つむじ曲りのカンタービレ
夢の中で、いつも流れる唄がある。
テレビ番組やラジオで、聴いた事はなかったから、実在しないと思っていたけれど。人生には時々、思いも寄らぬ事が起こるらしい。春疾風が躍る高校の屋上、厳重なフェンスの前、ワイシャツ一枚を着た男によって、聴き慣れた旋律が、ギターで奏でられている。その場所だけ、真夏にいるかのように、周囲の空気が熱い。
声はなく、ギターのメロディだけが世界に放たれ、空気を震わせている。閉じられていた瞼が開いて、私に気付き、男は一度にっと笑った。演奏はフィナーレに向かう。激しく、強く、重厚に指が重なりあって、音が増える。オーケストラの幕引きみたいに、盛り上がって、次第に、日常を取り戻し、最後は名残惜しそうに、指がそっと弦から離れた。
九十度に近いお辞儀をした後、満足そうな笑顔を浮かべたまま、男はこう言った。
「誰かに言ったら、内申点下げるから」
さっきまでの感動を返してくれ。
「望月先生、失礼ですが、鍵はかかっていませんでした。こんな所で弾いている方が、非常識なのではないでしょうか」
「お、言うね。仕方ない、今日の所は大目にみよう」
「聴かれるのが、嫌なんですか?」
「適当に弾いてるだけだし、誰かに聴かせる程のものじゃない」
目を閉じて、再度ぽろぽろとつま弾かれて音が鳴る。風に吹かれて、巻き上げられた髪の毛の下で、汗が光る。先生が少し寒そうに、肩を竦めるのを見て、反射的に、ハンカチを差し出していた。冷えると、風邪をひいてしまうかもしれない。
「汗、拭いた方が良いですよ」
「へー、可愛いくまさん」
「バカにしてませんか!」
「別に、近は女の子だし、良いじゃない」
「どうせ私はがさつで、男っぽいですよ」
「そこまで言ってないのになぁ」
先生は苦笑しながら、前髪を上げて汗を拭いた。額の左眉の上、流れ星のように、こめかみに落ちていく傷が覗く。昔、軽い交通事故に遭ったのだと、女子生徒に聞かれ、答えていた。
「望月先生、さっきの曲、本当に思い付きなんですか?」
「そうだよ。完全なる思い付き」
「もう一度弾けますか?」
「やってみないと分かんないな」
「弾いてみて頂けませんか?」
「うーん、気が乗らないな」
うわ、憎たらしい。素直にうんって言ってくれないんだ。大人って狡い。
「なーんてな、タオル貸してもらったお礼に、もう一回やってやるよ。俺は貸しを作るのが嫌いなんだ」
「いけ好かない性格」
「よく言われる。でも、これが俺なんだから、仕方ないだろ? じゃあ、弾くぜ。同じように出来るかは、期待すんなよ」
ギターの弦に指を乗せた瞬間に、全ては一変する。先程までの皮肉等、何処にもない。ただの楽しさと、喜びがそこにはあった。
一音一音確かめるかのように、紡がれていくメロディが、私の夢の中の音と重なっていく。間違えようがない、ずっと探していた、あの唄のメロディだ!
私の喉から、口から、耐え切れず声が飛び立つ。絡む視線、交わす言葉はない。私達の会話は、空気中で重なり合う音。
首筋には再び汗が滲み、シャツの色がくすんでいく。重なった音は、増幅されていく。ああ、また終わりが近づいてきた。盛り上がり、先程までの日常が帰ってくる。終わってしまう事が、こんなにも切ないなんて。
わっと背後で拍手が沸き起こる。いつの間に、こんなに人が集まっていたのだろう? 唄える事に夢中で、全然気付かなかった。私達は観客に向かって、二人並んで、九十度に近いお辞儀をした。ありがとうも言葉にならない満足感。この嬉しさを、外に出す事は出来なかった。言葉にした瞬間に、嘘になってしまいそうな、説明してはいけない感情がある。隣を見たら、口を閉じたまま、私と同じように、嬉しそうな先生がいた。
「近さん。昨日はタオルを貸して頂き、ありがとうございました」
満面の嘘くさい笑みで、四角く折り畳まれたタオルが返ってきた。
「いいえ、こちらこそ、洗濯までして頂いて、ありがとうございます」
こちらも負けじと、今まで、使った事のない筋肉も使って笑う。そして、さっとお互いに教室前の廊下を、逆方向に向き直り、離れる。この教師は、あの演奏の後に、「唄はすげー良かったけど、近のせいで、ギターを弾けるって広まっちまったから、やっぱ、内申点は諦めてもらおう」と、微笑みながら呟いたのだ。授業と全く関係がない所で、内申点が下がるってどうゆう事? 先生としてというより、人間として終わっている。一体どこまで、性格が捻じ曲がっているのか。拍手を喜んだのも束の間、最悪な気分で、私は家路についたのだ。あんな事、やるんじゃなかった。
それなのに、今でも閉じた暗闇の先では、屋上で向かい合って、唄っている時間に居る。あの男の事は、はっきり言って、好きになれない。なのに、どうしてだろう? 音だけは、ひたすら真っ直ぐなのだ。そこにはかっこつけも、野望も、諦めも何もない。ただ、弾ける事に対する、喜びだけがあった。
「本当の心は、どこにあるのかな?」
「それは、何の話なの?」
声に出していた事に気付かず、驚いた。机に載せたままだったタオルを、慌てて制服のポケットにしまう。
「今日は、タオル二枚あるね」
「ああ、うん。間違えて持ってきちゃった」
私の前の席には、艶やかな長い黒髪を持つ、女の子が座っている。二年生になって、初めての席替えで、前と後ろになったのだが、今時の女子高生とは違う、独特の雰囲気がある。彼女の声は、小鳥のようにささやかだ。本人も、自分の声が小さい事を、自覚しているらしく、どちらかというと、静かに微笑んで、話を聞いてくれている事が多い。私は自分の話を、ずかずかしてしまう性格だから、聞いてくれる事が、とても嬉しい。そんな訳で、私達はすぐに、仲良しになったのだ。女の私から見ても、可愛い女の子。他の女子とは、親しい人がいないので、私は少し鼻が高い。ただし、一人だけ別枠がいる。この子には、驚いた事に、別のクラスに彼氏が居るのだ。初めて見た時は、自分の目を疑ってしまった。
「彼氏とは、上手くいってる?」
「うん」
相変わらず、倖せそうに笑いやがる。
「だー、私には無理だ。男の良さが分からん」
「誰か気になる人がいるの?」
「気になるっていうか、大嫌いなんだけど、嫌いになり切れないっていうか、性格捻じ曲がり過ぎてるのに、音が素直すぎて、訳分かんないの」
「悩んでる」
「そう、悩んでる。考えても考えても答えが出ないから、だんだんイライラしてきちゃって、それで考えないようにするんだけど、気付いたら、同じ事をまたぐるぐると考えちゃってて、疲れちゃう」
思わず頭を掻き毟る。イライラする。考えたくないのに、夢の中だけだったはずのあの唄が、ギターの音になって、ずっとずっと、頭の中でリピートされている。溜息をして顔を上げると、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
「何で、嬉しそうなの?」
「好きな人が出来た時、そんな気持ちだった事を、思い出したの」
「私が恋してるっていうの? あの男に? 冗談じゃない!」
「違うなら怒らない」
適格すぎて、言い返す言葉もない。私は現実を突きつけられた。はぐらかしてみても、ただ認めるのが嫌だっただけで、本当は自分でも、もう分かってたんだ。
「好きかどうかは分からない。ただ気になる」
「望月先生が?」
「あんた、エスパー?」
「さっき話してるのを見てたら、分かった」
「凄すぎて尊敬しちゃう」
話さない分、見て情報を得ている。彼女は、人を良く観察している。だからクラスの状況を、誰よりも把握しているのだ。
チャイムが鳴って、イライラの原因の望月先生が登場した、担当は数学で、私が一番苦手な教科だ。しかし、若い事もあり、顔もそこそこ悪くないので、人気がある。授業が終わった後に、教壇に黄色い声をあげて、寄っていく女子生徒が数人いる。ただ、先生は何故か、そのままドアの方に、向かってしまう事が多い。追い掛けて、身体にタッチしてようやく気付く。謝って質問を受けている姿を、何度か目にした。出来るものなら、私も何か質問をしてみたい。けれど、どう質問すれば良いのか分からない位、私は数学が苦手だ。
「中間テストを返します。呼ばれたら取りに来て下さい」
しまった。テストの事をすっかり忘れていた! 一縷の望みもなく、受け取ったテストは、見事な赤点だった。
「赤点の人は、放課後に補習がありますので、教室に残って下さいね」
先生はにっこりと、満面の笑みでこちらを見るのだった。
放課後の教室は、外からの音が残響のように響く、その場所で音が鳴る事は、ないとでも言うかのように、音に対する反応を放棄している。頭の中で鳴る音だけが、今もはっきりと、私を包んでいた。そこに、有無を言わさず割り込む、ドアを開け放つ音。
「さあ、補習の時間だ」
教室の奥の奥まで見渡そうと、斜陽が差し込む。視界の端の、橙の中に先生。夕焼けの中を、歩いているみたいに、その足取りは、ステップを踏んでいるかのように軽やかだ。
「補習は、私一人ですか?」
「そうだよ。僕の受け持ちの生徒で、見事な赤点を取ったのは、近一人だ」
「先生に代わってから、分かりづらくなったみたい」
「近が理解しようとしなければ、一生理解できない。分かろうとしなければ、何も分かりはしない。俺の事が嫌いでも、数学まで嫌いになる必要はない。俺と数学は別物で、数学は、近の役に立つ可能性がある。俺とは違ってね。だから、理解しようとする事すら、放棄するな」
冗談めかした言葉に、真剣な返答が返って来た。今の先生は、先生なのだ。
「すみません。軽はずみな発言をしました。元々数学が苦手なんです、最近では、何がわからないのかも、分からない状態で、どうすれば良いですか?」
先生は私の机に手をついて、私の顔を真っ直ぐ見つめる。
「方法は簡単だ。分かる所を探して、そこからやっていく。どうにかしようと思えば、どうにかなるさ。問題があるなら、解決策も必ずある」
机の上の教科書を、長く節のある指先が、ゆっくりと捲っていく、現れる一問目。
「時間をかけてゆっくりやれば、出来ない事は、出来る事になる。確実に一個ずつやっていけばいい。数学は、近を嫌ったりしないさ」
「何だか哲学的な言葉」
「そうだろ? 人間の言葉は、概ね哲学的だ」
先生は得意そうに腕を組む。私はそれを見て、耐え切れず、噴き出して笑ってしまった。
「そして、喜劇のように、滑稽なんだ」
うんうんと、自分で言って、自分で頷いている。笑いすぎて涙が出てきた。先生は前の席に腰を下ろす。
「さあ、今朝返したタオルで、涙を拭きなよ、そろそろ勉強しないと、日が暮れる」
「そうですね。お日様がいる内にやりましょう。じゃないと、眠くなっちゃうかも」
「そりゃ大変。じゃ、問一からやってくよ」
「はい」
鉛筆の音と、そこに注がれる視線。紡がれる数式、数字で埋め尽くされていく、紙の中の世界。音も一緒に踊る。
数学は私を嫌わない。私が数学を勝手に嫌っていただけ。考え方一つで、世界はどうにでも、変わっていくんだ。まだ、分からない事の方が多いけれど、先生とこうして向き合って、教えてもらっている。それだけが、ただ嬉しいと思った。本当に困った。もう誤魔化しは効かないんだ。けれど、この気持ちの行先なんて、あるのだろうか?
太陽は徐々に、山脈の向こうに隠れていく。地球は回っている、こうして私がぐるぐるしている間にも、確実に時間は経過していく。
「先生」
「ん?」
「あの曲は、今日も弾けますか?」
「さあな、今日はギターがないからな」
「そうですか」
ギターがないなら、確かめようがない。少しがっかりして、視線をノートに戻す。
「近」
「何ですか?」
「実はさ、俺の耳、昔事故にあった後遺症で、ある一定の高音が、聴こえないんだ。女の子の高い声とか、合唱とか。だから俺、唄って、良く分かんなくて。でも、昨日の近の声は、鮮明に聴こえたんだ。不思議な事に。何でだろうな?」
「私の声が低いって、言いたいんですか?」
「近がそう思うなら、そうなんだろう」
ああ、私の性格も、十分捻じ曲がっている。素直に嬉しいだなんて、絶対に言いたくない。
言いたくないのだけど、言いたくて溜まらない。私ってバカだな。
「先生、さっきの話を、私はどう取れば良いんですか?」
「いや、どうとでも。プラスでもマイナスでも、俺は構わないよ。好きなように取ってよ」
「そういう言い方って狡いです」
「だから、言ったでしょ、これが俺なんだって」
「でも、他の女の子には、そんな口聞いてるの、見た事ありませんよ」
「おや、近も中々繊細な所があるじゃないか」
「またー!」
私が怒るのを見て、先生は楽しそうに笑う。「だってさ、近の声って、聞き取りやすくて、ついつい話すのが楽しくなっちゃうんだな」
「それも耳のせいですか?」
「そうかもな」
そこで先生は立ち上がって、教室の電気をつけに行った。太陽は、ほとんど隠れてしまった。振り返って一言。
「全ては耳のせいさ」
いたずらっ子みたいな顔をして、そんな事を言う。どうして私は、こんな人を好きになってしまったのだろう? でも、仕方ないか。だって、恋って、知らない間に穴に落ちる事なんだ。蟻地獄みたいに、一度落ちると、抜け出す事もままならない。
「あーあ、赤点なんて取るんじゃなかった」
「次は取らないように、さっ、続き続き」
蛍光管で照らされたノートに、数字が増える。あのメロディがいつもより、陽気に鳴っていた。




