第五話 朝、それと昔
2020/05/03に投稿した話です。
よろしくお願いします。
まぶたの向こうが、少し明るい気がする。
そう思ったエミーは、ゆっくりと目を開ける。ベッドの隣に取り付けられている窓のカーテンから、ちらちらと光が覗いていた。
起き上がってカーテンを開けると朝日が部屋のなかに降り注ぐ。寝ぼけていた頭がすっきりしてきた。軽く伸びをするとベッドから降りてスリッパを履く。
「……ふわぁ」
口に手を当ててあくびをした。無意識に、左頬に手をやってしまう。いつもの刻まれた紋様の感触がして、エミーは無言のまま目を細めた。
ふかふかのベッドで眠ったからか体が軽い。旅の中でたまっていた疲労がとれた感じがする。手を頬から離して、昨日マテリアが置いてくれた服に着替え始めた。
ー ー ー
「おはようございます!」
元気に挨拶しながらリビングに行くと、台所の方でリゼリナが朝食の準備をしていた。長い黒髪を後ろで束ねている彼女は、エミーに「おはよう」と返してくれた。テーブルの上には、ほかほかと温かそうな料理が並べられている。エミーはリゼリナに、お手伝いを申し出た。
「じゃあ、他の人たちを呼んできてくれる? お師匠様は起きていると思うけれど、アルフィーはまだ寝ているはずだから」
「主はどうしよう?」
「あー……あのバカ兄弟子は呼んでも来ないわよ」
「そうだねぇ、んじゃ、運ぶからお盆を貸してくれないかな?」
昨日と同じ木盆に朝食を載せて、デュークの部屋に行く。部屋は相変わらずカーテンが閉められているが、そこから僅かに日光が入ってくるので、まだ明るい。
当のデュークは、まだ眠っていた。彼の金髪が光に当たって、ほんの少し輝いている。
エミーはデュークを起こすか起こさないか一瞬迷ったが、やっぱり起こすことにした。せっかくの温かいご飯が冷めてしまったらもったいないと思ったからである。
「あーるーじー、わーがあーるじー!」
とりあえず木盆は机の上に置いて、彼の体を揺さぶる。デュークは鬱陶しそうに呻いたあと、うっすらその目を開いた。
「……んだよ」
「朝ごはんだよ、我が主! あの机にあるから、食べてね!」
「……」
「食べてね!!」
「……わぁったよ」
面倒臭そうに言ったデュークに、エミーは満足げに頷く。のっそりと起き上がった彼は、頭を乱暴に掻いた。朝っぱらから不機嫌そうだ。
エミーはにひっと笑うと、二階へ行く。
アルフィーの部屋はエミーの部屋となっている客室と向かい側のようで、扉のドアノブに、『アルフィー』と書かれた小さめの板が吊るされていた。
ノックをしても、特に返事はない。寝ているようだ。扉を開けると部屋の中は客室と変わらない家具の配置だが、書き物机の上には綺麗な羽ペンとインク、ノートが置いてあり、ノートは開かれていて、文字の練習をしていたようだ。同じ文字が一文字ずつ、丁寧に書かれている。
子供用なのか少小さめのベッドには、布団を肩まで被ったアルフィーが眠っている。ちょっと乱れた桃色の髪に長いまつ毛。かわいらしい寝顔と相まって、本当に女の子みたいだ。
「アルフィーくん、朝だよ。起きて!」
そう言ってエミーが彼の肩をぽんぽんと叩く。アルフィーはむにゃむにゃ言いながら寝返りをうつと、目を開けてエミーの顔を見た。
寝ぼけているのだろうか。口が半開きで表情はぼんやりとしている。
「おはよう、アルフィーくん」
「おはよう……ございます?」
「うん」
彼は寝ぼけ眼を擦りながら緩慢な動きで起き上がる。そしてベッドから降りて、クローゼットから服を取り出し着替え始めた。
「朝ごはんもうできてるから、着替えたら降りてきてね!」
「はいっ」
そうアルフィーに伝えてから、エミーは廊下に出る。すると突き当たりの部屋からマテリアが出てきた。
「あっ、おはよう、マテリアさん!」
「おはよう、エミーちゃん。朝でも元気ねぇ」
優しく微笑むマテリアは、エミーの頭を撫でてくれた。胸の奥に何かあたたかいものがじんわりと広がっていく。そんな感覚はエミーにとって初めてで、彼女はくすぐったそうに目を細めた。
────
ぼろぼろの建物。その隙間から中に入ってくる雨水。胸いっぱいに息を吸い込むと、雨のにおいとごみの臭い、そして耐えきれない空腹感を感じた。
今日も彼はお腹が空いている。本来育ち盛りの食べ盛りな年齢である彼は、とても痩せ細っていてガリガリだ。まあ、ここら辺に住んでいる人間で、痩せておらずお腹が空いていないという方が珍しいのである。
前にものを食べたのはいつだったか。彼が食べているもの、というものは大体一般の町人が捨てていった残飯などの生ごみで、ちゃんとしたパンとか、肉とか、食べたことがない。温かい出来立ての新鮮な食べ物なんか、見たことすらない。
何もしていないのに、今でさえ体力がぎりぎりだ。ここいらでは、少しでも食べられるものがあれば生き残るため他の奴らと奪い合いをする。今の彼に、そんな体力があるかどうか。
最近はずっと雨が降っている。だから、外に出ると余計に体力を消費してしまう。近くの森に行けば、少し危険だが食料が手に入るが、こんな天気の日に行くのは良い判断ではない。
彼に雨を凌ぐ傘や雨合羽があれば、行けたのかもしれない。だがそんなもの、持っているはずがないし手に入るはずもない。
とりあえず今は、溜まった雨水を飲んで体力を維持しようとしているのだった。
六年くらい前の彼がまだまだ幼くて、ここに来た当初は、こんな生活をしていなかった。そのときも今と同じように親はいないしぼろぼろな家に住んではいたけれど、炊き出しが定期的にあったり、優しい老婆が食べ物を分けてくれたりした。
だが、老婆は死んで炊き出しの回数は徐々に減っていった。彼が食べ物にありつける日も、少なくなった。
彼には、何かを考えて何かを主張する術がない。彼は何かを言い表す言葉を知らなさすぎた。上手く回らない頭の中に、何らかの思いが浮かんでは消えていく。
(……腹、減った……)
やがてその思いは空腹によって掻き消されるのだ。
そばにあるひび割れた壺の縁に、同じくひび割れた口をつけて綺麗とは言いがたい水を飲み込む。
喉の渇きなんて、とっくに消えている。だけど狂おしいほどに感じる空腹は、ちっとも消えない。はぁ、と掠れた声混じりにため息をつくと、外を見やった。
大きな雨粒が、ぼろぼろのトタン屋根に強く打ち付けている。その音のせいで、人の声も小鳥の囀ずりも、彼の身じろぎの音すら聴こえない。
いつまでこの苦しみが続くのだろうか、と彼は思う。
ただ座っていることもしんどいと感じて、ゆっくりと横たわる。小石や砂や水が混ざりあったものが彼の髪と服を濡らしていく。
それが肌を汚すことに、不快感も何も感じずに。
ただ、ただ、横たわったまま、彼はぼんやりと目を開けていた。
ー ー ー
外からあたたかい光が彼の顔を照らした。だが、ざあざあと変わらず降り続ける、雨の音がしている。眩しそうに目を開けてその方向を見る。
光を放っていたのは、ランプだった。彼にはそれが何か、分からないけれど。
ランプを持っている白い手に気付き、彼の目はその上を向く。
優しく微笑む、女性の顔があった。
「良かった。生きていたのね」
女性がほっと息をつく。彼女は綺麗な白い傘をもう片方の手に持っていて、彼の体に雨がかからないようにしてくれているようだった。
呆然とした彼は思わずすん、と鼻を鳴らす。女性の方から、ふんわりと花のいい香りがしたからだ。なんだか、ずっとそばに居たくなるような匂いだった。
女性はその白い手を彼に向けて、歌うように唱えた。
「〈彼を濡らす雫よ。浮き、溶けて、もとある場所に、還りなさい〉」
その瞬間、彼の周りがほんの少し光る。うすくオレンジがかった淡い光は、肌に沿って動き、彼の体を乾かしていく。
雨に濡れてずっしりとしていた体が軽くなったような気がした彼は、腕に力を入れて起き上がる。不思議そうに女性の手を見ていると、女性は話し出した。
「さっきのは、魔術よ。魔力を使って、あらゆる現象を起こす術……」
「……ま、じゅつ……」
「そう。……私は魔女なの」
「まじょ……」
彼は初めて聞いた言葉を、小さな声で口にする。久々に出した声はしわがれていた。
女性がそっと彼の頬に手を添える。汚れだらけの彼の肌に、何の躊躇もなく優しい手つきで触れた。
「貴方のその目……私とおそろいね」
女性にそう言われ、彼女の目を見る。うっすら開かれ見える瞳は、宝石のように真っ紅で何もかもを見透かすように澄んでいた。あまりにもそれが綺麗で、少しだけ、怖くも感じるほどだった。
「もし貴方が良ければ、うちに来る?」
再び目を細めて女性は彼に問いかけた。
彼は半ば無意識に、こくり、と首を縦に振った。
「そう」
彼女は短く相づちをうつ。
「ねえ、貴方の名前はなぁに?」
「ない」
「あら。じゃあ私がつけてもいいかしら」
「……うん」
頷く彼を見て、女性はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、貴方の名前は今日から……デュークよ」
彼は彼女と同じ真っ紅な目で、女性を見上げる。
「よろしくね、デューク」