4.混沌の地
髪を短く切り、少年の服を着たニスベットは目を丸くして、ずっと若返ったオルブレムをまじまじと見つめていた。
「おじさんって呼んでみて」
オルブレムがそう言うと、ニスベットは眉をひそめた。今にも泣き出しそうな、その顔を見て、オルブレムはすぐに元の姿へ戻った。
「この姿も、さっきの姿も、どちらも俺だよ。別人になったわけじゃない。心配するな」
オルブレムが微笑むと、ニスベットはようやく安心したのか、しかめていた顔を緩めた。
オルブレムの隠された能力は〈変身〉であった。彼は、自らの姿を若くも老いたものにも、さらには別人の外見にも完全に変えることができた。その力を使い、あの日も別人に化けて秘密施設へ潜入していたのだ。
エリプトンの部下が後を追っているはずだった。少しでも彼らの目を欺くため、叔父と姪の姿に変装することにした。父娘にしてもいいが、いきなり『お父さん』と呼ぶのは、ニスベットには無理だろうと思った。再び40代の姿に戻ったオルブレムは、ニスベットに言った。
「しばらくはこの姿で行動する。だから、これからは俺を『叔父さん』と呼んで。いいな?」
ニスベットはこくりと頷いた。
生まれてからずっと黄金の鳥籠の中で育ったとは思えぬほど、ニスベットは聡明で、感情表現が豊かだった。秘密施設で監視されていたときも、言語能力や知能において同年代の子供に引けを取らないと評価されていたが、今の姿は当時とはまた違っていた。
本性が隠されていたのは、娘を守るために母親が抑えていたからなのか。それとも、ニスベット自身の防衛本能だったのか。オルブレムを含め、誰もあの母娘の本当の姿を知らなかったわけだ。
ニスベットは、母が自分に数多くの夢を見せてくれたと言った。その夢の中では、壮麗で華やかな都市、高貴な人々、美しい草原や川、山々があり、無数の動植物や妖精、魔獣といった神秘的な存在がいたという。
オルブレムは、それらがかつて存在した魔法帝国の姿ではないかと考えたが、ニスベット自身も真実は分からないでいた。
彼はニスベットの頭を優しく撫でつつ、遠く地平線へと視線を向けた。
二人は、辺境の村コダで旅の準備を整えた後、混沌の地へと足を踏み入れる予定だった。
「人間の地のどこにも、俺たちが安全にいられる場所はない。混沌の地で、すべての騒ぎが収まるまで身を隠すとしよう」
時が経ち、エリプトンが死に、レトが王位につけば、彼らを追う執拗な追跡も終わるかもしれない。
オルブレムは、たとえ、レトがエリプトンの疑念を買ったとしても、エリプトンが簡単に彼を排除することはないと確信していた。
エリプトンは愚かな欲望に溺れ、先代の悪行を受け継いではいるが、少なくとも何がカリトラムのためになるのか、程度の分別は持ち合わせていた。
さらにもう一つ—、レトには伝えていないが、オルブレムは、王の疑いの目が第2王子ジョナソンへ向かうよう、あらかじめ手を打っていた。王が隠している〈秘められた鍵〉にジョナソンが強い関心を持っていることを知り、彼の側近にそれとなく、関連情報が伝わるよう仕掛けておいたのだ。
オルブレムは自身の研究室や住居も、あたかも変わらぬ日常を装い、何も持ち出さず、そのままにしておいた。今、身につけている衣服や持ち物は、別の姿に変身して、調達したものであった。これらの策が、果たしてどれほど役に立つかは分からない。でも、レトを守るための、せめてもの努力だった。
レトからの情報によれば、カリトラム王家に秘められた醜悪な秘密は、王国の創設時にまで遡るものだった。
はるか昔。マゼレット大陸の東北部に位置するブレイツリー王国には、仲のいい2人の兄弟がいた。兄弟が混沌の地へ冒険の旅に出た際、彼らには古代魔法に精通する魔法使いが同行していた。その魔法使いは、以後、兄弟が決裂する直前に突如として行方をくらました。
その魔法使いこそが、カリトラム王宮の秘密施設にあった〈黄金の鳥籠〉を作り出した人物であり、『古代帝国の力を手に入れるため、純血の子を生み出し、王家の血統に組み込むべきだ』という提案をし、兄弟の間に亀裂が生じるようにした張本人であった。
あまりにも深く根付いた闇————カリトラム王家だけでなく、それに関わる多くの者たちもまた、その闇に絡め取られていることだろう。たとえ、レトが王位についたとしても、この古い因習を断ち切るのは容易ではないかもしれない。
(どうか、うまく乗り越えられますように)
カリトラム王都の方向を見つめ、心の中でそう願うと、オルブレムはニスベットを抱き上げて馬に乗せ、自らも鞍にまたがった。
*** ***
辺境の村コダで食糧や薪、水などの必要な物資を揃えた後、オルブレムはニスベットとともに〈混沌の地〉へと足を踏み入れた。標識も境界線も存在しないが、見極めるのは難しくなかった。険しい山岳地帯の手前に、まるで切り取られたかのように広がる平地。
この境界の向こう側こそが、〈混沌の地〉だった。
オルブレムは、周囲に人影がないことを確認すると、馬を降りてニスベットを抱き下ろし、鞍と荷物をすべて外した。そして、馬を山の方へと向かわせて放してやった。
混沌の地は、生態系も地形も刻一刻と変化し、時には危険な魔獣が現れる。馬と共に行動することは難しい。
「これから、何に乗って行きますか?」
ニスベットが心配そうに尋ねると、オルブレムはふっと微笑み、〈造形の核〉を取り出した。彼が魔力を込めると、透明なキューブが光を放ちながら回転し、周りの土や石を引き寄せて巻き込み、瞬く間に翼を持つ馬の姿へと変化した。
「わあ〜!」
ニスベットは目を見開いて感嘆の声を上げた。
「こいつの名前はヘクターだ。挨拶してごらん」
オルブレムの言葉に、ニスベットはゴーレムの馬に向かって話しかけた。
「こんにちは、ヘクター」
ゴーレムの馬は、言葉を理解するかのように、ニスベットを見つめてこくりと頭を下げた。
オルブレムは、ゴーレムの背に鞍を置き、ニスベットと共にまたがった。
「これから俺たちの家を作りに行くぞ」
「家を作る?」
「そうだ。場所は決めてあるけど、まだ建物がないんだ。俺たちがそこへ行って、作らなければならない。そこに着くまでは、しばらく野宿になる。それまでは少しの辛抱だよ」
2人を乗せたゴーレムの馬は翼を広げ、生き物のように滑らかに飛び、眼下に広がる平原へと降りていった。
*** ***
夜の帳が下りた森の中、2人は大きな岩を背にし、焚き火の前に座っていた。
夕食といっても、干し肉の粉を溶かして煮たスープに、硬いパンと干し果物だけ。それでもニスベットは文句ひとつ言わず、何でも美味しそうに食べていた。
長時間、馬に乗り続けていたので、尻が痛くなったり、疲れたりもするだろうに、不満を漏らすことすらなかった。甘えることなく、健気に耐え抜く姿が、むしろオルブレムの胸を締め付けた。
黄金の鳥籠での生活は、母親だけでなく、この子から多くのものを奪ってしまった。
「面白いものを見せてあげようか?」
オルブレムは〈造形の核〉の魔法を解き、土の塊だったヘクターを元の姿に戻した。それに新たな魔法を施すと、毛布を材料にした、小さな可愛らしいクマのぬいぐるみが現れた。
宙に浮かぶぬいぐるみは、ニスベットに向かって両手を広げ、恭しく頭を下げた。
「わあ」
ニスベットは瞬きするのも忘れ、じっとクマのぬいぐるみに見入っていた。
オルブレムがそれを手に取り、彼女の腕にそっと抱かせると、待ち望んでいたかのように、ニスベットはその大きなクマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
「ふわふわで、すごく柔らかいです!」
ニスベットの瞳が、星のようにキラキラと輝いた。その小さな顔に、初めて子供らしい無邪気な笑みが広がっていた。
クマのぬいぐるみを抱いてしばらく遊んでいたニスベットは、やがてそれを抱えたまま眠りに落ちた。彼女の寝顔を見守っていたオルブレムだが、ふと表情を引き締め、鋭い目で森の闇へと視線を向けた。
周辺に張り巡らせた魔法の結界が、うっすらと光を帯び、警戒の信号を発していた。
それは、人間の気配ではなかった。
暗闇に沈む森の奥——木々の上から、何者かがこちらをじっと見つめていた。
(パンテラットか?)
オルブレムは身を起こし、ニスベットの前に立ち塞がるようにして、右手を前に差し出した。手のひらを上に向けると、その上に細長い菱形の黒い魔石が浮かび上がった。
「闇の森をさまよう闇の眷属よ。
汝の主として命じる。
我が敵を阻み、我とこの子を守れ」
彼の言葉が終わると、オルブレムの影から黒い形が飛び出した。それは7匹の黒き狼であった。中でも特に大きな1匹は、額に1本の黒い角を持っていた。
シュッ! 木の上に潜んでいた何者かが、オルブレムを狙って飛びかかってきた。
同時に、群れの長である狼が跳躍し、相手に飛びついた。敵は素早く前脚を振るい、狼の長を叩き落として姿を消した。そして、別の方向から突如現れ、オルブレムに襲いかかった。
だが、彼の影からまた別の狼が飛び出し、敵の攻撃を阻んだ。
(やはり、こいつか)
明るいオレンジ色の毛並みに、全身に鮮やかなバラの模様。鋭く光る黄色い瞳でこちらを睨みつけ、唸り声をあげる猫科の魔獣——パンテラットだった。やっと姿をみ見せたかと思いきや、ヤツはヒュッと音を立て、再び姿が掻き消えた。
パンテラットは、人間の目では追えぬほどの速度と、短距離の空間跳躍の能力を持ち、敵を翻弄する厄介な猛獣だった。影の狼たちが森の闇へと潜り込み、また飛び出して、パンテラットを追い詰めようとするが、その速さに追いつくのは容易ではなかった。
オルブレムは森の中であることを考慮し、火の魔法を避け、風の刃で攻撃を仕掛けた。
ガシャッ、ガシャリ……
金属の擦れる音が響いた。オルブレムは反射的に地面へ視線を落とした。いつの間にか、地面から鎖が這い出し、蛇のようにうねりながら擦れ合っている。
「ニス……」
オルブレムがニスベットを振り返ったその時、影の狼たちの攻撃を避け、地面へと降り立ったパンテラットの身体を、無数の鎖が絡め取った。
ギィンッ!
パンテラットは逃げようとしたが、すでに遅かった。魔獣を絡めた鎖がピンと張られると、オルブレムは素早く手を振り、影の狼たちを下がらせては、風の刃を発動し、パンテラットの首を一閃した。
血が飛び、魔獣の体が地面に崩れ落ちた。
魔獣の死を確認すると、オルブレムは影の狼を魔石へと封じ込めて、ニスベットの方へと向き直った。
ニスベットは自分の行いに満足したのか、誇らしげな瞳でオルブレムを見上げていた。
オルブレムは膝をつき、彼女の目線に合わせると、優しく諭すように言った。
「ニスベット。さっきのことだが、これからは、俺がいいと言うまで、絶対にあの力を使ってはいけない」
「どうしてですか?」
褒められると期待していた、ニスベットは残念そうな顔をした。
「君はまだ子供で、その力を完全に制御することはできない。下手をすれば、君自身が危険な目に遭うかもしれない」
そう言って、オルブレムは一呼吸おくと、少し低い声で続けた。
「それに……もし他の誰かに見られたら、私たちを追っている悪い人たちに居場所を知られるかもしれない」
ニスベットは緊張した面持ちで唾を飲み込んだ。彼女の瞳には、不安の色が滲んでいた。
「この力は、悪いものですか? だからあの人たちは、お母さんと私を閉じ込めたのですか?」
「違う。決してそんなことはない。力そのものは、良くも悪くもない。どう使うかが、大事なんだよ。でも、どんなに強い力を持っているとしても、それをきちんと扱えなければ、かえって自らを傷つけてしまうこともある。だから、これからゆっくりと学んでいけばいいんだよ」
「この力のせいじゃないなら、あの人たちは、どうして私たちにあんなことをしたのですか?」
ニスベットは、ずっと胸に秘めていた疑問を口にした。
オルブレムは、彼らがニスベットにしようとしていたことを、言葉にするのをためらった。しばし迷った末、静かに口を開いた。
「……あの人たちは、君とお母さんの力を、悪い目的に利用しようとしていたんだ。君も、お母さんも、何も悪くないよ」
「もう2度と、あそこに戻りたくありません……」
ニスベットは目を伏せ、小さく呟いた。
オルブレムは彼女をそっと抱きしめ、背中を優しく叩いた。
「心配するな。そんなことは、もう絶対に起こさせないよ」