犬は逃げ道になってくれない。
犬が執拗に鳴き続けている。その犬は、いつまでも鳴き止まないように思えた。僕はベッドの上で、天井を見続けることに意識を集中させた。犬がふいに鳴き止む。死んだのかもしれない。犬が生きてようが死んでようが、どちらでもいいと僕は思っている。ただ、次に鳴き始める時は、どうか僕に知らせてほしい。僕はもう何日もこの部屋から出ていない。
部屋の前に食事が置かれる。母親の作った食事。こういったシーンをテレビで観たことがある。僕は母親がいなくなってから、その食事を取るために部屋のドアを開け、手だけを伸ばして、それを部屋に入れる。きちんとお盆に食事はのっている。僕のために母親が買ったのかもしれない。薄い青色をしたお盆。カーテンを開けると、街灯の明かりが部屋に入ってくる。僕はその明かりで箸の場所を確認し、お椀の場所を確認する。部屋の電気は付ける気にならなかった。米を噛み、肉を噛んだ。
先生と呼ばれる人が家に来た。僕の部屋の前に立ち、低くハッキリとした声で、話をしようと言っている。僕は、この男はきっと大きな体をしているに違いない、と思った。先生、話をしたら何かが変わりますか? と僕は聞いた。何日も声を出していなかったが、声は出た。
「うん、変わるよ。部屋に入れてくれないか?」
犬が鳴き始める。まだ、生きていた。
「犬が鳴いています」
「うん、ちょっとうるさいね」
「あの犬は、なんの合図もなしに鳴き始めるんです」
「そうか、君はそれが気になる?」
僕は天井を見ることに意識を集中させる。
「誰か来たのかな。なかなか鳴き止まないね」
僕は苛立ちを感じる。こんなことで苛立ちを感じてはいけないと思いながら。
「あれだったら、外に出て、どこか静かな場所で……」
「帰れ部外者!」
僕は大きな声を出した。きっと母親にも聞かれただろう。
「落ち着いて」
「あの、鳴き止まない犬が悪いんじゃなくて、僕が悪いですか?」
「誰が悪いとかいう話じゃないよ。ただ、君は世界の物事に対して過敏になりすぎているんだと思う」
「僕は元からこういう人間でした」
「うん?」
「いつこうなってもおかしくなかったということです」
「仮にそうだとしても、君はこれからも生きていかなければならない」
「どうしてそんなことを言われなければならないんだ!」
「君は逃げているだけじゃないか?」
僕は布団を頭から被った。両方の人差し指を耳に突っ込んだ。犬にはどうかずっと鳴いていてほしいと思う。もう一度も、鳴き止まないでほしい。僕は、僕は、僕は……。