㉛毎日がテスト前
彩羽は次のバイトの約束も忘れ、いつまでも座り続けた。来ない彩羽を心配してバイト先から電話があったときは4時間ほどが経っていた。バイト先の店長は彩羽の声を聞くなり、「あら!ぐあいわるいの?」と声を上げた。店長が気遣って、そんなに気分悪いなら、いいのよ、心配しないで休んでね、と言ってくれるほどの声で応対したあと、通話を切った時、彩羽は自分の大きな失敗に気づき、その取り返しのつかなさに呆然とした。
彩羽は思った。
―――――――――私は何より大事なことを伝えなかった、伝え忘れてしまった。
彩羽にとって、麻友がどれほど大切な友人であったかということ、どれほど麻友を必要としていたかということ。麻友を家族の様に思い…………語弊はあるかも知れないが………愛しているといってもよいほど大事に思っていた、ということ。
そして今でも、まだ、麻友を失った痛手が言えず、ずっと傷口から、血を流し続けていること。
麻友の心を動かすには、自分の心の奥底に潜む、その痛みを伝えなければならなかったのに。
彩羽は思わず、店内中の人々が振り返るほど、声をあげて泣いた。
――――――まただ、またやってしまった。彩羽はそう思っていた。
――――――いつもいつも、守られて、助けられて。私は、また、大切な人を守ることも、助けることもできなかった。
麻友の後悔は…………彩羽に声をかけてしまったことに対する後悔は、彩羽にも伝わっていた。
彩羽は、麻友の後悔は、麻友に会えた懐かしさを上回る、過去に味わった彩羽自分の寂しさを伝えきれずに、へそを曲げた結果であるアマノジャクな彩羽自身の態度に端を発したのではないか、と、また自分を責めた。
涙をひとしきり流し、落ち着いた彩羽は、今あった出来事は本当にあったことだろうか、とぼんやりと考えた。
彩羽の目に、今の麻友は、まるで、この世と死者の世界を彷徨っているように見えた。自分の姿を変え、自分という存在を殺し、誰にも気づかれぬよう人ごみに紛れて生きていた。あたかも、彷徨う亡霊のように。
麻友は彩羽に姿を見られたことで、最後に残った瞳の痕跡までカラコンで隠すといった。もしかしたら、顔をも、変えてしまうかもしれない。
もう、もう二度と会えないのだろうか。
彩羽は、ふと、昔、麻友が言った言葉を思い出した。
「それはいつか彩羽の強みになるよ」
母が韓国人であることを打ち明けた日のことだ。
小学校の時の差別的なあだ名を恥じる彩羽に、マージナルであること、どちらでもないこと、それが強みになると麻友はいってくれた。彩羽はその言葉を聞いたとき、受験や就職の時有利になる、ということかな、くらいにしか思わなかった。
今、彩羽にはその意味が分かった。その強みとは、自分の大事な人の救いになることだ。
―――――-麻友にもう一度会わなければ…………会って、自分の気持ちを伝えなければ。
その思いに彩羽は追い詰められていった。
ふと、彩羽は、先ほど、麻友とこの店で出会った時に感じた強い視線を思い出した。
――――――そうだ、麻友は私を見つめるはずだ。
きっと麻友は彩羽の姿を探すだろう。絶え間ない孤独地獄の中で、それでも生きていくと決めたのだから。そして、きっと自分をあの瞳で見つめる。
彩羽は先ほどの麻友との会話で気づいたことがあった。麻友は、あの入学式の日、彩羽のことを、他の生徒に不審に思われるほど見つめていた、と言っていた。
あの日、入学式の日も、彩羽は誰かからの強い視線を感じていたことを思い出した。
―――――わかる。きっと、わかる。私にはわかる。…………あの視線を、今度は私が探すのだ。
彩羽には思っていた―――――自分はいつも迷っている、どちらの人間なのかと。迷って彷徨い続けている。だから、見つけられる。この世を彷徨う麻友を。
彩羽はさらに強く思った――――――見つけてみせる。道を行く、そのすれ違いざまに。また、時に人々でごった返す雑踏の向こうから自分を見つめる麻友の瞳を。たとえ、その目がカラコンで覆い隠されていようとも。
………………そしてそれは自分にしかできないことだ、自分に課せられた使命だ、と。
そして、もう一度小説を書こう、と思った。
世間に発表するためではなく、麻友のために。麻友だけのために。
口下手で、アマノジャクな自分の、心の奥底を麻友に知ってもらうために。
ただ、それだけのために。
どんなに自分にとって、麻友が大切かを伝えるためだけに。
彩羽はふと、麻友と過ごした高校時代を思い出した。毎日毎日、何らかのテストが控えていた。いつもテスト前だった。これはまるで、あの頃と同じ毎日テストをうけるようなものだ、と。
それでも喜んで、テストを受け続けよう、試され続けようと思う。
麻友のために小説を書き、麻友を見つけることが、彼女の生きる力になるのなら。そしていつか、彼女の受けた心の傷がいやされ、逃げ出すことなく、自分の前に姿を現してくれるまで。
それが私のプライド、と彩羽は思った。―――私自身が、彷徨うマージナルであることのプライド―――と。
彩羽は店を出て、すっかり日の暮れた街に一歩を踏み出した。
明日もまたテストを受けるのだと思いながら。
(完)
お付き合いいただきありがとうございました。これで完結となります。
<(_ _)>