0.ヤスリと少年
私が覚えている声は、しんとした夜闇に鳴る鈴を想像させる声。
――むかしむかし、あるところに。
物語はいつも、こうして始まる。
「ねぇ、」
隣に座る男の子に声をかける。
「ねぇ、なにしてるの?」
名前も知らない男の子。表紙の厚い絵本を開いて俯いている。
本を読んでいるのは見て解るけれど、他に周囲に誰も居ないから、私はそんな風に声をかけた。
「…………」
彼が顔を上げる。少し長めの前髪の向こうに瞳が見えた。
「『むかしむかし、あるところに、男の子と女の子がいました。』」
男の子が口を開くと、サラサラと砂の零れるような音がする。
「『男の子は言いました。』」
すぅっと息を吸う。
音が消える。
空間を遮っていた境界線が消える。残ったのは白だ。そして私達。塵芥。
輝きながら空に舞う粒子達に、赤い粒状の液体が混じった。
「に げ て!」
世界がぐるっと反転する。
暗く淀んだ沼地に引きずり込まれるような感覚。
天は地に。白は黒に。二人は沼に。
足元に枷がつき、奥底へと沈むのだ。
ごぼっ。空気が消え失せた。
暗い、暗い、暗闇に似た泥が纏わりつく。
幽かな灯が見える。あそこに、あそこにさえ手が届けば……
私は沼の中でもがいた。
しかし沼はべったりとした血のりで満たされていて、
腕を上げればぬるりと滴り落ちていった。
「ひ……っ」
もがけども足に何かが引っ掛かり上がらない。これは何?
――あははははは
――あははは
――はは
子供の笑い声がする。どんどんと口の中に泥が詰め込まれる。
生臭いにおいは次第に肺の中いっぱいに広がり、嗚咽となり始めた。
ずぶずぶと、埋まっていく身体。
このままでは死んでしまう。
私は意を決して両手を鮮血の沼に突っ込み、足に絡まるそのぶよぶよとした何かを引き上げた。