母狐 (万作と庄屋 5)
風が鳴る夕暮れどき。
鉛色の雲が低くたれこめ、今しも雪が落ちてきそうな空模様でした。
畑仕事からもどった万作が家の戸を開けようとしたときのこと。狐が足を引きずり、万作の帰りを待っていたかのように歩み寄ってきました。
「万作さま、万作さま。いつぞやは、まことにありがとうございました」
「おう、あんときの狐だな。足んケガ、まだ治ってねえようだな」
万作はすぐに思い出しました。
裏山で猟師のワナにかかり、ひどく傷ついている狐をとき放してやったことがあったのです。
「あの傷がもとで、近ごろはめっきり弱ってしまいまして。ネズミ一匹を捕るにも、たいそう苦労しております」
「こん寒さのうえ、食い物が捕れねえんではこまるやろう」
「はい、うちには幼子がおりますので。それで万作さまにひとつお願いが。どうか、わたくしめに万作さまの力をお貸しください」
狐がふかぶかと頭を下げます。
「いいとも。で、なにをすればいいんだ?」
「三日、三日間だけでいいんです。万作さまの気の元を、わたしのものと入れかえさせていただきたいんです。なにとぞお願いします」
これにはさすがに、人のいい万作もたいそうおどろきました。
「なんやと! そんではその間、ワシは狐になるってことか?」
「いえ、そうではありません。万作さまの気の元をお借りするだけで、わたしは元気になれるんです。わたしら狐は、そういった人間様にはない力を持っておりますので」
「なんだ、そういうことか」
「ですからその間に、できるだけ多くの食べ物を子供のために集めてやろう、そのように思いまして」
「それならすぐにでも、その気の元とやらを入れかえて、早く元気になるがいい」
「申しわけありません。万作さまには、わたしの弱いものが入ることになりますが」
「なに、気にすることはねえ」
「三日後の日暮れ前には、かならずや万作さまの気の元をおもどしにまいりますので」
「三日後やな」
「はい、ここでお待ちになっていてください」
「ああ、わかった」
狐の言葉を信じ、万作はみじんも疑うことはありませんでした。
「では、わたしの手をにぎってくださいませ」
狐が小さな手をさし出します。
万作は狐の手をにぎりました。
すると万作の目の前に、白い霧のようなものが漂い始めました。
二日が過ぎました。
その間。
万作はずっと家の中にいました。歩くことはもちろん、立ち上がることさえままならなかったのです。
その夜のことです。
屋敷に顔を見せなくなった万作を心配して、庄屋が家まで訪ねてきました。
戸を開けると囲炉裏のそばで、万作はうなだれるようにして座っていました。
「万作や、風邪でもひいたのか?」
「いや、狐に……」
万作がゆるりと振り向き、消え入りそうな声で返事をします。
いつもの万作ではありません。
「狐だと? 狐がどうしたというんじゃ」
庄屋は万作にかけ寄りました。
「ワシ、今、狐に……。じゃから、こげな小さな声しか出ん。……それに力も出ん」
「なんじゃと! オマエ、狐にとりつかれたというのか?」
「そうじゃ、ねえんです。狐に頼まれて、気の元っていうやつを……入れかえてやったんで」
「いったいどういうことなんじゃ。万作、詳しく話してみろ」
「じつは、二日前のことやが……」
万作は話して聞かせました。
自分の気の元を、弱った母狐のものと入れかえてやったことを……。
「明日の晩まで、ワシはここにおることにする。そん狐が来んときは、探し出してでも連れてこにゃならんからな」
庄屋は万作のことを案じ、そのまま泊まりこむことにしたのでした。
翌日。
雪が野山を真っ白にそめました。
――狐んヤツ、来るじゃろうか。それにこの雪では来たくとも、今晩は来れんかもしれんな。このままじゃ万作も、明日までもつとはかぎらんし……。
庄屋は気が気でなりませんでした。
万作はまた一段と弱っています。
今では座っていることさえかなわず、囲炉裏のそばでぐったりと横になっていました。
「万作、だいじょうぶか?」
庄屋は囲炉裏の火にたき木を足すたびに、万作のことを案じて声をかけました。
「心配かけてすまねえのう。じゃが……今日の日暮れまでには……あん狐が来るから」
いよいよ気の元が弱くなったのか、万作は息をするのも絶えだえです。
「それにしても、オマエってヤツは……」
庄屋は万作の人のよさにあきれるとともに、その心根の優しさにおもわず涙しました。
日が暮れかかります。
狐との約束の時刻が近づき、庄屋はしきりに窓から顔をのぞかせていました。
外はすっかり闇となります。
それでも狐はいっこうに来ませんでした。
――こうなりゃ、そん狐を探し出して、ここに連れてくるしかねえ。
庄屋はしびれを切らし、雪の降り積もる外に出るしたくを始めました。
と、そのとき。
入り口の戸が開き、冷たい風とともに一匹の狐が入ってきました。庄屋を見ておどろいたようですが、すぐに頭を下げました。
「これは庄屋さま。万作さまにお借りしている気の元をお返しにまいりました」
「おお、よう来てくれたな。万作のヤツ、ほれこのとおりじゃ。早く元にもどすのじゃ」
庄屋は万作を見やって言いました。
その万作、すでに意識がなく、狐が来ていることにも気づかないでいます。
「すぐにそういたします」
狐が手をさしのべ、それを万作の手の上にそえました。
「万作さま。一度ならず、二度までも助けてくださいまして、まことにありがとうございます」
それからすぐのこと。
白い霧が囲炉裏のまわりに漂い始めました。
霧で狐の姿がゆらぎます。
庄屋は眠るように意識がうすれていきました。
翌日の朝。
庄屋は意識を取りもどし、万作も以前の元気をとりもどしていました。
「万作! こいつを見るんじゃ」
庄屋が戸口の前に万作を呼びました。
雪の上に小さな足跡があり、それは裏山に向かって点々と続いていました。
足跡をたどって間もなく、二人は雪の上に横たわる狐を見つけました。
「あん狐や」
万作は狐を抱き上げました。
狐の体は固くなっており、すでに息絶えていることがわかりました。
「残してゆく幼子のことを思うと、なんとも心残りやったろうなあ」
「オマエに気の元を返すか、こん狐もずいぶん迷ったじゃろうよ。返してしまえば、こうなることはわかっておったはずじゃからな」
庄屋が空を見上げます。
雪が降り始めていました。
落ちる雪が狐の小さな足跡を消してゆきます。