㉘過ぎ去りし日々のこと
その時、麻友がぽつりと言った。
「ねえ、どうして、おなかの中にいる間なら、自分の都合で殺しても殺人にならないんだろう」
彩羽ははっとした。――――――伝えなくては、麻友に。自分の知っていることを。
「麻友ちゃん訊いて。麻友ちゃんはお母さんの事、誤解してる」
彩羽は、あの自販機のそばで正人と話をした日のあとも、麻友の家を訊ねた。何度目かに麻友の姉と会うことができた。麻友の姉は疲れ果て、憔悴しているようだった。何度も何度も通い、何度も会って、ようやく麻友の姉が重い口を開いてくれた。
あの日、麻友が家出をした日、麻友の部屋でちぎれたネクタイを見つけた麻友の母は、麻友を追い詰めたのは自分だと半狂乱になったそうだ。
「お姉さんが言うには、お母さんは、『麻友が、何でも、自分がどんなひどいことを言ってもいつも平気な顔して笑ってくれていたから、麻友に依存してしまった』と言って泣いたそうよ」
そして、麻友の姉はもっと衝撃的なことを言った。麻友の母は、麻友はもう死んでいるかもしれない、と言って後追い自殺をしかけたのだと。それも一度ではなく、何度も。そのことを彩羽は麻友に伝え、そして言った。
「だから、麻友ちゃん、うちに連絡して、お願い」
麻友の瞳は、彩羽を通り抜け、どこか、虚空を彷徨っているようだった。彩羽には、香織の仮面をかぶった麻友の表情は読み取れなかった。
その麻友の様子を見て彩羽は思った、自分はここまで踏み込む権利はなかったのかもしれない、と。
その時、
「驚いた」と麻友が言った。
「え?」
「驚いた。あたし、救われてる」
麻友は一筋涙を流した。そして、その泣き顔は、表情は、香織の仮面の下の麻友本来のものだった。
「もう二度と母のことを考えたくないって思ってたのに、あたしがいなくなったことで、苦しんでくれたことに救われてる。教えてくれてありがとう、彩羽」
「じゃあ、麻友ちゃん、家にかえ…………。」
「ううん」
麻友は首を振りながら言った。
「それはないかな」