黎明
何も無い。
光も音も何もかも全て感じない。
其れにいつからここにいるのか分からない。
私は誰なのだろうか。自分の名前すら思い出せない。時間間隔が不明だ。ずっと昔から此処にいるようなついさっきからしか此処にいないような気がする。
……怖い。何もかも分からない中で漠然とした恐怖がある。何でなんだろう。
本能から来る死への恐怖とかだろうか。そもそも私は何なのだろうか。名前もなく……
何はともあれ今は考えることしか出来ない。だが今気づいたんだ、眠い。
唯一今できる考えることすら億劫なほど。
今にも微睡みへと沈みゆく意識も相まって。
でも今意識を失うと、自分すらも失ってしまいそうで怖い……。意識が無いと肉体が無いので自分がこの世界にいる証左が無いのだ。今消えては死んだのと同じだ。死にたく無い。不思議とそう思えた。
遣る方ない恐怖にありもしない歯をガチガチと鳴らした。
……どれだけの時間が経ったのだろうか。恐怖と眠気と経った時間の長さが不明な所為でやっと、というべきかどうかは預かり知らぬが触覚や聴覚が回復してきた。手先がじんわりと冷えている、心臓の鼓動や呼吸音が聞こえる。
これらが指し示すことは私は意識だけじゃないということだ
ならもう意識を手放してしまっても。
いーや限界だ。
「あなたは誰? 意識がない?……魔法の乱れを検知したが……まさか関係がある? しかしそんなことは有り得……」
沈む意識の中で誰かの声が聞こえる。
返事は返せそうにないな。聞こえはしても夢見た世界みたいに。朧げに鼓膜を震わせるのみ。言葉に意義は見いだせない。
私は深い深い眠りの中に落ちていく。
もっともっと……
あぁ……なんだ。さっきのは夢だったのか。
嫌な夢だった。
目を覚まし、半透明な薄緑に満ちた視界を眺める。
今日も私は培養槽の中で暮らしている。
ずっと昔から意識がある頃にはこの中にいた。
私はマリー。多分なんらかの実験体なのだろう。
実験体は知らないことを知るための道具らしい。
そういう会話をしているのを聞くのだ。
毎日寝て起きると博士と名乗る人と職員という人が二、三人来ると。
彼らは私と同じような体の構成だ。人間と言うらしい。
まあ、博士は優しいし、職員の人達はみんな私のことを気遣ってくれているし、私は満足だ。
景色は毎日一緒だけどたのしい。不幸ではない。十分だ。
この生活が末永く続くなら他には何もかも不要だ。経過観察として職員や博士は交代で私とお話してくれるし、退屈はしない。外聞を聞くのはとても楽しい。私が言葉を解するのも彼等のおかげだろうな。
おや?……ほら、今日も博士が来た。
私は培養槽の壁に迫り喋りだした。水中では声が出ないそうだが私は喋れる。
「博士! 嫌な夢を見たんですよ! 真っ暗で怖くて……。本当に嫌だったんですよ!」
「そうか……。すまないなマリー」
「博士が謝らないでくださいよ! どうしたんですか!」
博士はいつも自分の好きなことを喋り尽くしてから、ようやく会話を始める。しかし、なんと今日は返事を最初にしてくれたのだよ。おもわず声も大きくなってしまったよ。
「もうこの世界は終わりだ。だけど君には生きて欲しい。だからこれでお別れだ。」
え!
「えっ! 何の冗談ですか? 縁起でもないですよ! 本当に?」
「そう……だな。本当に……すまない」
博士は目を潤ませて……どうしたんだろう?
あれっ?ガラスが濁って博士が見えない。
パリーンと音が鳴った。
培養槽のガラスにビキビキと亀裂がはいり砕けた。
培養槽から培養液が我先にと外へ溢れてぷかぷかと浮く私は押し流され地を這う。
私は重い体の関節を揺らして不慣れな動きで歩む。培養液の外に初めて出た。
息が苦しかった。
「博士ッ!」
声を荒らげた。生まれて初めて直接喉で空気を震わせた。
……動かない。足が。立ち上がろうにも重い。重すぎる。肺から培養液が飛び出す。咽て痛い。
そういえば博士は……
「あっぁああ。いやぁぁ、うわぁあぁぁあ!」
えぇ……
巨大な翼の生えた蛇の怪物が博士を轢き潰している。赤い水たまりが地面に広がる。なみなみと水面が揺らいで、揺らいで……
「おボォぇグッェェ」
口周りを生温い感触が征服する。苦い味を初めて知った。
見上げた先には……
蛇の牙から滴る液体が燃え上がり私がドアのすき間からしか見たことのない場所はは炎に包まれている。少し目を凝らすと、職員の人の死体が転がっていた。もう何も分からなかった。
怪物の赤き目は翼の隙間から私を覗き込む。私と同じ十字に裂けた目だ。怖い。
怪物の十三の目が燃え上がり、零れる。ドボドボと音を立てては床を熔かし、また際限なく堕ちてくる。
十三の翼が広がりその全てが一つ一つの羽で私を丁寧に刺した。体から血が滲んで血液が肌を伝って落ちる。足先が濡れるにしたがい視界が荒くモノクロに変わる。痛みは無かった。
でも足が竦んで動けなかった。
力が入らない。
うつ伏せで全身を脱力感に苛まれて、世界が赤く、赤く染まる。
【ccccccceeeeeerrrrrrrbbbg】
形容し難い鳴き声を上げて怪物が私によって手折れる。静謐と焔に包まれた世界で私は嘆いた。
「こんなの嘘だッ!現実じゃ……ない……こんな世界も無かったんだ」
「あっ。」
神性を検知しました。
世界終末機構を起動します。
内部システム干渉を開始。
波状混濁世界用手順を実行。
世界記憶の消去を始めます。
消波構造構築干渉を完了しました。
存在適性波の抹消率を提示します。
3%…………70%……97%……100%
此世界の終末を当システムは観測しました。
世界の消去完了です。お疲れ様です。
世界終末機構を終了します。
救世を起動します。
神性が相対的最高値の世界を探索します。
検知しました。
検知した世界に移動を開始します。
移動は完了しました。
良い終末を。
私は夢から醒める。夢?
ゆめとは、とは、とは。
何?
────────
「聞こえますかー?……あれー、起きないなー……もうとっくに起きている筈なんだけれど。聞こえますかー? うーんとね……これはね……設定するの初めてだし設定間違えた、か……」
誰だろうか、声が聞こえる。先程とは違って、はっきりと声が響くし意味もまあ何となく読み取れる。なんか、はなしてるんだろ……なんか分かんないけど。思ったより分かんなかったわ。
……ん、そういえば最後に聞いた声と同じ声だな。
それはそうと誰かがどんな話をしてるか耳を澄ます。
つーーーーーーーー
耳鳴りがする……
私は意識こそ明瞭だが情報処理能力は未だ低い、ぼんやりと夢をみているような、寝起きの為に頭がぽけーとしてるような感じだ。
そしてその後も誰かは話をしていた。その話を聞くには私は眠っているらしい。
そうして情報をゆっくり理解しながらしばらく聞こえる声に耳を傾けていると感覚が全て回復していることに気付いた。
体のまわりにサラサラとした感触がする。
甘い匂いがする。
明るい。
全身が暖かい。
私は横になっている。
私は瞼を今度こそこじ開け、上体を拙く手で支えて起きて頭をぐるっと回す。頭が横になっていたので。
視界を100%理解。私は赤と白を基調とした寝室のようなところの寝具の上に寝かされているようだ。
声が聞こえたほうには赤髪の少女がいる。
声の主だ。椅子に座って腰より少し長い程度の髪を揺らしている。彼女は目を見開いた。
私が起き上がったのを見てか少女は椅子から寝具の上に立っている私に近付いてくる。
彼女は私の目を覗き込み、じっと凝視する。そのせいで彼女の真っ赤な燃えるような瞳が私には隈なく見える。なんだか怖い。しかし目を逸らすことは出来なかった。
私の目は見終わったのだかなんだか、彼女は次に私のつま先からつむじまでを見回した後、彼女は私の背後に回り込んだ。
「ひゃうっ」
すると体が浮いた。いや持ち上げられた。後ろを私が見る間もなく。驚いて声が出た。
咄嗟の出来事に驚いた私が手足をじたばたしても彼女はびくともしない。なんて力が強いのだろうか。今の私は力が余り出ていない気もするがそれ以上に圧倒的に少女の力は強い。抵抗しても無駄だ。だらんとした私を持ち上げた彼女は歩く。
「えーと、私の名前はカミーア! ミーアって呼んでね……何か質問ある? 何でも言ってねー。
私はね、君に聞きたいことがたくさんあるんだよね。あー。後、君記憶ないよ」
私の記憶がない?
確かに起きる前の何も感じなかったときの記憶しかない。いや……ん?
何も思い出せない……記憶が本当にないというのか。
すると私は誰なのだという疑問が浮かんだ。
下を見下ろす。振り向けば、カミーアに頭がぶつかるし。 髪は白くて肩まで伸びている。肌は白くて体は少女のようにちんちくりんだ。手足も細いし。身長もカミーアよりちっちゃい感じだ。
ひとしきり体をながめ終わるとカミーアが話しだした。そしてカミーアの左腕で抱きしめられながら
「あ、ねぇこれ見て」
私はカミーアの手に握られた凝った意匠の手鏡を覗いた。