⑧ 彩羽のこと
期末考査前のほんのひと時、ある学校行事があった。同じ校区内の四つの高校が対抗する野球部の試合が行われたのだった。基本、野球部以外の生徒は応援するだけなのだが、それでも、自分の学校の勝敗がかかっていると思うと、野球になど興味のない者も、それなりに応援に熱が入るのだった。
そんな中、彩羽にある事件が起こった。
応援の合間、麻友と連れ立ってトイレに行こうと通路を歩いていると、
「あれ、ハングルじゃん」と呼びかける者がいた。
彩羽はびくっと肩を揺らし、ゆっくりとそちらを振り返った。案の定、小学校が同じだった森山由紀だった。
「元気?今どこだっけ?北西?うっそー、頭いいんだあ。ってか、よかったもんねー」と無邪気にしゃべり、
「じゃ、またねハングル」と手を振り行ってしまった。
由紀が言ってしまうと、彩羽と麻友の間に気まずい沈黙が流れた。
「………何、今の。」麻友が沈黙を破り、口を開いた。
「小学校の時の友達。」彩羽はそれだけ言うのが精いっぱいだった。
トイレから戻り観客席で待つ正人のところに戻っても彩羽は口をきかなかった。
正人は応援をしながら英単語帳をめくっている。
「ねえ!」麻友が突然大声で言った。選手が何らかのファインプレーをしたのとほぼ同時で彩羽と正人以外、麻友に注目する者はなかった。
「教えてよ、さっきの。なんなの?!」
三人はそっと観客席を抜け出し、外野席のグラウンドにやってきた。
下を向いたままの彩羽に麻友が詰め寄った。
「さっきの何?ハングルって。あんなこと言わせたままにしとくの?」
麻友は明らかに怒っていた。
彩羽は少し顔を上げた。
麻友が彩羽を見下ろしていた。いつもの笑顔を浮かべた優しい表情は消え、怖い顔で。彩羽と麻友には20センチ近い身長差があり、いつもの優しい表情の麻友は、一緒にいると、彩羽はまるで守られているように感じていたが、今は真っ黒い瞳が射すくめるように彩羽を見つめ、見下ろしていた。
彩羽は逃げ場を失い、追いつめられたような心地がした。
「だって………しょうがない…………。」
彩羽は絞り出すように言った。
「何が!?あんなこと言われっぱなしなんて!」
彩羽は口の中にわいてくる唾をのみこみ、言った。
「でも、本当のことだもの…………」
彩羽は下を向き、唇をかみしめた。
「それって、彩羽のお母さんが韓国人だってこと?」
「知ってたの?」彩羽は驚いて尋ねた。
「知ってるよ、そんなこと」
「知らないのかと思った。何も訊かれなかったし。だから、あたしと一緒にいてくれるのかと」
「彩羽」
麻友はため息をつき、さっきまでの怒った顔を少し優しくゆるめた。
「そんなことあるわけないじゃない。そんなこと考えていたの?
………あたしが言ってるのは、さっきの馬鹿は、ああいう風に彩羽を呼ぶことで、彩羽を嫌な気持ちにさせようとしてる、彩羽の尊厳を踏みにじってるってことだよ。それをなぜ、言わせたままにしておくのかって言ってるの!ねえ、ヨシザワッチ!」
正人は少し考えて、
「みんながコダマッチみたいに強いわけじゃないから。ヤマグッチは、そのことで、いやな思いをしたんだろ。俺が、緑ヶ丘で言われたみたいな」と言った。




