01 大宇宙堂にようこそ。
繁華街から少し離れた所にある、くすんだ灰色の寂れた四階建ての雑居ビル。名前を『藤宮ビル』と言う。何の事はない、このビルの持ち主が藤宮と言う名前だから、『藤宮ビル』なのだ。もしビルの持ち主がゲイツという名前だったならば『ビル・ゲイツ』だったろう。うむ、なんか大金持ちの持ってそうなビルに思えてくるから不思議だ。
さて、老朽化が進み、所々手すりが錆びつきかけた階段を登った先の二階に俺は住んでいる。
ああ、貧乏だからこういうオンボロビルに住んでいるんだろう。なんて、安直にそう思うのは大きな間違いだ。ボロボロの古いジーンズが、愛好家にはヴィンテージとして高価な値段がつくように、俺はこの侘び寂びを感じさせる程よいボロさ加減をこよなく愛している。そろそろペンキを塗り直せよ! と突っ込みたくなる壁などは情緒が感じられるし、いまどきケーブルテレビもBSもないのには潔いと関心すらさせられる。それでいて家賃も安いというのだから、言うことなしだ!
よしよし、これくらい褒めておけば、きっと大家も喜んで家賃を下げてくれるに違いない。
玄関を抜けて八畳の客間に、キッチンと六畳の私室。それが俺の住居であり――職場でもある。
何の仕事をしているのかというと……。
『よろず屋』である。
ところで、一応説明しておくが『よろず屋』というのは、わかりやすく言い換えるならば、『なんでも屋』だ。何故わかりやすく『なんでも屋』にしないのかというと、『よろず屋』という言葉の響きを気に入っているからであり、他には別段これと言った理由は存在しない。
そして、店の名前は――驚く無かれ、ひくことなかれ。
『大宇宙堂』だ!
……
……………
……………………
言うな! 皆まで言うな!
わかっている、わかっているんだ。この俺も歴とした常識人だ(自称だが)この店名が、かなーりおかしいことはわかっている。
実際に、玄関に設置されている店の看板を見た人達は、まず最初見間違いではないかと見なおしてみる。そして見間違いでないことがわかると……。『ダセェ……』だの『頭おかしいんじゃないの?』だの『君は小宇宙を感じたことがあるか?』だの『ペガサス流星拳!』だの、後半はどこぞの聖闘士が言いそうな文句を言って去っていくのである。
けれど、一つ言い訳というか、弁明をさせていただきたい。
店の名前がこうなってしまっているのにはちゃんと訳がある。藤宮ビルの名前の由来が、本名の藤宮からであるのと同じように、俺の名字が『大宇宙』なのだ! しかも、下の名前は『守』ときたもんだ。つまりは『大宇宙守』が、俺のフルネームなのだ。
冗談としか思えないだろうが、これがちゃんと役所に届けられている名前だからどうにもしようがない。
この奇妙奇天烈な名前のせいで、様々な不利益を被ってきた。
キラキラネームならぬ、キラキラ名字のおかげで、学生時代はかなり嫌な目にもあってきた。
『やぁ〜い、お前んち、大宇宙〜』
と、訳の分からない煽りを受けたり。
『お前守ってんだろ、大宇宙を』
と、嘲笑混じりの言葉を投げつけられる始末。
言うまでもないと思うが、俺はウルトラマンではないので、大宇宙を守っていたりはしていない。それどころか、今年で二十八になった今では、自分の生活を護るのにすら四苦八苦している有様だ。
とは言え、この名字にも良いところが一つある。
そいつは、一度聞いたら絶対に忘れられないところだ。
その効果を利用する目的で、俺はあえて店の名前を『大宇宙堂』と名付けたのだ。
はてさて、長々とした前置きを今まで読んでくれた人には、感謝の言葉を一つ述べるとしよう。
『ありがとう』
かくして、物語を始めよう。
※※※※
《藤宮ビル二階 大宇宙堂 応接室にて》
「空からお金が降ってこねぇかなぁ……」
出来れば小銭ではなく札が良い。小銭は頭に当たるとかなり痛いだろうから。
俺は世迷い言を呟いた――訳ではない。
本気と書いて《マジ》で思っているのだ。
何の脈絡もなく空から札束が降ってくれば、きっと世界は平和になるだろう。インフレがどうとか、そう言う難しいことは、経済学者にでも任せておけば良い。
俺はソファーに寝そべる。このソファーは粗大ごみを拾ってきたものなので、寝そべるときはちょっとしたコツが必要だ。体重を三点に分けてかける。これが大事。もし全体重を一箇所にかけようものならば、ソファーの底が抜け背中をしこたま打ち付けることになる。ちなみに俺はそれを三回ほど経験する事により、ようやく極意を習得したのだ。
いやまぁ、普通に座る分には大丈夫なのよ。寝そべっちゃうからダメなのよ。でもさ、自堕落に寝そべりたい時とかあるじゃない?
そして今ががその時ってわけだ。
なぜその時なのか?
俺はお腹がとても空いているからだ。
お腹が空いている時というものは、出来るだけ重力に逆らいたくないものなのだ。
お腹が空いているならケーキを食べればいいじゃない? そんなマリーアントワネットのようなことを思うかもしれないが、ケーキどころから、今俺の部屋には食料と呼べるものが何一つとしてなかった。
「そうだ、空から食べ物が落ちてこないかなぁに言い直そう。出来れば調理済みのものが。後は、俺が上手くキャッチできるかどうかだが……」
俺はソファーに寝そべったまま、大きく口を開けて空から落ちてくる食材を、口の中に受け止めるイメージトレーニングをしてみる。うむ、いける。熱いオデンとかでなければきっといける。
根拠の欠片もない自信が今俺の中に芽生えていた。
そんな時だ。
呼び鈴もノックもなしに玄関のドアが開く音がした。
――まさか、空からじゃなくて、玄関から食べ物がやってきたのか!?
俺は熱々のオデンの具たちが、わらわらと集まってはドアを開けるところを想像して、ちょっとしたホラー気分に肝を冷やした。
それはさておき、俺は玄関に鍵をかけないオープンな人間なのかといえば、決してそうではない。これまた常識人として玄関に鍵はかけてある。かけて――あったよな? うん、記憶にはないが多分かけたんじゃないかな……。
そんなことを考えている間にも、玄関のドアを開けた謎の人物が、こちらに向かって歩いてくる音が聞こえる。
しかし俺は慌てない。冷静沈着そのものだ。
何故か? それは、この謎の侵入者が誰であるか、十中八九わかっているからだ。
謎の侵入者は、応接室の入り口に立つと、俺の背中に向けて声をかける。
「まだ生きてたんだ?」
少し少年ぽさの残る少女の声が、悪態を吐き捨てる。
俺はソファーに寝そべったまま、相手に向けてひらひらと手を振って答える。
俺の予想は的中していた。
謎の侵入者は――まぁもはや謎でも何でもないんだが……。このビルのオーナーの娘である『藤宮花火』。確か今年高校に入学したばかりの、ぴっちぴちの女子高生だ。その証拠に、今も高校の制服でのご登場だ。
ふるふると揺れるポニーテールがトレードマークの藤宮花火は、少し勝ち気でキリッとした目、幼さの残る頬、それと相反するかのように少し色気を感じさせる唇の持ち主。身長は百六十センチ、体重は四十六キロ。スリーサイズは……残念ながらまだ調べがついてない。
《身長体重を何故知っているのかは企業秘密なので教えることが出来ませんのであしからず。》
この藤宮花火は、この部屋の鍵を母親から渡されているようで、様子を見に来たとの取ってつけたような理由で、無断で侵入してくるのだ。
しかし、よくもまぁ独身男性の住む部屋にやって来れるもんだ。最近の女子高生というものは、貞操観念がないのだろうか? それとも……すでに俺のことを愛してしまっているのだろうか?
なるほど、今まで考えたこともなかったが、俺のことを愛しているとするならば、この行動にも納得がいく。
いまさっき、悪態をついてきたのも、ツンデレの一種と考えれば合点がいくではないか。
そうそう話は変わるのだが、俺はよく知人から『お前って、常軌を逸するほどポジティブな考え方の持ち主だよな』と言われることが度々あるのだが、何故だろうか?
兎に角、大好きな俺に会いに来たのだから、ここはイカした台詞で返してやらなければならない。
考える事、十秒ほど。
「おいおい、実はゾンビかもしれないぜ?」
俺はゆっくりとソファーから立ち上がると、両手をだらりと垂らし、半口を開け舌ベロを出して、『うーあー』と呻いてみせる。我ながら見事なゾンビの真似だ。日頃から死人みたいな生き方をしているからこそ、このリアル感を出せるというものだ。
俺は自信満々に、宮藤花火の方に向かって一歩踏み出した。――その刹那。腹部に強烈な痛みが襲う。
「ゾンビなら、ちゃんととどめを刺さなきゃね」
鋭い閃光が見えたと思ったら、既に俺の腹に右拳が突き刺さっていた。全く気配を悟らせぬ光速のパンチ。俺でなきゃ見逃してたね……。ってか、この女子高生、ボクサーとして世界を狙える器なんじゃないだろうか……。
「はなちゃん……その右拳は……世界を……」
と、言いかけた所で、もう一発パンチが叩きこまれた。しかし今度はそれだけでは済まない。パンチを食らったショックで腹を抱えて猫背になったところを、強烈なエルボーが背中を強襲したのだ。
「はなちゃんって呼ぶな!」
そうだった……。この女子高生は、『はなちゃん』と呼ばれることを嫌っている。わかってはいるんだが、呼びやすい名称なので、ついつい呼んでしまうのだ。そしていつもこの末路に……。
俺は崩れた積み木のように、その場に崩れ落ちていくのだった。
※※※※
冷たい……、目が覚めるとそこは雪国……ではなく、代わり映えのしない俺の部屋だった。
身体が冷たく感じたのは、冷えきった床の上にボロ雑巾のように寝転がっていたからだろう。
おかしい……。俺のことを愛しているのならば、ここはこっそり毛布などをかけてアピールポイントを稼ぐチャンスなのではないだろうか? それどころか、はなちゃん……もとい藤宮花火は、倒れていた俺のことなど無関心で、ソファーに深々と座ってスマホをいじっているではないか。
ツンデレも度を越すと、ただの嫌なやつでしかないという事を、この少女はわかっていないに違いない。
ここは正しいツンデレというものを、教えこませてやらねばらない。そう決意した俺が口を開こうとした時、頭の中にキュピリーンという効果音が鳴り響く。これは俺のニュータイプ的直感が働くときに流れる音である。
見える、未来が見える。俺がツンデレについて切々と説いていると、藤宮花火が幕之内一歩を彷彿とさせるデンプシーロールを始める姿が……。
俺は死の未来を回避すべく、ツンデレ説教を行うことを断念した。
時として、インスピレーションに従うことはとても大事だ。エジソンもなんかそんなこと言っていたはずだ。『発明とは、努力、根性、勝利、インスピレーション』だっけか? なんだか何処ぞの漫画雑誌のスローガンとごっちゃになっている気がしないでもないが、細かいことは気にしないでおこう。
兎に角、いつまでも寝転んだままでは話が進まない。――いや、寝転んでいる間に話がどんどん進んでいくというのも、もしかすると面白いかもしれないが、その場合はだと俺はこの物語の主人公どころかモブだということが決定づけられてしまうので、却下の方向で行くことにしよう。
俺はようやく立ち上がることを決意し、脳の指示通りに身体を起き上がらせる。
そして一歩歩いた所で、藤宮花火と目があってしまった。
その目付きを一言であらわすならば、『地面に落ちていたコオロギの死体を見るような目』これが的確に違いない。その視線が雄弁に語りかけてくる。
『何立って歩いてんの?』
どうやら、俺は自室で直立歩行することが、女子高生である藤宮花火によって禁じられているようである。俺が女子高生大好きな、ドM男であったならば、その視線一つに『ありがとうございます』と歓喜の声を上げるとこだろうが、残念ながらそういう性癖は持ち合わせていない。
そこで俺の取った行動は……。
「すみませんでした」
土下座である。
成人男性が予備動作無しに、頭を床にこすりつける程深々と下げての土下座。床に着いた手は一ミリの誤差もなく平行になるように、そして角度は四十五度。背筋は張り詰めた弓の元のように、それでいて頭だけは首に力を込めて下げる。
もしいま世界土下座オリンピックの審査員がいたとしたならば、間違いなく高得点をつけるである土下座がここに完成していた。
自慢ではないが、俺は土下座にはちょっとした自信がある。高校を卒業してから、この二十八になるまで、俺は様々な仕事を転々としてきたわけなのだが、その数多くの職歴のを経て、一番身についたのが、この『土下座』であった。
怒られる前に謝ってしまうことで、相手の気勢を削ぐ。まさに軍師の兵法である。
――さぁ藤宮花火よ! この土下座に対してキサマはどう出る!
結果として、藤宮花火はどうもでなかった。
何故ならば、藤宮花火は俺の見事な土下座を見ることなく、またスマホの画面を見ていたからだ。
えぇい、この女子高生はスマホに魂を惹かれた愚かな生き物なのか! そんなに好きなら、スマホの家の子になりなさい!
と、俺が呪詛じみた言葉を脳内で囁いていると、藤宮花火はスマホをいじっている手を止めた。
「あ、そうだ。これお母さんがもってけって」
藤宮花火がテーブルの上に置かれている風呂敷包みを指差す。
――まさか、爆発物の類いじゃないだろうな……。
俺は爆発物処理班になった気持ちで、恐る恐るその風呂敷包みを手に取ってみる。どうやら中から時限式爆弾のタイマー音が聞こえたりはしないようだ。いや待て、この風呂敷包みの中から漂う、この食欲をかきたてる芳醇な香りは……。
「この匂いは……肉じゃが!!」
俺はサンタからプレゼントをもらった少年のように、風呂敷包み抱えて小躍りをした。何せ肉じゃがである。肉じゃがが嫌いな一人暮らしの男子が居るだろうか? いや居ない!! 断言できる。
一人暮らしを始めて、家庭の味に飢えている一人暮らしの男子は、肉じゃがが大好きであるべきなのだ。
それに付け加えて、俺は今空腹である。
食べ物は空から降ってはこなかったが、風呂敷包みに入ってやってきてくれたのだ。
めでたしめでたし
《第一部完》
……
…………
……………………
と、終わりはしないので、安心してもらいたい。
「うちのビルの中で、餓死者が出ると困るから、ご飯くらいはちゃんと食べなさい……って、お母さんが」
ふむふむ、どうやら俺に惚れているのは、藤宮花火の母親のほうなのかもしれない。ちなみに、藤宮花火の母親は未亡人である。さらに、子供を産んだのが十六歳の頃だというので、まだ年齢は三十代頭ということろだ。
うむ、いけるな……。
「キモい顔して何考えてんの? どうでもいいけど、食べ終わったら、容器洗って置いといてよね。また暇で暇で同しようもないときにでも、取りに来るから」
どうやら俺の部屋にやってきたのは、暇つぶしらしい。どうやら最近の女子高生というものは、暇をつぶすのに、独身男性の部屋に進入するらしい。世も末とはこのことである。
とは言え、食料を持って来てくれたのだから、女子高生の暇さまさまといったところだ。
「了解、了解。助かるわ。腹が減っては戦が出来ないからな」
これで俺は重力に逆らって、行動する為のパワー源を得たわけた。
善は急げ、ならぬ飯は急げだ。
俺は台所に行って割り箸を取ってくると、喜び勇んで風呂敷包みを開けた。
風呂敷包みを開けると、黒塗りの重箱が顔を出した。俺はサンタのプレゼントを開けるように重箱を開く。するとどうでしょう! そこには肉じゃがさんが所狭しと詰め込まれているではないではありませんか!
俺は泣いた。感涙にむせながら、肉じゃがに箸を伸ばした。
涙が混ざった肉じゃがは、いくらか塩辛かったが、そんな事を差し置いても美味かった。こんな美味い肉じゃがを作れる人が、嫁だったらどれだけ幸せなことだろう。
「美味い! 五臓六腑に染み渡るとはこの事だ! 花火のお母さんの料理は最高だな!!」
ただ惜しむらくは、米がない事だった。もし米があったならば、一口の肉じゃがで、ご飯一杯は軽く行けたに違いない。
俺が涙を流しながら、必死こいて肉じゃがを食べていると、ふと視線に気がついた。藤宮花火が、何か言いたそうな面持ちでこちらを見つめていたのだ。
気になった俺は、光速の箸さばきの速度をゆるめた。
「……わたしも、少し料理手伝ったんだけどね」
藤宮花火は、落ち着きなくそわそわした様子で、ぽつりと呟いた。
その言葉に箸を持つ手が完全に止る。この暴力が大得意でも、家庭的なことは壊滅的な、藤宮花火が料理を手伝ってくれた。ならば、返す言葉は決まっている。
「手伝ったのが少しでよかったな。もし手伝ったのが少しじゃなくて、大部分だったならば、この見事な味は生まれることはなかっただろう。不幸中の幸いとはこの事だ」
俺は素直な気持ちを言葉にのせた。
直後、俺の視界が真っ黒になった。それは停電になったのではなく、俺の顔面に藤宮花火の拳がめり込んだせいに他ならなかった。
「ブラックホールに飲み込まれて死ね!!」
無理難題な死に方を要求して、藤宮花火は憤慨したままこの部屋を後に……しようとして何かを思い出したかのように足を止めて振り向く。
「そうだ、あんた暇なんでしょ?」
「暇に見える?」
「むしろ、暇以外の何者にも見えないけど?」
的確な表現だった。
実際俺は暇をしていた。いや、したくてしていたわけではない、よろず屋としての仕事が全く無いので、暇にならざるを得なかったのだ。
「ねぇ、近所で子犬の貰い手を探してるんだけど……」
「それは金になるのか?」
この仕事はボランティアではない。きっちりと賃金が発生しないかぎり俺は動きはしない。そうプロフェッショナルなのだ。
「それはあんたの交渉次第でしょ」
「一つ言っておく」
「何よ」
「年上の男性相手に、あんた呼ばわりはどうかと思うぞ?」
「だって、あんたの名前……だ、大宇宙って……恥ずかしくて人前で言えないわよ!!」
確かに、『大宇宙さん』と呼ぶのは、並の人間では羞恥心に耐えられない行為なのかもしれない。
「じゃ、あれだ。あだ名、ニックネームで呼べばいい」
「いやだ」
「いやだ……えらく前衛的なニックネームだな……。俺の名前のどこをどうもじるとそうなるのかさっぱりだが、それでも構わないぞ?」
最近の女子高生のセンスというものは、俺の想像の遥か斜め上を行くようである。
プチン
何か血管が切れるような音が聞こえたような気がした。
周囲の空気が陽炎のように揺らいでいる。
「『いやだ』はニックネームなんかじゃなくて、否定の言葉だっての! わかる? ニックネームで呼びたくないって言ってるの!」
藤宮花火は苛立っていた。この苛立ちが、熱風を巻き起こし周囲を歪めているのだ。こいつ、すでに人間の域を超えた戦闘力を身に着けているのではないだろうか……。そして、その人を超えた暴力と言う名の暴風が、俺に向けられるのは時間の問題かと思われた。
俺はこの時、《死》を予感した。
ピンポーン ピンポーン
俺の命を助けたのは、間の抜けた玄関のチャイム音だった。
「おっとぉぉ! こいつはきっとお客さんだ! 急いでお出迎えしないと!」
俺は藤宮花火の横をすり抜けるように、脱兎の如く玄関に向かって走る。横を通り過ぎるときに、『チッ』と舌打ちが聞こえた。
俺が玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは……黒のスーツに、黒いサングラス、黒いシルクハットに、黒い革靴、さらには顔色は不健康そうにドス黒いという、兎にも角にも黒ずくめ男だった。
普通の人ならば、こういう類いの人間を怪しいやつだと思うかもしれないが、人間観察術に優れた俺のたどり着いた答えは違っていた。
――きっと、いい歳して中二病をこじらせたタイプに違いない。
男は時として、全身黒ずくめをカッコイイと思ってしまう時期があるものなのだ。暗黒騎士、暗黒魔道士、暗黒竜、ああどうして黒を基調とした名称は男心をそそるのか。
「あのカッコイイですね、黒」
俺は気を利かせて、ファッションセンスを褒めてみた。が、黒ずくめ男は『はぁ?』と首を傾げるだけだった。どうやらファッションでその服装を選んでいるわけではないらしい。すると、あれだろうか仕事着? みたいなものなのだろうか。
黒ずくめ男は、玄関の辺りをキョロキョロとせわしなく見回した後、俺の顔を覗き込んで
「ここはどんな仕事でも承ってくれるという、『大宇宙堂』さんでよろしいでしょうか?」
と、礼儀正しいが妙に甲高い声で尋ねた。
「はいはい、お仕事なんでもござれ! お金さえ払っていただければ、ミクロ細胞から大宇宙まで、どこでもなんでもお伺いしますよ」
俺は日々鏡の前で練習しているとっておきの営業スマイルを決めると、素早く料金プランの書かれている冊子を手渡す。
「何その作り笑顔……きもっ」
横で女子高生が何やら言っているようだが気にしない。
黒ずくめ男は、俺の言葉を聞くと安心したかのように胸をなでおろした。
「その言葉を聞いて安心しました。実はわたし……地底人なんです!」
黒ずくめ男あらため地底人と名乗った男は、頭を深々と下げて会釈をした。不思議な事に、帽子は頭にひっついているように脱げることはなかった。きっと帽子が窮屈なのか頭が大きいに違いない。
そして顔をあげると、間髪入れずに仕事内容を切り出したのだった。
「お仕事の話なんですが、地底帝国から逃げ出した、地上世界侵略用の怪獣を捕まえてもらいたいんです」
それは茶化した素振りなどまるでない、真剣そのものの言葉だった。
さてさて、この言葉を耳にした人間は通常ならば、この自称地底人さんに、うちのようなよろず屋などに来ないで、精神科に行くことを勧めるのが普通だろう。だが、残念なことに俺は通常の人間とは少しかけ離れた思考を持っている。いやさ、ここは思考どうこうと言う問題ではない。もし相手が地底人だろうが、金星人だろうが、仕事を持ってきてくれたならばそれはもう紛うことなき『お客様』なのである。
だが、一般常識人気取りで、食うに困っていない女子高生こと『藤宮花火』は、その言葉を聞いた途端、吹き出しそうになるのを堪えるの必至のご様子だった。
やれやれ、これだから今どきの女子高生はなっちゃいない。相手を地底人だとか、異世界人だとか、そういう風に見てしまうからいけないのだ。これはお金の入った封筒が歩いてやってきてくれたものだと、割り切って考える。それが大人の、ビジネス的人付き合いというものなのだ。
故に俺は、地底人さんは言葉を真正面から受け止め、ウンウンと何もわかってなどいないのに、さも解ったかのように頷いてみせた。
「わかりました。その怪獣の特徴、名前、逃げ出した場所など詳しく教えて下さい」
俺は華麗に胸元からメモ帳を取り出す。最近ではスマホやノートPCなどに入力したりするものも居るようだが、やはりここはメモ帳に手書きでなければ味がない。決して貧乏だからノートPCがない訳ではない。
地底人さんから特徴を聞き出しメモを取ろうとしたところで、チョンチョンチョンと肩口を小突かれて藤宮花火に呼び止められる。
「ちょっとコッチ来なさいよ」
だがこちらは仕事中だ。女子高校生の相手をしている暇などないので、虫でも払うかのように、手のひらでその指先を弾き返してやる。
その刹那、俺の耳に引きちぎれんばかりの激痛が走る。何の事はない、比喩表現でもなんでもなく藤宮花火が、今まさに渾身の力で俺の耳たぶを引きちぎろうとしているのだ。
俺は耳たぶとさよならバイバイをしたくはないので、力に逆らうこと無く、藤宮花火の誘導する部屋の隅っこへとよたよたと歩いていった。
「何だよ……。今は大事な仕事の話をしてるんだぞ」
ちなみにまだ耳たぶは引っ張られたままなので、かなり情けない格好での会話を強いられている。
「ねぇ、あんた本気なの?」
俺が藤宮花火の言う『本気』の意味が理解できないでいると、呆れ顔で次の言葉を続けた。
「あの人、自分のことを地底人だって言ったんだよ?」
「そうだな」
「信じてるの?」
「いやまぁ、もし相手が『わたしは木星人です』とか言ってきたら、流石に信じないけどさ。地底人ならありえるだろ。だって地底なわけだから、地面の下にいれば地底人だろ? もしかしたらただ地下一階に住んでるのを『わたし地底人です』なんて言ってるだけかもしれないし。とは言え見てみろよ、全身黒ずくめのスーツに黒いサングラスとか、まるでどこぞの三文SF小説にでも出てきそうな地底人じゃないか。いやぁ、ある意味立派なもんだと思うよ俺は。うんうん」
藤宮花火の俺を見る目が、次第に哀れな虫けらでも見る様な目へと変化していくのがわかった。そして二度三度と首をゆっくり横に振ると、最後に地獄の底に響きそうなほど重い溜息を一ついた。
「わかった。もーいい。わたし帰る。あ、これ一応考えといてね」
藤宮花火は俺のシャツの胸ポケットに紙切れを放り込むと、地底人さんの横をササッとすり抜けるようにして、玄関から出て行く。
なんだろうと思いその紙切れを見てみると、そこには子犬の里親探しをしているお宅の住所が書かれていた。だから、俺はお金にならないことはしないってのに……。
女子高生が去った後は、こんどこそお金……いやさ仕事の話だ。
俺は地底人さんを応接室に通すと、ソファーに座るように促した。
「さて、仕事の話を続けましょうか」
こうして、俺のよろず屋としての仕事が始まる。