⑮正人の決意
「麻友は………。麻友はどうなったの?」
彩羽は、正人が話を終えると、自分の一番気になっていたことを訊ねた。事件の直後から登校してこない麻友を心配して、彩羽は何度も、麻友に連絡を取ろうとし、家を探して訪ねたが、いつも留守で誰にも会うことはできなかった。そのことを告げると、正人は、「俺も同じようにしたんだ。俺は一度だけ、お姉さんという人に会えたよ。コダマッチは家出をしたらしい。でも、そのあとはわからないって」正人はため息をつき、
「お姉さんは本当に心配していた。『母が憔悴していて。妹からもし連絡があったら教えて』ってむしろ頼まれたくらいで」
正人は、元の事件の話に戻った。
「俺はそれっきり警察に呼ばれることもなく無罪放免。だけど…………刑事に言われた、あの言葉は忘れられない」
怪訝な顔をする彩羽に正人は
「警察に連れて行かれて、母親が抜け出して弁護士を呼びに行ってる間に、俺を尋問していた刑事が言ったんだ。『君が犯人ならすべてが丸く収まるんだけどねえ』って。」
「まさか、………まさか、冤罪をたくらんでいたってこと?」彩羽は、息もつけないほど驚いた。警察は香織に頼まれ手ごろなゴミ屋敷を探し、そこの住人の人柄を確かめようと調査していた、複数のゴミ屋敷周辺で目撃されていた正人を冤罪のターゲットにした、ということか。
正人は薄く笑って、
「本当はそうしたかったのかもしれない。でも、今の日本でそこまでやるには、よっぽどの準備が必要だろうね。何であれ、ネットの世界から隠すことが難しいから。けれど、それが警察側の本音だったと思うんだ。北上一族の人間がかかわっていたなんて明るみに出すわけにいかない。この、母子家庭の、何の地位も、権力へのコネも、金の力へのつながりもない、ちっぽけな存在が犯人であればって」
遠くを見ていた正人は彩羽に向き直った。
「俺、誰の目もはばからず北上さんが好きだって言ってたけど彼女の何を見ていたんだろう。彼女の中に、自分の知らない暗い部分があるってわかった途端、ある意味、俺の心は彼女を切り捨てた。あっという間に、彼女は俺にとって何の価値もないものに代わった。自分の中のプライドに近いものだったのに」
プライド、と彩羽はかつてどこかで聞いた言葉だと思いながら、なぞるようにつぶやいた。
「もしかすると、最初から、『好き』、なんかではなかったのかもしれない。彼女は誰から見てもわかりやすい価値を持っていた。もし彼女を手に入れることができたら、人に見せびらかして自慢できる………そういう道具や人形のように思っていたのかもしれない。………あるいは、目指す場所の象徴として。単にその目標として」
正人はベンチから立ち上がりながら続けた。
「ヤマグッチ。俺、いつか、必ず、力を持つよ。上に行く。どうでもいい存在のままでは、絶対にいない」
2年生になると、彩羽は正人とクラスが分かれてしまった。志望する大学のレベルや、志望する大学の傾向で、国立理系コース、国立文系コース、私立文系コース、私立理系コース、その他と別れてしまい、卒業までもうめったに言葉を交わすこともなかった。正人は2年になると、やっと周りの男子生徒と打ち解け始めたようで、彩羽は遠くからそれを眺めながら、寂しさを感じながらも、よかったね、と、心の中で声をかけた。
彩羽は、いつも、自分の隣にいるべきはずの人がいない孤独を感じていた。学年が変わるたび、または何かのきっかけで新しい友達と出会っても。
彩羽にとって麻友は、一人で抱え込んでいたつらい思いを受け止めてくれて、彩羽を彩羽のまま受け入れてくれた存在だった。そして、初めて心の奥底に秘めていた思いをさらけ出した存在だった。
たとえて言うなら、彩羽と麻友は二人で一つのカスタネットのように結びついていたといえよう。彩羽の日常は、まるで、カスタネットの糸が切れ、片方を失い、音がしなくなったように、すべての彩りと喜びが消えてしまった。
麻友の話題は、北西高校ではタブーとなり、いつしか、誰もの心から、その麻友の姿は消えて行った。ただ一人、彩羽を除いて。