3. 脱出
決行日、午前。
レトは、王の秘密金庫から盗み出した鍵をオルブレムに手渡し、言葉を発することなく、彼を強く抱きしめた。――この瞬間が、彼らにとっての最後だった。レトの瞳には、深い悲しみが滲んでいた。
オルブレムが母娘を連れて姿を消せば、当然、彼の弟子であるレトにも王の疑いの目が向けられる。確たる証拠こそないにせよ、それは決して生易しい試練ではない。そのことを十分に理解しているオルブレムの胸は、ひどく重く沈んでいた。
彼は疑惑を招かぬよう、まずは屋外の宴に参加し、貴族たちと挨拶を交わしながら、適度に会話を楽しむ振る舞いを見せた。
そして、正午を過ぎた頃、目立たぬようにその場を離れた。誰の目にも留まることなく、彼は黄金の鳥籠がある部屋へと足を踏み入れることに成功した。
この時間帯は、もともと誰もこの場所に出入りしないはずの時間だった。そして、夜よりもむしろ昼間の方が警備が手薄になるという点に賭けたのだった。
『黄金の鳥籠』の女が、静かに顔を上げ、オルブレムを見つめた。
〈子の成長を見守る〉 という名目のもと、オルブレムは定期的にこの場所を訪れ、母子の様子を見守ってきた。
彼女は、他の人がいる間は、いつも虚ろな無表情を貫いていたが、オルブレムと2人きりの時には、時折わずかに表情を見せることがあった。エリプトン王や他の魔法使いらが語るように、この名もなき女が〈ただの空っぽな殻〉などではないことを、オルブレムは確信していた。
彼女の奥底には、表に出せぬ深い悲しみと絶望、静かなる忍耐、そして確かな知性が存在していた。今の彼女を支えているもの――それは、おそらく腕に抱かれた子供への愛と憂いであろう。
オルブレムは迷うことなく鉄檻の錠前へと向かい、懐から取り出した鍵をそっと鍵穴に差し込んだ。だが、緊張のせいか指が震え、なかなか鍵が合わさらない。
心臓が爆発しそうなほど脈打ち、額には冷や汗が滲んだ。必死に震える手を抑え、鍵を回す。
カチリ――。小さな音とともに錠前から赤い光がふわりと漏れた。オルブレムは素早く鍵を外し、鉄檻の扉を押し開いた。
その時だった。いつの間にか、女は鉄檻のすぐ前まで進んでいた。
ギィィィ……バギャァン!! キィィィン!!ザンッ……
凄まじい音を立て、黄金の鉄檻が巨大な力によって砕け、紙くずのように潰れていく――。
オルブレムは思わず息を呑んだ。
(まずい。密かに脱出するはずだったのに、この音ではすぐに気づかれる!)
案の定、扉がバァン! と勢いよく開き、一人の魔法使いが駆け込んできた。
オルブレムが反応する間もなく、突如、床から太い鎖が無数に飛び出し、魔法使いの手足と胴を締め上げた。続けざまに、どこからともなく黒い金属でできた巨大な錐が降り注ぎ、魔法使いの全身を串刺しにした。
凄まじい悲鳴と、血飛沫。飛び散る肉片と臓腑。
オルブレムは目を見開いたまま、女へと視線を向けた。
彼女の腕の中の少女は、リボンで目を覆われたまま、まるで眠っているかのようだった。
ドロォォォ……ズルルル……
足元から、何かが転がる音がし、金属を擦るような不気味な響きが全身に伝わった。
気づけば、彼らの足下には、どす黒く粘ついた血溜まりが広がっていた。その中を、無数の鎖がまるで生き物のように蠢いている。
ギィィン……カシャァァ……!
絡み合う鎖がぶつかり、鋼鉄の摩擦音を響かせる。それに混じり、血の生臭い匂いが辺り一帯を支配した。
オルブレムは、目の前の光景に圧倒されてしまった。
女は、鎖の上に立っていた。そして、鎖の動きに合わせてゆっくりと前へ進んでいく。オルブレムもまた、いつの間にか鎖の上に乗せられ、抗うこともできぬまま、彼女の後をついて移動していた。
ガシャァン!!ドゴォン!!!
無数の鎖が四方八方へと飛び出し、壁を砕き、扉を薙ぎ倒し、目に入る人間たちを片端から絡め取って粉砕していく。
ゴゴゴゴゴ……!!!
頭上から降り注ぐのは、雷雨のごとく振り落ちる巨大な黒鋼の錐。それらは、目の前のすべてを貫き、破壊し、塵と化していった。
血の復讐か?
しかし、わずかに項垂れた女の肩は、悲しげに落ち込んでいた。それは復讐の快楽ではなかった。彼女一人のものではない、一族に積み重ねられてきた悲しみと怒り、涙の嘆きがそこにあった。
それはまた、あふれる血と激しい苦痛、逃れられぬ絶望の世界だった。その圧倒的な破壊力と恐怖を前に、オルブレムはただ茫然と彼女の背中を見つめることしかできなかった。
やがて悪夢のトンネルの果てに、突然訪れた静寂を意識し、何度か瞬きをしたオルブレムは、彼女が自分を見つめていることに気づいた。
いつの間にか、彼は外界の陽の下に立ち、女は崩壊した残骸と血の池の中にいた。陽光に照らされた彼女の顔は、白を通り越して青白く見えるほどだった。
女は胸に抱いた子供を、すべてを委ねるように強く抱きしめた。その体全体から、まるで月光のような銀色の輝きが溢れ出す。やがて女が、顔を上げ、両腕を前に差し出すと、子供の体が宙に浮かび、オルブレムのもとへと渡った。
オルブレムは、何かに導かれるようにその子を抱きとった。
彼女が口を開いた。
「私は、ここまでです。私たち2人を連れて彼らから逃れることはできません」
初めて聞く彼女の声は、今にも消え入りそうなほどか細く、儚げで、そして優しかった。
女の姿が揺らめき、一瞬の残像を残しながら宙に浮かぶ。そして、彼のもとへ近づき、そっと唇を重ねた。
彼女の唇が離れるその瞬間、オルブレムは自分が彼女に抱いていた感情が、単なる同情ではなく、もしかすると愛だったのかもしれないと悟った。
女は囁いた。
「私の名は、ニスベットといいます。この子に、その名を授けてください」
オルブレムが顔を上げたときには、彼女の身体は、ゆっくりと足元の血の池へと沈んでいくところだった。水をたたえたような瞳には涙が溜まり、儚げな微笑みが浮かんでいた。
「行ってください。あなたの救いに、感謝致します」
片腕で子供を抱きかかえ、馬を駆りながら、オルブレムは大人になって以来初めて、幼子のように声をあげて泣いた。それが成功の安堵からなのか、それとも彼女の哀れな運命を思ってのことなのか、自分でも分からなかった。胸の内で渦巻く得体の知れない感情が、彼の心臓を無残に引き裂いた。
「クソッ……クソッ……」
誰に向けたものとも知れぬ呪詛が、口をついて漏れる。
しばらく疾駆しているとき、小さな腕が彼の身体をそっと抱きしめるのを感じた。
オルブレムは馬を止めた。
少女が顔を上げ、彼を見上げた。母親に似た幼い顔は、涙に濡れていた。
オルブレムは喉を整え、何かを言おうとしたが、声は詰まってうまく出てこなかった。
「すまない……母さんは……」
子供は涙しながらも、はっきりと言った。
「分かっています……お母さんは、喜んで行きました」
もう、それ以上何も言えなかった。
オルブレムはただ、子供を強く抱きしめた。
彼女――ニスベットは、子供を救い、そしてオルブレムの肩の荷を下ろすために、自らを犠牲にした。あの術は、彼女自身の命を燃やす対価だったのだ。
この子だけは、何があっても守る――。彼は、強く誓った。
(絶対に、同じ悲劇を繰り返させはしない。
*** ***
カリトラム国王エリプトンは怒りを抑えきれず、執務室の机に置かれた物を一気に払い落とした。
「オルブレム……あいつが……!」
秘密施設で異変が起こり、女と子供が姿を消したという報告を受けたのは、ブレイツリー王との初会談を終えた夜だった。すぐにでも王城へ戻りたいところだったが、ブレイツリー王との会談である以上、予定を反故にするわけにもいかない。
焦燥を抱えながらも何とか予定を消化し、急ぎ戻ってきた。
だが最初は、一体誰がこんなことを仕組んだのかすら、分からなかった。施設全体が徹底に破壊され、そこにいた者たちは、遺体を収容することすら叶わぬほど無惨に引き裂かれ、砕かれていた。
彼の厳命のもと、粉々になった遺体の身元を一つ一つ確認するという地獄のような作業が続き――。そして、ついに判明した。そこにいない人物の名が、一つだけあった。
オルブレム。
遥か彼方の西大陸から、彼を招いたのは、レトの教育と、将来生まれるであろうレトの子のためだった。生まれつき聡明で、他に類を見ない才能を持つレトを、最高の王へと育てるために。そして、純血の血を継ぐレトの子が持つであろう神秘的な力を理解し、活用するために。そのために、彼の知識と力が必要だと判断したのだ。
著名な学者にして、大魔法使いであり、そして研究者でもあるオルブレムが、王室の秘密を快く思わないかもしれないことは、エリプトンも承知していた。案の定、彼は最初こそ大きく驚いたようだったが、その後は母娘を観察し、研究することに素直に協力した。
古代帝国の秘密を目の当たりにした魔法使いたちが、良心の呵責などあっさり捨て去る光景を幾度となく見てきたエリプトンは、オルブレムもまた例外ではないと考えていた。
エリプトンは怒りを噛み殺すように、 側近のダカーに命じた。
「すぐに追跡隊を編成し、奴を探し出せ。一刻も早く捕えねばならん」
「はっ。しかし、すでに数日が経過しており、行方が……」
ダカーが難しそうな表情を浮かべると、エリプトンは鋭い眼差しで彼を睨みつけた。
「各地に指名手配の布告を出せ。混沌の地にも追跡隊を送るんだ。手段は問わん。あの子供だけは生きて捕えろ。奴と女の方はどうなっても構わん!」
「かしこまりました」
ダカーが執務室を辞した後、エリプトンは勢いよく立ち上がり、不安げな足取りで部屋を行ったり来たりした。
脳裏にはさまざまな思考が絡み合い、混乱が渦を巻く。
あの凄まじい魔法で人々を引き裂いたのは、果たしてオルブレムの仕業なのか? 内心では彼らを軽蔑していたとはいえ、施設にいた者たちの中には、長年オルブレムと顔を合わせてきた者も多い。
魔法使いである以前に、学識ある研究者であり、哲学者でもある彼が、果たしてそこまで残忍な術を使ったものだろうか?
まさか、あの女の力なのか……?
彼女は片目の鳥の群れの中に投げ込まれ、記憶をすべて消去されたはずだ。それなのに、もしあれほどの力を隠し持ちながら、今まで誰も欺いてきたのだとしたら?
そもそも、オルブレムは、本当に単独でこの大胆な計画を実行したのか? 事情をよく知る何者かが、彼に手を貸していた可能性もある。
オルブレムと親しく、なおかつ、あの日、あの場で死亡した者たちを除いた誰か。その考えがよぎった瞬間、エリプトンは激しく首を振り、頭の中に浮かびかけた疑念を振り払った。
そんなことがあってはならない。
レトは、このすべての結末を飾るために必要不可欠な存在なのだ。彼こそが、カリトラムを盤石の王国へと導く王とならねばならぬ。
エリプトンの疑念はすぐに別の方向へ向かった。
彼には、レトの下にもう2人の息子がいる。しかし、次男のジョナソンは幼い頃からすでに残忍で狡猾な本性を露わにしていた。そして3男は愚鈍で、欲深いだけの男だった。
問題は、ジョナソンが王位を狙っていることだった。ジョナソンは、レトの慎重さを〈優柔不断〉と嘲り、ブレイツリーとの戦争を主張する急進派貴族たちを扇動して支持を集めていた。さらに、エリプトンが秘密の金庫に厳重に隠していた〈鍵〉に、異常なまでの関心を寄せていた。そして、ジョナソンがその鍵に関する情報を盗み出した可能性があるという密告が、エリプトンのもとに届けられていた。
(奴があの母娘に気づき、レトより先んじようとして手を出したのではないか? だが、事がうまく運ばず、レトに罪を着せるためにオルブレムを密かに始末した……そんな可能性もあるのでは?
あるいは、俺の考えをこの方向へ導くための2重の罠か? それとも、レトを王位につかせないこと自体が、オルブレムの計画の一部だったのか?)
疑念は次々と膨らみ、尽きることがなかった。しかし、今はまだ何一つ確証があるわけではない
「まだ終わっちゃいない。どうにかして、少女さえ取り戻せば……」
エリプトンは拳を固く握りしめた。