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第6章

 アレンは意を決し、コトコトと扉を叩いた。

「――いらっしゃい」

 クレアノンが、そっとアレンを生じ入れる。

「――」

 ザイーレンはアレンに目をやり、チラリと眉をあげた。

 そして、ユミルに向きなおり、

「いいかユミル、今私の言ったことが、おまえがハイネリアで聞ける、一番優しい意見だと思ったほうがいい。私は、自分で言うのも何だが、ハイネリア四貴族筆頭、イェントン家の当主だ。そしてエリシアは、まぎれもないハイネリア人だ。それでも、私とエリシアの年の差やら、エリシアの母親との昔のいざこざやらを持ちだして口さがなくわめきたてる連中は多かったし、今に至るまでエリシアは、我が一族に受け入れられたとは言い難い境遇に置かれている。いいか、私は当主で、エリシアはハイネリアの娘なんだぞ。それでもこのざまだ。生半可な決意なら、今のうちにあきらめたほうがいい」

 と言いきった。

「あきらめませんよ」

 ユミルもまた、即座に言いきった。ユミルとザイーレンは、そっくり、と言うほど似ているわけではない。だが、二人がともに持ちあわせている、切れ長の瞳と鋭いまなざしや、薄い、皮肉っぽい笑みを浮かべがちな唇や、猫のような滑らかでしなやかな身のこなしなどが、確かにこの二人が同じ一族の血に連なるものであるということを示していた。

「私は――幸せなんです。私は、アレンといっしょにいる時が、今まで生きていた中で一番幸せなんです。だからあきらめません。私は、幸せな人生を送りたいですので」

「――」

 アレンの瞳がうるむ。

「――あなたが、アレンさん、なのかな?」

 ザイーレンの視線がアレンに流れる。

「は、はい、そうです!」

 アレンはあわてて、大きくうなずいた。

「あの、あの、ア、アレンと申します! よ、よろしくお願いします!」

「――さっき、紙芝居を用意していた人ですね」

「あ、ええ、はい」

「――なるほど」

 ザイーレンは小さくため息をついた。

「ユミルからだいたいの話は聞きましたが――本当にあなたは、ヴァレンティオン将軍のお子さんなんですか?」

「あ――は、はい――」

「――うわさは聞いていましたよ」

 ザイーレンはじっとアレンを見つめた。

「ヴァレンティオン将軍が若いころに、亜人に産ませた隠し子がいる、といううわさは。ああ、ユミルの世代では、もうそんなうわさも耳にしてはいないでしょう。なにしろその『隠し子』とやらは、一度も表舞台に立ったことがないですからね」

「――」

 アレンはひどく、返答に困ったような顔をした。

「――あなたはきっと、ヴァレンティオン将軍に対する人質になったりはしないんでしょうね」

 ザイーレンは、ごくあっさりと言った。

「はい、なりません」

 アレンもまた、あっさりと答えた。

「父の一番大切なものは、いつだって、祖国ファーティスです。私はせいぜい――四番目とか、五番目とかですよ、きっと」

「それでも、大切には思っているわけですね」

 ザイーレンの目が鋭くなる。

「それももう終わりでしょう」

 アレンは再び、あっさりと言った。

「私は、国を捨ててしまいました。父が一番大切にしているものを、思い切り踏みにじってしまいました。だからもう――父が私のことを大切に思うことはないでしょう」

「――それは、どうでしょうね」

 ザイーレンは小さくかぶりをふった。

「子供を持ってわかりましたが、親にとって、子供というものは、どんな時でも、どんな事をしても、どんな人間になっても、自分の子供、なんですよ。ええ、ヴァレンティオン将軍が、あなたに対して激怒しているであろうことは否定はしません。しかし――そんなに簡単に、自分のたった一人の子供のことを、思いきれるものでしょうかねえ?」

「――思いきりますよ」

 アレンはうつむき、だがきっぱりと言い切った。

「国が――ファーティスが、それを望めば」

「――なるほど」

 ザイーレンはため息をついた。

「では、その線は捨てましょう」

「ザ――ザイーレンさん」

 ユミルの声が、わずかに震えた。

「ア――アレンを、ヴァレンティオン将軍に対する人質に使う気だったんですか!?」

「――何を驚いている」

 ザイーレンは冷淡にユミルを見つめた。

「私の一番有名な二つ名を、おまえだって知っているはずだろう? ――『禍夢まがゆめのザイーレン』。私はな――私の、イェントン家の、ハイネリアの敵どもに、たとえどんな手を使おうとも、悪夢よりはるかに性質の悪い運命をもたらすからこそ、その二つ名で呼ばれているんだからな!」

「――なんてことを――」

「――おまえは考えなかったのか?」

 ザイーレンは、憐れむようにユミルを見つめた。

「確かにクレアノンさんは、ハイネリアとファーティスとのあいだの争いを終結に導いて下さるつもりらしい。私だって、それが可能なら、ファーティスとの戦いを終わらせたい。娘の――レオノーラの人生が、そんな争いで塗りつぶされてしまうなど、まっぴらごめんだ。だがな――まだ何も始まってはいないんだ。まだ何も。――ヴァレンティオン将軍は、あの高齢にもかかわらず、まだ第一線で戦い続けているんだぞ。例えばの話、明日、いや、今日、たった今にでも、ヴァレンティオン将軍が、我がハイネリアに攻め入ってきたとしたら――」

 ザイーレンはじっとアレンを見つめた。

「私は、イェントン家当主として、ハイネリア四貴族筆頭として、我が手の内にあるヴァレンティオン将軍の一粒種の利用法を、考えざるを得ないだろう?」

「――どうぞ」

 アレンは。

 にっこりと笑った。

「私が役に立つのなら、どうぞ存分にお使い下さい。私は――私は国を捨てました。私は――あそこで幸せじゃなかった。幸せだったことなんて一度もなかった。幸せを知る前は――ユミルと出会うまでは、それをどうとも思いませんでした。私は幸せを知らなかった。だから――人生なんて、きっとこんなものなんだろう、と、あきらめているという自覚もなしに、あきらめていました。今までずっと。でも、私は――ユミルに出会って、幸せを知ってしまいました。私は、もう――幸せを、手放したく、ないんです――」

「――酷な事をうかがいますが」

 ザイーレンの視線に力がこもる。

「あなたに――祖国の人間と、ファーティスの人間と戦えと、そしてその命を奪えと、そう、私、いえ、そう、ハイネリアが命じたら――」

「ザイーレンさん!」

「おまえには聞いていないぞ、ユミル」

 ザイーレンは冷ややかに言いきった。

「アレンさん――あなたはいったい、どう、しますか――」

「――もう、殺しましたよ」

「え?」

「もう、殺しました」

 アレンは白い顔でそう言った。その黒曜石のような瞳の中には、ドロリと凝った、闇があった。

「私は今まで何回も、自分の魔法で、私のこの手で、あなたの国のかたがたを殺してきました。ファーティスの人間だって――臨界不測爆鳴気の爆発に巻き込んで、たくさんたくさん、殺して来たんです。だから――」

 アレンの唇に、凄絶な笑みが浮かんだ。

「その必要があるのなら――そうすれば、ユミルといっしょにいることを許してくれるというのなら――私は――殺しますよ、また――」

「――なるほど」

 ザイーレンは、ゆっくりと目をしばたたいた。

「――愚かな事をしたものですね」

「――私はあそこで、幸せではなかったんです」

「え? ああ、すみません。誤解させてしまいましたね」

 ザイーレンは、小さく苦笑した。

「私が言ったのは、ファーティスの連中のことですよ。まったく、愚かな事をしたものです。アレンさん、あなたのような優秀な魔術師を、国を捨てざるを得ないほど追いつめるような、そんな冷遇をしてのけるとはね。我がイェントンの一族に、天才はほとんど生まれません。そのかわり、幸か不幸か、相手の才能を見抜く――相手が、天才かどうかを見極める才能は、多くのものが持っている。アレンさん――あなたはどうやら、まぎれもない大天才、のように、私には見受けられますね」

「――」

 アレンは、困ったような顔でじっとザイーレンを見つめた。

「――ユミル」

 ザイーレンは、アレンを見つめたまま言った。

「おまえは今、クレアノンさんの保護下にあるんだったな?」

「ええ、アレンといっしょに」

 ユミルは挑戦的にザイーレンをにらみつけた。

「――そのままでいろ」

「え?」

「そのまま、クレアノンさんの保護下を離れるな」

 ザイーレンは、ユミルに目をやり、言った。

「なにしろ、クレアノンさんは、竜、だからな。機嫌を損ねたらどんな事が起こるか、誰ひとりとして想像がつかない。人間、想像がつかないことは、ひどく恐ろしいものだ。例えばの話、私のやることは、どんなにひどいことでも、同じ人間の想像の範疇に収まる。だが――クレアノンさんのやることはそうはいかん。なにしろ」

 ザイーレンは、クレアノンにニヤリと笑いかけた。

「クレアノンさんは、竜だからな。ちっぽけな人間の想像力が及ぶはずもない」

「なるほど」

 クレアノンはうなずいた。

「私に、抑止力になれって言ってるのね? ユミルさんとアレンさんに手を出したら、私が黙っていない、ということになったら、二人に対する風当たりは幾分かでも弱まる。――この解釈で、あってるかしら?」

「そのとおりです」

 ザイーレンは大きくうなずいた。

「――と、いうことは」

 ユミルの目が輝いた。

「ザイーレンさんは、私達のことを認めて下さるんですね!?」

「私は何も言わん」

 ザイーレンはすました顔で言った。

「ただ私は、こともあろうに竜の怒りを買うような、そんな愚行をおかすつもりは、ない」

「――ありがとうございます」

「あ、ありがとうございます!」

 ユミルとアレンは、ザイーレンに向かって深々と頭を下げた。

「なに、礼などいらん」

 ザイーレンは肩をすくめた。

「ユミル、おまえのおかげで、口うるさいガミガミ連中もやっと、私とエリシア以外の非難の種を見つけてくれるだろうからな」

「う――」

 ユミルは目を白黒させた。

「――べ、別にかまいません」

 ユミルは、雄々しくもそう言いきった。

「私はアレンと、幸せになるんです!」

「――幸せになるがいいさ」

 ザイーレンは小さく笑った。

「私が――私達が、幸せになったように、な」




「あかたんだー!」

 レオノーラははしゃいだ声をあげた。

「あかたん、いるねえ。かあいいねえ!」

「あかたん、ないよ。リーン、だよ」

 1歳のリーンのすぐ上の兄、3歳のロンが、真面目くさった顔で訂正する。

「あかたん、ない? リーンたん?」

「そうだよ。リーン、だよ」

「リーンたん、かあいいねえ!」

「そう? あいがとー」

 この一連の、レオノーラトロンのやりとりの間中、周囲の大人は懸命に、「いや、君達も十分『赤ちゃん』だろう、まだ!」というひとことを、のどの奥に押し戻していた。

「おまえらだって、赤んぼじゃん!」

 大人達の懸命な努力を、リーンとロンの兄、8歳のヤンが、一言の下に切って捨てる。

 とたん。

 ヤンの頭に、ゴン、と、10歳の姉、ミオからの鉄拳制裁がお見舞いされる。

「いってー! なにすんだよねーちゃん!」

「そういうこと言わないの! せっかくロンが、お兄ちゃんとして頑張ってるとこなんだから!」

「だってあいつら、赤んぼじゃん!」

「それはそうでも、そういうことは言わないの!」

「リーンたん、かあいいかあいいねえ!」

「うん! リーン、かあいいよ!」

「あーぷ!」

「うああ」

 ヤンとミオとのやりとりを無視し、レオノーラは、危なっかしい手つきで、自分とさして変わらぬ大きさのリーンの胴体に腕をまわし、よっこらしょ、とばかりに抱え上げた。

「うああ、おもいー」

「こら、レオノーラ!」

 レオノーラの母、エリシアが、あわてた声をあげる。

「危ないでしょ! いけません!」

「ああ、大丈夫ですよ」

 ダーニャが――ソールディン家当主、リロイ・ソールディンの愛妻ダーニャが、おっとりとした声で言う。

「それっくらい、ヤンだってよくやってることですから。リーンはもう、慣れてますよ」

「そ、そうですか?」

「ええ」

「おーもーいー!」

 レオノーラは、リーンを抱えたままがんばって歩こうとしていたが、どうにもうまくいかずに、とうとうリーンをぺチョンと床におろした。

「リーンたん、おもたいよぅ!」

「うん、リーンね、おもたいよ」

 ロンが実感を込めてうなずく。リーンは、ロンにしょっちゅうそうやって連れ回されるので慣れているのだろう。機嫌良くキャッキャッと笑っている。

「――ああ」

 ザイーレンは、しみじみとした吐息をもらした。

「レオノーラには――友達が、必要だったんだな」

「友達は、誰にだって必要だろう?」

 真面目くさった顔でリロイがいう。ザイーレンは、一瞬ムッとしかけ、次の瞬間、クスリと笑った。

「ああ、そうだな。友達は、誰にだって必要だ」

「そうね」

 クレアノンもまた、大きくうなずいた。

「友達は――それとも、心を通わせあうことのできる、『自分』ではない『他者』は、きっと誰にだって必要なのよ。そう、それこそ――竜にだって、悪魔にだって」

「そうですね」

 エリシアは、大きくうなずいた。

「竜にだって、悪魔にだって――わ、わたしにだって。それに」

 エリシアは、優しい瞳で、ハイネリア四貴族のうち、筆頭と次席という、主力二家の当主夫妻と、黒竜のクレアノンという、なんというか、ちょっと洒落にならない面子にかこまれて、緊張で固くなっている、ユミルとアレンを見やった。

「アレンさんにだって、ユミルさんにだって、友達は、必要です」

「――ありがとう、ございます」

 アレンが目を潤ませ、ユミルがうやうやしく、エリシアに向かって一礼する。

「まあ、そのことに異論はないんだが」

 ザイーレンが腕を組んで首をひねる。

「問題は、どうやって周りの連中を説得していくか、だな」

「私は、そういうのは苦手だ」

 リロイが、まことにきっぱりと断言する。それは、確かに事実で、リロイの場合、他人を説得するより先に、自分自身と世間一般とをどううまく折りあいをつけていけばいいのかということが、人生最大の課題になってしまっている。

「だから、ザイーレンが手伝ってくれると大変にありがたい」

「もとよりそのつもりだ」

 ザイーレンは大きくうなずいた。

「私だって、可愛い娘に、争いごとの絶えない国と、敵意と復讐心に満ち満ちた隣国なんていうものは、絶対に残したくないんだからな」

「――ほんとにそうです」

 アレンが細い声で、ポツリと言った。

「私は――私は、絶対に――絶対に、おなかのこの子に、私と同じ思いはさせたくない――!!」

「――大丈夫」

 アレンの細い肩を、ユミルがそっと抱いた。

「私達の子供には――そんな思いは、絶対にさせませんから」

「――人間に、『絶対』はないぞ、ユミル」

 ザイーレンは、ただ事実のみを指摘する声で言った。

「だが、まあ、その志は、かってやろう。そう――今、国土防衛のために使っている予算と人員を、他のことにまわせるとしたら、いったいどれだけのことが出来るか――」

「――」

「――ごめんなさいね」

 複雑な顔をしているアレンに――昔々に、ハイネリア、その当時は、神聖ハイエルヴィンディア皇国から大量流入した武装難民だったハイネリアの人々に国土を奪い取られ、力ずくでそこに『ハイネリア』という国を建国され、今に至るまでその時の衝撃のせいで、ひどいよそ者嫌い、亜人嫌い、そして、ハイネリア嫌いのファーティスから亡命してきたアレンに、エリシアはそっと声をかけた。

「ザイーレンに、悪気はないんです。でも――ファーティス人のあなたからしたら『国土防衛』なんて言われたら、やっぱり、ムッとしちゃいますよね。だってあなた達は、私達の国を侵略しているんじゃなくて――『国土回復』がしたいだけなんでしょうから」

「――あら」

 クレアノンが目を見張った。

「今のエリシアさんのそれって、人間には珍しい反応じゃないかしら? それとも、私が竜だからそういうふうに思うだけかしら?」

「人間には、珍しい反応ですよ」

 ユミルがきっぱりと言った。

「エリシア様は本当に、類まれなる御方です」

「――そ、そんなこと言われたら、照れちゃいますよ、わたし」

 エリシアは、パッと頬を染めた。

「――なるほど」

 ザイーレンは、たいそう機嫌のよい笑みを浮かべた。

「よもや私の他にも、エリシアの素晴らしさに気がつくイェントンがいるとはな!」

「気がつかずにいられるでしょうか?」

 ユミルは、大真面目な顔で言った。

「それに気がつくな、というのは、太陽が昇り、夜が明けた事に気がつくな、と言っているのと同じことです」

「なかなか言うな! お世辞にしても、そこまで言えれば上等だ」

 ザイーレンは、大きくニヤリと笑った。

「さて、それでは、クレアノンさん」

「なにかしら?」

「イェントンの面々のほうは、私がなんとかして説得します」

「ソールディン家派の連中の説得は、メリサンドラとカルディンに任せておけばいい。ミーシェンは、僧侶達や王宮の面々の中から、信頼できそうな者達を味方につける努力をすると言っている」

 ザイーレンとリロイが、口々に言った。

「――と、いうことは」

 クレアノンは目を輝かせた。

「私は、キャストルクとセティカの人達を説得すればいいのね?」

「実際に、自分の目で見て、言葉を交さないと、心から納得することは出来ないでしょう」

 ザイーレンは、すました顔で言った。

「人間に――たかが人間なんかに、こんなにも肩入れしてくれる竜がいる、なんてことは」

「――『たかが』じゃないわ」

 クレアノンは、ゆっくりとかぶりをふった。

「『たかが』じゃ、ない。どんな竜も、どんな悪魔も、私をこんなふうに――こんなふうに、幸せにしてくれたことはなかったわ――」

「――」

 しばらくの間。

 大人達を無視してはしゃぎまわる、子供達の甲高い声だけが響いていた。




 クレアノン達がリロイに与えられた部屋に戻ってみると、床の上で、エルメラートの黒貂、黒蜜と、アレンの黒猫、リリーが、床の上でウニャウニャとこんがらがるようにしてじゃれあっていた。

「ああ、リリー、黒蜜さんに遊んでもらってたんですか?」

 アレンが嬉しそうにいった。

「あ、お帰りなさい、アレンさん」

 エルメラートがにっこりと笑った。同じ淫魔の血を、半分ながらひく血族として、エルメラートはアレンに、そこはかとない身内意識を持っているようだった。

「クレアノンさん、どうでしたか、お話は?」

 エルメラートの後ろから、ライサンダーがたずねる。

「今のところ順調よ」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「あら? エリックとパーシヴァルは?」

「ああ」

 ライサンダーが苦笑した。

「エリックさんが、街に遊びに行きたいって言って、パーシヴァルさん、はじめは止めてたんですけど、エリックさんがその、駄々こねるもんで、だったら自分がいっしょに行くって」

「え」

 クレアノンは目をパチクリさせた。

「今のパーシヴァルってその――体ちっちゃいまんまよね? 私、今日はまだ、パーシヴァルを人間の大きさにしてあげてないわよ?」

 喧嘩の度にエリックに人形サイズにされてしまうパーシヴァルの不自由を見かねたクレアノンが、定期的にパーシヴァルを人間サイズに戻してやる、というのが、ここ最近のパーシヴァル、エリック、クレアノンの、なんというかまあ、恒例行事となっていた。

「あー、まあ、そうなんですけどね。エリックさんを一人で人間の街なんかにやったら、何しでかすかわからない、って言って」

「まあ、エリックは、悪魔としてはそんなに無茶しないほう――っていうか、そんなに大規模に無茶な事が出来るほどの力はないけど」

 クレアノンは、悪意なく率直な意見を述べた。

「まあ、パーシヴァルがついてるんならそんなに無茶はしないと思うけど。それに、いざとなったらパーシヴァルの結界があるしね」

 クレアノンは一人うなずく。パーシヴァルの結界は『拒絶の結界』だ。ごく簡単に言うと、外界からの干渉を『拒絶』する。結界の外の人間には、結界の中の様子をうかがい知ることが出来なくなるのだ。

「ええ、まあ、俺も、特に問題はないだろうと思うんですけど」

 ライサンダーが軽くうなずく。

「それで、クレアノンちゃん」

 ハルディアナがおっとりと言う。

「これからの方針は決まったの?」

「そうね」

 クレアノンは、ヒョイとユミルのほうを見やった。

「ユミルさんの意見をうかがいたいんだけど」

「はい、なんでしょうか?」

「キャストルクとセティカ、どっちから口説いたほうがいいと思う?」

「――どちらも一長一短ですね」

 ユミルは首をひねった。

「キャストルクは、その、四貴族の中では一番保守的で堅実です。新しいことを受け入れるのには、それなりに時間がかかりますし、いささか、その、猜疑心が強いところもあります。しかしそのかわり、キャストルクは一枚岩です。一度口説き落とせば、一族郎党、みんな味方についてくれる。そして、キャストルクは裏切らない。一度味方になったのなら、誠心誠意をこめて、私達――いえ、その、クレアノンさんのために働いてくれるはずです」

「別にいいのに、『私達』で」

 クレアノンはクスクスと笑った。

「それじゃあ、セティカのほうは?」

「キャストルクと真逆です」

 ユミルは即答した。

「クレアノンさんは、セティカについてどの程度ご存知ですか?」

「本で呼んだ知識ならあるけど」

 クレアノンは小首を傾げた。

「確か、セティカは――『一代貴族』だったわね?」

「はい」

 ユミルはうなずいた。

「セティカになる方法は、ごく大雑把に分けて二つです。功績を認められて、一代限りの『貴族としての特権』を与えられるという道と、それとは全く逆に、罪を犯していながらも、その才能をそのまま捨て去るのは惜しいと思われたものが、『平民としての権利をはく奪されて』、セティカになるという道と」

「え、え、え、そ、それじゃあ」

 ライサンダーは目をむいた。

「ええと――間違ってたら言って下さいね。つまり、『セティカ』には、とびきり優秀な人達と、とびきりたちの悪い連中が、いっしょくたに、ごっちゃになって所属してるってことですか?」

「『とびきり優秀』で、かつ『とびきりたちが悪い』かたがたも、多いですねえ」

 ユミルは肩をすくめた。

「そう――だから、セティカが一枚岩になったことなんか、セティカが生まれてこのかた、一度たりともないんです。もともとセティカは、かの白竜戦役――まあ、戦役、というより、一方的な壊滅、および全力逃走だったらしいですが――の際、国の中核を担う人材のその――大量死によって、とんでもない人材不足に陥った際に、なんというかまあ、でっちあげられたもの、らしいですからねえ」

「ああ」

 ハルディアナは、ポン、と手を打った。

「だからあの吟遊詩人さん『セティカの衆』って歌ってたのねえ」

「ええ。そして、『セティカに当主  いるはずもなし』。――当然です。『セティカ』とは、家の名じゃない。『セティカ』とは、地位の――それとも、集団の名、なんです。まあ、便宜上、ハイネリア貴族『四家』と言ったりすることはありますがね」

「なるほど」

 クレアノンはうなずいた。

「ってことは――セティカの中には、すぐに味方になってくれるような人達と、絶対に味方になってくれないような人達が、混在してるってわけね?」

「まあ、『絶対に』味方してくれない、ってことは、まずないと思うんですけど」

 ユミルは、いささかあやふやな口調で言った。

「ただ、まあ、そう考えておいたほうがいいかもしれません。『セティカ』を手なずけるなんてことは、同じハイネリア人たる私達だって、めったに出来た試しがないんです」

「――なるほど」

 クレアノンの瞳が、銀色に輝く。

「なかなか面白くなってきたじゃない」

「――その」

 ユミルは不意に、ハッと息を飲んだ。

「思うんですが」

「何かしら?」

「キャストルクは、防御が得意な、というか、防御に特化しているといってもいい一族です。新しいものに自分から近づいていく、ということは、まずありません。しかし、セティカは――」

 ユミルは、大きく息をついた。

「クレアノンさん――私達が、というか、主にクレアノンさんとリロイさんとザイーレンさんが、何やら今までにないことをはじめようとしている、ということは、四貴族の上層部の者達にとっては、すでに周知の事実でしょう。失礼ながらクレアノンさんは、ご自身がなさろうとしていることを、特に隠しているようでもありませんし」

「そうね、隠すつもりはないわね」

 クレアノンは、あっさりと肯定した。

「そうすると、どういうことになるのかしら?」

「セティカの人々は、その多くが、その、なんというか、新しもの好き、変わりもの好き、お祭り騒ぎ好き、です」

 ユミルは、じっとクレアノンを見つめた。

「もしかしたら――近々、セティカのほうからクレアノンさんに、接触してくるかもしれません」

「――あら」

 クレアノンの瞳が、ますます強い輝きを放った。

「それって、すっごく、面白そうだわ! そうなったら――」

 クレアノンは満面の笑みを浮かべた。

「私、どういうふうにその人達を歓迎してあげようかしら!」

「――なるほど」

 ユミルはクスリと笑った。

「クレアノンさんに任せておけば、万事問題ないようですね」

「あら、だめよ、私だけに任せちゃ」

 クレアノンは、ちょっと口をとがらせた。

「私、人間のおもてなしかたなんて、ほんとに、本で呼んだ知識しかないんだから。これからもみんなに、いろいろ手伝ってもらわないと」

「もちろんです」

 ユミルはうやうやしく、クレアノンに一礼した。

「力の限り、お手伝いいたしますよ」

「ありがとう」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「さてさて――これからいったい、どうなるかしら?」




「あらあら、あらあら、まあまあ、まあまあ」

 クスクス、クスクスと、なまめかしい笑い声が響く。そう、その笑い声を聞いたものは誰だって、その声の主が、若く、美しく、そしていささか驕慢な女性であることを疑いはしないだろう。

 だが、実際のところ。

 その声の主は、なんと、筋骨たくましいひげ面男――中級悪魔、『倒錯アブノーマルマティアス』の二つ名を持つ、マティアス・ロクフォードである。もちろん、中級悪魔たるマティアスは、もしもそれを望むなら、おのれの姿をその笑い声にふさわしい、若く、妖艶で、そして驕慢な美女へと変化させることもたやすい。だが。

 だが、マティアスはあえて、この姿で――そのなまめかしい笑い声から、ある意味最も遠いところにいる姿でいることを、非常に好んでいるのだ。そう、彼は――自分の姿を見る者に、自分の声を聞く者に、この上ない違和感と、そして出来れば、生理的不快感をも与えたいと思っているのだ。

「なんとまあ! クレアノンちゃんったら、ずぅいぶんと、がんばってくれちゃってるじゃなあい!?」

「――うるさいよ、マーティ」

 マティアスの周辺を、綿雲か風船のようにフワフワと漂いながら、その、むくむくと太った天使のような寝顔を惜しげもなくさらしてうとうとと居眠りしていたイライジャ――『お気楽イージーイーリィ』の二つ名を持つ中級悪魔、イライジャ・サトクリフは、眠たげな声で抗議した。

「ワタシ、お昼寝してるんだからさあ、耳の横でおっきな声ださないでよ」

「あら、ごめんなさいねイーリィ。でもねえ、ちょっと、ちょっとだけ、まずいことになってきちゃったのよねえ」

「…………それ、ワタシにも関係ある話?」

 イライジャは、相変わらず眠たげに、ブツブツと言いながら薄目を開けた。

「そうね、あるわね」

 マティアスの目が、鋭くなる。

「ああ、もう、クレアノンちゃんったら、ディルスでおとなしく稀覯書コレクターでもやっててくれりゃあいいのに、どうしてどんどん、アタシ達にとって都合の悪いほうへ都合の悪いほうへと深入りしていってくれちゃうのかしらあ!?」

「……どうマズイの?」

 イライジャはふくれっ面で、空中に、大きなクマのぬいぐるみのような姿勢で、ちょこなんと腰をおろした。

「あーあ、せっかく気持ちよくお昼寝してたのに。マーティ、おめざちょうだい! おめざ、おめざ! おめざくれなちゃ許さないんだからね!」

「はいはい、もう、しょうがないわねえこの子は」

 言いながら、マティアスはクスクスと指をはじいた。とたん、イライジャの目の前に、シュークリームが山盛りになった皿があらわれる。

「わーい、シュークリームシュークリーム♪」

 イライジャは機嫌よく、シュークリームにプクプクとした手をのばした。

「わーいわーい、イチゴ入り生クリーム! ワタシ、これ好きなんだよね!」

「他にもいろんなクリームが入ってるわよ」

「ワサビ入りも?」

「あら、イーリィはそんなのが好きなの? 変わった趣味ね」

「別に好きじゃないけどさ。どこにでもあるようなクリームばっかじゃ、つまんないじゃん。ワタシ、どこにでもあるようなものなんてどうでもいいよ。イチゴ入り生クリームは好きだけどさ!」

「あらあら、それじゃ、イカの塩から入り生クリームでも混ぜといてあげましょうか?」

「ウッゲーエ、それは初めて聞いたなあ!」

 イライジャは、楽しそうにケラケラと笑った。

「――で?」

「ん?」

「何がどうマズイわけ?」

「ああ」

 マティアスは肩をすくめた。

「黒竜のクレアノンちゃんがね、よけいな事に首を突っ込んできてくれちゃってるのよ」

「ふうん? どんなことに?」

「クレアノンちゃんったら」

 マティアスは、大仰にため息をついた。

「アタシ達から、この実験場を取り上げるつもりなのよ!」

「えええッ!?」

 イライジャは目をむいた。

「だってマーティ、ワタシ達、そのクレアノンってやつに、別になんにも悪いことなんかしてないじゃない! なんで? なんで? なんでなんでなんで!?」

「ほんとにもう、勝手な事してくれちゃうわよね!」

 マティアスは、憤懣やるかたないという口調でぼやいた。

「アタシ達からこの実験場を取り上げて、そのあとに、たかが人間、たかが『素材』連中を、大量に移民させようだなんて!」

「そんな事して、そのクレアノンってやつには、いったいどんな得があるわけ?」

「さあ、ねえ。アタシのボットが持ってきた情報では、人間と友達になりたいとかなんとかいうたわごとを言ってるみたいだけど、ああ、まったく、竜の考えてることなんて、アタシみたいなかよわい平凡な悪魔には、さっぱり見当がつかないわ」

「うえー」

 イライジャは、思い切り顔をしかめた。

「なんだよなんだよ、せっかく実験が軌道に乗って面白くなってきたっていうのに! インシィ達もマウシィ達も、せっかくちょっとは面白い変異体を生みだすようになってきてくれてるっていうのに!」

「そうなのよねえ。まったくもう、アタシ達に断りもなくそんな迷惑な事やってくれようだなんて、ほんとにまったく、失礼ブッこいちゃうわ」

 マティアスは、分厚い唇をツンととがらせた。

「――ねえねえ、マーティ」

 イライジャは、ペロリと唇をなめた。

「クレアノンってやつ、どのくらい強い?」

「ガーラートさんには負けるわ。――でも」

 マティアスは肩をすくめた。

「なんてったって、竜ですもの。そりゃそれなりに強いわよ」

「うへえ、めんどくさいなあ」

「そうなのよねえ。戦えなくはないでしょうけど、まともにやりあえば、アタシ達も無事じゃすまないし」

 マティアスは、大きくため息をついた。

「ここはやっぱり――『素材』をいじったほうが簡単かしらね」

「どうやるの、どうやるの?」

 イライジャは、興味しんしんと言った顔で、グイと身を乗り出した。

「『素材』いじりは、マーティのほうが断然上手だもんね! ねえねえ、ねえねえ、いったいどうやるの?」

「そう、ねえ――」

 マティアスの小さな瞳が、鈍くぎらついた光を放つ。

「そう――結局、クレアノンちゃんがどんなに乗り気でも、『素材』のほうが、人間のほうがその気になってくれなかったら、せっかくの、クレアノンちゃん渾身のプランも、そんなのまるっきり、机上の空論よね」

「洗脳? 洗脳? ねえねえ、洗脳するの?」

 イライジャが楽しげに首を傾げる。

「洗脳するまでもないわ」

 マティアスはクスクスと笑った。

「だって、もう、とっくにそうなっているんだもの。もうとっくに、怒りと悲しみと憎しみと、傷つけられた誇りとそれを取り戻そうとする焦りと、そして、消すことの出来ない復讐心とは、国中に満ち満ちて、いつでも熱くたぎり、そして冷たく凝っているんですもの」

「なあんだあ、簡単な仕事なの?」

 イライジャはつまらなそうに口をとがらせた。

「せっかく久々に、マーティの妙技が見られるかと思ったのに!」

「『久々に』ってほどじゃないでしょ。たかだか200年や300年やそこら」

「だってマーティ、この実験場が出来てからは、ここにかかりっきりだったじゃない」

「あら、それはあなたもでしょ、イーリィ」

「え、そうだっけ? ――ああ、そっかあ」

 イライジャは、ちょっと驚いたような顔をした。

「そうだねえ。ワタシ、一つのことにこんなに長く熱中したのって、もしかしたらこれが初めてかも」

「そうねえ」

 マティアスは、どこか優しく見えなくもない笑みを浮かべた。

「そうよ、そう。ほんとに、そう。こんな楽しい実験場を、アタシ達からとりあげようだなんて――」

 マティアスの分厚い舌が、同じく分厚い唇をなめる。

「そうはさせないわよ、クレアノンちゃん!」

「どうやるの? どうやるの!?」

「――さあさあ、さあさあ、おいでなさい。アタシの可愛いボット達!!」

 マティアスは、勢いよく右腕を虚空へとつきあげた。

 ――とたん。

 ヴーン――ヴーン――VUUUUUNN――という、蜂の羽音とも、機械の起動音ともつかぬ音が、あたりの空間に満ち満ちた。

「さあさあさあさあおいでませ! 『女王になれなかったもの』達!!」

 ヴン――という音とともに、マティアスの体の周りに黒雲があらわれた。

 それは、様々な姿形をした蜂の群れだった。顔が人間の蜂、複眼が機械仕掛けのレンズになっている蜂、羽が刃になっている蜂、全身が宝石でつくられた蜂――。

「――悔しいでしょう? 悔しいわよねえ?」

 マティアスは、ゾッとするほど甘ったるい、ねばついた猫なで声でその蜂の群れに語りかけた。

「女王になったやつと、あんた達との間には、本来なんの違いもないの。女王になったやつは、ただ偶然に選ばれて、そして、女王となるべく特別な食事を――ローヤルゼリーを与えてもらったっていうだけ。ただそれだけの違いで、あんた達の運命は、分かたれてしまったの。悔しいでしょう? 悔しいわよねえ!?」

 もしそれが、本当の蜂の群れだったら。

 当然、悔しがるなどということはまったくしなかっただろう。

 だが。

 それは、本物の蜂の群れではなかった。

「だからさあさあ、許しちゃだめよ!」

 マティアスが、凛と声をはる。

「だからさあさあ、許しちゃだめよ! あらゆる不公平を、あらゆる運命のいたずらを、あらゆる不当な幸運を、あんた達は、許しちゃだめ!! そうよ、だってずるいじゃない。そうよ、だってひどいじゃない。どうして、どうして、どうしてよ! どうして、アタシ達の国にひどいことをしておきながら、アタシ達の国土を奪っておきながら、どうしてそう、のうのうとしているの? どうしてあんた達みたいな、野蛮な強盗どもがつくった国が、そんなに繁栄しているの!? ひどいわひどいわ、ひどいじゃない!!」

 マティアスの口からあふれ出るのは。

 彼のものではない、恨みつらみの声だった。

「それなのに、それなのに、そんなにも運命は不公平なのに、そのうえ、そのうえ、竜の助けまで受けられるだなんて! 竜が味方になってくれるだなんて! そんなのあんまり不公平じゃない! だからだめ、許しちゃだめ! そうよ、そう、みんな――」

 マティアスの目が、ギラギラと光る。

「ハイネリアを、許しちゃだめ! 絶対絶対、許しちゃだめよ!!」

 ヴン――ヴン――と、まるでマティアスのいうことを肯定するかのごとく、蜂の群れが不穏にざわめく。

「さあさあ、さあさあ、お行きなさい! 行って恨みを晴らしなさい!!」

 マティアスが、凶悪な笑みを浮かべるとともに。

 異形の蜂の群れは四散した。

「クレアノンちゃん、あんたがハイネリアを取るっていうなら――」

 マティアスは、ニタリと笑った。

「アタシはファーティスをもらうことにするわ」




「――なあエリック、おまえ、酒を飲んでも酔っぱらったりはしないんだろう、本当は?」

 真っ赤な顔でガドガド酒のジョッキを傾けながらヘラヘラと笑うエリックを見て、パーシヴァルは大きくため息をついた。パーシヴァルの結界で、周りの人々はみな、どう見ても酩酊しているエリックと、人形サイズでため息をついているパーシヴァルのことを『視界に入れたくない』、あるいは、『気にとめたくない』ような状態になっている。そこに誰かがいるのはなんとなく認識していても、では、いったいどんな人物が何をやっているのか、は、認識することができず、記憶にも残らないようになっているのだ。

「にゃっははは」

 エリックは、機嫌よく笑った。

「そらあまあね、確かに、オレはほんとは『素材』の――っと、人間のお酒飲んだって酔っぱらったりはしないッスよ。でーもねーえ、どーせお酒を飲むんだったら、酔っぱらったほうが楽しいじゃないッスか、ねえ? だからオレ、今は、お酒で酔っぱらうような設定にしてあるんス」

「そういうもんか?」

 パーシヴァルは首をひねった。

「ままま、マスターも、まずは一杯」

「おい、やめろ、私をおぼれさせる気か!?」

 パーシヴァルはあわてて、エリックがさしだしてくるジョッキから逃げまどった。今のパーシヴァルの体のサイズからして、エリックにジョッキを突きつけられるのは、普通の人間が、酒を満々とみたした大タルを、巨人から突きつけられるのに等しい。

「にゃはー、ごめんちゃい。マスターには、これじゃちょっとでかすぎたッスね」

「飲んだらおとなしく帰るんだぞ」

「えーッ、そんなのつまんないじゃないッスかあ」

「よけいな騒ぎを起こすな。そうじゃなくてもおまえは、行く先々で騒ぎを引き起こす傾向にあるんだから」

「んにー、マスターだって、人のこと言えないくせにー」

「私がいつよけいな騒ぎを――」

 言いかけたパーシヴァルの口がポカンと開いた。

「エ――エリック」

「なんスか?」

「あ、あれ、あれ――」

 パーシヴァルは、酒場の入り口を、震える指で指さした。

「あれは――あれはいったいなんだ!?」

「へ? ……ああ」

 エリックはヒョイと肩をすくめた。

「獣人の団体さんじゃないッスか」

「じゅ、獣人!?」

「あー、マスターの世界にはいなかったッスね、そういえば」

「こ、こ、この世界でだって、今まで見た事ないぞ!?」

「そらあマスター、生活圏が違うからでやんしょ。ちょっと検索してみりゃわかるッスよ」

「あ、ああ――」

 エリックに言われたパーシヴァルが、虚空から、木の葉か何かのようなキーボードを取りだしパタパタと叩く。それに対応して、虚空に浮かんだ手のひらサイズのスクリーンの上を、目まぐるしく文字と画像が流れる。

「な――なるほど。獣人達の国は、この大陸とはちがう大陸にあるのか。それでは、今まで見た事がないのも無理はないか。ふむ、なるほど、もっとも大きな国はオルミヤン王国――」

「……おりょ?」

 エリックが目をパチクリ――させたかどうかはわからない。何しろエリックの顔の上半分は、いつもいつでも、馬鹿でかいミラーのサングラスにおおわれている。

 エリックが顔を向けた先には、獣人達の一団から離れ、ピョコピョコと飛び跳ねるような独特な足取りで自分達のテーブルに近づいてくる、小さな、おそらくはげっ歯類の何かの系統であろう、獣人の――子供なのか大人なのか、男なのか女なのか、エリックにはとっさには判断がつかなかった。

「おりょりょりょりょ…………」

「――なあんやーあ」

 小さな獣人は、いたってのどかな声をあげた。声から判断するに、どうやら女性であるようだ。

「こっちの大陸には、こんなにちっこい種族がおるんかあ。のう、そこの、ええと、そこの、人かの、なんなんかの?」

「…………へ?」

 小さな獣人にのぞきこまれたパーシヴァルは、すっとんきょうな声をあげて目を白黒させた。

「マスター、らしくないミスッスね」

 エリックが、チッと舌をならした。

「結界をはり忘れるなんて」

「ち、ちがう! わ、私はちゃんと結界をはっていた! エ、エリック――」

 パーシヴァルの顔が青ざめた。

「こ、この人は、結界破りだ!」

「ヘエッ!?」

 エリックもまた、すっとんきょうな声をあげた。

「え、そ、それって、こっちの世界にもいるんスか!?」

「――世界をたがえても、私の結界が通用したんだ」

 パーシヴァルは、大きくため息をついた。

「結界破りがいても、何もおかしいことはあるまい?」

 ちなみに、ここでいう『結界破り』とは、生まれつき、結界が全く通用しないか、あるいは非常に結界の影響を受けにくい人々のことだ。これは、まったくの生まれつきで、努力や技術でどうにかなるものではない。少なくとも、パーシヴァルが元いた世界ではそうだった。

「……なんやあ」

 小さな獣人は、まるい目をパチクリさせた。

「ぼく、声かけちゃいけんかったんか?」

「いやいや、んーなこたあねえッスよ」

 エリックは、ヘラヘラと小さな獣人に笑いかけた。

「どーもどーも、初めまして。オレは悪魔のエリック・レント。こっちは、オレの使い魔の――」

「パーシヴァル・ヴァラントと申します。以後お見知りおきを」

 話をふられたパーシヴァルが、ほとんど条件反射で自己紹介する。

「そういう種族は、ぼくらの大陸にはおらんの」

 小さな獣人は、のんびりと言った。

「こんばんわあ。初めまして。ぼくは、サバクトビネズミ族の、オリン・ジュートやあ。オルミヤン王国の、探検隊の隊員なんよ」

 と、小さな獣人――オリンが胸をはったとたん。

「――オリンちゃん、誰と話してるの?」

 後ろから、いささか不安げな声がかけられた。声の主は、オリンの頭がみぞおちのあたりまでしか届かないほど大柄な、その斑紋も美々しい、戦いの女神のような体格をした、美しい豹の獣人の女性だった。

「にゃるほど、確かにマスターの結界は、バッチシ効いてるみたいッスね」

 エリックがうなった。

「あー、マスター、話がややっこしくなりそうなんで結界を解いてくれねッスか?」

「解いたらよけいややっこしいことになるんじゃないか?」

「ま、ま、ま、とりあえずとりあえず」

「――わかった」

「わ」

 パーシヴァルが片手をふったとたん、豹の女性は目を丸くした。

「え? え? え? あ、あなたがた、いつからここに――?」

「何言うとるんやナルアしゃん。二人っとも、ずぅっとここにおったやないかあ」

「え――」

 豹の女性――ナルアの目が鋭くなる。

「そんな――これは、めくらまし? いや、しかし――?」

「どーしたんスか隊長?」

 エリック達のテーブルの周りを、どやどやと大柄な獣人達――大部分は犬か、それに類する系統のようだ――が取り囲む。

「おいこら、おまえら、そんなにいっぺんにこっちに来るなや。むさくるしいやろが、おぅん?」

 大柄な獣人達の半分――どころか、下手をすれば四分の一ぐらいしかないのではないかというオリンが、威張った顔で獣人達をたしなめる。

「んだよー、オリン、おめーが一人でヒョコヒョコ勝手に出歩くからいけねーんだろー」

「だってぼく、こんな人見るの初めてなんやもん」

 オリンがパーシヴァルを指さす。

「おっ、ほんとだ、ちっちぇー!」

「へー、こっちの大陸には、こんな種族もいるんだ」

「――いや」

 ただ一人、ナルアだけが。

 氷のように冷静な目で、パーシヴァルを見つめていた。

「こちらの大陸に、こんな種族がいるなんて、私は聞いたことがない――」

「さあって」

 エリックがニヤニヤと、両手のひらをこすりあわせた。

「おんもしろくなってまいりましたよ、っと」

「…………私はいっこうに面白くないぞ…………」

 パーシヴァルは青い顔で、ナルアの食い入るような視線を一身に浴びていた。




「そーそーそー! こいつ、非常食として俺達の隊に加わったんだよな!」

 茶色い毛並みの大柄な犬の獣人が、サバクトビネズミ族の獣人、オリンを指さしてケラケラと笑う。

「うるさいやあい! 誰が非常食やあ! んなこと言うならおまえのほうがよっぽど食いでのある体しとるやろうが、おぅん?」

 オリンが小さなこぶしでポコポコと犬の獣人を殴る。パーシヴァルは、このきわどすぎるジョークにどう反応していいのかわからず目を白黒させ、エリックは何の屈託もなくケラケラと笑い転げていた。

「やめんかマット。オリンちゃんをからかうな」

 豹の獣人、ナルアが、犬の獣人、マットの頭にゴツンとげんこつをくらわす。

「あーもう、冗談ですってば隊長」

「そういうつまらん冗談はよせ。こちらの大陸のかたがたが本気にしたらどうする」

「あ――や、やっぱり冗談ですよねえ」

 パーシヴァルが、ホッと胸をなでおろす。ちなみに今、パーシヴァルは結界をはってはいないのだが、辺りを取りかこむ獣人達の団体のおかげで、パーシヴァルもまた、他の大陸から来た種族か何かだろうと思われているらしく、珍しそうにチラチラ見てくるものはいても、誰も騒ぎたてようとはしない。

「――他に手段がない場合には、一部を犠牲にしてどうにか生きる算段をするということもありますが」

 ナルアは、真面目な顔で言った。

「私達にとっても、やはり、共食いは最大の禁忌です。その禁忌が不問に処されるのは、他の手段すべてを失った時だけです」

「そうですよねえ」

 パーシヴァルが大きくうなずく。

「つーか、オタクら、いったいどこまでを同族とみなしているんスか?」

 エリックが無遠慮に問いかける。

「私達の姿形が、あまりに違いすぎるからそんなことを思われるんですね?」

 ナルアはクスリと笑った。

「確かに私達獣人族は、あなたがた人間族や亜人族と比べて、種族内での個体差が非常に大きい種族です。しかし、私達はすべて、『獣人族』という、大きな種族の一員です。あなたがたにだって、国や人種の違いはあるでしょう? 私達がどの動物の姿と力を受け継いでいるかというのは、あなたがた人間に、いろいろな髪の色や目の色があるのと、ほんとはそんなに違いがあるわけじゃないんですよ」

「あー、オレはなんつーか、あくまで悪魔であって、人間とも亜人ともちがうんスけど」

「――」

 エリックの言葉に、ナルアはその黄水晶のような目をスイと細めたが、口をはさまずにエリックをじっと見つめた。

「つーとあれッスか、そこの、えー、マットさんと、オタクが結婚すると、ちゃんと赤ちゃんが生まれてくるわけッスか?」

「おお、隊長、それは大変いい案です」

 マットがにこにことうれしそうに笑う。

「さささ、隊長、いつでも俺の胸に飛び込んできて下さい!」

「あっ、マット、てめえ、何抜け駆けしてんだ!?」

「隊長は、みんなの隊長だろお!?」

「血の誓いを破るからには、それなりの覚悟が出来てるんだろうな!?」

 とたん、周囲の獣人達から、かなり本気の拳の群れがマットに襲いかかる。

「…………すみません、馬鹿ばっかりで」

「ほんにのう」

 ナルアとオリンが、そろってため息をつく。

「どーしてこう、男は馬鹿ばっかりなんやろ。あいつらもう、虫より馬鹿やね」

「ほんとにね。オリンちゃん、私達だけは、あんな馬鹿どもからは一線をかくし、知性と理性を守り続けていこう」

「そうやそうや。ぼくらが探検隊の良心やで。ほんとにまったく」

「ヒャッヒャッヒャッ!」

 エリックが、けたたましい声で笑い転げる。

「いやいやいやいや、時には知性と理性をほっぽり出すのも、けえーっこう楽しいものッスよ? ま、それはさておき、どーなんスか? 豹と犬が結婚しても、子供は生まれてくるんスか?」

「『動物の』豹と犬だったら、そんなことは不可能でしょうが」

 ナルアが真面目な顔に戻る。

「私達獣人に限っての話であるなら、ええ、子供は生まれてきますよ。というか、そういう婚姻で子供が生まれてこないとしたら、私達はあっという間に、血が濃くなりすぎてしまいますよ」

「まあ、ぼくみたいな、サバクトビネズミ族なんかは、他に砂漠に住んどる種族があんまりおらんからねえ。だいぶ前から、サバクトビネズミ族の、えーと、こういうのって純血って言うんかねえ? だいぶ前から、サバクトビネズミ族は、純血の種族になっとるんよ。だから見いや。ぼく、すっごく体がちっちゃいやろ? ぼくにその気があったとしても、ぼくとこいつらじゃ、そもそも物理的にかなり無理があるやろうが、いろいろと」

「…………」

 このあけすけな話に、パーシヴァルは再び目を白黒させ、エリックはケタケタと笑い転げた。

「にゃるほどにゃるほど、だんだんわかってきたッスよ。つーと、オタクとマットさんが結婚すると、いったいどんな子が生まれてくるんスか?」

「隊長、いますぐ子作りを決行し、このかたの疑問に答えてさしあげましょう!」

「ふざけんなてめえ! んなことさせる前に息の根止めたるわ!!」

「おまえら、完全に息の根を止めちゃいかんぞ。とどめは私がさすからな」

 ナルアは冷たく言い切った。

「どうもすみません、しつけがなってなくて。ええと、さきほどの疑問にお答えいたしますと、ネコ科、もしくはイヌ科の、いずれかの種族に属する獣人が生まれてくるでしょうね。そこらへんの遺伝については、正直専門家でも、まだ解明しきれていないところが多くて」

「にゃるほどにゃるほど。なかなか興味深いお話を、どーもありがとうございます」

 エリックが、彼なりに真面目にナルアに礼を述べる。

「どういたしまして。――代わりといってはなんですが」

「アイアイ、ギブ・アンド・テイクってことッスね。どんな情報が知りたいんスか?」

「話が早くて助かります」

 ナルアはニヤリと笑った。豹の顔でも、笑顔はきちんと笑顔に見えた。

「真面目な話――あなた、ただものじゃないですね?」

「にゃはは、いやいや、オレはあくまで、単なる、一下級悪魔ッス♪」

「――本気で言っているんですか?」

 ナルアの瞳が鋭く輝く。

「私達の大陸では、『悪魔』という存在は、伝説上の生き物ということになっているんですが、こちらの大陸では、どうやら事情が違っているようですね」

「んふふー、どーでやんしょーねーえ?」

 エリックはニマニマと笑った。

「あ、すんません、もう一つだけ質問いいッスか? ナルアさん、オタクらの大陸では、竜っていうのは、いったいどういう存在なんスか?」

「どういう――そうですねえ、まったくいないというわけではありませんが、接触することはきわめてまれですね。われわれ獣人族と竜族とは、お互い無関心不干渉を貫いています」

「にゃるほど。――ねえ、ナルアさん」

 エリックは、ペロリと舌を出して唇をなめまわした。

「オタク――オタクと探検隊のみなさん、せっかくこっちの大陸に来たことッスし、どうッスか、ここらでいっちょ、竜とお友達になってみないッスか――?」

「――興味深いお話ですね」

 ナルアの瞳孔が、一瞬大きく開いた。

「詳しく話をうかがわせて下さい」

「アイアイ、リョーカイ」

 エリックはニンマリと、会心の笑みを浮かべた。




「――で、結局エリックはどうしたの?」

「は、エリックはその、いまだ獣人の皆さんとその、宴会続行中でして、はい」

 パーシヴァルは、恐縮しながらクレアノンに告げた。

「あら、まあ」

 クレアノンはクスクスと笑った。

「エリックって、ほんとに人なつっこいものね。楽しんでるみたいね」

「その、どうもすみません、勝手な事をしてしまって」

「あら、いいのよそんなに恐縮しなくても。人脈が広がるのはいいことだわ」

「獣人――ですか。あちらの大陸にいるという話は聞いておりますが、まだ実際に見たことはないですねえ」

 と、ユミルがうなる。

「あ、俺もまだ見た事ないです」

「ぼくもないです」

 と、ライサンダーとエルメラートが口をそろえる。

「昔は、たまーにこっちにも来てたのよお」

 と、ハルディアナがのんびりと口をはさむ。

「確かええと――あっちの大陸の中でのいざこざのせいで、最近はこっちに来てるひまなんてなかったみたいよお。ええと――オルミヤン王国と、ウルラーリィ王国が、百年戦争だかなんだかをやらかしてたんだったかしら?」

「そう、アヤティルマド大陸百年戦争ね。主な参加国は、ハルディアナさんが言った通り、オルミヤン王国とウルラーリィ王国。他にも、ヨルノイドやワティルンカなんかが参加した大戦争だったんだけど――確か、30年くらい前に終わったはずよ」

 クレアノンが、スラスラと補足する。

「どっちが勝ったんですか?」

 と、エルメラートが無邪気にたずねる。

「まあ、どちらも完全な勝利をおさめたわけじゃなくて、かなり痛み分けって感じだったんだけど――今のところ、アヤティルマド大陸における最大勢力は、オルミヤン王国ってことになってるわね」

 一瞬のためらいもなく、クレアノンが答える。

「へえ――あっちの大陸が落ちついてきたから、こっちの大陸に興味が出てきた、ってわけですか?」

 と、ライサンダーが首を傾げる。

「そういうことなのかしらね?」

 と、クレアノンも首を傾げる。

「探検隊、だとおっしゃってましたが」

 パーシヴァルが首をひねる。

「私は、この世界のことは、まだあまり詳しく知らないのですが、私達が出会った、というか、エリックがいっしょになってただいま宴会真っ最中の獣人の探検隊のかたがたは、とてもその、友好的に見えましたが――」

「探検隊――ああ、そうか」

 クレアノンは少し息を飲んだ。

「獣人も、そんなに寿命が長い種族じゃないものね。百年もの間没交渉だったら、こっちの大陸のことなんてまるっきりわからなくなっちゃうのね――」

「こちらの大陸から、あちらの大陸に行こうとする人はいなかったんですか?」

 と、アレンが目をしばたたく。

「物騒でしたからねえ」

 と、ユミルが言う。

「百年戦争の間、あの大陸は、どこもかしこも軒並み戦地、でしたからねえ。よっぽどおいしい見返りがなければ、わざわざあちらの大陸に行こうなんていう物好きは、まあ、まずいはしなかったでしょうね」

「で、その『よっぽどおいしい見返り』っていうのがなかったわけね」

 と、クレアノンが軽くうなずく。

「基本的に、私達のいるニルスシェリン大陸と、あちらのアヤティルマド大陸とは、まったく交渉を持たなくても、特に支障なく自給自足していけるものね。わざわざ戦火をついて出かけていくほどの必要を、お互いに感じなかったわけね」

「じゃあ、どうして今になってわざわざやってきたんでしょう?」

 エルメラートが再び、無邪気にたずねる。

「さあ――国が落ちついて、外に目を向ける余裕ができたのか、それとも、もっと切羽詰まった事情があるのか――」

 クレアノンが考えこむ。その瞳が、銀色に輝く。

「面白いわ。とっても面白い――」

「――まさか、とは思うんですが」

 ユミルが不安げに眉をひそめた。

「こちらの大陸を、侵略するつもりじゃないでしょうねえ?」

「そんなことをするだけの、言いかたは悪いけど、うまみがあるのかしら?」

 クレアノンは首をひねった。

「私の知る限りでは、あなたがた人間や亜人と、彼ら獣人との間には、そんなに極端な戦力差があるわけじゃないわ。ああ、それは個人個人を比べれば、身体能力では獣人のほうが勝っているし、逆に魔法では人間や亜人のほうが勝っているけど。でも、国対国、ということにでもなれば、そうね――そんなに極端な戦力差があるわけじゃない、と思うわ。だから、あちらの大陸からわざわざ遠征してきたって、結局返り討ちにあうだけの話よ。こちらの人達は、生まれ育った故郷という地の利を最大限生かして戦えるのに、あっちから来る人達は、長旅で疲れきっているうえ、援軍や物資の補給もままならない状態で戦わなくちゃいけないんだから」

「なるほど、それはそうですね」

 ユミルが大きくうなずく。

「だとするといったい――何を目的とした『探検』なんでしょう?」

「あら」

 クレアノンはクスリと笑った。

「直接聞いてみればいいじゃない」

「え!?」

「ねえ、パーシヴァル」

 クレアノンはパーシヴァルにチラリと目くばせしてみせた。

「どうせエリックは、明日にでもその探検隊のかたがたを、私にあわせに連れてくるつもりなんでしょ?」

「おっしゃるとおりです」

 パーシヴァルは、クレアノンに向かって深々と一礼した。

「御迷惑でなければいいのですが」

「迷惑だなんてとんでもないわ。むしろ、連れてきてくれなかったら、気がきかないって怒っちゃうかも」

 クレアノンはクスクスと笑った。

「――ねえ、ユミルさん、ちょっとうかがってもいいかしら?」

「はい、なんでしょうか?」

「ねえ」

 クレアノンの瞳がキラキラと輝く。

「外国人でも『セティカ』になれたりするのかしら?」

「前例がないわけではありません」

 ユミルは即答した。

「ただ、その場合は当然、『セティカ』になるかたには、このハイネリアに帰化していただくことになるわけですが」

「ああ、それはそうよね」

 クレアノンはうなずいた。

「それじゃあ――ねえ」

 クレアノンは身を乗り出した。

「獣人は――『セティカ』になれるのかしら――?」

「――ぜ、前例は、ありません。な、ないはずです、はい」

 ユミルは大きく息を飲んだ。

「ク、クレアノンさん――い、いったい何を考えているんですか!?」

「具体的には、まだ、何も」

 クレアノンの唇に、ゆるやかに笑みが浮かんだ。

「でも、私はね、いろんなことを、いろんな可能性を、実現するかしないかはおいておいて、頭の中で何度も何度も考えてみるのが、とてもとても――とても、好きなのよ」




「――エリック、来ないわね」

『竜の本屋さん』店内にて、クレアノンは小首を傾げた。

「は、どうもすみません。さっきからケータイに連絡を入れているのですが、どうもその、電源を切っているか何かしているらしくて」

 恐縮しきったパーシヴァルが深々と一礼する。

「あら、パーシヴァル、ケータイ使えるんだ」

「はあ、まあ、その、機能の全てなんて、到底使いこなせはしませんが、基本的な機能くらいだったら、一応それなりに」

「へー、すごいじゃない。使い魔になってまだ日が浅いっていうのに」

「人間だった時分に、それなりに予習をしておりましたので」

 パーシヴァルが照れたように笑う。

「まあ、エリックにはエリックの考えもあるんでしょうしね」

 クレアノンは小さく苦笑した。

「私、ちょっとせっかちだったわね」

「あの、私、様子を見てきましょうか?」

 責任を感じたらしく、パーシヴァルがそう提案する。

「あら、行ってくれるの? ありがとう。じゃあお願いしようかしら」

「かしこまりました」

 パーシヴァルは、再び深々と一礼した。

「では、行って参ります」

 そう言ってパーシヴァルは、この世界、この次元においては、竜と悪魔、そして、今はいないが天使だけが、安全に利用することの出来る、瞬間移動用の異空間へと身を投じた。


 ――話は少しくさかのぼる。

 エリックは、迷惑げな顔をした酒場の店主に、グリグリとモップの先でつつきまわされていた。

「…………んにー、何するんスかあ。エリちゃんまだ眠いのに…………」

「お客さん!」

 店主は業を煮やしたように、モップの柄を、ドンと床につきたてた。

「いいかげん、帰っていただけませんかねえ! いったいいつまでうちの店にいるつもりなんですか!?」

「あ、あー、ゴメンチャイ。いやー、ゆうべは飲んだにゃあ。……って、あ、あれ!?」

 エリックははねおきた。店の中には、寝ぼけ眼のエリックと、モップを床につきたててエリックをにらみつける店主と、われ関せずとばかりにテーブルの上を黙々と拭いている店員と――。

 それより他に、誰もいなかった。

「あ、あ、あの、ご、ご、ご主人!」

「なんですか。ああ、ちなみに、お客さんの飲み代は、あの太っ腹な豹のおねえさんが、全額払っていって下さいましたんで、お客さんは後、店から出ていってくださるだけでよろしいんですけどねえ」

「それそれそれ!!」

 店主の嫌味をものともせず、エリックはじたばたと両手両足をふりまわした。

「ゆ、ゆ、ゆうべの獣人の団体さんは、い、いったいどこへ行ったんスか!?」

「そんなことわたしゃ知りませんよ。あのかたがた、おたくのお連れさんじゃなかったんですか?」

「いやあ、初対面ッス」

「へー、それなのにあの豹のおねえさん、あなたの飲み代を全額持って下さったんだ。いやあ、太っ腹だねえほんとに!」

「ああ、まあ、それはありがたいと思ってるッスけど。で、でも、あの人達、ほんとにどこ行っちゃったんスか!?」

「……どこへ行ったかは知りませんが」

 あわてふためくエリックのことを、気の毒に思ったのか、それとも、情報を提供してとっととお引き取り願おうと思ったのか。店主はため息をつきながら。

「――どこへ行ったかは知りませんがね。お客さんが酔い潰れた後で、セティカの勧誘部隊長さんがいらっしゃいましてね。あの太っ腹な豹のおねえさんと、何やらいろいろ話をしてから、みんなそろってうちの店を出て行きましたよ。お客さんの飲み代まできちんと払ってくれてね」

 と、情報を提供してくれた。


「エリック、おまえ、酒場にいたんじゃなかったのか? な、なんでこんなところをほっつき歩いているんだ!?」

 異空間から飛び出して来たパーシヴァルは、驚いて目を白黒させた。使い魔であるパーシヴァルは、同じ次元、同じ世界の中だったら、お互いがどんな場所にいても、瞬時にしてエリックのもとへととって返せる能力を身につけている。というか、そのように設定されている。今回、エリックのもとへ行く事だけを考えて異空間に身を投じたパーシヴァルは、自分が予想していた場所とは全く違う場所に出現してしまい、あわててあたりを見まわした。

「え? え? ど、どこだ、ここは?」

「ああ、マスター、いいところに!!」

 エリックは、ガシッとパーシヴァルの肩をつかんだ。ゆうべは人形サイズだったパーシヴァルだが、クレアノンの力を借り、今は人間の成人サイズという、本来の、というかまあ、パーシヴァルにとって一番居心地のいい大きさに戻っている。

「エ、エ、エリちゃんちょーっと飲みすぎちゃった! じゅ、獣人の団体さん、横から出てきたやつにかっさらわれちった!!」

「な、なにィッ!?」

 パーシヴァルは飛び上がった。

「ど、ど、どこのどいつだ、そんな横取りしてくれたのは!!」

「いや――それが――」

 エリックは、微妙な顔で、ポリポリとこめかみのあたりをひっかいた。

「あの酒場のご主人のいうことを信用するなら、どうも相手は、セティカのみなさんらしいんスよねえ――」

「セ、セティカ!? あ――ああ、そうか――」

 パーシヴァルは大きく息を飲んだ。

「セ、セティカもまた、『ハイネリアの四貴族』の一角を担う存在だものな。あ、あんなめったにないような珍客を、いつまでもむざむざと放っておくはずがないな。と、当然の帰結だ――」

「――あー、マスター」

 エリックは、情けない顔でクニャッと唇を歪めた。

「俺がヘマしたって知ったら、クレアノンさん、怒るッスかねえ?」

「……おまえの今後のことを思うなら、きっと激怒するだろう、といって、おどかしておくぐらいがちょうどいいのかもしれんが」

 パーシヴァルはニヤリと笑った。

「しかし、クレアノンさんは、別に怒ったりはせんだろう。むしろ、喜んでくれるかもしれん。『あら、それじゃあ、獣人の皆さんとセティカのみなさん、両方といっぺんにお話しができるのね。手間がはぶけて助かるわ』――とか言って、な」

「オオ、マイ・マスター」

 エリックはほっとしたように、満面の笑みを浮かべた。

「オタクってば、ほんとーに、いい人ッスね!」

「私はもうおまえのマスターではないし、それどころか『人』ですらないんだがな」

 パーシヴァルは、クスリと苦笑した。

「とにかく、いっしょに戻ろうエリック。クレアノンさんならきっと、何かいい案を思いついて下さるさ」

「アイアイ、リョーカイ」

 かくしてエリックとパーシヴァルは、二人仲良く異空間へと身を投じた。




「面白いわ! 本当に面白い!」

 クレアノンは目を輝かせて叫んだ。パーシヴァルは、エリックをコツンとひじでつついた。

「なるほどなるほど、そうよね、セティカのかたがたが、有望な新人を自分から探しに行くことだって、当然あってしかるべきことだものね!」

「勧誘部隊長――」

 ユミルがちょっと眉をひそめて考えこんだ。

「はて――すみません、いったい誰のことを言っているのか、私にはちょっとわかりかねます。その、お役に立てなくて申し訳ありませんが――」

 ユミルはいささか、気まり悪げな顔をした。

「その――正直、イェントンの面々は、セティカの皆さんのことを、ちょっとその、なんというか、下に見ているようなところがありまして――。私もその、アレンと出会うまでは典型的なイェントン、でしたからね。セティカ内部のことは、あまり詳しくは知らないんですよ。個人的な知りあいというのもおりませんし。ザイーレンさんなら、きっともっと詳しいんでしょうが――」

「検索結果によると、勧誘部隊長は、ホビットの、えーと、女学者さんッスね」

「あら」

 クレアノンは目をしばたたいた。

「学者さんですって?」

「イッエース。セティカの勧誘部隊長は、ホビットの、パルロゼッタ・ロディエント、ッス。えー、この人は、社会学者と自称しているッスね」

「社会学者ですって?」

 クレアノンは身を乗り出した。

「まあ、珍しい。私、この世界で、竜や悪魔以外で社会学者って名乗る人のことを聞いたのは、これが初めてよ」

「そうッスねえ、こういう形態の社会――つーか世界――においては、けっこう珍しい存在かもしれねえッスねえ。もしかして、パイオニア、ってやつッスかね?」

「そうかもね」

 クレアノンは楽しげに笑った。

「――あの、すみません」

 ユミルが遠慮がちに口をはさんだ。

「『ぱいおにあ』とは、いったいどういう意味なんでしょうか?」

「あら――ごめんなさい。あなたがたにはわからない言葉でしゃべっちゃったみたいね」

 クレアノンは、もうしわけなさそうに苦笑した。

「『パイオニア』っていうのはね、その道を切り開いた第一人者、っていう意味よ」

「よーするに、今までだれもやったことのないことをやってのけた人、っつー意味ッスね」

 と、エリックが補足する。

「なるほど」

 ユミルは大きくうなずいた。

「それでは、その、勉強不足でもうしわけないんですが、『社会学者』とは、いったいどういうものなんでしょう? いや、『社会』も、『学者』も、意味はわかるんですが、『社会学者』というのは聞いたことがなくて――」

「あら」

 クレアノンはクスリと笑った。

「それは知らなくてもしかたがないわよ。この世界の人間や亜人には、きっと今まで、パルロゼッタさんがそう名乗るまでは、なかった概念なんでしょうから。社会学者、っていうのは、そうねえ――」

 クレアノンは、少し考えこんだ。

「例えば、そうねえ――そうだ」

 クレアノンは、ポンと手を打った。

「例えばね、この私、黒竜のクレアノンが、ハイネリアという国にちょっかいを出しはじめた事によって、『ハイネリア』という社会が、いったいどんなふうに変わっていくのか。人々はどんなふうに反応するのか。そして、どうして人々はそんなふうに反応したのか。ハイネリアが『どういう形態の』社会だったから、そんな反応を誘発したのか――そんなことを調べていくのが、社会学者さんよ。まあこれは、ものすごく大雑把な説明なんだけど」

「え――ええと――」

 ユミルは、眉間にしわを寄せて考えこんだ。

「ええと――す、すみません、そ、そんなことをして、いったい何の役に立つんですか?」

「あら、結構役に立つわよ」

 クレアノンは真顔で言った。

「少なくとも、同じ過ちを繰り返さない――とまではいかないかもしれないけど、同じ過ちをどこか他の場所、他の時代ですでにおかしていた人々がいたということを知り、その人々がとった行動が、どんな結果を招いたのかということを知る役には立つわ」

「え――?」

 ユミルは目を白黒させた。

「まあ、今わからなくてもかまわないわ」

 クレアノンは、小さく肩をすくめた。

「いつかわかってくれれば、それでいいの」

「す、すみません、理解力が足りなくて」

「いいのいいの。だって『社会学』っていうのは、この世界にはまだない――正確に言えば、まだ生まれたばかりの概念なんだから」

 クレアノンは、ユミルに軽くうなずきかけた。

「さて、それにしても、エリックの話によれば、今まさに、獣人の皆さんとセティカの皆さんが、会談の真っ最中ってわけね。あ、それとも、もしかしてもう、お話、終わっちゃったかしら?」

「んにゃんにゃ、それはないでしょう」

 エリックがユラユラとかぶりをふる。

「オレの見たところでは、あの、獣人の探検隊の隊長さん、女豹のナルアさんは、なかなかの大人物ッスよ。こんなおいしい、興味深い会談を、あっさり終わりにしちまうなんて、そんなもったいないことは、よっぽどのことがなきゃ、まあ、まず、しやしないッスよ。――と、思うッス」

「なるほどね」

 クレアノンは、ニヤリと笑った。

「ああ――どうしようかしら? 獣人とセティカとの対談に、竜が押しかけていったらやっぱり迷惑かしらねえ?」

「いやいやいや、そーんなことで遠慮してたら、なーんもはじまんねーッスよ!」

 エリックが、大仰に両手をふりまわした。

「クレアノンさん、ここはイッパツ、あれッスよ」

 エリックもまた、ニヤリと笑った。

「押しかけだろうとどさくさまぎれだろうとずうずうしかろうと、結局のところ、みんなが得をするような提案ができれば、みんな言うこと聞いてくれるに決まってるッス。そしてもちろん――」

 エリックは空中に舞い上がり、片足立ちでクルクルと高速回転をしてみせた。

「最終的に、オレらの目的のため、オレらの利益のため、最大限に役に立つような方向に、みんなを誘導していけばいいんスよ!」

 ピタリと回転をとめたエリックの片手には。

 色とりどりの花を美しく配置した、かわいらしい花束が握られていた。

 そして、もう片手には。

 花束と見まごうばかりの美しさを誇る、甘い、おいしそうなケーキをいっぱいに乗せた大皿が。

「女の人って、お花とケーキが好きなもんッス。ま、一般論、なんスけど、この際一般論から入ってみましょーよ」

 エリックは、クレアノンに大きく微笑みかけた。

「さあクレアノンさん、お花とケーキを持って、女豹さんと、ホビットの女社会学者さんに、押しかけ自己紹介をしに行きましょー!!」

「――あら、素敵」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「エリック、あなた、単なる下級悪魔にしておくには、なかなか惜しい人材じゃない」

「にゃははは、ほめていただけるのはうれしーんスけど、エリちゃん、無理はしない主義なんス。つーかオレ、いまだにレベルはD*だし。なんつーかねー、攻撃力が、壊滅的に不足してるんスよねー」

「私が力をわけてあげましょうか?」

 クレアノンはサラリと言った。

「遠慮しとくッス」

 エリックはあっさりと断った。

「過ぎた力は身を滅ぼすッス。オレ、そんなわかりやすい死亡フラグなんて立てたくないッス」

「あら――よけいなお世話だったみたいね。ごめんなさい」

「いやいや、クレアノンさんが、親切で言って下さったってことは、このエリちゃん、ちゃーんとわかっているッスよ❤」

「――ありがとう」

 クレアノンは、微笑んだ。

「さて、それじゃあ――ユミルさん」

「は、はい!」

「あなたとアレンさんも、いっしょに来て下さるとありがたいんだけど」

「そ、それはもちろん、喜んで。ですが――」

「ですが?」

「わ、私達がお役にたてるような事ってあるんでしょうか?」

「あると思うから、ついて来て欲しいと言っているのよ」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「さて、じゃあ、アレンさんのところに行きましょうか。まだ閲覧室にいるのよね?」

「ええ。たぶん、紙芝居か絵本の読み聞かせをやっているはずです」

「お邪魔をするのは気の毒だけど」

 クレアノンはきっぱりと言った。

「今は、私の仕事を手伝っていただくことにするわ」




「なーんやーあ、エリックやないかあ」

 サバクトビネズミ族の獣人、オリンの、いとものんびりとした声が響いた。

「すまんかったの、おいてけぼりにしてしもうて。なんというかの、急に、ナルアしゃんに声かけてきたやつがおっての。大切な話やったんやろうねえ。そいつの話聞いたら、ナルアしゃん、そのままそいつについてく言うてねえ。そんで店でたんよ。ナルアしゃんは今、そいつと中でお話し中やあ。ぼくには正直、ようわからんから、こやって外でまっとるんよ」

「ああ、ええと、他の獣人さん達はどうしたんスか?」

 エリックはいささかせかせかとたずねた。オリンは、ハイネリアの首都、エルヴィンドのはずれを流れるリディン川の川原で、のんびりと川を眺めていた。

 その、オリンのかたわらには。

 びっくりするほど巨大で、びっくりするほどごてごてと、実用的なのかそうでないのかすらさっぱり見当のつかない、様々な『何か』が装着された、おそらくは幌馬車であろうもの、がとまっていた。

「ああ、あの馬鹿どもなら、みんな二日酔いで宿屋でうんうんいうとるよ。あいつらほんとあほやね。いくらぼくらが酒に強いいうたかて、あんだけパカパカ飲めばそうなるいうことがわからんのかね、ほんとにまったく」

「ははあ、二日酔いッスか」

 エリックは軽くうなずき、ついで、む? と首をひねった。

「ええと――ナルアさんは、その、今日の朝、だか、昨日の夜、だかからずっと――?」

「正確に言うと、今日の明け方からずっと、ええと――名前、なんていうたかの。とにかくあれや、ちっこい、ええと、あらなんちゅう種族や――?」

「ホビット、じゃないスか?」

「そうかもしれんの。とにかくそいつと、ずーっとお話しとるんよ」

「へえ」

 エリックはあきれたような声をあげた。

「オリンさん、その間ずーっとここで待ってたんスか?」

「ん? そうやよ。ぼく、むつかしいお話はわからんけんね」

「退屈じゃなかったッスか?」

「サバクトビネズミ族はの、待つのが苦にならん部族なんや」

 オリンはやはり、のんびりと答えた。

「ははあ――まだお話、続いてるんスか?」

「そやないかの? さっきっからしょっちゅう、『であるかであるか!』とか、『であるなであるな!』とか、『うむうむ、それは面白いのであるよ!』とか、あの、えー――あれって幌馬車なんかの?」

「オレにもわっかんねーッス」

「ほうか。とにかくの、そういう声が中から聞こえてくるから、まだお話、続いとるんやないかの?」

「にゃるほど」

 エリックは大きくうなずいた。

「だそうッス、クレアノンさん」

「なるほどね」

 クレアノンは、軽くうなずいた。そして、オリンに向かって優雅に一礼した。

「初めまして。こんにちは」

「こちらこそ、初めまして、こんにちわあ」

 オリンはにこにこと礼を返した。

「ぼく、サバクトビネズミ族の、オリン・ジュートいうんよ。アヤティルマド大陸から来た、オルミヤン王国の探検隊の一員なんよ」

「あら、ご丁寧にどうも」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「私は、セルター海峡を越えたところにある、ディルス島からやってきた、黒竜のクレアノンよ」

「…………竜、言うたかの?」

 オリンは、まるい目をパチクリさせた。

「……人間か、亜人かなんかみたいに見えよるがの?」

「だって、私が本当の姿でここらをうろうろしたら、みんなびっくりしちゃうもの。だから今は、この姿に化けてるのよ」

「……ほぅん」

 オリンは、感心したようにうなった。

「で、その竜が、いったい何の用なんかの?」

「そうねえ――」

 クレアノンは、ちょっと口をすぼめて考えこんだ。

「のう」

 オリンは首をのばして、クレアノンの後ろで成り行きを見守っている、ユミルとアレンのほうを見やった。

「あそこの二人も、竜なんかの? エリックは昨日、自分で悪魔というとったが、の」

「いや、私は人間です。初めまして。ユミル・イェントンと申します」

 ユミルが丁寧に一礼する。

「あ、ど、どうも、初めまして。わ、私はえーと、人間と淫魔の混血の、アレンと申します」

 アレンもあわてて一礼する。

「いんま? ほぅん? すまんの、ぼく、こっちの大陸の種族にはあんまり詳しくないんよ」

 と、オリンが小首を傾げる。

「で――みなしゃん、ナルアしゃんになんか用かの?」

「いや、なんつーか、ナルアさんに、というか、獣人の皆さん全員に、用があるんスけど」

 と、エリックがあわてて言う。

「エリック、おまえ、一晩ぼくらといっしょにいてわからんかったんか?」

 小さなオリンが、大きく肩をすくめる。

「ぼくらの頭は、ナルアしゃんやあ。ちゅうか、探検隊の連中の中で、まともな頭があるのはナルアしゃんだけやよ。あの馬鹿どもは、体ばっか立派で、頭のほうにはまともに栄養がまわっとらんしの。ぼくは――ぼくはのう、とろいんや。ぼく、自分では頭悪くない思うんやがの。でも、ぼく、ゆっくりとしか考えられへんのや。だからの、結局、頭がきちんとしとるのはナルアしゃんだけやよ。だからの、何かを決める時は必ず、最後はナルアしゃんがどうするか決めるんよの。うん、あれやの、頭が一つだと、もめごとがなくてええの」

「それも一つの集団統率法ね」

 クレアノンが真顔でうなずく。

「でもオリンさん、私はオリンさんも、とても頭がいいと思うんだけど」

「ほ――ほんとかあ!?」

 オリンは、もともと丸い大きな目を、さらに大きく見開いた。

「ほんとにそう思うとるんかの!?」

「私、こんなことで嘘をついたりしないわ」

 クレアノンが、やはり真顔で言う。

「そうかあ。――うれしいなあ」

 オリンはにっこりと笑った。

「ぼく初めてやよ。ナルアしゃん以外の人に、本気でそんなこと言うてもろうたの」

「あなたの真価がわかる、ということは」

 クレアノンはにこりと笑った。

「ナルアって人も、やっぱりとっても、頭がいいのね」

「そうやよ。ナルアしゃんは、なんというかの、生まれつきぼくらとは別あつらえやあ。格がちがうんよ、うん」

「ふうん――そうなんだ」

 クレアノンの瞳が、銀色に輝いた。

「――ねえ、オリンさん」

「なんやあ?」

「オリンさん達は、どうしてこちらの大陸を探検しに来たの?」

「ああ」

 オリンはいささか、うんざりとした顔をした。

「王様の見栄やよ」

「え? 王様の見栄?」

「そうやあ」

 オリンは肩をすくめた。

「うちの、ボナパロン王がの、ウルラーリィのドナセラリア女王に、オルミヤン王国のすごさを見せつけるためにの、百年以上も途絶えとった、アヤティルマド大陸とニルスシェリン大陸との交流を、オルミヤン王国だけの力で復活させることにしたんやあ。――まあ、の、たぶん裏には、なんやかっか、いろんな事情があるんやろうけどの。そこらへんはナルアしゃんに聞いとくれやあ。ぼく、むつかしい話はようわからへんよ」

「ありがとう。とっても参考になったわ」

 クレアノンは大きく笑った。

 その笑顔に、少しだけ。

 巨大な黒竜の面影が垣間見えた。

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