2. 共謀者
それ以来、オルブレムも王太子レトも、あの場所での出来事について一切口にすることはなかった。レトは何事もなかったかのように振る舞っていたが、オルブレムは、彼との間に奇妙な緊張感と見えない壁が生まれたのを感じていた。
「さあ、前回読んだ続きのページから始めましょう」
オルブレムがそう言うと、レトは分厚い哲学書のページを開いた。その合間に、一枚の小さな紙切れが挟まっていた。
レトは無言のまま、それをオルブレムに差し出した。
『なぜ、あのようなことに加担しておられるのですか?』
素早く内容を読み取ったオルブレムは、念のため手を上げ、自身とレトの周囲に沈黙の帳を張った。そして、指先に黒い炎を灯し、紙を跡形もなく燃やし尽くした。
彼は何事もなかったかのように、平然と問い返した。
「〈あのようなこと〉とは、一体何を指しておられるのでしょう?」
聡明なレトは、オルブレムが沈黙の帳を張った意図を分かっていた。彼はまっすぐオルブレムを見つめ、静かに言った。
「……あの女と、子どものことです」
オルブレムは苦笑しながら呟いた。
「私が知ったのも、そう遠い昔のことではありません。まだ一年も経っていない」
「私は……」
レトは一瞬言葉を詰まらせ、それから意を決したように続けた。
「私は、あなたを師として信じ、尊敬していました。それなのに、どうして……あのようなことを見過ごせるのですか?」
オルブレムは、彼の言葉を遮るように言った。
「私に何ができたと思いますか? 王太子殿下もお分かりでしょう?この手の秘密を知った者には、選択肢は2つしかない。その場で死ぬか、それとも協力するか――」
「だから、あなたは命を選ばれたのですか?」
レトの澄んだ瞳が、まっすぐオルブレムを射抜いた。まだ若いが、そこには確固たる信念と決意が宿っていた。
王国の醜い真実を知る前、オルブレムは、レトの中に聖王の資質を見ていた。そして、そんな未来の王の師になれたことを、この上ない幸運だと思っていた。
今日、彼はその考えが間違いではなかったことを再び確信した。オルブレムは静かに、満足げな笑みを浮かべた。
「私は、第3の道を考えています」
オルブレムの言葉を聞いたレトは、即座にその意味を理解した。
「私も手を貸します。この屈辱的な陰謀を、ここで断ち切りたい」
「その決意は、あなたご自身を大きな危険にさらすことになります」
「承知しています。父上は『王たる者は些細な闇には目をつむるべきだ』と申しました。しかし、これは決して〈些細な闇〉などではありません。
これを受け入れるということは、私も、そして王国も、あの忌まわしき闇に飲み込まれるということです」
この少年を、信じてもいいのか? オルブレムは一瞬考えた。
信頼というものが、いかに脆く、それでいて、時に揺るぎないものかを、彼は人生の中で嫌というほど学んできた。
レトはまだ若い。しかし、人格というものは、年齢に比例するものではなく、むしろ本質と資質に左右されるものだとオルブレムは思っていた。
彼は、レトが差し出した手を、迷うことなく取ることにした。こうして、師と弟子は、王に背く共謀者となった。
*** ***
オルブレムとレトが秘密を共有してから、2年の月日が流れた。
レトは17歳になり、これまでの間、2人は『黄金の鳥籠』を巡る数多くの情報を手に入れていた。内部の施設、構造、常駐する人員と警備の配置、そして脱出ルート……。計画はほぼ完成しつつあったが、最大の問題が残っていた。
それは、『黄金の鳥籠』の鍵であった。母娘が閉じ込められているその檻の鍵は、たったひとつしか存在せず、それは王の執務室にある秘密の金庫に保管されていた。この金庫の存在を知る者はごくわずかしかおらず、鍵を手に入れるには、王が長期間宮殿を離れる機会を待つしかなかった。
そして、ついに、彼らにその機会が訪れた。エリプトン王が、北の国境で敵対するブレイツリーとの和平条約を結ぶため、国境地帯へと旅立つことになったのだ。移動と滞在期間を含め、およそ15日間、王宮は王不在となる。エリプトンはその間、王太子であるレトに〈王の代理〉を任せた。
オルブレムは王宮の窓辺に立ち、王の行列が市街を通り過ぎる様子をじっと見つめていた。
エリプトンが会談の場へ到着する日――それが、決行の日となる。
ブレイツリーとカリトラム。この2国は、かつて一つの国であった。
その昔、ある国の王子兄弟が〈混沌の地〉へと冒険の旅をし、そこに眠る古代帝国の遺跡を発見した。2人は、その遺跡の奥深くで、2つの宝を手に入れる。
兄は、〈指輪〉を得て、弟は、〈聖剣〉を得た。
しかし、その日を境に、兄弟の間には亀裂が生じた。やがて王位を巡り、国は2つの派閥に分かれ、内戦寸前の状況へと発展する。結局のところ、兄が王位を継承し、敗れた弟は自身の支持者らを引き連れて南へと下り、別の国を建てた。
こうして、ブレイツリーとカリトラム――かつて一つであった国は、敵対する2国へと変わったのだった。以来、カリトラムは、ブレイツリー側が持つ〈王の指輪〉への正当な所有権を主張し続けた。当然、ブレイツリー側はこれを認めていない。
領土問題も絡み、両国は度々争いを繰り返し、幾度となく戦火を交えた。だからこそ、ブレイツリー国王との和平会談は、カリトラムにとっても極めて重要な外交案件であり、それを王が取り止めるなど、決して許されることではなかった。
王の行列が市街を抜けるのを見届けたオルブレムは、静かに自らの研究室へと戻った。
扉を施錠すると、彼は召喚魔法を用い、立方体の物体を呼び出した。それは透明な宝石のように輝くキューブであり、〈造形の核〉と呼ばれる魔法帝国の遺物だった。オルブレムが、若き日に古代遺跡での苦難の末に手に入れた秘宝である。
彼はもう片方の手で、研究室の片隅に置かれた金属製の机と椅子を指し示した。すると、それらは宙に浮かび、ゆっくりと〈造形の核〉の周囲へと移動していく。キューブの内部から魔力の光が渦巻くと同時に、机と椅子は瞬く間に金属の塊へと変化し、やがて形を成していった。
それは、一体の騎士だった。全身を重厚な鎧で覆い、顔には金属の仮面をつけた、協力なる守護者。これこそが、オルブレムが用意した切り札だった。
『黄金の鳥籠』の母娘を脱出させるには、オルブレム一人では到底足りなかった。王宮の外郭に設置された秘密施設の内部では、転移魔法の使用が禁じられており、脱出口までは徒歩で移動するしかない。
牢に囚われていた母娘がまともに歩けない可能性も考慮し、オルブレムは彼女たちを魔法で浮かせて運ぶつもりだった。
問題は戦闘になった場合だった。敵の攻撃から母娘を守りつつ、オルブレム一人で立ち向かうのは無謀に近い。そこで、彼を援護するために必要なのが、このゴーレムナイトであり、オルブレムにとって戦局を左右する重要な戦力だった。
その時、扉を叩く音が響いた。この時間に訪ねてくるのは、レトしかいない。
それでもオルブレムは、慎重に彼の存在を確認した後、魔法で扉を開けた。
研究室へと入ってきたレトは、金属の騎士を見ても特に驚く様子もなく、馴染んだような態度だった。しかし、その顔は硬く引き締まり、これからの計画に対する緊張と不安が滲んでいた。
オルブレムが口を開いた。
「これから、本格的に狩猟大会と宴の準備を進めることになりますね」
「ええ。まずは、その手筈を整えなくては」
2人が決行の日として選んだのは、カリトラム王とブレイツリー王の会談の前日だった。
エリプトンが、絶対に途中で戻ることのできない状況を作るためである。
そして、その日――カリトラム王城では、狩猟大会と大規模な宴が開催されることになっていた。
カリトラム国内には、ブレイツリーとの和平条約に反対する好戦派が存在し、その背後には第2王子ジョナサンと王妃の実家であるディコブ公爵家が控えていた。ディコブ公爵家は、レトの母方の一族でもあるが、野心家である公爵は、自身の影響が及びにくいレトよりも、ジョナサンを次期国王に擁立する動きを水面下で進めていた。
レトは、この内情を理由にエリプトンへ進言した。
「和平会談の成功を祈り、国内の結束を強めるため、私が主催する盛大な宴と狩猟大会を開催したい」と。
エリプトンはその提案を気に入り、快く承諾した。
表向きには、レトの許嫁であるマグリタ王女の誕生日を祝うという名目で開催されることになっていた。そして、当然ながらこの催しの真の目的は、脱出決行の日に、できるだけ人々の注意を逸らし、秘密施設の警備を手薄にすることだった。
「鍵は、当日の午前中に私が直接お渡しします」
レトが静かに言った。
「よろしくお願いいたします」
レトは、じっとオルブレムの顔を見つめた。
「その日が過ぎれば、もう2度とお会いできないのでしょうね?」
「おそらく、そうなるでしょう。成功すれば、私は世界の果てに身を隠すことになる。失敗すれば、この場で私の人生は終わる」
オルブレムは手を伸ばし、金属の騎士を元の形へと戻した。透明な宝石のようなキューブが、彼の左手の上で淡い光を放ちながら静かに回転していた。
最悪の事態になれば、オルブレムはこのキューブに自身の全魔力を注ぎ込み、爆発させるつもりだった。ここに込められた力は、秘密施設のある外城全体を吹き飛ばしても余りあるほどの威力を秘めていた。
そうなれば、秘密施設を覆う転移魔法の制限も解除されるだろう。そして、施設が完全に崩壊する直前に、母娘を遠く離れた場所へ送り出す――。だが、それはオルブレム自身の確実な死を意味していた。
「彼女たちを救いたい気持ちは確かです。でも、それが師匠をこんな危険に晒すことになるのが辛い。罪悪感が拭えません。我が王家が犯した罪を、師匠の犠牲で帳消しにすることが、本当に正しいのでしょうか?」
レトの表情が翳る。
オルブレムはそっと彼の肩に手を置いた。
「殿下はまだお若い。これから、成すべきことが数多くあるでしょう。殿下には生きてきた年月よりも、生きるべき未来のほうが長いのです。だからこそ、この役目は私が担うのがふさわしい。
正しい道を知っておきながら、それを実行しないのであれば、今まで私が求めてきた知識や学問に何の意味があるのでしょう?
今を逃せば、もう2度と機会は訪れません。どうか、お心を強くお持ちください」
レトは言葉を失い、しばしの沈黙の後、静かに頷いた。
彼には許嫁ができた。そして、鉄格子の向こうにいる少女もまた、ゆっくりと成長している。このままでは、エリプトンが進める忌まわしき運命が、その少女とレトを容赦なく呑み込んでしまうのだろう。