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鰻女  作者: 山田 六十
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「そんじゃーね! セイヤ」


 帰りのHRを終え、知恵は挨拶を済ませると友人数名と共に教室を出ていった。正也は昼休みを終えてから何を奢らされるのかと身構えていたのだが、どうやら先約があったようである。彼なりに覚悟を決めていただけに少々拍子抜けだった。


 無駄な出費を出さない事に対する安堵と同時に、放課後に連れ立つ期待が外れた一抹の寂しさを覚えた。


「まぁいいけどね」


 正也は小さく強がると立ち上がって教室を後にした。




「あっ! 月岡くーん」


 正門を出た所で聞き覚えがありながらも慣れない声に呼ばれる。振り返ると昨日の女が手振りながら駆け寄って来ている所であった。


「えっと、昨日の……」


 驚きに声が詰まりながらも名前を出そうとするが、昨日は互いに名乗らずに分かれた事を正也は思い出した。


「良かった。もう帰っちゃたのかと思ってた」


 女は正也の右手を両手でつかむと上下に揺らして感激した。下校中の生徒達が通り過ぎ際に二人に奇異の視線を向けているのを感じて、正也はどうにも落ち着かない心持ちになった。


「あ、あのちょっとこっちへ」


 色々と疑問は浮かぶがここでは目立ちすぎると思い正也は女の手を振り解くと、逆に女の腕をつかみ場所を移動するように促した。女は理解に乏しい顔をしながらも大人しく彼の後を付いていく。




「なんなんですか一体?」


 学生が帰りに寄らなそうな少し古びた喫茶店に入り、コーヒーを二つを注文した後正也はそう切り出した。


「何がって?」


 女は意図が全く伝わっていないとばかりに首を傾げて尋ね返した。正也は頭をガリガリと掻くと、改めて簡潔に疑問を口にする。


「何で僕の名前と学校を知っているんですか」


 自身を訪ねてきた要件も気になるが、まずはそこだった。学校に関して言えば周辺地域にある学校を適当に目星を付けた。という可能性もあるが、自身の名前を知っている事については全くの説明がつかない。どこで自分の個人情報を仕入れたのかが気が気でなかった。


「あーそのこと」


 女はそんな正也の心中を知ってか知らずか、のんびりとした調子で両の手を合わせて納得した。

 急いた気分の彼とは裏腹に、彼女はおもむろにはキャメル色のハンドバックを取り出すと一冊の小さい手帳を取り出した。


「これを渡そうと思っていたの」


 正也は訝し気に受け取るがすぐさま驚愕した表情に変化した。

 手帳は胸のポケットに調度収まりそうなサイズであり、表紙の中央部には正也の通っている学校の名前と校章が印字されていた。裏返すと透明のカバーの下には無表情な男の顔写真が張り付けられており、写真の人物の名前であろう「月岡正也」という文字が印字されていた。


「俺の……生徒手帳?」


「そう。昨日落としたみたいだから渡しにきたの」


 女は返せて良かったとばかりにまたも両の手を合わせてニコニコと笑った。

 正也は消え入りそうな声で「ありがとうございます」とだけ返した。


 確かにこれならば、正也の名前や学校を知っていたとしてもおかしくはない。自分を訪ねた理由にも納得がいく――が、正也の不信感は未だに拭うことができなかった。


 彼女は正也が手帳を落とした。と発言したが、ではそれをいつ、何処で拾ったのであろうか。彼を食事に誘う以前に拾ったというのであれば、最初に声を掛けた時に返せば良いだけだ。

 店の中や別れ際に落としたのを拾ったのならばそれこそその場で返せば良い話だ。今の今まで彼女が保管しておく理由が無い。


 彼女と出会う以前に落とした手帳を昨日別れた後に偶然彼女が拾得したとでもいうのか。ありえない話ではない。が、そもそも自身が生徒手帳を落とした。というのが彼にはどうにも信じがたかった。 


 正也は生徒手帳を基本的に鞄の中へと入れたままにしている。学生割引や身分証の提示に必要な時でしか取り出さない。加えて昨日、女と出会うまでの間彼は下校中何処にも寄っていない。故に学校から彼女と出会うまでの間、鞄を開ける事は一度としてなかった。


 そして彼女と出会った後でさえも、一度も鞄を開ける機会など訪れなかったはずだ。支払いは彼女だ。そもそも正也の財布はスラックスの左ポケットの中だ。よしんば彼が支払いを拒否する誠意のポーズを取った所で鞄を開ける必要性は全くない。


 つまり昨日、彼が生徒手帳を落とすなどという事は本来は起こりえないのだ……鞄に穴でも開いていない限りは。

 毎日の使用に多少のくたびれた様子は見られるものの、穴が開くほどの劣化は見られない筈だ。そもそも手帳が落ちるほどの穴が開いているのであれば流石の正也も気が付く。

 

 では何故彼女が手帳を持っているのであろうか。彼女の言い分は「正也が落とした」からに他ならないが、彼にはとてもではないが信じられなかった。

 鞄に穴はない。自発的に開ける機会もなかった。だから手帳が外に出ることはあり得ない。第三者が意図的に取り出さない限りは。


「どうしたの?」


 声が聞こえて正也の意識は元に戻る。目の前に視線を向けると、いつの間にか置かれていたコーヒーを女は優雅に口付けていた。


「ここのコーヒー意外とおいしいね。月岡君の行きつけだったりするの?」

「いえ……初めてです」


 何がおかしいのか、女はそれを聞いてクスクスと小さく笑う。昨日は愛らしいとさえ思っていたその笑顔は、今はとても不気味に感じられた。


 正也は昨日のやり取りを出来るだけ詳細に思い出そうと試みた。仮に目の前の女が自分の鞄を漁ったとして、それが可能であったのかどうかを。

 幸いにして彼女と共にした時間は非常に短い。その中で人の荷物を悟られずに物色するという機会は決して多くはないはずだ。


 必死に昨日の流れを思い返していると、一度だけ自分が席を外した瞬間があったことを思い出した。彼女にからかわれた恥ずかしさを誤魔化すため、店のトイレへと逃げ込んだ時である。あの時、鞄は確かに席へ置いたままだった。


 正也が席を立ったのはある種偶然的なものだ。もう少し彼の自制が働けば、赤い顔を見られるのをグッと堪えて彼女と対面していただろう。つまり彼が席を外したのは本来彼女も意図した事では無いはずなのだ。


 本当に彼女が鞄から手帳を取り出したとして、それが元々機会を伺っていたのか、衝動的な行為なのかは分からない。だが、彼女はそんな突発的な事態も見逃さずに行動を起こしたという事になる。

 自身がトイレに行っている間、何食わぬ顔で自身の荷物を探る彼女を想像して正也に悪寒が走った。


「どうしたの?」


 またも思考に意識を奪われていた正也が気がかりなのか、女は再度同じように彼に声を掛けた。


「具合悪いの?」

「い、いや別に……」


 正也は思わず視線を逸らして否定した。彼女に真相を聞く勇気はとても湧かなかった。仮に正也の予想が事実だとしたら、とてもではないが理解できる行動ではない。

 そしてそんな人間が事実を看破された際にどんな行動を起こすのか等全く検討がつかず、それがとても恐ろしかった。


「ごめんなさい。やっぱりいきなり押し掛けたりして迷惑だったよね」


 多少検討違いとは言え、女は原因が自分にあるということは理解したようだった。無論それが今初めて気づいた事なのか、そう演じているのかは正也には分からぬことではあるが。


「あっ! ごめんなさいわたしこのあと用事あるんだった」


 女は店の壁掛け時計を見ると、そう言って席を立ち上がった。右目を閉じて片手で「ごめんね」とジェスチャーをするとテーブルの端に置いてある伝票を拾い上げた。


「あっ、その……俺が払いますよ」


 女に対しての不信感は未だ拭えないが、自身がここに連れてきた手前とっさにそんな言葉が出た。


「大丈夫。こういうのはお姉さんに任せておきなさい」


 右手に腰を据えて左手でヒラヒラと伝票を旗めかせて女はそう返した。正也も押し切れず、「あんまりそのポーズは似合わないな」と思いながらも了承した。


 正也の返答に満足したような笑みを浮かべると「そうだ」と手を叩いた。伝票が両手の間でクシャリと音をたてる。


「わたし、桜波南さくらなみみなみ


 朗らかに自身の名前を名乗った。


「わたしだけ一方的に名前知ってるなんて不公平だもんね。サクラちゃんって呼んでもいいよ」


 女はニコニコしながら正也をのぞき込む。重力の影響で薄い胸元がチラリと除く。


「よ、呼びませんよ。え、と、桜波さん」


 こんな時にも思わず視線が下がる自分に嫌悪感を覚えながらも、顔を逸らしながら正也は答えた。


 その姿をみて満足げに微笑むと「じゃあね」とレジの方へ歩いていった。会計を済ました後、正也にもう一度手を振ると南は店を出ていった。


 正也は南を見送った後暫く呆然としていた。

 先ほどまで問題はないと高を括っていた昨日の判断が、自分でも予測のつかない事態を引き起こしたのではないかという不安が胸中で渦巻いていた。


「いや気のせいだ」


 現実から逃避するかの如く彼は呟いた。


 そう、全ては自分の完全な憶測でしかないのだ。「自分が手帳を落とすなんてヘマをするはずない」という思い込みで、一方的に彼女を脳内で悪人に仕立て上げたに過ぎないのだと。


 本当に思いもよらない原因で落としたものを、偶然にも彼女が拾ったのかもしれない。だとするならば先ほどまでの自分の考えは、どう謝罪しても許されない酷いものだ。昨日の別れ際も「人を簡単に訝しむべきではない」と自戒したばかりだというのに。


 いやに速く回る思考に正也は少し頭がふらついた。


 意識を切り替える為に、すっかり温くなったコーヒーを一気に流し込んだ。何も入れていないせいで、苦みが一気に口内から喉奥に広がり酷く纏わりつく。


「オエッ」


 思わずえずくと、視界の端にある水を一口含んだ。まだ口内に苦みは残るものの幾らか楽になった。


「よし!」


 言葉と共に気持ちを入れ替えた。否、入れ替えたという事にした。そもそもいつまでもここにいるからいけないのだと思い、正也は足早に喫茶店を後にした。


「ありがとうございました」


 ふと、思わず振り返った。妙に聞き慣れた声が聞こえた気がしたからである。しかし振り返った時には、既にドアは殆ど閉まっていた為、声の正体を確認することは叶わなかった。

 流石にもう一度開けて確認しようとは思えず、おとなしく体を翻した。


 唐突に右ポケットに入っている携帯が震える。確認すると今日のスケジュールを知らせる通知機能であった。


「あぁ、今日バイトなんだっけ」


 先ほどまでのやりとりで、すっかりと忘却していた予定を思い出す。正也はボリボリと頭を掻きながら仕事先へと向かった。

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