し、さまざまな魔獣、エルフ、ドワーフ、オークに出会ったことがある。しかし、カラナエルはその誰とも異なる、測り知れない存在だった。その瞳には、温かな光が宿っているが、同時に真実を見抜く叡智が秘められていた。それを感じ取ったからこそ、オルブレムは、自分とニスベットの名を隠さず明かしたのだった。
「どこから話せばいいでしょうか……」
そう前置きして、オルブレムは、カリトラム王国に招かれたときの話を始めた。レト王太子、黄金の鳥籠の母娘、そして今のニスベット――。
すべてを聞き終えたカラナエルの表情には、どこか哀しみが滲んでいた。そして静かに尋ねた。
「なぜ、あなたはそのような犠牲を選ばれたのですか?」
「犠牲……と?」
「あなたほどの力があれば、王国に知られず、一人でそこを去ることもできたはずです。違いますか?」
オルブレムは否定しなかった。
「確かに、それもできたでしょう。そう考えなかったわけではありません。ですが……そうしたくありませんでした。いや、正しくは、できなかったと言うべきかもしれません。
私一人だけが逃れることは、そこに残って協力するのと何も変わらない。
どうしようもないことだ、自分にはどうにもできないことだと、目を背けるのは、結局それを認めることになる。それはすなわち、同調であり、協力の別名ではないでしょうか」
カラナエルは低い声で言った。
「己のすべてを賭して、巨大な力に抗うことは恐ろしく、そして何よりも怖いものです。あなたは、それを成し遂げたのですね」
オルブレムは首を横に振った。
「私は、そんな立派な者ではありません。ただ、必要なときに、必要な勇気を持てただけのことです」
カラナエルは静かに茶を口に含み、そして意味深な言葉を口にした。
「人はよく、偉大な善だけが巨大な悪に立ち向かえると思いがちです。しかし、私はむしろ、慎ましきものの中にこそ、その可能性を見出します」
神秘的な客人カラナエルは、その後、オルブレムとニスベットとともに夕食を取り、夜になると、灯されたランプの下、長い時間オルブレムと語り合った。
存在と生、魂、自然、宇宙――ニスベットには難解な話ばかりだったが、オルブレムが心から楽しそうにしているのを見て、彼女はそれだけで嬉しく思った。2人が静かに語り合う声を子守歌に、ニスベットはいつしか眠りに落ちた。
久しぶりに、懐かしい夢を見た。母の腕に抱かれて何度も訪れた、夢の中の輝かしく壮麗な都。壮大な建物、美しく神秘的な存在たちが、彼女を温かく迎えてくれた。
翌朝、目を覚ますとカラナエルの姿はなく、オルブレムが朝食の準備をしていた。すべてが夢だったかのように感じられた。
ニスベットはまだ眠気の残る目を瞬かせながら、オルブレムに尋ねた。
「お父さん、昨日のお客様……カラナエル様、本当にいらっしゃいましたよね?」
木製のヘラでスープをかき混ぜながら、オルブレムは答えた。
「夜明け前に帰られたよ。また来ると仰っていた」
「よかった」
ニスベットは安堵の息をついた。
「どうしたんだい?」
オルブレムが不思議そうに聞くと、ニスベットはにっこりと微笑んだ。
「お父さんに素敵なお友達ができたみたいで、嬉しかったんです」
オルブレムは慌てて手を振った。
「友達だなんて、とんでもない」
「えっ? 違うんですか?」
「どうして、私などが、あの方と友人になれるものか。少しでもお話が通じたと思っていただけたら、それだけでも嬉しい限りのことだ」
ニスベットは首をかしげた。
カラナエルが普通の人間ではないことは、彼女も初めて会ったときから感じていた。だが、ニスベットの知る限り、オルブレムこそ最も賢く、偉大な大魔法使いだ。カラナエルがどのような存在であれ、オルブレム以上であるはずがない――ニスベットは、そう心の中で確信していた。