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鰻女  作者: 山田 六十
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 休日の午前十時。朝食を取り食器洗いを終えた正也は何をするでもなく椅子に座っていた。

 ほどなくして部屋中に呼び鈴の音が響き渡る。彼はおもむろに立ち上がるとインターフォンに設置されているカメラの映像に目を通した。


 桜波南であった。


 正也は顔色を変えず画面に映った彼女を見つめる。来るだろうという予感はしていた。予感というよりは確信に近い。それが早朝であるか深夜になるかまでは分からないが、今日彼女が家を訪ねてくる。それだけは絶対であると信じていた。


 南は静かに住宅マンションのエントランスに佇んでいる。呼び出し音に対する反応がないのだからそれも当然であるが、正也はその姿に違和感を覚える。常に笑顔でいるのが南に対する彼のイメージであるが、画面に映っている彼女は覇気がなくどこか落ち込んでいるようにも見えた。


 正也は通話の状態に切り替えそこで待つように伝えると、玄関を出て彼女の元へと向かった。



「どうぞ」と言って正也は南に缶コーヒーを差し出す。彼女はそれを受け取ると力なく笑った。プルタブを開けて一口飲むとうつむいて地面に視線を合わせる。


 二人は公園へと場所を移していた。寂びた滑り台と汚いバネ馬が2台あるだけの小さな公園。必要性の感じられない場所ではあるが、それ故に人気もなく二人で話すには恰好の場所であった。

 普段なら会えば珠のような笑顔を見せる彼女だが、今日に至ってはそれも陰りが見える。


「それで今日は?」


 ひとまず正也は切り出した。南は彼の言葉には答えず、静かにハンドバックの中に手を入れると「これを」と発して紺色のハンカチを差し出した。翁格子の紳士用ハンカチはどう見ても彼女の私物には見えない。


「これをね。あなたに返しに来たの」


 そう力なく南は笑いかけた。悲壮感を感じる笑顔に正也自身も物悲しい気持ちになってくる。正也はハンカチを受け取ると無言でそれを観察する。確かに自身もこれと同じものを所有しているのは覚えていた。

 今の住居に移る際に学校使いの為に安売りしていたハンカチを纏めて購入しており、その中の一枚である。


「これは本当に僕の?」


 しかし正也は尋ねた。確かに自分も同じものを買った記憶はある。だが所詮は大量生産品の安物だ。全く同じものを所有している人は少なくないだろう。故にその日に持ち歩きでもしない限りは、自分の所有物と断定はし辛い。


 そもそも正也はここ最近このハンカチを持ち歩いた記憶はなかった。箪笥の奥底にでも潰れているか、はたまた落としたのか、ともすればその時に彼女が拾ったとも考えられる。しかしそれはいつの事なのか正也には分からなかった。


「やっぱり覚えてないよね」


 南は寂し気に笑うとぽつぽつと語り出した。


「今年の四月にね。どんくさい女が歩道橋から足を踏み外したの」


 最近留美と全く同じ話をした正也はすぐに思い当たるが、話を遮らず静かに彼女の言葉に耳を傾けた。


「大した段差じゃなかったけど膝を擦りむいてね、とても血が出てたの。弱虫なその女は直ぐに立てなくて蹲っていた。そんな時に優しい男の子が駆け寄ってきたの」


 南は正也の顔を見てニコリとする。無反応な正也に構わず話を続けた。


「とっても熱心に介抱してくれて、でも血が全然止まらないから近くで絆創膏買ってくる。て走って行っちゃったのよね。でも年下の子にこんな迷惑かけてその人は凄い情けなくなっちゃって、気付いたらその子が戻る前にその場を離れちゃったの。それで手に残ったのは膝に当ててくれたその子のハンカチ」


「酷い話でしょ?」そういって南は自嘲した。正也はハンカチを眺めるも何も言えなかった。彼女の言葉を聞いて朧げであった記憶も少しずつであるが、思い出してきた。

 しかし忘れていた手前何と言葉を掛ければいいのかも分からなかった。それでも何とか言葉を紡いだ、元々の疑問がそもそも解決していないからだ。


「なんで最初にあった時に返さなかったんですか?」

「仲良くなりたかったの」


 彼女の言葉に正也は「え?」と小さく言葉を漏らす。彼の疑問と彼女の返答がイマイチ噛み合っていないように感じたからだ。それでも彼女の口からは言葉が紡がれる。


「家に帰って冷静になって、月岡君にハンカチを返さなきゃって思ったの。お礼も謝罪も。でも住所も何も分からないから。制服の記憶を頼りに近くの学校を全部割り出して、下校時間に合わせて姿を探してそんな事をしていたら、気づけば月岡君の事ばかり考えていて」


 静かに話していた南であったが段々に語調が強まっていく、気分が高まっているのが端からでも感じられた。まるで溜まっていた熱を吐き出すかのように強く早く語り続ける。


「月岡君を見つけたけどハンカチを返したらもう赤の他人なんだ。って思ったら物凄く寂しく感じて、じゃあ返す前に仲良くなっちゃえばいいんだ! って思ったの。月岡君の後を付けて、家を特定して、バイト先も、シフトも色々調べて!」


 喚き散らすように吐き出すと彼女は地に顔を向けて荒々しく呼吸をする。正也はここまで感情を発露させる彼女を初めて見た為驚いた顔をしていた。

 南は暫く乱れていた呼吸を正すと「でも」と言葉を吐いた。


「結局きっかけが分かんなくて、あんな変な話しかけ方になっちゃったけど」

「まぁ普通に怪しかったですしね」

「でも付き合ってくれて凄い嬉しかった。やっぱり優しいんだなぁって思った」

「友人には散々バカにされましたけど」


 笑いながら頭を掻く正也を見て南も小さく笑った。


「後は月岡君の想像通り。大人しくハンカチを返せばいいのに、散々付け回して。迷惑だったよね?」

「迷惑と言うか怖かったですね。意図が分かんなくて」

「本当にごめんなさい。それを返したら会う理由なんてなくなる。そう思ったら」


 正也は手元にもう一度視線を移した。彼女にとってこれを持っていることが、自身と会う事を正当化できる唯一の言い訳だったのであろう。これが手元にある限りはまだハンカチを返却していない。という理由で彼のに訪れることができる。というルールが彼女の中で出来上がっていたのだと。


 だがそれは既に彼の手の元に戻っている。その意味を理解して「何で?」と正也は南に尋ねた。自身でも妙な事を聞くものだとは思った。だがそこまで執着していた彼女が手を引く事が純粋に不思議に感じる。

 彼の質問に南は笑いながら答えた。


「最初はすぐに仲良くなって返せばいいやって思ってたの。でもね、会う度に月岡君が怖がっているのが感じられて、そしたら焦ってきて、必死に話題を探して、その度に月岡君は怖がって、周りの子にも睨まれて……バイト先にも、顔、出さなく……なっちゃって……」


 気付けば南は泣いていた。顔をぐしゃぐしゃに歪めて嗚咽まじりに後悔を吐き出す。その姿を見て途端に正也の心はざわついた。彼にとって桜波南は常に笑顔であったから。

 どんな時でも笑顔でいた彼女が眩しくもあり、だからこそ不気味で不審に感じていたのだ。だがそんな彼女も自身の行動に懺悔し後悔の涙を流している。


 正也は未だ泣き崩れる南に再度ハンカチを差し出した。


「使ってください。で、洗ってそのうち返してください」


 南は理解の及ばぬ顔で正也とハンカチを見つめている。彼の言葉が自分の都合の良い解釈ではないのかとその目が訴えていた。


「どうして? 怖かったでしょ? 気持ち悪いストーカー女って思ったでしょ?」


 自分の言葉で再度傷ついたのか、南はまたも顔を歪めて涙を零す。

 もちろん彼女の言葉は正しい。正也は実際にそう思っていたし、今でもあの行動は度を超えたストーキングだと思っている。しかしもう恐怖は感じていなかった。


 ふと友栄の言葉を思い出す。彼女は南を妖怪と一緒だと称した。正也はそれは正しかったのだと今改めて思った。得体が知れないからこそ無駄に恐れ不気味に見えていたのだと。

 化物ならぬ鰻女の正体は何の変哲もないただの女性であった。目的も理由もわかった今、彼女の行動は正也には理解が及ぶものであり恐れる理由は一つも存在しなかった。


「だってその、仲良くなりたかったんですよね? それなら大歓迎です」


 正也は頬を掻いて照れくさそうに手を出した。まるで信じられない物を見る様に南は彼を見上げる。


「いいの? 警察に突き出してもいいんだよ?」

「僕が不安だったのは行為じゃなくて、理由の不明瞭さでしたから。友達になりたいなら納得です」


 暫し南は呆然としていたが、唐突に笑顔を綻ばせると彼の右手に飛びつくように両手をあわした。


「ほんと! 本当に!! 凄い! やっぱり月岡君って優しいのね! あっでも友達だから下の名前で呼んでもいいよね? 正也君ありがとう嬉しい!!」


 正也の手を両手で包み飛び跳ねる様に悦びを露わにする。先ほどの泣いていた姿は幻だったかのような変わりように流石の正也も苦笑いしかできない。


 あまりの落差に少し早まった判断かとも思ったが、正也はそれも仕方がない事かと苦笑した。

 そもそも最初に出会ったときに思ったのだから。


 彼女の為に割を食うのも悪くはないかもしれない。と――

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