107 若様
「うーん、心なしか俺自身も清められてワンランク上の存在になった感じ?」
清められた服に袖を通した俺は、わけもなく脱衣所の鏡の前でポーズなどをとってみる。服は外見上は前と何一つ変わってはいなかったが、まるでミントを口にしたかのような、すーっとする爽快感が全身に漂ってきていた。
「ゴミムシが清められれば、消滅してしまうのでは?」
息をするように俺に向かって悪態をつくレックスも、既に着替え終わっていた。
「これで本殿とやらに行って良いんだよな?」
俺の問いかけは誰にも伝わらなかった。何故ならばレックスは俺など完璧に無視して、既に脱衣所から出ていってしまったからだ。ぽつんと取り残された俺は、大慌てでレックスの後を追う。
「ふむ、これで本当に大丈夫なのか……眉唾ものですね」
レックスは本殿の青白いオーラの皮膜の前で立ち止まり思案していた。
確かに、清められたから大丈夫などと言われても、それを信用して良いものなのか? 正直、あの胡散臭い九尾の狐の言うことを真に受けるのは危険だと思えた。
かと言って、このまま立ち止まっていても何も事態は進展することもなく。どうすればいいのやらと、俺も腕を組んで考え込んでしまう。
「よし、こうしましょう」
レックスがパンと手を叩いた。そしておもむろに俺の腕を掴む。
「おいおい、急に俺の手を握るとか……お前やっぱりそっちの毛が……」
と、冗談めかして言った刹那、突如平衡感覚が失われた。それと同時に強烈な遠心力が俺を襲い、視界が目まぐるしく変わっていく。一体何が起こったのか? そう、俺はレックスに腕を捕まれ、まるで洗濯物を脱水するかのようにグルグルと振り回されていたのだ。
「さぁ、実験台になっていただきますよ」
その言葉が合図となり俺はレックスの離れ、遠心力のままに宙を舞う。そして、俺の身体はあの青白いオーラの被膜に向けて一直線に飛んでいく。勿論、俺に抗うすべなどなにもない。
「うぎゃぁぁぁ」
青白いオーラにぶつかる瞬間、俺は絶叫した。そして、そのまま本殿の床へとゴロゴロゴロゴロとゴミのように転がった。
「あれ? 平気だ? いや、正確には身体のあちこちが痛いけれど……」
俺の身体は床へ投げ出された痛みはあったが、それ以外の痛みは何もなかった。つまりは、あの青白いオーラは無効化出来ているというわけである。
「ふむ、実験は成功というわけですね」
レックスは床に転がっている俺に目を向けることもなく、何食わぬ顔で本殿に上がっていく。その綺麗な顔面に一発拳を叩き込んでやりたかったが、それが不可能な事を知っているので辞めておいた。大人とは自分にできないことを知る知能を持っている悲しい生き物なのだ。だからせめてもの反撃として、妄想の中で一発殴っておくことにした。
さて、そんな妄想は置いておくとして、俺とレックスは本殿に足を踏み入れ、どこまでも続いているのでは? と錯覚してしまいそうな長い廊下を歩いていた。いや、実際この廊下、はてが霞んで見えていない……。おかしい、この本殿の建物は外から見た限りでは、そこまでの大きさではなかったはずなのに、これは一体……。まさか狐にでも馬鹿されているのでは? と思ったところで……
「こんこーん」
案の定、狐の登場である。
正確には九尾の狐の銀孤の登場である。
「お迎えにあがりましたです、ですー」
銀孤は上下ともに着古したジャージ姿だった。諸多面のときが全裸で、その次がこ汚いジャージ姿とは……。あまりの変化に戸惑いを隠せない。どうやら、銀孤はそんな俺に気がついたようで、ジャージのポケットから、Gペンを取り出しては、クルクルと指の先で回してみせた。
「いやぁ、同人即売イベントの締切が近くてですねー。この格好のほうがー、楽ちんでいいんです、ですー」
この九尾の狐、腐っているだけでは飽き足らず、自ら同人誌まで書いているのか……。正直どんなジャンルの同人誌を書いているのか興味があった。やはりケモナーもののカップリングなのだろうか? それとも……!?
「にやりー。見たいですー? 銀孤の同人誌見たいですかー? でも、今はそんなお時間ありませんのでー、ネット通販もしてるのでーよかったらご購入くださいです、ですー」
そう言うと銀孤はポケットからスマホを取り出して、俺に赤外線でアドレスを送ってきた。九尾の狐のくせにインターネットを使いこなしているから驚きである。
「それでは、こちらが若様のいらっしゃるお部屋になりますです、ですー」
無限に続いていたように見えていた廊下の先に、突如として大きな襖戸が現れた。襖戸にはいやらしく絡み合う男同士の姿が水墨画で描かれていた。きっとこれは銀孤の趣味に違いない。
「くれぐれも、若には粗相のないようにー。下手をするとー命がありませんです、ですー」
銀孤は物騒なことを言いながら、襖戸の前で肩肘をついて座ると、丁寧な手付きで襖戸を開ける。
「若さまー。お客人のご到着です、ですー」
部屋の中の空気がまるで烈風のように、外にいる俺達に向けて吹き荒れる。いや、これは物理的な風などではない、この中にいる人物? から発せされている霊気のようなものだ。その目に見えないものに吹き飛ばされそうになり、俺は強風に耐えるように身を沈め、顔の辺りを腕でガードし、両足を踏ん張るために力を込める。
「若さまー。お力を抑えてくださいませ、ませー」
銀孤の言葉に、霊気の嵐は収まりを見せ、俺はようやく力を抜き顔をあげることが出来た。
部屋の中には二人の人物がいた。
一人は……
「はーっはっはっは! よくぞここ迄たどり着いたな! 綺羅星!」
仮面舞踏会のようなマスクを付け、貴族風の派手派手しい色合い装束で、顔の前に三本の指で変なポーズを取っているのは、紛れもなく金狐だった。今回はヘルメット的なものをかぶっていないので、可愛いお耳が丸見えである。
しかし、こいつこんな短時間でよくもまぁ衣装をコロコロと変えられるもんだ。
「あ、私達は妖狐ですのでー。衣装の变化は想いのままなんです、ですー」
銀孤が俺の心を読んだかのように、小声で耳打ちをしてくれた。そして、手のひらに葉っぱを一枚のせ、エイッと念を込めてみせた。するとどうだろう、その葉っぱは一瞬で金狐と同じ仮面へと変化した。
「なるほど」
コスプレイヤーからすれば、夢のような能力に違いない。
それはさておき、本題に戻ろう。
部屋の中で待ち受けていたもうひとりの人物。
和室の上座に、何枚も重ねた座布団の上に座っている人物。
先程の霊気の嵐を巻き起こした張本人。
そして、金狐、銀孤から若様と呼ばれている、今回の仕事の交渉相手……
「下郎が! 我の前で膝を折らぬとは無礼であろう。すぐさま跪け!」
高圧的な時代ががった台詞をぶつけてきたのは……身長百四十センチほどの少女? 少年? どちらと呼んで良いのか判断に迷う、中性的な顔立ちをした黒髪の子供だった。ゴテゴテした装飾ついた着物を身にまとっていたが、身体つきのせいか七五三のようにしか見えなかった。そして当然のように、この子供も普通の場所には耳がなく、頭の上に耳があった。だが、尻尾は一本も見えてはいない。まさか、若様と呼ばれているのが、中学一年生くらいの子供だったとは驚きである。ほっぺたなんて、むしろ小学生かと思うほどに愛くるしくぷにぷにしている。威圧するかのようにこちらを睨んではいるものの、まだ消えやらぬあどけなさと、少し舌っ足らずな口調のせいで、怖さはまるで感じられず、吐き出される言葉とは真逆に可愛らしくすら思えた。
それ故に、俺の口から自然と言葉が零れ落ちた。
「いやぁ、可愛い子だねぇ」
それは何気ない一言だった。俺としては純粋に褒め言葉だった。しかし、自分がそう思っていても、相手にどう伝わるかは別な問題なわけで……。若様と呼ばれている子供は真っ赤になってしまう。それが怒りによるものなのか、照れているからなのか。俺がそれを判断するよりも早く、首筋に痛みを感じた。
「え?」
俺の首が頭から落ちたのを知ったのは、視界が地面と並行になったときだった。