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㉑未遂

「あたしは暗示にかかり、本当にそのことは忘れていた。あの日までは。」


 麻友はうつむき、唇をかんだ。


「思えば、そのことがあったころだったと思う。父が家に帰ってこなくなったのは。…………うちの両親は離婚こそしてなかったけれど、父には別に帰るところがあった。その事があった、前か後かはわからないけど、一度、なぜか、父があたしだけをそこに連れて行ったことがあるの。…………そこには、生まれたばかりの男の子がいたわ。…………あの子はおそらく、あたしの血のつながった弟ね。…………怖くて訊けなかったけど。そこにいた…………女の人も私に優しくしてくれて、「抱っこしてあげて」と言いながら、赤ちゃんをあたしに抱かせてくれたの。柔らかくて、暖かくて…………本当にかわいい、いとしいと思った。…………でも、あたしは、なぜだか、そこにいることは母を裏切ることのような気がして、まだ、来たばかりだったのに、『もう、うちに帰りたい』って言って、駄々をこねたの。父も女の人も悲しそうな顔をしていた。

 …………そこが父にとっては家庭だった。安らげる場所だった。あたしと姉と母の居た、あの家じゃなくて。父に連れて行かれたその家では優しい時間が流れていた。

 ……………もしかしたら父は、母のあたしに対する態度に不安を感じていて、あたしを自分の方へ引き取ろうと思ってくれていたのかもしれない。…………まあ、そう考えるのは、あたしの甘さかもしれないけれど。


 …………うちの両親が別れていなかったのは、おそらく、母が、頑として離婚に応じなかったからだと思う。

 母は仕事に就くことができなかったから、あたしたちは父からの仕送りで生活していたの。そのことが余計に母のプライドをずたずたにして、意固地にさせてしまっていた。

 もし、母が仕事を続けて収入があれば、仕送りなんかに頼らず生活できるのであれば、離婚に応じていたかもしれない。…………ううん。まず、あたしが生まれなければ、母は仕事を続けてキャリアを積めていたはず。そうして、母が、自分のプライドを失っていなければ、両親の間もこんなに険悪にならなかったかもしれない。

 …………母はもともと鬱傾向があってね。それが、父が家を出た原因か、父が家を出たからひどくなったのかはわからない。その両方かもしれない。そして、その頃が一番ひどかった。たぶんそのことがあった後、ちゃんと病院に通って服薬するようになって落ち着いたわ。自分で行き始めたか、誰かに連れて行かれたかはわからないけど」


 麻友は下を向いたままだった。


「とにかくあたしは、その、母の『生まなきゃよかった』の言葉でその出来事をフラッシュバックで思い出したの。そして、家に着いてから目に入ってきたリビングにずっとかかったままになっていた父のネクタイを掴んで自分の部屋に行って、首を吊ったの…………。あたしはどんなに嫌われても母が好きだった。母にあたしを愛してほしかった。あたしを見てほしかった。あたしの願いはそれだけ。

 そして、母の願いをかなえてあげたかったの…………それがあたしの死でも。

 

 …………それがお笑いなのよ。気づいたら、床にたおれてて。ネクタイが切れたのよ。あたしの重さで」


 麻友は少し笑いながらため息をついた。


「あの頃80キロ近くあったからね…………。でも、もう一度自殺をやり直すことはできなかった。もう家を出ていくことしかできなかった」


 麻友は目を上げ、店のガラス越しに街ゆく人を眺めた。




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