16 魅了(チャーム)
わかっている。俺はわかっているのだ。
てへぺろーをしている場合ではないということを……。
ならば何をする場合なのか?
――逃げよう。
もし今この世界がドラクエタイプのRPGであるならば、俺の選ぶ選択肢は『戦う』でも『魔法』でもなく『逃げる』の一択でしかない。
そうと決めたら一目散。俺は目の前に座っている汗まみれのプロデューサーを完全に無視して、旅行鞄に荷物を詰め込みだす。あれよあれよという間に、荷物をまとめることに成功した俺は、脱兎のごとく事務所をあとにした。
向かう先はどこでも良かった。あの魔王少女から遠ざかることさえできれば……。
「そうだ、荒波蹴立てる日本海に行こう」
ああ、今の荒んだ心象風景を表すにピッタリではなないだろうか。
俺は時刻表も見ずに電車に飛び乗る。行き先などどこでもいい。ただ北の海が見れればそれでいい。
そう何もなかった。今日依頼人は来なかったし、マネージャーになれなんて話もなかった。魔王少女なんてものに出会いもしなかった。
現実というものに背を向けて、電車はひた走る。日本海に向けて……
END
……
…………
…………………
だが、現実というやつは背を向けようとしている俺を、強引に鷲掴みにしては見たくもない正面を見せつけてきやがるものだ。
つまりこういうことだ。旅支度を始めた俺の手を、魔法のステッキと言う名の現実が、鞭のような鋭いしなりをみせて叩きつけた。
痛みよりも感覚を失いかけた痺れに、俺は手に持った鞄を地面へと落としてしまう。
そしてそこには小首をかしげてニコニコと満面の笑みを浮かべている魔王少女の姿があった。
「駄目だぞっ☆」
この場合『駄目だぞっ☆』と『ぶっ殺すぞっ☆』は同じ意味だと思って間違いないだろう。
もっと早く気がつくべきだった。この魔王少女の事務所侵入を許した瞬間、すべての勝敗は決しており、俺に選択肢などはありはしないのだと言うことに……。
「プロデューサーさん、ちょっと今からベルは、この人と二人でお話をするから、お外で待っててねっ☆」
人差し指を頬の横であざと可愛く動かして、魔王少女はプロデューサーに部屋から出ていくことを促した。
「いや、でも……アイドルであるベルちゃんを、男の人と二人っきりにするわけには……」
「出てけ☆」
魔王少女の目の奥にドクロマークが見えたような気がした。
その言葉を聞いたプロデューサーは、無表情でコクリと頷くと、まるで魂のない操り人形のように事務所から出ていった。
プロデューサーが出ていったのを確認すると、魔王少女の態度が豹変した。
「あぁ〜使えねぇなぁアイツ……。いくら魔法でドーピングしても所詮はあんなもんか」
倒れるかのようにソファーにドカッと深々と身体を沈ませる。小柄な身体はソファーの中に埋もれてしまいそうだった。行儀悪く足を放り出して組み替えてみせる。その小さなおみ足にはセクシーさは微塵もなかったが、そのかわりにプリティさが潤沢に盛り込まれていた。
が、俺の興味が行くのはその可愛らしい足ではなく『ドーピング』という、物騒な言葉にだった。
「魔法でドーピング……?」
もしかすると、あの異常とも言える発汗作用はそのせいなのか?
「このベル様が一気にトップアイドルになるために、魔法で色々とねっ☆」
なるほど……。どうりで聞いたこともないアイドル事務所だと言うのに、テレビ番組にいきなり出たり、CDデビューしたり出来たのは、プロデューサーを魔法によりドーピングして能力をアップさせたことによるものだったのか。
「ベル様をアイドルにするためなら、寿命が減るのなんて仕方ないことだもんねぇ〜」
舌先をペロッと出して、頭をコツンと叩いてみせる。あざとい、あざといがたしかに可愛い。事情を何も知らないでいたならば、喜んで寿命を差し出す奴は巨万といるに違いない。
「ちょっと待て、根本から分からないだが……。どうして、お前はアイドルなんてものをやってるんだ……。呪いが解けたんだから、元の世界に戻ったりとかするんじゃないのか?」
「うん。確かにベルは元の世界に戻ろうとしたんだよ。でもね、でもね……ぜぇ〜んぜん、戻り方わかんねぇんでやんの! マジウケルんだけどっ☆」
まるで他人事のようにケタケタと笑った。
「んでねっ、元の世界に戻れないしぃ〜。これからどうしようかなぁ〜って思ったんだけどぉ〜。なんとなくアイドルやってみましたっ☆ てへっ☆」
「なんとなく……」
「そう、なんとなくでーっす☆」
「……」
「まぁ、強いていうならば、ベルってば可愛いじゃん? せっかくあのおっさんの姿から、可愛い姿に戻れたんだから、みんなからもっともっと可愛いーって言ってもらいたいかなぁ〜なんて思ったからかなぁ☆」
なんとなくで寿命を削られてしまったあのプロデューサーが哀れでならなかったが、自分もこのあと同じように寿命を削られるのかもしれないと考えると、目の前が真っ暗になるような気がした。
「わかった。正直わかりたくなんてないけれど、わかった。しかしだ、どうしてこの俺にマネージャーなんてものを頼むんだ? 言っとくが、俺はアイドルに詳しくもなければ、マネージャー経験もないぞ」
俺は確かにいろいろな職種を経験してきてはいる。が、芸能関係は全くのノータッチだった。てか、芸能人とか興味ないしな……。
「お・ば・か・さ・ん☆」
魔王少女……いや、もう面倒くさいのでベルと呼ぶことにしよう。ベルは俺の鼻の頭を一音節ごとに指先でトントンとノックしてみせた。
「アナタはベル様の、ファーストキスの相手なんだぞっ☆ そんな特別な相手だからに決まってるじゃん☆」
大きな瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。瞳という湖の中に吸い込まれそうな感覚を感じた。それは恐怖ではなく、何かに満たされる快楽を俺に与えてくれた。
このまま瞳に吸い込まれて、快楽に身を委ねてしまいたい。だが、その刹那、俺の脳裏にあのトラウマが蘇ってきた。
そうだ! こいつは元はおっさんだったのだ! 忘れてはいけない、あの無職風おっさんの姿を!
俺は偶然手に持っていたクナイを足を突き刺した。軽い出血を痛みが身体を駆け巡る。と同時に、今目の前にある瞳の奥底にあるドクロマークに気がつくことが出来た。
「チッ……。もう少しだったのに……」
ベルが口を尖らせては、残念そうに指先をぱちんと弾いた。
「お、お前……俺になんか魔法をかけやがったな……」
「てへっ☆ 魅了の魔法失敗しちゃった☆」
油断も隙もないとはこのことである。これからは安易にこいつの瞳を見つめないようにしないといけない。
「まぁっ、そういう用心深いところと、現実離れしたことにもなんとなく順応しちゃうところがポイントだったんだけどねっ☆」
確かに、俺はどんな現実離れしたことがあったとしても『まぁそんなこともあるんじゃねぇのかな』くらいな感じに受け止めれることはできる。しかし、これは利点なのか難点であるのか、判断の難しいところである。
俺はコキュートスにまで届きそうな深い溜め息を一つつくと、仕方なしに腹をくくった。
「わかった。マネージャーとやらを引き受ければいいんだろ。どうせ、俺に選択肢なんてないんだろうし……」
「よかったぁ〜☆ もし断ったらぁ、言葉には表現できないことを色々するつもりだったんだぁ〜☆」
言葉に表現できないとは、放送禁止用語的なあれであろうか……。むしろ『ぶっ殺す』と言ってもらえたほうが、可愛げがあるというものだ。
だが、この俺も百戦錬磨? のよろず屋である。保険というものは打っておかねばならない。
「ただ一つ、この件を受けるにあたって条件がある。助手を一人つけることを許可してくれ」