夏を紡ぐ
#web夏企画 2020 「あの夏を幻視する」参加作品です。
お題「アルコール、星、電話」をお借りして書きました。
※「事故」の描写があります。苦手な方は注意してください。(けがや流血といった描写はありません)
企画サイト:http://un09.net/s2/
主催:綿津見さま @unclear_09
※2020/09/10 誤字等訂正、前書き・後書き追記
※2020/11/21 前書き追記
洋輔と夏生が高校三年生になったころ、毎年、家族で行っているキャンプをどうするかが、家族会議の議題にあがった。
結局、二家族で協議した結果、息抜きもかねて、ということで県内のキャンプ場に一泊二日で行くことになった。これで十回目のキャンプだ。
一日目の朝に、近所のコンビニで待ち合わせをして、足りないものを買い足して、二台の車に分乗してキャンプ場に出発した。
目的地のキャンプ場は、以前にも二家族でキャンプしたころがある勝手知ったるキャンプ場だ。
洋輔は父、松木聡太が運転する車の助手席で「くあぁ」と噛み殺し切れなかった欠伸を漏らした。夏休みの週末の高速道路の流れはスムーズとはいかないようだ。後部座席には、四歳下の弟、萩平と幼なじみの夏生が乗っている。もう一台の車は、夏生の父、河口海斗が運転していて、助手席に夏生の母、紘子、後部座席には夏生の二歳下の妹、美冬と洋輔の母、優実が乗っている。
洋輔は生まれたときから夏生と一緒だった。同じ産院で三日違いで生まれた二人は、母親たちが中学校の同級生で、お互い共働きだった優実と紘子は、お互いの子供たちを預けたり預かったりしながら、長い休みには二家族で出かけたりして子供たちを育ててきた。
子供たちは、それぞれが学校の友達と遊ぶ以外は、公園に遊びに行ったり、ゲームをしたり、勉強を教えあったりしながら四人で過ごすことが多かった。それぞれ二人兄弟だが、四人兄弟で育ったと言っても過言ではない。
二台の車は渋滞に巻き込まれつつ、二時間ほどでキャンプ場に着いた。昼前に到着できたので、軽く周囲を散策した後は、二手にわかれて昼食の準備とテントの設営を行った。洋輔と夏生が高校生になってから、テントは三張り設営するようになった。
テント設営が終わったら、全員で昼食の準備に加勢して、ほどなくカレーができあがった。
カレーを頬張りながら、洋輔は久しぶりに夏生と話をした。二人と美冬は同じ高校に通っているが、美冬は学年が違うし、洋輔と夏生は同学年でもクラスも部活も違うので学校では接点はない。三年生になってからは、それぞれ予備校に通い出したので、学校以外でも会うことは少なくなっていた。
やはり話題は進路のことだ。
「洋輔、夏休み前の模試、何判定だった?」
「滑り止めはBだったけど、それ以外はCとD。夏生は?」
「おれ、全部D。泣ける」
洋輔の志望は、私大文系。夏生の志望は国立理系だった。
「夏生、工学部だっけ?」
「そう。自動車とかバイクのエンジンやりたいんだよね」
海斗が大型バイクに乗っている影響で、夏生もバイクが好きだった。
「洋輔は? 学部どうすんの?」
洋輔は、学部にはこだわりがなく、聡太の母校である私大に行ければいいと思っていた。
「そうは言っても、どこでもいいってことはないっしょ」
「受かれば、政経とか商学とかかなぁ」
とはいえ、その大学はどの学部でもD判定しか出ていない。
二人して、はぁ、とため息と吐いた。
「おーい、受験のことは今は忘れろよー。今日明日は息抜きだからな」
「あとで、着替えて川で遊んで来いよ。すっきりするぞー」
昼からアルコールを入れだした父親たちに言われる。きっと父親たちにとっても「息抜き」なのだ。
切り分けたスイカを何個かしゃぶってから、子供たちは川に行くことにした。少し降りたところに、川の流れが緩やかになる岩場があって、魚を捕まえたり、泳いだりすることができる。
川に行く準備をしているところで、優実に
「四人だけで大丈夫? こっち片付けてからお母さんたちも行こうか?」
と声をかけられた。以前このキャンプ場に来た際は、みんな小学生だったが、今は、中学生、高校生だ。
「なにかあったら、呼びにくるよ」
そう言って、四人で川に駆けていった。
***
ひとしきり、川で遊んでテントに戻ると、夕食のバーベキューの準備が始まっていた。海斗と聡太は、缶ビールを片手に火を見ていて、洋輔は、ずっと飲んでたな、と思った。ふと夏生を見ると、同じことを思っていたらしく、目が合うと苦笑いを返してきた。
「お兄ちゃん、洋ちゃん、こっち手伝ってー」
紘子の手伝いをしている美冬に呼ばれた。行ってみると、肉や野菜が切り分けられていたので、二人で手分けして運ぶ。聡太と海斗は、お酒も回っているのか、顔を赤くして二人で楽しそうに話している。
食べ物を焼き始めた優実と萩平のわきに運んできたものを置き、紘子と美冬が戻ってくると、バーベキューが始まった。
日が暮れると、聡太と海斗が焚き火を熾す。ぱち、ぱちとはぜる火を見ていると、確かに受験のこともどこか遠くに行くような気がした。
萩平がうとうとし始めて、女性陣がシャワーを浴びに行き、男二人のビールを飲むスピードが落ちたところで、洋輔と夏生は、そっとテントのそばを離れた。
以前、このキャンプ場に来たとき、山側の際から少し登ったところに木が開けた場所を見つけ、そこから星が綺麗に見えたのだ。前回は、父親たちと一緒に星を見に行ったのだが、今日は二人ともかなりお酒が回っているようだったので、声はかけなかった。
ペットボトルの炭酸飲料とお菓子を何個か持って斜面を登る。二人で「どのへんだったっけ?」「そろそろじゃない?」なんて話をし始めたころ、ぱっと頭上に夜空が見えた。
「ここか」
洋輔が空を見て呟く。
「洋輔、こっち草生えてるところがあるから寝転がろうぜ」
すでに腰をおろした夏生が声をかける。洋輔も隣に寝転がり、持ってきた灯りを消した。少しして、目が慣れてきたのだろう。視界にうつる星がどんどん増えてきた。
「きれーだなぁ」
「うん」
しばらく無言で空を見つめる。
「キャンプ、また来たいな」
「来年もさ、おれらでキャンプ行こうぜ。夏休みの予定あわせてさ」
「二人で?」
「そう、おれ、大学決まったら、バイクの免許とるからさ。二人で行こう」
「えー、じゃあ、おれも免許とろうかな」
「お? まじ? とろう、とろう! バイク、面白いよ」
夏生が身を起こして、嬉しそうな声をあげる。
「でもさ、おれたちがバイクで行くっていったら、絶対海斗さん、一緒に行くって言うよな」
「あーー、言いそう」
途端に夏生のテンションが下がる。
「いいじゃん、父さんたちも一緒でさ。でさ、二十歳超えたら、四人でキャンプに行って、今日の父さんたちみたいに、酒飲んで楽しもうぜ」
「ははっ、萩ちゃん、くやしがりそー」
確かに、と笑い合って、また星を見る。地元だと、こんなにたくさんの星は見られない。たった二時間ほど車で移動するだけで、こんな景色に出会えるなら、もっと遠くに出かけたら、どんな景色が見られるんだろう、とわくわくする。
「夏生。二人でも、父さんたちと一緒でもいいからさ、大学入ってもまた、キャンプ行こうな」
「うん」
「あ! 今、流れ星! 見た?」
「見た!」
「すげーなぁ」
「うん」
「……なぁ、洋輔」
「ん?」
「おまえさ、今、彼女とかいるの?」
「んな?! っ!」
洋輔は驚き過ぎて、答えようと身を起こしたら、むせた。
「んな、けほ、ごほ、なに、急に、げーっほ、けほ、つばが、どっか、はいった、けほ、けほ……」
ひとしきりむせ終わって、
「おまえ、急に驚かすなよ!」
と隣の夏生をにらむ。薄闇に浮かびあがる夏生は特に慌てた様子もなく
「いやぁ、洋輔くんの恋愛事情はどうなのかな、と思って」
と悪びれもせず言う。
「そんな、高校生で」
「おれらの両親、出会ったの高校生だぞ」
洋輔が反論につまると夏生が言葉を続けた。
「美冬は、たぶん、おまえのこと、好きだぞ」
知ってる、とは言えなかった。心臓がどくどくと鼓動を打つのが聞こえる。
「おれさ、美冬の相手がおまえだったら、たぶん、ぶん殴らずにいられると思う」
夏生は案外シスコンだ。両親が共働きで、子供たちで一緒にいることが多かった分、妹のことが大切で大切で仕方がない。洋輔は特に返事もせず、また草の上に横になった。
***
次の日は、午後から雨が降る予報だった。昼前には、キャンプ場を出発することになり、朝食をとって昨晩の片付けとテントの片付けの準備を始める。ある程度目処が立ったところで、帰る前に、もう一度四人で川に行くことにした。
着替えや片付けの時間もあるので、一時間以内に戻ってくるようにと言われて、四人で川まで駆けて行く。美冬と萩平が川に石を積んで魚を囲い込む罠を作り始めたところで、洋輔と夏生は、岩場から川に飛び込んで泳ぎ始めた。何回か飛び込んだところで、萩平に呼ばれた。
「兄ちゃーーん! 来て、来て! 魚、いっぱい入ってきた!」
罠を覗き込んだまま声を上げた萩平のそばには美冬が立っていて、笑顔でこちらに手を振っていた。
「わかったーー! 夏生ーー、戻ろうぜーー!」
洋輔は後ろを振り向いて夏生に声をかける。夏生が手を振ってこちらに歩き始めたのを見て、洋輔も歩き始める。と、
「うわっ!」
という声と「ぼちゃ」という水音が後ろから聞こえた。「ん?」と思って洋輔が後ろを振り返ったのと同時に、美冬の「お兄ちゃんが消えた!!」という叫び声が聞こえた。洋輔が振り返っても、さっきそこにいたはずの夏生がいない。
「夏生ーー?」
と声を上げるが返事はない。あ、これはやばい、と脳みそで警報が鳴る。洋輔は、美冬と萩平に大声を上げる。
「美冬! 萩平! 父さんたち、呼んできて!!」
美冬が一瞬でパニックになり「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」と声を上げ始めた。その美冬の手を引っ張って、萩平が走り出す。
洋輔は、夏生がいたはずの川面を見つめ
「夏生ーーーーーーーーーーーー!! 夏生ーーーーーーーーーーーー!!」
と何度も声を上げた。
***
夏生は、すぐに、下流の川岸に倒れているところを発見された。聡太とキャンプ場のスタッフが、救急車が来るまで交代で心臓マッサージと人工呼吸をした。救急車には、紘子が同乗して、海斗が泣きじゃくる美冬に付き添っていた。急いで片付けをして、松木家の車を優実が、河口家の車を聡太が運転して、救急病院に着いたころには、夏生の処置は一応、一段落していた。
病院に着くまで、洋輔の頭の中は、夏生のことでいっぱいだった。心臓マッサージや人工呼吸をしているところなど、初めて見たし、夏生がそれを受けているなんて、現実とは思えなかった。そうだ、これは夢なんだ、と思った。
「処置は一段落した」と聞いて、「あぁ、良かった、助かったんだ」と思った。
なのに、大人たちの顔は暗い。え? 助かったんじゃないの?
全ての処置が終わって、夏生がICUに移動したころにはすっかり夜になっていた。洋輔は、美冬と萩平と一緒に待っておくように言われ、待合室のソファに三人で並んで座っていた。美冬も萩平も、洋輔に寄りかかって寝てしまった。美冬の頬には涙のあとが残っている。
大人たちは、四人で医師の話を聞いている。海斗と紘子が、同席してほしいと頼んだらしい。一時間も二時間も経った気がしてきたころ、大人たちが戻ってきた。紘子は憔悴しきって、海斗に支えられていないと歩けない。
「夏生は? 大丈夫なんでしょ? 先生なんだって?」
洋輔は両脇の美冬と萩平を起こさないように、小声で聡太に尋ねた。
聡太は悔しそうな、悲しそうな顔をして、首を横に振る。ちらと海斗に視線をやり、海斗がこくと頷いて、聡太が口を開く。
「夏くん、呼吸が止まっていた時間が長かったみたいで。脳に障害が遺っていて、目を覚ますことがあるかどうかわからないって」
洋輔は目の前が真っ暗になった。そのあとのことはよく覚えていない。気が付けたら、家にいて、自分の部屋で枕に顔を押しつけて泣いていた。
***
夏生は一週間経っても、二週間経っても眠ったままだった。
洋輔は、週に何回も見舞いに行ったが、いつ行っても、夏生はベッドで眠っている。
「夏生、今日模試だぞ」
「夏生、もう来週から学校始まるぞ」
呼びかけても反応はない。
洋輔は、次第に病院から足が遠のいた。
受験を言い訳にして、出歩かなくなった。学校と予備校と家の往復を繰り返して、模試の成績はじわじわ上がった。
美冬からたまにメールがきたが、ちらと見ただけで削除した。「夏生が目覚めた」以外の連絡は見たくなかった。
夏が終わり、秋が終わり、冬が来て、受験が始まった。試験を受けて、自己採点して、勉強して、第一志望に合格して、高校の卒業式を迎えた。
夏生の席は空席のまま。卒業式で夏生の名前は呼ばれなかった。
洋輔は、大学の近くに引っ越す前に誰もいなそうな時間を狙って、夏生の見舞いに行った。夏生は変わらず眠り続けていて、ちょっと頬がこけて、髪が伸びていた。
そっと夏生の頭をなでて、洋輔は病室を出た。
大学に入学してから、洋輔は、バイトだ、授業だ、と言って、地元にはほとんど帰らなかった。夏生と、一緒にキャンプに行こうと話をしたのに、夏生がいない夏が来るのが怖かった。夏が来る前から、バイトの予定をこれでもかと詰め込んだ。
バイト三昧の夏休みを過ごしていたとき、三日違いの夏生と洋輔の誕生日が迫っていることに気がついた。
夏生の誕生日は八月五日。洋輔の誕生日は八月八日。いつも,おめでとうメールを送り合っていた。
四日のバイトが終わって日付が変わったころ、洋輔はいつもと同じように夏生にメールを送ってみた。
『よ! 18歳、おめでと!』
ドキドキしながら、携帯を握りしめて画面を見つめる。待ち受けに表示させた時計が三分進んだころ、「返事はくるわけないよな」と携帯を畳んだ。夏生は眠ったままなんだから。
自分も寝よう、と携帯をおいて立ち上がったところで、携帯のランプが点いて、ぶ、ぶ、と小さく振動した。慌てて、携帯を開く。
『ありがとう』
夏生のアドレスから返信がきた。
*
五日の午後、バイトの予定が半日空いていたので、洋輔は、急遽、地元に帰ることにした。と言っても、実家には帰らない。夏生の病院に行く。頭では「きっと海斗さんか紘子さんが返信したんだろう」とわかっている。それでも、もしかして、自分が知らないだけで、夏生が目を覚ましたんじゃないか、という思いが頭から消えない。
そわそわと、病院で受付けをして、夏生の病室に行く。引き戸の前で深呼吸をして、コンコンコンとノックをすると、「はーい」と夏生の声で返事があった。
「え?」と思って、勢いよく扉を開ける。中にいたのは、変わらずベッドで眠ったままの夏生とベッドサイドの椅子に腰掛けた海斗だった。
「おや、珍しいひとがきた」
海斗は、楽しそうに呟くと読んでいた本に栞を挟んで立ち上がった。壁際の折りたたみ椅子を手に取ると、夏生を挟んで海斗の向かい側に椅子を置いた。
そして「さあどうぞ」と椅子に手をかざして、洋輔に着席を促した。
洋輔は何も言う気力が湧かなくて、おとなしくその手に従って、鞄を抱えて椅子に座った。
海斗は、室内の冷蔵庫から缶コーヒーとお菓子を取り出して持ってきた。そして、ベッドテーブルの上に並べて、元の椅子に座った。
「さあ、召し上がれ」
「海斗さんって、夏生と声そっくりなんスね」
「親子だからね」
今まで気がつかなかったの? と海斗が微笑む。
「もっと低いと思ってました」
「洋輔くんが血相変えて入ってきたから、びっくりしたよ」
「……昨日、ってか、今日の深夜、夏生の携帯からメールの返信をしたのは海斗さんですか?」
海斗は眠ったままの夏生の顔を見つめたまま答えた。
「ごめんね、勘違いさせちゃったかな」
「いや、たぶん、そうだろうなと思ってたから」
「そっか」
二人とも黙ると、病室には夏生に取り付けられた機械の音の規則的な音だけが響いた。
「おじさんね、嬉しかったんだ」
海斗が口を開いた。
「夏生の誕生日になった瞬間に、夏生の携帯にメールがきたことが」
「もちろん、夏生にとって洋輔くんが大切な友達だってことは知っているし、洋輔くんにとっても夏生が大切な友達だってことは知っている。何せ、僕は君が生まれたときから二人を見てきたからね。でも、夏生の事故があって、君は大分ショックを受けていただろう。だんだんと顔も見かけなくなったしね」
洋輔は、自分の膝のあたりを見つめたまま、小さく、すみません、と呟いた。
「いや、それはいいんだよ。県外の大学に進学したことも優実ちゃんから聞いていたし、元気な君がいつまでも夏生にとらわれてしまうことも心配していた」
そうだ、遅くなっちゃったけど大学入学おめでとう、と付け加える。ただ、軽く頭を下げることしかできない。夏生と同い年で、夏生と一緒に育ってきた自分が元気に過ごしているのを見るのは、たぶん、海斗には辛いのではないか、と洋輔は思う。
「事故から一年経って、夏生は今日、かろうじて一つ年を重ねられたけど、これから夏生は、少しずつ人々の記憶から薄れていくんだろうな、と思ったら、最近少し悲しかったんだよ。
そうしたら、メールがきた。しかも洋輔くんから。あぁ、夏生の一番の友達の洋輔くんは、夏生を、今日を覚えていてくれた、っておじさん、本当に嬉しくてね――」
洋輔の思いを知ってか知らずか、海斗は本当に嬉しそうな顔をして、洋輔を見つめる。
「――思わず洋輔くんに返信しちゃったんだ」
「洋輔くん、夏生、だいぶ痩せちゃっただろう。ずっと意識がないから、点滴でしか栄養がとれなくてね。でも心臓だって動いているし、髪の毛だって、爪だって伸びるんだよ。人間ってすごいよな」
「――ごめんなさいっ」
洋輔は耐えられなくなって、早口で言う。
「おれが、あの日、最後に川に行こう、って言わなければ、いや、夏生がいなくなったって気がついたとき、すぐ探せば、夏生は今も笑っていたかもしれない。なのに、おれだけ、無事で、元気で、――ごめんなさい……」
「洋輔くんが、謝ることは何もないよ。僕は、いや、僕も紘子も、きみたちが無事で、本当に安心したんだ」
「それに、川に行かなかったら、すぐに探していれば、というのは、そのときにあった選択肢をあげるだけで、そうしたことでこうならなかったかどうかはわからないよ」
「それでも、おれは、そうすれば夏生が助かったかもしれないのに、って思う」
「洋輔くん、じゃあ、どうすれば夏生を助けられると思う?」
「え?」
「まず、川に行かない。ほかには?」
「声が聞こえたときに、すぐに追いかければよかった」
「うーん、でも夏生は、たぶん深みにはまって溺れたんだよ。洋輔くんが追いかけたら、一緒に溺れちゃうんじゃない?」
「え? えーと、じゃあ、川の深いほうには行かない」
「うん、ほかには?」
海斗は指を二本立てて、洋輔に問う。
「お、大人と一緒に行く、とか」
洋輔が一つ答えても、海斗はほかには? と問うて、次を促す。洋輔は、問われるままに考えて思いついたものをどんどん口にする。
「うーんと、浮くものを持っておく、とか」
「えーっと、溺れないように、めちゃくちゃ泳げるようにする」
「自分でも、心臓マッサージとかできるようにする」
「天気とか見て、水の量が増えそうなときは行かない」
「うん、ほかには?」
海斗はなんだか楽しそうに、指を立てた手を振る。
「うーーーん、……もう思いつかない!」
海斗が、降参した洋輔を微笑みながら見つめて、静かに言葉をつなぐ。
「おじさんもね、夏生が事故に遭ってから、いろいろ、たくさん考えたんだ。どうすれば、夏生が事故に遭わなかったか。どうすれば、夏生を救えたか」
「自分も攻めたし、紘子ともケンカした。美冬もそんな両親を見てつらい思いをしたかもしれない。
でも、夏生が事故に遭った事実は変わらないからね。じゃあ、夏生はどうしてこうなったのか。川での事故はどんなことがあるのか。そういった事故はどうしたら防げるのか。そういうことを勉強し始めたんだ。
洋輔くん、水の事故、つまり水難事故の半分は『死亡事故』になるんだよ。もちろん、水の事故だから、川だけじゃなくて、海とか、湖とかの事故も含まれるんんだけどね。それでも、やっぱり、川で遊ぶのはそれだけ注意が必要だってことなんだよ」
洋輔は、こくんと頷く。学校でも、着衣泳とかやったことがある。
「僕らは、夏生や洋輔くんが子供のころから、夏にはあちこちに出かけたね。もちろん、知識としてそういう事故が起こりうることはわかっていた。だけど、自分たちに起こるとは思っていなかったんだ。
だから、僕らは、君たちに、川や海の危険性について改めて注意したりすることはなかったし、ライフジャケットを着せたりもしていなかった。大人も付き添わず、子供たちだけで川に行かせた」
海斗がじっと洋輔の目を見つめる。
「きみが後悔することはない。後悔すべきは、僕たち大人だ」
さっき、きみがあげてくれたことは、全部事故を防ぐために大切なことだったんだ、と海斗は呟く。
「もし洋輔くんが、いつか心に余裕ができたら、大人の立場で『どうすれば事故を防げたか』をもっと考えてほしいな」
きっと、海斗がこの考えに至るまで、とても、悩んで、考えて、苦しんだろうな、と洋輔は思った。洋輔には、まだ無理だ。
「……夏生、目、覚めないんですか?」
「目が覚めなくても、今、ここで眠っていることが奇跡なんだよ」
そんな、と口を開きかけたとき、背後の扉をノックする音が聞こえた。
「お父さーーん、頼まれてたのって、これで合ってる?」
室内の返事を待たずに病室に入ってきたのは美冬だった。
「おれ、帰ります」
洋輔はがたっと椅子を揺らして立ち上がり、扉に向かって歩きかけて、手土産を持ってきていたことを思い出した。
「あの、これ」
鞄からがさがさを袋を取り出す。夏生が好きな駅前の洋菓子屋のクッキー缶だ。洋輔は自分が座っていた椅子の上に袋を置いて、美冬のほうは見ずに小走りで部屋を出た。
洋輔は、美冬が病室に来る直前に、頭に浮かんだ疑問がずっと離れなかった。
――夏生は、このまま死んじゃうんですか?
帰りの電車の中で、ぼんやりと車窓を流れる景色を眺める。
――夏生が、目覚めないなんて。死ぬかもしれないなんて。
胸の前に抱えた鞄に、洋輔は顔を押しつけた。
***
洋輔の誕生日には、大学や高校の友達のほかに、両親からも、萩平からも、美冬からも、夏生の両親からも「誕生日おめでとう」という内容のメールがきた。そして、夏生のアドレスからも。きっと海斗が送ったのだろう。そうは思ったが、洋輔は夏生のアドレスにメールを返信した。「ありがと!」
洋輔は、ますます地元には帰らなくなった。両親や、美冬や萩平と話をしたら、夏生の現実を受け入れなければならない気がした。帰らずに、大学の仲間と過ごして、バイトやサークルに明け暮れていれば、夏生も同じような毎日を過ごしている気がしてくる。そう思いながら、洋輔は、ぽつぽつと夏生のアドレスにメールを送り続けた。
「バイトがあるから正月も帰省しない」と優実に連絡したら、「正月ぐらい帰ってきたらいいのに」と呆れられた。「正月は時給が高いから」と押し切った。
そのまま、春休みもゴールデンウィークも帰らなかった。洋輔は、変わらず夏生にたわいもないメールを送った。もう返信は来なかった。一方で、美冬からはしばしばメールがきた。ちらっと見て、消す。返信はしない。
「関東地方も梅雨明けした」というニュースが流れてきた七月下旬のある日。バイトが終わって、洋輔が携帯を見たら数十件の着信履歴が残っていた。
発信者は、優実、萩平、美冬、聡太。すぐに「夏生に何かあったんだ」と洋輔は思った。胸がぎゅうっと締め付けられる。
誰に折り返そう、と迷って、新着メールにも気づく。こちらの送信者も同じメンバー。ぽちぽちとボタンを押して、何通かのメールをプレビューしておおよそ状況を把握した。予想は当たった。
そのまま、アパートにも帰らず終電間際の電車に乗って、地元に帰った。電車の中でメールをしたら、聡太が車で駅まで迎えに来てくれた。聡太が車中で「お父さんも、お母さんから聞いた話なんだけど、」と前置きして、今日の経緯を話す。
「夏くん、七月になってから、急に血圧が落ちたりすることがあったらしいんだけどな。今日のお昼前にも、血圧ががくっと落ちて。海斗くんも紘子さんも、強いお薬は使わないって決めてて。たぶん今日がヤマだろうって先生が言ってね……。よかった、洋輔、全然連絡が着かないから。間に合わないかと思った」
ぽつぽつと囁く聡太の目は赤かった。車は実家には寄らず、夏生がいる病院に直行する。
病室に入ると、夏生の家族も洋輔の家族もそこにいた。
入り口の脇に、優実と萩平。夏生のベッドの脇に、海斗と紘子がお互いに支え合うように立って、その傍らに、タオルを顔に押しつけて美冬が立っていた。美冬の肩が細かく震えている。海斗と紘子は、青白い顔をしているが泣いてはいなかった。
「洋輔くん、良かった。夏生に、お別れしてあげて」
入り口で立ちすくんだ洋輔に、紘子が小さな声で呼びかけた。
立ちすくんだままの洋輔の背中を、聡太がそっと押して、洋輔は、一歩、二歩とよろめきながら、夏生に近づく。
夏生、痩せたな、と思った。前に見舞いにきたときよりも、痩せた、というか影が薄くなった。あぁ、夏生、死ぬんだ。
夏生、夏生、と呟いて。堪えきれなくなって、夏生の枕元で「夏生、ごめん。夏生、ありがとう」と繰り返して、洋輔は顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。人間って、こんなに目から水が出てくるんだ、と思うぐらい泣いた。
夏生につけられた機械が警報音を鳴らして、海斗がナースコールを押す。すぐに看護師さんが来て、医師を呼んで、洋輔は聡太に支えられて、ベッドの脇から離れた。
夏生の二十歳の誕生日まであと五日だった。事故からおよそ二年。
七月三十一日、午前一時十五分。夏生は一度も目を覚ますことなく旅立った。
*****
夏生。
夏生がいなくなってから、十五年目の夏がきたよ。
俺の人生の転機はいつも夏に来る気がする。
夏のキャンプで、夏生が事故に遭って、二年後の夏に夏生が死んで。
夏生にはバレてたみたいだけど、夏生がいなくなって六年目の夏に、美冬と付き合い始めたんだ。付き合うまでにもいろいろあったんだけどさ。主に俺が理由で。
付き合い始めてからも、いろいろあってさ。美冬の仕事が忙しくて、振られそうになったり、サプライズでプロポーズしようとしたら、浮気を疑われたり。
でも、三年前の夏、夏生がいなくなって十二年目の夏に、美冬と結婚したよ。披露宴で、萩平がベロベロに酔っ払ってさ。親父と一緒にホテルまで運んだら「ぼくもみふゆちゃんが好きだったのにぃーー」って子供みたいに泣き出して。びっくりしたよ。本人は次の日になったら、何も覚えてなかったけど。
夏生。今年の夏は、子供が生まれるんだ。
立ち会いができなくて、おれは待合室で待っているんだけど、あまりに落ち着かなくてさ。思わず、送るあてのないメールをスマホで打ち始めたってわけ。
夏生。おれと美冬の子供も、おれたちと同じ、夏生まれだよ。
もし、おれらを見守っていてくれるなら、どうか、まずは無事に生まれるように、そして無事に育っていくように、一緒に願ってくれ。
*
「松木さぁん」
廊下から声をかけられて、洋輔は思わず立ち上がって返事をした。
「はい!」
「無事産まれましたよー、奥様、お子様と一緒にお部屋に戻ります」
マスク越しでもわかる笑顔で告げられ、思わずガッツポーズする。
誰もいない廊下をあまり足音を立てないように移動して、美冬の部屋に移動する。小さくノックしてから、美冬の部屋に入ると、美冬がベッドの上で顔を上げた。目線で、子の居場所を伝える。
「お疲れ様」
「長かったぁ……」
分娩室に入ってから、十三時間かかった。苦笑いしてから、ベビーベッドに寝かされた我が子を見つめる。ニヤニヤが止まらない。
「美冬、本当にありがとう」
「どういたしまして。名前は予定通りにする?」
「うん。そうしよう。いい?」
「いいよ」
「じゃあ、『夏を紡ぐ』で『紡夏』。つむちゃん、だな」
洋輔はそっと紡夏の頬に触れる。あまりに繊細で、儚くて、尊くて、幸せで。
「……親たちに連絡してくるな」
泣きそうになったのをごまかしたくて、そう言って部屋を出たが、美冬にはお見通しだっただろう。
夏を、夏の思い出をより合わせて、糸を紡ぐように、太く丈夫な人生を編んでほしい。紡夏。
夏生の病室での海斗と洋輔のやりとりを書きたくて、このお話を書きました。
あまり、お題には、沿っていなかったかもしれません……。
水の事故は悲しいです。少しでも、悲しむひとが減りますように。
<参考HP>
政府広報オンライン「水の事故、山の事故を防いで 海、川、山を安全に楽しむために」 https://www.gov-online.go.jp/useful/article/201407/3.html
国土交通省「河川水難事故防止! 川で安全に楽しく遊ぶために」
https://www.mlit.go.jp/river/kankyo/anzen/
※※※※※
美冬(と洋輔)を主人公にしたお話で、「約束されしハッピーエンドアンソロジー【Anthologia】」に参加しています。
企画サイト https://anthologia.filful.com/
主催 志信さま @LAZYxOWL
どちらも単体で楽しめますが、よければこちらも覗いていただければ嬉しいです。(ハピエンです)