意地悪な旦那様
私の旦那様は、私にとても意地悪だ。
出会った頃から愛想はなかった。怒っているような表情で私を見つめて、目が合えばすぐに顔を背ける。どれほどにこやかに話しかけても固い雰囲気が崩れることはなく、返事をくれるのも十回に一回程度である。
——初めて彼の家にやってきた時。
彼はやっぱり怒ったような顔をして、幾分低い声で言った。
「俺は、家にはあまり帰れない。甘い言葉も吐いてやれない。優しくもない。ただ、出来うる限りきみの自由を誓おう。——それならば、耐えられるだろうか」
彼の言葉に、とっさには反応ができなかった。
私だって人のことばかりを責められる立場ではない。そのため「耐えてみせましょう」と笑ってみせると、彼はさらに不機嫌そうに眉を寄せた。
彼は本当は、とても分かりやすい。
けれど必死に隠そうとしているから、分かりやすい、なんて口が裂けても言い出せなかった。
*
「きみは毎日暇なのか? それなら庭の手入れでもしていろ。少しは役に立つといい」
彼は時々帰ってきては、そんなふうに私に言いつける。
表情はいつもどおり固い。険しい顔つきで、私を睨むように見つめる。
「はい、旦那様」
「その『旦那様』というのもやめてくれないか。……俺はきみといくつ違うと思ってる。変態のような気がしてならないんだ」
「私が今年二十五で、旦那様はすでに数えきれないほどのお歳になりますから、」
「真面目に答えるな。……まったくきみは、本当に世間知らずだな」
言い残して、彼は出て行ってしまった。
相変わらずの不機嫌顔だった。とても忙しいお方だから、その疲労も仕方がない。
そんな背中を見送って、さっそく庭の手入れをしようかと庭園に訪れた。
庭師には特に驚かれることもなく、むしろ私専用のスペースまで用意してくれていたらしい。あまりにも準備が良かったから疑う瞳を向ければ、庭師は気付いたように口を開く。
「旦那様から、専用場所を用意してやれって命を受けたんです。秘書さんいわく、暇を与えたら離れていくんじゃねえかって不安なんだそうで」
庭師が軽やかに笑う。その言葉に、先ほどの彼の耳が赤かったことを、なんとなく思い出した。
「花が咲いたら、旦那様にプレゼントしてやってください。きっと喜びます」
「そうですね」
庭師が嬉しそうにはにかむ。それを見て、私もそんな未来になれば良いのにと、途端に嬉しくなった。
*
「来客の予定がある。俺は屋敷には居られないから、きみが代わりに客人の相手をしてくれ」
数十日ぶりに会っても、彼は少しも笑ってはくれなかった。
睨むような目も、固い表情も変わらない。彼はやっぱり、不機嫌そうだった。
「分かりました、旦那様」
「……何度言えばわかる。俺のことを旦那様と呼ぶな。……まあいい。客人には決して失礼なことをするなよ。きみは黙って笑っているだけでいい」
「はい」
彼はちらりと私を見ると、軽くため息を吐いて部屋から出て行った。
きっとまた、数十日ほど会わなくなるのだろう。彼はそれでも名残惜しそうな様子もなく、あっさりと部屋から出て行った。
ともあれ、私はひとまず客人の相手をするためにサロンの用意を使用人に言いつけた。いつ来るのかも分からないけれど、いつも唐突な彼のことだ、きっと今日来るに違いない。
そう思ったのは正解だった。客人が訪れたのは、それから数時間後の昼過ぎのことだった。
「まあまあ、お久しぶりねえ! 会いたかったわ!」
扉を開けて不躾にも突然私を抱きしめたのは、彼の母親である。
「突然ごめんなさいね、どうしてもどうしてもあなたに会いたかったのよ」
お母様は、まったく悪びれないように微笑む。けれどそんな性質もよく分かっているために、まったく気にもならない。
「あの子、きちんと帰ってきているかしら? ほら、あの子ったら、ちょっぴり不器用というか、照れ屋さんというか……ねえ?」
はぁ、と呆れたようなため息と共に、お母様がカップをソーサーへと戻した。
テーブルには、お母様の大好きなお菓子も並ぶ。そんなサロンにやってきてさっそく、お母様は本題から話し始めた。
「本当に申し訳ないわ。難解な男と結婚させちゃって」
「そんな、私のほうが面倒くさい立場ですし……それにもしかしたら、今も数十日に一回程度にしかお会いしていませんから、嫌になってきたのかもしれません」
「まああの子ったら! 照れ屋もほどほどにしておかないと、逃げられてからでは遅いのに!」
お母様が、その愛らしい顔を難しく歪める。
「あのね、あの子があなたを嫌っているなんて、そんなことありえないわ。だってあの子、あなたのことを『天使だ』って言っていたのよ。それに今日だって『余計なことは言うなよ』なんて私に釘まで刺しちゃってね。……無駄な心配だけれど、私にはあなたを気に入ったままでいてほしいみたい。きっと、引き離されたくないのね」
お母様が楽しそうに「あなたはどう?」と言葉を続ける。
「あなたは、戻りたいと思う?」
お母様の言葉に、間も無く首を横に振った。
「いいえ。……旦那様は、私の恩人です。このまま共にあれることが、何よりも幸せに思えます」
じっと、伺うような視線だった。それを受け続けていると、お母様もようやく信じてくれたのか、いつものように笑ってくれた。
*
「庭に出られない日には、室内の掃除でもしていたらどうだ。少しは頭を働かせろ」
その日は雨だったからか、彼の顔がいっそう険しく見えた。
もしかしたら体調も悪いのかもしれない。顔色も良くないためにその手に触れると、やや乱暴な仕草で手を払われた。
「余計な気を回すな」
吐き捨てるように言って、部屋から出て行ってしまう。
今日は会話をすることもなかった。私が「余計な気」を回そうとしたからだろうか。
ジメジメとした室内で少しだけ落ち込んでいると、使用人が続々と部屋に入ってくる。素早く装飾を並べてすぐ、使用人たちは一斉に頭を下げた。
「奥様、準備が整いました。飾り付けをいたしましょう」
「……飾り付け?」
何を言われたのかが分からず、思わず首を傾げた。
「……旦那様が、奥様が住みやすい部屋を奥様と作るようにとおっしゃられていたのですが……」
使用人たちは戸惑っていた。
まさか私と彼の間で連携が取れていないなど思ってもみなかったのだろう。明らかにうろたえて、次をどうするかと考えているようだった。
「……ああ! そのことでしたか。はい、思い出しました。すみません、最近物忘れが酷いようで」
誤魔化したように言葉を付け足すと、なぜか使用人たちにはとても心配そうな顔をされた。
その日の晩のことだった。
いつもなら数十日後に帰ってくる彼が、なぜか屋敷に戻ってきた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
突然の帰宅にも動じず彼を迎えると、彼はじろじろと訝しげに私を見つめる。
少し汗をかいていた。もしかしたら、急いで戻ってきたのかもしれない。
「物忘れが酷いそうだな」
そんな固い第一声に、つい笑ってしまいそうになった。
「使用人から聞きましたか? あれは言葉の綾ですよ。私には変わりありません」
本当のことを言っても、彼は疑っているのか目を細めるだけである。しかし私が何も言おうとしなかったからか、彼はすぐに短く息を吐き出した。
「……それならいい」
納得はできていない様子だった。
彼はそれでも背を向けて、部屋を出ようと歩き出す。
その背中を思わず呼び止めると、彼は驚くほど素早く振り返った。
「お花が咲いたら、もらってくれますか?」
私の言葉に、彼は瞠目しただけだった。
*
――翌日も雨が降っていた。
そのため軽くお花の手入れをして、部屋の装飾にいそしんでいた。
窓の外には曇天が広がる。そんな空を見ていると、彼に連れられて屋敷に来たときのことを思い出す。
手を止めてぼんやりと曇天を眺めていた。
そうするとまるで彼が近くに居るように思えて、心が少しだけ晴れた気がした。
「奥様?」
使用人の声で我に返る。装飾を続けていると、気が付けば雨は止んでいた。
曇天は変わらない。どこか寒々しくて、どこか温かな色をしている。
「お花の様子を見てもいいですか? 雨でダメになっていないか心配で」
お昼前のことである。早めにお戻りくださいねと世話係に言われて、軽く頷いておいた。
「旦那様は今日はお帰りになるでしょうか」
私が聞くと、侍女は軽く首を振る。
「ご多忙な御方ですから」
「そうですか。そうですね、旦那様はお忙しい御方です。……分かっていても、寂しいものですね」
思わず本音が漏れた。それに、侍女が心配そうに眉を下げる。
「もっともっと、帰ってきたいと思える家にしないといけませんね」
気付いてすぐに笑ってみせると、侍女は安堵したように体から力を抜いた。
庭師は居なかった。別の場所の手入れをしているのだろう。雨が止んだために、何か特別な処置でもしているのかもしれない。分かっていたから、呼びつけることはしなかった。
私が育てている花はとても元気だ。枯れる気配はない。だけど、花が咲くのはまだまだ先になりそうである。
「奥様、お戻りに」
侍女がそう言うと同時に、空から大きな声がした。
「ミリアー!」
振り仰げば、男の人が降ってきているのが見えた。侍女がとっさに私を庇う。あまり状況についていけなかったけれど、一歩引いて大人しく庇われていた。
その男は綺麗に着地をすると、すぐに剣を構えた。扱い慣れている動きだ。
「ミリアを返せ! 魔族ども!」
男の言葉に、私を庇っている侍女がメキメキと爪をあらわにする。臨戦態勢に入ったのだろう。普段は私に気を遣って人型を取ってくれているけれど、今は本来の魔獣の姿に戻ったようだった。
私よりもうんと大きな獣だ。他の侍女も同じように本来の姿に戻って、男を威嚇していた。
「ミリア、大丈夫か! 俺たちみんな心配してたんだ!」
――勇者、アレクセイは、そう言って剣を振るった。
侍女たちが束になってかかる。けれど勇者は勇者たる所以であるように、決して引けを取らない。
きっとここに来たのも、賢者に飛ばしてもらったのだろう。賢者は転移が得意だった。勇者一人をここに飛ばすことくらい容易なものである。それでも本拠地に勇者一人を送り出したわけでもないのだろうから、もしかしたらどこかから攻め入っているのかもしれない。
「ミリア! 帰るぞ! みんなお前を待ってるんだ!」
魔獣をいなしながら、アレクセイが語りかける。
――笑ってしまいそうだった。その言葉のどれもが可笑しくて、隠したつもりだったけれど、口の端からは漏れてしまっていたらしい。
はっと息を吐き出すと、アレクセイは戸惑うように瞳を揺らす。
「……ミリア?」
「帰る? 私が? どこに?」
まるで帰る場所があちらであるかのように、それを当然のことのように言っているのが、あまりにも馬鹿馬鹿しいと思えた。
アレクセイはまっすぐだ。そして純粋で素直で、いつだって「正しい」。そんなアレクセイだからこそ、賢者も騎士も信頼していた。
だけど私は嫌いだった。大嫌いだった。
まっすぐな心が垣間見えるたびに、アレクセイを殺したくて仕方がなかった。
『それがお前の仕事なんだから、お前はみんなのために生きないといけないんだよ』
そんなことを平気で言える「まっすぐ」さが、どうしても許せなかった。
「勇者、アレクセイ。私は望んでここに居る。人間界には戻らない」
私の言葉に、侍女が一瞬振り返る。魔獣であるために表情は分からない。だけどきっと安堵してくれたのだと、雰囲気で伝わった。
「どうして! みんながお前を待ってるのに!」
アレクセイは剣を振るう。複数匹の魔獣相手でも簡単には負けない。
勇者は、世界で一番の剣の腕を持っていた。だからこちらを意識しながらでも、魔獣を相手に出来るのだろう。
「……どうして? まだ分からないの?」
——ミリアリア・スレイン。お前は今日から、すべての者のためにその力を使え。
ある日から私は、「聖女」と呼ばれ始めた。
国の偉い人が押しかけてきて、それからだ。まだ五歳のときからずっと神殿に閉じ込められていた。家族は私をあっさりと国に引き渡して、贅沢な暮らしを手に入れたという。
そうして、国王だと言う老年の男が偉そうに続ける。
――民のために生き、民のために死ねるとは、大変な栄誉だ。ゆめゆめ忘れるな。お前は、歴史に名を残す素晴らしい役割を得たのだ。
それからはずっと、ほとんど洗脳のような教育を受けた。
私が洗脳されなかったのは、元来持って生まれた対抗心が強かったからだろう。
ずっと世界を憎んでいた。私を捕まえた「世界」をいつか絶対に壊してやると、毎日心に誓っていた。
聖女の力は誰しもを癒すけれど、自身の命を削る代償がある。
それを知りながら平気で「みんなのためになれ」と言う有象無象に、くれてやる命なんかなかった。
誰かのためになんて絶対に力は使わない。従うフリをして、いつも腹の底で嗤う。
死んでしまえと何度思ったことだろう。そんな腹の中を「聖女様」と媚びへつらう者たちに、ぶちまけたくてたまらなかった。
真っ黒だ。私の中は汚い。世界中の人間を殺してやりたくて、他人にはいつも中指を立てていた。
だから、最後は残酷に終わらせてやろうと思っていたのだ。
どうせ魔王になんて勝てやしない。私の力を頼りに挑むのならば、私はただ勇者や騎士たちを治癒しなければいいだけである。そのとき彼らは、どんな顔をするだろうか。当然のように治癒してもらえると構えていた彼らは、これ以上ない絶望をしてくれるだろうか。
その絶望を、死に顔にしてくれるだろうか。
「ミリア……?」
アレクセイは知らない。彼らはきっと「聖女が奪われた」としか思っていない。
愚かにも、私が彼らの助けを待っていると、そう信じている。
「私はね、アレクセイ。この世界が大嫌い」
たぶん、浮かべた笑顔は歪んでいた。無意識だった。アレクセイは一瞬動揺したのか、魔獣から一撃を受けて、数歩後ろに距離を取る。
「っ……言わされてるんだろ」
「死ねばいいのよ、みんな。ねえそうでしょう。どうして私が顔も知らない誰かのために、命を削らなきゃいけないの? 私が死に近づくことを何とも思わない人たちに、どうして?」
「ミリアはそんなこと言わない!」
「私が今望むのは、人間界に戻ることじゃない。あなたが私の目の前で、ぐちゃぐちゃに食われてくれること」
――何が、聖女だ。
そう呼ばれるたびに、心はいつだって悲鳴を上げていた。
五歳の頃から世界を閉ざされた。教わるのは自国の素晴らしさと、聖女の役割の尊さばかりだった。大人たちはみんな私を道具として見る。気持ちの悪い笑みの下で、私の利用価値を測る。
いつだって必要なのは「聖女」で、「私」なんか要らなかった。
だけど、
『俺は、きみに花はやれない。だから、来るべきじゃない』
彼だけは、いつも「私」を見てくれた。
単純だと笑われてもいい。愚かだと馬鹿にされても構わない。その存在がどれほど私を救ったのかは、いくら言い募っても私にしか分からないのだろう。
たった数日間の逢瀬だ。彼はいつも不機嫌で意地悪で、そして無口で無愛想だった。きっかけなんかない。会話が弾んだ記憶もない。それでも気がつけば、私の世界の中心は彼になっていた。
「ミリアリア」
低い声が降る。
アレクセイが空を仰いだ。侍女も追い詰める動きを止めて、すぐに私の元に戻る。
圧倒的な存在感だった。思わず膝をついてしまいそうなほどには、威圧が強い。けれどアレクセイも私もかろうじて立ったまま、その存在を見上げていた。
それは、巨大な「獣」だった。
鳥のように鋭いクチバシがあるようにも見えるけれど、立派なタテガミと体は猛獣のそれである。尻尾は二匹の蛇がうごめき、背中から生えた大きな翼が突風を生み出す。
人よりもうんと大きなそれはゆっくりと降下して、やがて地を鳴らして舞い降りた。
「……な、なぜ、魔界に神獣が……」
思わず、といった様子で、アレクセイが呟いた。
侍女たちは一斉に頭を垂れる。それを一瞥すると、彼はクチバシを私に近づける。
「あれは」
「勇者です。私を連れ戻しに来たようで」
「ほう」
彼の眼光が鋭くなると、アレクセイは一瞬怯えるように肩を揺らした。
「家族を殺してもだめか。王を殺してもだめか。国を滅ぼしても、貴様らの仲間を殺してもだめか」
「……っ、お前だったのか……! ユリエルもハイネも戻ってこなかった! お前が……殺したのか!」
「どれほど殺しても、残党が奪いに来る。……やはり、人間はすべて滅ぼすべきだった」
――俺は、きみに花はやれない。だから、来るべきじゃない。
そう言った彼は、その瞳で私にすがっていた。
出会ったのは偶然だ。魔王城へ向かう途中の、小さな街でのことだった。
彼は身長が高く、特に目立っていた。だからよく視界に入ったのだろう。小さな街だったから、どこに行っても彼がよく見える。そのため彼の存在は、話したことはなくても知っていた。
接点を持ったのは、とある夜。
一人になりたくて、宿を抜けて外を歩いていたときである。
『不思議な力を感じたから来てみれば聖女か。こんな時間にふらついているとさらわれて終わるぞ』
そんな言葉に「さらってくれるの?」なんて嗤ってみせれば、彼の表情も固くなる。
噂に聞いていた「聖女様」とまったく印象が違っていたから驚いたのかもしれない。「聖女様」は博愛主義者で、誰に対しても平等な愛を持って接すると言われていた。私は違う。笑えるわけがない。冷たく突き放す態度で、誰が相手でも「死んでしまえ」と心中で毒を吐く。
だから興味が湧いたのだろうか。
彼は何かを言うこともなく、私の話を静かに聞いていた。
彼は言う。それほどの憎しみがあるのなら、籠に囚われているべきじゃない。世界に復讐がしたいのなら寝返ることだ。魔王の味方につけば、最高の復讐になるだろうよ。
彼は神獣だ。けれど同時に、魔王とも呼ばれている。人間は「神獣」と「魔王」が存在していると思っているけれど、それはまったくの認識違いだと教えてくれたのは彼だった。
彼は存外あっさりと、私の内側に巣食う毒を受け入れた。
面白いと笑ってくれた。共に来いと願ってくれた。私の手を引いてくれた。
「お前は敵だったのか、ミリア! どうして! あんなに楽しく過ごせていたのに!」
アレクセイが絶望したように叫ぶ。
見たかった顔だった。それに少しだけ心が晴れた。
「旦那様、私のためにあれを殺してください。あれは人間側の切り札です。あれさえ殺せば、私はもうずっとあなたの側に居られます」
「本当だろうな」
「もちろんです。私は旦那様に嘘はつきません」
「……その、旦那様というのはやめろと言っているだろう。変態になった気がしてならん」
「やめません。だって私は、あなたの妻です」
彼が動く。アレクセイに立ちはだかる。いくらアレクセイが強くても、彼に敵うわけがない。
ミリア、と小さく呼ばれた気がした。それを最後に勇者が息絶えるのを、私は笑顔で見守っていた。
*
「きみはいつまで寝ているんだ。そんな時間があるのなら、少しは本でも読んだらどうだ」
言葉と共に、ベッドが沈んだ。その気配で目を開けると、いつもの不機嫌な表情を浮かべた彼が座っていた。
「まあ、おはようございます、旦那様。旦那様のおかげで、私は今日お寝坊さんでした」
「…………呑気なものだな」
呆れたようなため息を吐く。照れている様子は微かにあるけれど、怒っている様子はない。
「それでは魔界への理解を深めるために、歴史書を読みましょう。第五部の二章からはまだ読んでおりませんから」
上体を起こすと、彼はふんと鼻を鳴らして立ち上がる。
彼は、私を魔界に留めるために必死である。
暇を与えないように、過ごしやすいように、時には話し相手を見繕うこともする。もともと言葉が不器用だから言い方は悪いけれど、その瞳だけはいつもすがっていた。
旦那様は、私にとても意地悪だ。
だけどそれは口先だけで、いつだって心は伴わない。
「お花が咲いたら、もらってくれますか?」
唐突に問いかけると、彼はピタリと足を止めた。
「やけにこだわるな」
「まあ、ご存知ありませんか? この世界では、自分で育てた花を持って愛の言葉をささやくのが『ロマンチック』なプロポーズなんですよ」
――最初から、こだわっていたのは実は彼のほうだった。
だけど、どれほど綺麗に咲いても私にはくれない。美しく咲き誇る時期を終えていく花を何度見たことだろう。
どれだけ待っても、何かを言いたげな瞳をするだけで、口からは意地悪しかこぼれなかった。そんなときに「庭の手入れでもしろ」と言われたものだから、強請られているのかとも思えた。
彼はとてもロマンチストだ。勢いで私を連れてきたからプロポーズすらしなかったことを、ずっと気にかけてくれている。
だけど彼は動かない。不器用で意地悪で、とても臆病な人である。
「ねえ、旦那様。お花が咲いたら、あなたに伝えたいことがたくさんあるんです。……聞いてくれますか」
彼は今度は驚くこともなく、耳を赤く染めていた。
読了ありがとうございました。