21. ハーフエルフの夫婦
何事もなく無事シエストへ到着した一行は、宿を取り、荷物を置いた後、二手に分かれて各自の用事に向かった。ヴェルサたちは、道中で狩った小型の魔獣や動物の肉や素材を売りに行き、ニスベットはプラウスを抱えたままゴーレム馬に乗り、エルフの官舎へと向かった。
宿を出る前に、あらかじめ赤ん坊に牛乳を飲ませたが、その時はあまり飲む気がなかったのか、ほとんど口をつけなかった。ところが、道中で突然プラウスが大声で泣き始めた。ニスベットは慌てて馬から降り、赤ん坊の背中を優しく叩きながらあやしたが、なかなか泣き止んでくれなかった。困り果てた彼女に、誰かが声をかけた。
「お腹が空いたのかもしれませんね。よろしければ、少し見せてもらってもいいですか?」
振り向くと、どこか見覚えのある穏やかな印象のハーフエルフの男性が立っていた。
彼は、屋台で妻とともに料理を作って売っている人物で、オルブレムの使いで街に出た際、何度か食事を買ったことがあった。ニスベットが彼を見つめると、男性はすぐに頭を下げ、申し訳なさそうに言った。
「出過ぎたまねを言ってしまったのなら、申し訳ございません。ただ、お困りのようでしたので……」
「困っているのは、事実です」
そう答えると、男性は妻の方を指しながら言った。
「妻がつい最近、子供を産んだばかりで母乳が出ます。もしよろしければ……」
ニスベットが頷くと、女性がそっと近づき、プラウスを抱き上げた。そして身を翻し、衣の胸元を整えて赤ん坊に乳を含ませた。驚くほどあっさりとプラウスの泣き声が止まり、夢中で口を動かし始めた。
そんな様子を見守っていた男性が、ニスベットに慎重に問いかけた。
「どうしてハーフエルフの赤ん坊を……それも、〈悲しみの子〉を連れておられるのでしょうか?」
「シエストへ向かう途中、混沌の地で見つけました」
その言葉を聞いたとたん、男性の表情が切なげに歪んだ。しばらく躊躇った後、彼は小さな声で尋ねた。
「……ということは、この子をどこかに預けるおつもりなのですね?」
「私が育てるつもりです」
「え?」
驚いたのは、男性だけではなかった。彼の妻もまた、びっくりしてニスベットを見つめた。
「〈悲しみの子〉を……育てると?」
「自ら望んで、こう生まれたわけではないでしょう? 父が言っていました。親の罪を、子に背負わせてはならないと」
その瞬間、夫婦の瞳が潤むのを見て、ニスベットは彼らもまた〈悲しみの子〉であることに気付いた。赤ん坊に乳を与えていた女性は、静かにすすり泣き始めた。彼女の夫が、慌てていつもの癖のように謝罪した。
「すみません。子供を失ったばかりで、涙もろくなってしまって……」
──赤ん坊を失ったハーフエルフの夫婦。
ニスベットは、しばらくの間プラウスを彼らに預けるのも、一つの選択かもしれないと考えた。赤ん坊にとって、母乳と温かな世話は何よりも大切だから。しかし、自分が責任を負うと決めた以上、彼らがどんな人物なのか、どのような環境で暮らしているのかを知る必要があった。
そこでまず、費用を支払うので、数日間プラウスを預かってもらえないか尋ねた。夫婦が快諾すると、ニスベットはそのまま彼らの家へ同行することにした。
大通りから路地へ入り、見たことのない細い裏道をしばらく進んだ先に、彼らの住まいはあった。その光景に、ニスベットは思わず息を呑んだ。
ただでさえ狭く、ぎっしりと密集した古びたレンガ造りの建物もそうだが、何より驚いたのは、一つの建物に、しかも同じ階にさえ、何世帯もの家族が仕切りを隔てて暮らしていることだった。
夫婦が暮らすのは、6階建ての建物の最上階にある一室だった。2階ごとに1つの共同キッチンがあり、トイレは1階に2つしかなく、すべての住人がそれを共有しているのだという。
「でも、こうして風雨を凌げる寝床があるだけでも、ありがたいことですよ」
夫のヘイブが、気恥ずかしそうに言った。
ニスベットは黙って、夫婦の荒れた手を見つめた。ひび割れ、ざらついた指先。その手に刻まれた労苦の跡が、彼らの暮らしを支えていることを物語っていた。
ニスベットは、夫婦とプラウスを連れてそこを出た。入り組んだ路地を抜けるだけでも、彼らの案内が必要だった。
大通りに出ると、ニスベットは夫婦に、自分が泊まっている宿に行ってヴェルサ一行を待ち、事情を話せば、部屋を用意してもらえるだろうと伝え、しばらく宿に滞在するように言い残した。
それから馬に乗り、エルフの公館へと向かった。エルフの公館に入ると、秘密の通路を通ってそのまま〈バラの魔塔〉へ入った。書斎に置かれている魔法具を使い、ニスベットはリアンジェに連絡を取った。セルディーヌの使いを無事に終えた報告と、一つ相談したいことがあるという内容だった。
間もなく、リアンジェが転移陣を通じて姿を現した。銀色の鎧を纏った彼女は、ニスベットの顔を見るなり言った。
「お疲れさま。ヘルファオンには一日も滞在せずに、すぐ出発したんですって?」
「情報が早いですね」
「せっかく、そこまで行ったのだから、観光でもしてくればよかったのに。ずっと一人で行動していたの?」
仮面を外したニスベットは、リアンジェを見て微笑んだ。
「相変わらず、嘘はお上手じゃないですね。ずっと後ろから距離を取って、ついてきていたでしょう?」
リアンジェは、ドキッとした顔で唇を動かしたが、否定はしなかった。
「私を襲った連中はどうなりました?」
「殺人未遂と強盗未遂の罪で、近くの安全都市の治安隊に引き渡した。処罰を受けた後は、2度とどの安全都市に出入りできないよう追放されるはずよ。たぶん、混沌の地を去ることになるね。安全都市なしで生き延びられるほどの強者ではないだろうし」
「これは、ヘルファオンのアミレア様からの書簡です。セルディーヌ様にお渡しください」
「分かった」
リアンジェが書簡を受け取ると、ニスベットは一瞬迷った後、切り出した。
「私が〈悲しみの子〉を連れてきたこと、ご存じですよね? その子を、私が責任を持って育てようと思うんです」
リアンジェは、ある程度予想していたのか、それほど驚いた様子はなかった。
「子どもを引き取るのは、慎重に考えるべきことよ。相応の責任と覚悟が必要になるわ」
「もしかして〈悲しみの子〉だから……ですか?」
リアンジェは苦い表情を浮かべた。
「私たちが〈悲しみの子〉を避けるのは、事実よ。ニスベット、あなたも普通の人間とは違うのだから、意識しようとすれば、感じ取れるはず。私のようなエルフと、その赤ん坊の〈何か〉が違うって」
その言葉を聞いたニスベットは、リアンジェの存在を改めて感じ取ろうとした。言われてみれば、確かに──プラウスやあのハーフエルフの夫婦とは、違う気配があった。
「おっしゃる通り、少し違うような気はします。でも、プラウスの気配が不快だとか、そういうことはありません」
「それが、我々と人間族の違いでもあるの。我々には、本能的に、より鮮明に感じ取れる不快な感覚がある。確かに、我々は彼らを仲間として受け入れることはできない。だが、それでも彼らが生きる権利に干渉するつもりもない。だから、今言っていることは〈悲しみの子〉だからではなく、一般論として受け取ってほしい」
「父が私と母に出会い、脱出させる決意をしたのが運命ならば、あの荒れ果てた大地でプラウスが私と出会ったのも、運命ではないかと思います。それに、人間にもエルフにも属せないあの子の運命は、どこか私と似ている気がして……。私も、人間でもエルフでもない、どちらにも属さない存在でしょう?」
「それは違う。あなたは、高貴な」
ニスベットは、リアンジェの言葉を途中で遮った。
「そんなふうに自分のことを考えたくはありません。私たちの一族は、輝かしい文明を築き上げましたが、それを自ら崩壊させ、世界を滅亡の淵へと追いやりかけました」
リアンジェは静かにため息をつき、優しくニスベットを抱きしめた。
「先祖の過ちを、あなたが背負う必要はない。あなたはあなたのままでいい。……あなたの決意はよく分かったわ。私にできることはあったら、何でも話して」
「実は、シエストに家を構えたいと思います。魔塔は外部に知られてはならない場所ですから。費用は、父が残してくれたお金や品で賄うつもりです」
「そんなことは気にしないで。それくらい、私たちがどうにでもしてやれる。……それで、その後はどうするつもりなの?」
「お金を稼ごうと思っています」
リアンジェは驚き、目を見開いた。
「お金を……稼ぐ?」
「はい。冒険者パーティーに入ろうかと。人間の世界で生きるには、お金を使うことだけでなく、稼ぐことも覚えなければなりません。できるだけ、父が残したものには手をつけず、自分の力で育てていきたいです。それに、まず私自身が生きる術を学ばなければ、子どもにも教えられませんから」
「冒険者パーティー、か……」
リアンジェは、なんとも言えない表情で首をかしげた。
「セルディーヌ様とカラナエル様が何とおっしゃるか」
「反対されるでしょうか?」
ニスベットが不安そうに尋ねると、リアンジェはふっと微笑んだ。
「カラナエル様なら、あなたの考えに任せようと、おっしゃるだろう。セルディーヌ様は不満を漏らすかもしれないが、最終的にはカラナエル様の意向に従うはずだし。家の件はすぐに手配しよう。決まったら、あなたが泊まっている宿に連絡を入れるから、そこで待っていなさい」
リアンジェが帰った後、ニスベットは懐かしい家の中を歩き回り、いくつかの品を手に取ると、外へと足を踏み出した。
*** ***
夜遅く宿に戻ると、皆はすでに眠っていたが、ヴェルサだけが彼女を待っていた。
「乳母までもう見つけたなんて、本格的ですね。家の方はどうなりました?」
「もうすぐ決まりそうです」
「いやはや、腕がいいというか、コネがいいというか」
家の問題が解決したと聞いて、ヴェルサも少し安心した様子だった。
「どう思います? あの夫婦のこと」
「まあ、苦労は相当したみたいだけど、基本的に穏やかな人たちみたいですね。人間って、じっくり時間をかけて見ないと、分からないものだけど。少なくとも、ずる賢いとか生意気とか、そういう感じの人たちではないように見えます」
「ヴェルサがそう言ってくれるなら、安心です。プラウスはよく懐いていましたか?」
ヴェルサはくすっと笑った。
「腹が減れば乳をくれる、汚せばおむつを替えてくれる、泣けば抱いてくれる──あいつにとっては、十分満足できる環境なんじゃないですか?」
「家が決まったら、みんなで新居のお披露目をしようと思っています。ぜひ参加してほしいです」
「もちろんです。せっかくの縁ですし、あの坊やがどんな家に住むのか、しっかり見届けないとね」
ヴェルサは人懐っこい笑みを浮かべた。




