5. 炎のトカゲ魔獣ラセルティリア
安全都市『リウテ』の近くに到着したオルブレムは、巨大な岩の隙間に〈造形の核〉で中が空洞の大きな岩のシェルターを作り上げた。
「ここで少しだけ待っていて。すぐ戻るから」
そう言って、ニスベットを岩の中に入れようとすると、彼女は不安げな表情でオルブレムの服の裾をぎゅっと握りしめた。
「大丈夫だよ。ほんの少しだけ待っていればいいんだ」
「一緒に行っちゃ、ダメですか?」
「俺もそうしたいけど……2人で行動すると、目立ってしまって、危険かもしれない」
「どのくらいかかるんですか?」
「できるだけ早く戻るよ。必要なものだけ買ったら、すぐに帰ってくるから」
しぶしぶ、ニスベットの手から力が抜けた。
「絶対に戻ってきてくださいね……」
「もちろん。絶対に戻ってくる」
オルブレムはしっかりと頷き、彼女を安心させるように軽く頭を撫でた後、岩の中へと導いた。
混沌の地のさらに奥深くへ向かう前に、穀物や干し肉、乾燥野菜などの食料を補充するには、安全都市に一度は立ち寄る必要があった。しかし、追っ手がいる可能性を考えると、ニスベットを連れて行くわけにはいかなかった。
彼女を人目につかないように隠した後、オルブレムは別の人物の姿へと変え、安全都市へと向かった。
*** ***
ニスベットは膝を抱え込むようにして、小さく身を縮めていた。
岩の中はやや暗いが、不思議と息苦しさはなく、むしろ少しだけ落ち着くような気がした。
じっと静かにしていることは、彼女にとって難しいことではなかった。母に抱かれて長い夢を見ていたころのように、どこか遥か遠くの別の世界を漂っているような気分だった。
ニスベットは目を閉じて、懐かしい夢の中へ行こうとした。しかし、じわじわと湧き上がる不安が彼女を捕らえて離してくれなかった。
あの場所を脱出して以来、オルブレムとこんなにも長い時間離れたのは初めてだった。
(……もし、このまま戻ってこなかったら、どうしよう?)
オルブレムが自分を置き去りにすることはないという、確信にも近い信頼があった。だからこそ、この不安は『捨てられるかもしれない』ことではなく、『彼に何か起こるのではないか』という恐れから生じていた。
不安と焦燥の中、いつの間にか浅い眠りに落ちていた。覚えられない悪夢の果てに目を覚ましたとき、彼女はまだ岩の中にいた。
どれほどの時間が経ったのか、まるでわからなかった。
(あとどれくらい待てばいいの? もう随分時間が経った気がするのに、まだ戻ってこないなんて。おじさんに何かあったんじゃ……?)
探しに行くべきか? だが、じっとここで待つようにと言った彼の言葉が脳裏をよぎり、勝手に動くこともできない。
そう悩んでいる間——突然、目の前を塞いでいた岩が消えた。
そこに、右手に〈造形の核〉を浮かべたオルブレムが立っていた。彼の後ろに広がる空は、夕焼けに染まり赤みを帯びている。
「悪いな、少し遅くなった」
ニスベットの視線は、オルブレムの左手を伝い、ぽたぽたと落ちる血に吸い寄せられた。彼の上着の左肩下が、鋭い刃物で裂かれていた。
彼女の視線に気づいたオルブレムが、左手を軽く振った。
「ああ、これか?大したことな—……」
しかし、彼が言い終わるよりも早く、ニスベットが勢いよく飛び出した。彼女の小さな両手が、彼の左手をしっかりと握った。ニスベットの手から、月のように淡い銀色の光が広がった。そして、みるみるうちに傷口がふさがり、血が止まった。
「……ニスベット?」
オルブレムは、驚いて自分の傷を見た。何事もなかったかのように、すっかり治っていた。
服が破れていることを除けば、傷を負っていたことすら忘れてしまいそうなほどだった。
「なるほど。立派な回復術だ。ありがとう、おかげで綺麗に治ったよ」
オルブレムは優しくニスベットの頭を撫でると、造形の核で馬を作り出した。
「さあ、ここを出よう。安全都市の周辺は人通りが多くて、危険かもしれないからな」
そう言って、彼は懐から小さな袋を取り出し、ニスベットに手渡した。
「お腹すいただろう?とりあえず、これでも食べておけ。飴だ。南の地方の特産品らしいが、ここでも売っていてな」
ニスベットは急いで袋を開け、中を覗き込んだ。そこには、赤、青、黄、緑の色鮮やかな飴が入っていた。初めて見る飴を興味津々に眺めていた彼女は、どれから食べようか迷った末、黄色い飴を口に入れた。甘酸っぱく、果実のような香りが口いっぱいに広がる。さっきまで心を占めていた不安も心配も、どこか遠くへ消えてしまうほどの、幸福な味だった。
オルブレムは飴をくわえたままのニスベットを微笑ましく見つめ、ひょいと抱き上げて馬に乗せた。
「行こうか。我らの家を作りに」
蜜色の夕焼けを背に、2人は混沌の大地の奥深くへと馬を走らせた。
*** ***
オルブレムは、遥か地平線の彼方にぼんやりと見える人の群れを、不安げな目でじっと観察していた。
馬なのか、ラクダなのか、何かに乗っている人々の数は10人以上はいるようだった。安全都市を行き来する商人の一団かもしれないが、そうでない可能性も考慮すべきだった。
普段なら、躊躇することなく 、人々を避ける方を選んでいたのだろう。だが、今、彼とニスベットの前に広がっているのは、危険な火山地帯だった。
しばらく考えた末、オルブレムは人々との距離が縮まる前に、馬の進路を火山地帯へと向けた。
「人間相手よりは魔獣のほうがマシだな」
そこは、遠くそびえる巨大な火山を背景に、灰色の大地がひび割れ、赤く燃え盛る亀裂が無数に走る荒涼とした土地だった。裂け目の間から流れ出た溶岩が蛇のようにうねり、時折、赤黒い炎を吐き出している。
幸いにも、後を追ってくる者はいなかった。
こんな場所に足を踏み入れるのは、魔獣狩りを目的とする勇敢な冒険者パーティーくらいだろう。商隊や一般の旅人なら、このような地形に直面すれば、たとえ遠回りになっても避けるのが普通だ。
「綺麗ですね」
火山の方向をじっと見つめていたニスベットが呟いた。
正面を見据えたまま、オルブレムが答える。
「生物が生きるには適さないが、大自然が創り出す壮大な神秘とでも言うべきだろう。畏敬の念を抱かせる美しさがあるな」
「あの、うねうねと生きているみたいな炎は何て言うんですか?」
「溶岩と呼ばれている。液体のように見えるが、実際は岩や金属がとてつもなく高い熱で溶けたものだ。決して近づいてはいけないぞ。人間でも何でも、一瞬で焼かれ溶かされてしまう」
「本当に生きているみたい」
ニスベットが感嘆した。
「頭もあるし、尻尾も……あっ、足が生えました!」
「何?」
その言葉に、オルブレムはぎょっとして横を向いた。
ニスベットの言った通りだった。溶岩の川をかき分けるようにして、全身が紅蓮の炎に包まれた巨大なトカゲのような姿が、ゆっくりとその輪郭を現しつつあった。
「ちっ、ラセルティリアか!」
オルブレムは馬の速度を上げた。
溶岩の中から這い出した炎の魔獣〈ラセルティリア〉が、赤熱した尾を引きずりながら、まっすぐこちらへと向かってきた。オルブレムのゴーレム馬が疾走し、ラセルティリアも負けじと全身をくねらせながら猛追してくる。
異常事態だと察したニスベットは、緊張した面持ちで、後ろを見つめて叫んだ。
「ダメです、速すぎる。追いつかれます!」
オルブレムは、右手に強力な風の魔法を発生させ、それをラセルティリアに向かって放った。同時に、左手で造形の魔法を解除した。フゥス……という音とともに土の塊が崩れ落ちた。
オルブレムは片手でニスベットを抱えながら地上に降り立った。彼は背後に彼女を庇いながら、〈造形の核〉に新たな魔法を付与した。大地の裂け目からマグマが激しく噴き上がり、数十本の溶岩の流れが造形の核へと引き寄せられる。やがて、それらは人の形を成した。
鎧をまとい、炎の剣を携えた炎の騎士――燃え盛る溶岩で構築されたその姿は、まるで炎の化身のように荘厳で堂々としていた。炎の騎士は、即座に身を躍らせ、オルブレムに襲いかかる火炎の魔獣、ラセルティリアに向けて剣を振るった。
鋭い一撃を受けたラセルティリアは、後方へとたじろぎつつも、すぐに身を翻し、尾を使って炎の騎士を叩きつける。しかし、炎の騎士は炎の翼を広げ、素早く空へと舞い上がることで攻撃をかわし、剣を持たない方の手から火炎を放った。
バンッ! バンッ! 爆発音が響き、ラセルティリアの体の至る所に穴が穿たれた。だが、その穴は、すぐに炎で埋め尽くされた。
ラセルティリアは、大きく口を開き、炎の騎士へと灼熱の溶岩を吐き出した。しかし、炎の騎士は俊敏に空を舞い、それを回避すると、炎の剣をまっすぐに構えたまま急降下し、ラセルティリアの背中を貫いた。
すると、ラセルティリアはその巨体を大きく捻り、グルグルと体を回し、炎の騎士を地面へと叩きつけた。
激しく燃え上がる炎とともに、解けた溶岩が地面へと流れ広がるかと思われた。しかし、それはすぐに形を取り戻し、再び炎の騎士へと変化した。炎の騎士は勢いよくラセルティリアの横腹に体当たりした。
炎の騎士がラセルティリアと激闘を繰り広げるなか、オルブレムは新たな魔法の詠唱を始めていた。
「存在の始まりにして、すべてを無に帰す極炎の焔よ。
海を蒸発させ、大地を煮え立たせ、大気を紅蓮に染めよ……」
オルブレムの魔法が完成しつつあることを察知したのか、ラセルティリアは炎の騎士の攻撃を無視し、オルブレムに向かって猛然とマグマの業火を吐き出した。
炎の騎士は、素早くオルブレムの前に立ち塞がり、炎の障壁を作り出してそれを防いだ。
やがて、炎の障壁が消え去った時、オルブレムの手には青く燃え盛る炎の剣が握られていた。彼は、その剣をラセルティリアに向け、最後の呪文を唱えた。
「炎すらも焼き尽くす極炎の刃よ。
我が敵を両断せよ!」
〈極炎の剣〉から蒼き炎の刃が迸り、ラセルティリアの体を綺麗に真っ二つに切り裂いた。
後方で息を潜め、見守っていたニスベットは、ようやく緊張の糸が切れ、その場にへたり込んだ。オルブレムも疲れを感じたのか、造形の核に付与した魔法を解除し、一息ついた。
炎が消え去ったラセルティリアの姿は、巨大な赤きトカゲへと戻っていた。頭から爪先まで、見事に二つへと切断されたその亡骸を見て、オルブレムは頭を掻いた。
「皮は綺麗に2枚取れそうだが、魔石はないだろうな。あんな風に真っ二つにしてしまったのだから、たとえ魔石があったとしても、粉々になったのだろう」
長時間、強烈な熱気にさらされていたせいで、喉と鼻が乾燥し、ひりつくように渇いていた。 オルブレムは水筒を取り出して水を飲み、荷物の中から手斧と短剣を取り出した。
「アイツの皮は、頑丈で耐火性も高いから、色々と役に立つ。持ち帰るとしよう。ただ、解体する様子は、あまり気分のいいものじゃないだろうから、その間、周りの景色でも見ていなさい。遠くへ行ってはダメだよ」
そう言って、オルブレムは造形の核で毛布のクマを作り、ニスベットに抱かせた。そして、ラセルティリアの解体作業に取り掛かった。