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「オハヨー! セイヤー!」
翌日の朝、机に座ってまどろんでいる正也の目の前に知恵がやってきた。正也は大きくあくびをしてから挨拶を返すと――
「とりあえず胸元を閉めろ。胸元を」
出会ってから何度目か解らない注意を促した。
彼女の着崩したシャツから、窮屈そうな胸元がこれでもかと主張している。これでも十分に目の毒ではあるのだが、自身の机に前のめりに寄りかかれては話に集中することすら困難なのであった。
「だから苦しいんだって――」
いつもの注意をいつもの様に返して聞き流す知恵。
「本当にスケベだよねセイヤって」
にやにや笑いながらからかう知恵に「うるせー」と視線を逸らしつつ返すが否定はしない。実際そういった煩悩を振り切って会話に集中できないから注意しているのであるからして、そもそもできないのであった。
「おおっとそうだ。昨日なんと俺は鰻を食べたのだ」
知恵を見て思い出したかのように正也は自慢げに語った。まだ席の隣人が登校していないので、未だ話せずにいた為少し食い気味であった。
どうにも、あの感動を伝えたくて仕方がなかった。
「はー、豪勢だね。ウチはなんちゃら牛の日位だよ。鰻がでるの」
「土用の丑の日な」と心の中で訂正しながらも、素直に羨む知恵に気を良くした正也は尚も続ける。
「しかもあれだからな。スーパーから買ってきたとかじゃねーんだよ。鰻専門店の鰻重を食ったんだよ。松竹梅に分かれてんだぜ?」
「へースゴい。わたし鰻屋とか行ったことないよ」
「だろ? んでその鰻が――」
「それで誰と行ったの?」
話を遮るように知恵が聞いてきたので正也は思わず固まってしまった。誰かと食べに行ったなんて一度も言っていないはずだからだ……
「いや、なんで?」
「だって誰かと行ったんでしょ?」
それは問いというよりも事実を確認するような声色であった。
「いや、もしかしたら一人かもしれないだろ?」
「だって、正也お金無い無いっていつも言ってるのにさ、一人で鰻食べに行くわけ無いじゃん。誰かと食べに行って奢って貰ったってことじゃん」
冷静に考えれば学生が一人でそんな所に食事に行くわけもなく、彼女の疑問は至極当然であった。しかし、あまりの感動に興奮していた正也にはそんな当たり前の事に脳が回らず「妙に感が良いな」と見当違いな方向に驚き、言葉が詰まる。
「……母さんと行ったんだよ」
一瞬昨日の女の顔が頭に浮かんだものの、妙な疑念を持たれるのを嫌い無難な回答を口から出任せた。
「嘘だぁー! それだったら最初に聞いたときにそう答えるもん。セイヤだったらさ」
性格がある程度把握されているのも面倒なモノだなと思い正也は頭をガリガリと掻いて観念して――
「いや、昨日の帰りにたまたま親戚のお姉さんにばったり会っちゃってさ、いやー話が弾んじゃってさ、それで立ち話も何だからって事で近くの鰻専門店に寄ったってワケだよ」
昨日の女が考えた言い訳を話した。まくし立てるように話したせいで少し胡散臭さが増したが、正也の知っている知恵ならこれで騙されてくれるだろうという自信があった。
「えー、そんなの絶対嘘じゃん。親戚のお姉さんとかさー」
悲しいかな彼の思い描いている雛岸知恵は幻想に過ぎなかった。
「なんだよ絶対て! 嘘臭いとかならまだしも絶対って何だ絶対て!」
さっきから自身の思い通りに事が進まなすぎて正也は逆に切れた。
「えーだって絶対嘘だよ。だから親戚のお姉さんとかならセイヤは誤魔化さずに最初の時点で話すでしょ? セイヤが最初に誤魔化したってことはなんか隠す様な相手って事でしょ?」
スラスラと知恵は持論を展開していく。それが正しいかはさて置き、なんとも自信に溢れた物言いは、誤魔化しの嘘を垂れる彼よりは正しい言い分の様に感じられる。最初にはぐらかしたのが完全に裏目に出ていた。
「はー、良い理解者を持って俺は嬉しいよ」
「それで誰と行ったの?」
大げさなジェスチャーで相手を賞賛し話を逸らそう。という悪あがきを実行してみたがまるで効果が無く、彼は思わず泣きそうに気持ちになってきた。
「……言いづらい相手って解ってて聞くなよ」
「ふーん普段人に偉そうに注意する癖に、自分はそういう事しちゃうんだ? あースケベスケベ」
「コラ、誤解を招く様なことを言うな。誓って性的接触はないぞ」
周りの目を気にしながら知恵の口を塞ごうとするがヒラリとかわされてしまい、正也は机に突っ伏した。そんな彼を若干侮蔑の混じった目で見ながら――
「ふーん。じゃあ誰とナンデで行ったのか言えるよねー」
視線を正也に合わせるように前かがみになって知恵は言った。
「ちょっと長くなるから昼休みな昼休み。もうすぐHRはじまるから」
チラチラと大きく柔らかな谷間に目を奪われながら正也はそう答えた。これ以上知恵に有ること無いこと叫ばれても困る上に、ここでは誰が聞き耳を立てているかも分からず妙な誤解が広がる恐れがある。昼休みに場所を変えて説明をする事にした。
「わかった昼休みね。絶対だからね」
往生際の悪い男に念を押すと知恵は自分の席へと戻っていった。
「はぁ……」
そんな知恵を見送りながら、正也はため息と共に頭を抱えた。面倒な事になったという後悔のため息であった。
「知恵ですらこんな事になるなら、他の奴なんかにはとても話せないな……」
今日一日はこの自慢話で華をさかす正也の予定はもろくも崩れさった。そもそも追及されて困るようなことを自慢する方が間違いであったと今更ながら気づき、再度机に頭を伏した。
同時にHR開始の音が校舎に響きわたる。隣の席は未だ空いたままであった。