第5章
「奥方様」
そう言われる度に、エリシアはひどく、気恥しい思いにとらわれる。
『奥方様』という仰々しい呼び名は、まだ19歳でしかない自分にはあまり似あっていない、と、いつも思う。
――19歳。もうすぐ20歳。
――ちょうど20年前だ。最愛の夫、ザイーレンが、エリシアの母パトレアに、結婚式をすっぽかされたのは。
「あの時もう、おなかのなかにいたんですってよ――」。そんな意地悪いささやきを、耳にしたこともある。ザイーレンと式をあげようというそのときすでに、パトレアはエリシアを身ごもっていたのだと。
反論、出来なかった。
それは、事実だから。
母が、パトレアが、どれほど深くザイーレンのことを傷つけたかを知っている。
だから、自分に向けられる敵意も嘲笑も、しかたのないことだと思っている。むしろ、それらを母のせいにすることが出来てホッとしているくらいだ。自分がこんな目に会うのは、母が馬鹿なことをしたせいだ。ひどいことをしたせいだ。そう思うことが出来るから。母のことがなかったとしてさえ、ザイーレンより20歳以上も年下の、地位も名誉も財産も何一つ持っていはしない、ただのちっぽけなつまらない娘だ。どの道周りからの風当たりは強かっただろう。
「なんでしょうか、マーサさん?」
ただ、このマーサの言う『奥方様』には、時としてザイーレンの親戚たちのそれに混じる、皮肉や嘲笑の色はない。もう50年もザイーレンの屋敷に努めているというマーサは、それこそある意味、ザイーレンの母にも等しい存在だ。マーサは純粋に、エリシアへの敬意をこめて『奥方様』と呼んでいるのだ。
「本屋さんがいらっしゃいましたよ」
「本屋さんが?」
エリシアは首を傾げる。確かにザイーレンは、本を、しかも、若い娘が読むとは到底思えないような、政治や魔術の専門書を読むのが大好きなエリシアのために、そういう本を扱う人々を屋敷に呼んだりしてくれる。初めてそんなことをしてもらった時、エリシアは息がとまるほど驚いてしまったものだ。エリシアにとっては、ものが欲しければ自分のほうが店まで出向くのが当然で、まさか店のほうから自分のほうへやって来てくれることがあるなどとは思ってもみなかったのだ。
「あら、今日、そんな予定があったかしら?」
「ご当主様が奥方様をびっくりさせようと思って、こっそりお呼びになったのかもしれませんよ?」
マーサはにこにこ笑う。ちなみに、ザイーレンのことを『ご当主様』と呼ぶのは屋敷でマーサだけだ。ほかのみなは、ただ『ザイーレン様』とだけ呼ぶようしつけられている。ザイーレンのことを『ご当主様』と呼ぶのは、マーサのある種の特権だ。もっともザイーレンは、エリシアが『奥方様』と呼ばれるのを聞くのが楽しいらしく、そちらのほうはなおさせるつもりはないらしい。今のところエリシアは、人によって、もしくは場合によって、『エリシア様』と呼ばれたり、『奥方様』と呼ばれたりしている。
もちろんマーサは必ず『奥方様』と呼ぶのである。
「そうかしら?」
首を傾げながらも、エリシアはにっこりと微笑む。ザイーレンは、自分がエリシアのような若い女の子についてまったくうといことを気にしているらしく、折を見てはどこから聞きこんでくるのか、いろいろなことを試してみるのだ。大真面目な顔で一抱えもある桃色のレーナの花束を抱えてきた時には、悪いと思いながらも思わず吹き出してしまった。ふわふわとしたレーナの花と、ザイーレンの大真面目な顔とが、あまりにもちぐはぐだったから。ザイーレンは、自分が笑われたことより、エリシアの笑顔を見ることが出来たことのほうがずっとうれしかったらしい。エリシアを見てにこにこしていた。
ああ、この人は本当にわたしのことが好きなんだ。そして、本当に優しい人なんだ。
その時エリシアは、強くそう思った。その前も、その後も、何度も何度も、そう、思った。
「なんでもねえ」
マーサがいたずらっぽい顔で言う。
「竜の本屋さんだそうですよ?」
「竜の本屋さん?」
エリシアは目を丸くする。もちろん、ハイネリアで生まれ育ったエリシアの中にも、竜に対する恐怖は根をおろしている。
でも。
『竜の本屋さん』。
なんとも不可思議で、魅力的な言葉ではないか。
「それは――どんな本屋さんなんですか?」
「お会いになられます?」
「ええ」
エリシアはにっこり笑った。この屋敷の人々が、エリシアに害を成すものを中に入れるはずがない。
「お通しして下さい」
そして。
エリシアは運命を選んだ。
「こんにちは。私はクレアノン」
やってきた女性は、にっこりと微笑んだ。後ろに二人、荷物持ちらしき男女がつき従っている。男性のほうは、部屋の中だというのにフードを目深にかぶったまま、手際良く床に本を並べている。女性のほうが自分とあまり変わらぬ年ごろらしいのを見て取ったエリシアは、そこはかとない親近感を覚えた。
「種族は、黒竜よ」
「…………え?」
あまりにも意外な言葉を聞いたため、エリシアは、その意味をつかみそこねた。
「あの――すみません、今、なんと?」
「私はクレアノン」
どっしりとしたたたずまいの女性は、やはりにっこり微笑んで言った。
「種族は、黒竜。私は、竜なの」
「…………え?」
エリシアの頭が空白になった。
どうして竜がこんなところにいるというのか。
「あの……え、竜、ですか?」
「ええ」
「え――冗談じゃ、なくて?」
「ちゃんと名乗ったでしょ?」
クレアノンはクスリと笑った。
「私は竜の本屋さん。うそはついてないわよ。ちゃんと本も持って来たわ」
「…………」
エリシアは絶句した。
「ああ、安心して」
クレアノンは小首を傾げた。
「あなたに害を加えるつもりは全くないの。その――あなたに会うために、ちょっと魅了の魔眼を使っちゃったんだけど、許してね。償えというのなら、その償いはするから」
「どうして――わたしに?」
エリシアは、大きく目を見開いて言った。
「どうしてわたしなんかに会いにいらっしゃったんですか? だって――だって、わたしは――」
ただのちっぽけな女の子だ。夫のザイーレンは、栄光あるハイネリア四貴族筆頭イェントン家当主という偉大な男だが、妻の自分は、ただのちっぽけな女の子だ。
そんな自分に、どうして竜が会いに来るというのか。
「――あのね」
クレアノンは、反対側に小首を傾げた。
「私の友達がね――ザイーレンさんを怒らせるようなことをしちゃったんじゃないかって、とっても気に病んでいてね」
「ああ――それで、わたしにとりなせというんですか?」
エリシアは眉をひそめた。
「わたし――ザイーレンの仕事には、口出しをしないようにしているんです」
それは、ザイーレンがエリシアの言うことを聞いてくれないからではない。
逆だ。
ザイーレンが、エリシアの望みをかなえようとしてしまうからだ。ただでさえ、自分を娶ったことにより、親戚達とさんざんもめたザイーレンを、これ以上困らせるようなことをしたくはなかった。
「仕事――ううん、仕事というかねえ――」
クレアノンは首をひねった。
「ええと――こういう時、いったいどう言えばいいのかしら――」
「――ありがとうございます、クレアノンさん」
本を並べていた男が顔をあげた。
エリシアは息を飲んだ。
それは、見覚えのある顔だった。
そして、エリシアは知っている。
ザイーレンが、その青年の安否を気遣っていたことを。
「ここまで連れてきて下さっただけで十分です。ここからは――私達の問題ですので」
「――ユミルさん――」
臨界不測爆鳴気の拘束場の中から、ファーティスの魔術師とともに忽然と姿をくらました青年の顔、それが自分の目の前にあるのを、エリシアはただ茫然と見つめた。
「――まさか」
エリシアは大きくあえいだ。
「そちらのかたは――」
「――私の名前は、たぶん、こちらの国のかたには知られていないと思います」
自分と同じくらいの年ごろに見える若い娘――小柄でほっそりとした体形まで、どこかしら似かよっていた――は、黒々とした瞳をまっすぐにエリシアに向けた。
「私は、アレンと申します。姓は――私は、正式な結婚で生まれたわけではありませんので、父の姓を名乗ることは許されていません。母の姓は、知りません。だから、私はただの、アレンです。私は――ファーティスの、対大軍用魔術兵器です」
「――兵器?」
エリシアは息を飲んだ。
「兵器、と呼ばれることも、兵士、と呼ばれることもありますが、たぶん意味は同じなんだと思います」
アレンは唇を噛んだ。
「私は、今まで――あなたの国の――ユミルの国の――ハイネリアの人達を――たくさん、たくさん――死に、追いやってきました――」
「――」
続けざまの衝撃に、エリシアの頭はしびれたようになっていた。
「――そして」
ユミルの静かな声が響く。
「アレンは私の妻でもあります」
「――え?」
エリシアの頭の中で、ようやく歯車が動き出す。
「つ――妻?」
「はい」
ユミルはしっかりとうなずいた。
「私の、妻です」
「――」
「――もちろんこれは、私達が勝手にそう主張しているだけです。法的な効力などありません」
ユミルは幾分、自嘲気味に言った。
「――法的な効力が欲しいから」
エリシアは、ささやくように言った。
「だから、わたしのところに来たんですか――?」
「――それも、考えなかったわけではありません」
ユミルは小さくため息をついた。
「しかし――私にそれを要求する権利はないでしょう。私は今まで、一度もあなたに手をさしのべたことがない。イェントンの一族の中で孤立しているあなたを見て、あなたの孤独を知っていたのに、あなたに寄り添おうとしたことは一度もない。だから――私があなたに、何かを要求する権利など、まったくありはしないでしょう」
「――」
「私にはもっとないでしょう」
静かな声で、アレンが言った。
「私は、この国のかたがたにとっては、八つ裂きにしても飽き足らないような人間でしょう。――私はそれだけのことをしてきました。許して欲しいなんて言いません。言えません。ただ――」
アレンは、すがるような目でエリシアを見つめた。
「ただ、一つだけ――情けをかけていただきたいことがあるんです」
「――なんでしょう、それは」
エリシアは、わずかに怯えたように言った。
「――妻は――妻は身ごもっているんです!」
血を吐くように、ユミルは叫んだ。
「――え!?」
エリシアは大きく息を飲んだ。
「み、身ごもって? で、でも、まだおなか、全然大きくなってない――」
そこまで言って、エリシアはパッと立ちあがった。
「何をやっているんですかアレンさん!」
「え、え?」
「あなた、まだ、身ごもったばっかりなんですね? まだ、おなかの赤ちゃんは本当にちっちゃいんでしょう!?」
「え――あ、はい、そ、そう、です――」
「そんな人が」
エリシアは、つかつかとアレンに歩み寄り、もどかしげに手をとって、今まで自分が座っていた椅子に、半ば無理やり座らせた。
「ずっと立ちっぱなしでいたりしちゃだめです! いいですか、おなかがまだ大きくなっていない時の赤ちゃんは、本当にちっちゃくて、本当にかよわいんですよ!? そんな大事な時に無茶をして、赤ちゃんが流れでもしたらどうするつもりです!?」
「ご、ごめんなさい!」
クレアノンが狼狽して叫んだ。
「わ、私、ぜ、全然気がつかなくて! わ、私達、た、卵から生まれるから、そ、そういうことって考えたことなくて!」
「…………」
クレアノンの狼狽を見たエリシアは。
「……なるほど」
おかしそうにプッと吹きだした。
「どうやら、あなたは本当に竜みたいですね。人間や亜人だったら、今みたいなことをとっさの時に言ったりはしないでしょう」
「あら」
クレアノンはクスリと笑った。
「それじゃあ、疑いはとけたのかしら?」
「そうですね」
エリシアも、クスリと笑った。
「仮にあなたがほんとは竜じゃないとしても、どうもあなたは、普通の人には見えませんね」
「そう?」
クレアノンは、ちょっと肩をすくめた。
「エ、エリシアさん――」
アレンは茫然と、椅子の上からエリシアを見あげた。
「あ――ありがとう、ございます。わ――私、私、ひどいこと、したのに、なのに、優しくしてくれて――」
「――あなたがどんなひどいことをしたのか、それともしなかったのか、わたしはなんにも知りません」
エリシアは少しかがみこみ、優しくアレンに語りかけた。
「けれども、あなたのおなかにいる赤ちゃんは、どんなひどいことも、どんな悪いことも、なんにもしていないっていうことは、とてもはっきりとわかっています。なんにも悪いことをしていない赤ちゃんが、おなかの中で苦しい思いをしたりしたらかわいそうです。わたしも、娘を身ごもっている時、いろんな人に優しくしてもらいました。今度は、わたしが優しくする番です。ただそれだけのことですよ」
「――」
アレンの黒い瞳から、ポロポロと涙がこぼれ出した。
「――ありがとう、ございます」
ユミルの声も、また、涙の色をおびていた。
「ありがとうございます、エリシア様――!」
「や、やめてください、わ、わたし、あなたより年下なんですから、『様』なんてつけなくていいです」
エリシアは恥ずかしげに言った。
「――いいえ」
ユミルはかぶりをふった。
「正直に申し上げます。私はここに、取引をしに来たつもりでした。しかし――それは、もうやめにしました。――エリシア様」
「だから、わたしは――」
「およばずながら」
ユミルは床にひざまずき、エリシアに向かってうやうやしくこうべを垂れた。
「私の忠誠を、あなたに捧げます。私の妻に、私がこの世で最も愛する者にあなたが示してくれた情けに報いるために、この私、ユミル・イェントンの忠誠を、生涯あなたに捧げます、エリシア様」
「――その忠誠は、どうかザイーレンに」
エリシアは静かに微笑んだ。
「わたしは、自分では何も持っていない、ただのつまらない女です。わたしがあなたがたに優しくすることが出来るのは、私の夫が、ザイーレンが、血と汗と涙とを流して、わたし達の幸せを守ってくれているからです。だからわたしは優しくなれる。だから――あなたの忠誠は、どうかザイーレンに捧げて下さい。わたしは」
エリシアは、ユミルとアレンに向かってにっこりと微笑みかけた。
「あなたがたの赤ちゃんが、元気に生まれてきてくれれば、それで十分です」
「――ありがとう」
アレンの両目から流れる涙は、いっこうにとまろうとはしなかった。
「ありがとう――ありがとう。エリシアさん――ありがとう――」
「――不条理だわ」
クレアノンの声に珍しく、怒りの色がのぞいた。
「どうしてあなたみたいに素敵な人が、周りの人達から受け入れてもらえずに孤立したりしなくちゃいけないのかしら?」
「――しかた、ないんですよ」
エリシアは寂しげに微笑んだ。
「母が、母ですし――わたしも――わたしも、ザイーレンには若すぎるし、あの人になんにもしてあげることが出来ないし――」
「何を言っているの!?」
クレアノンは心底驚愕したように叫んだ。
「あなたがたのあいだでは、愛情というのはそれほどまでに価値のないものなの!?」
「いいえ」
ユミルは、ゆっくりと顔をあげた。
「いいえ――違います。クレアノンさん、あなたが正しい。これは――これは、不条理なことなんです。――クレアノンさん」
「何?」
「お願いしてもいいでしょうか?」
「なにかしら?」
「お願いします」
ユミルの琥珀色の瞳は。
「こんな馬鹿馬鹿しい不条理を、いつまでものさばらせておくわけにはいきません。この不条理を打ち砕くため、どうか力を貸して下さい」
怒りと決意に、爛々と燃え盛っていた。
「とーたん、とーたん!」
トテトテとかけよってくる愛娘の姿に、ザイーレンの顔は大きくほころぶ。
「ただいまレオニー。いい子にしてたかな?」
「レオニー、いいこ!」
胸を張って、レオノーラが答える。
「そうか。よしよし」
「とーたん!」
レオノーラが、父、ザイーレンを見あげて満面の笑みを浮かべる。
「ケーキ、おっきおっき、ねー!」
「え?」
ザイーレンはちょっときょとんとする。レオノーラは最近、すさまじい速さで言葉を覚えつつあるのだが、やはりそこはそれ、まだよちよち歩きの幼子だ。いくら懸命に伝えようとしても、言葉の拙さから伝えきれないことがよくある。
「ケーキ? ああ、おやつにケーキを食べたのかな?」
「ない!」
レオノーラはブンブンとかぶりをふる。「ない!」というのは、彼女の否定の意の表明である。
「ちがうのか。じゃあ――ああ、明日お母さんが大きなケーキをつくってくれるのかな?」
「ない、ない!」
レオノーラはもどかしげに首をふり。
「こえ! こーえ!」
えっちらおっちらと、小さなレオノーラには運ぶのがやっとの、大きな絵本を運んでくる。
「ああ――この本の中に、ケーキが出てくるのかな?」
「あいっ!」
ようやく自分の言いたいことが伝わったレオノーラが、満足げにうなずく。
「あの――ごめんなさいね」
ザイーレンの最愛の妻、エリシアが、幾分おどおどと言う。
「勝手に買っちゃって。今日、本の行商の人が来て、それであの、この絵本、レオニーがきっと喜ぶと思って――」
「どうして謝るんだエリシア」
ザイーレンは、エリシアのかたに手をおき、少し悲しげな顔をした。
「私は、それくらいのことも許さないほど、狭量な男に見えているのかな? レオニーがこんなに喜んでくれているんだ。君をほめたたえこそすれ、とがめたりなどするものか」
「――はい。変なこと言っちゃってごめんなさい」
「――いや。私のほうにも原因があるんだろう」
小さくため息をついたザイーレンは、再び大きな笑みを浮かべてレオノーラに向きなおった。
「お母さんに、そのご本を読んでもらったのかな?」
「あいっ」
レオノーラが大きくうなずく。
「かーたん、よんで!」
「私も聞かせてもらいたいな」
ザイーレンはエリシアに微笑みかけた。
「それじゃあ、読みますね」
エリシアも、ザイーレンに微笑み返した。
「この本、すごいんですよ。仕掛け絵本で――ほら!」
「ほう」
ザイーレンは感心した。その本は、いわゆる仕掛け絵本で、本をめくると、中の絵が立体的に飛び出してくるようにつくられている。
「昔々あるところに、一頭の竜がおりました――」
エリシアはゆっくりと語りはじめた。話そのものは、ごくわかりやすい、他愛もないものだ。昔々あるところに、一頭の竜がいた。心の優しい、穏やかな竜なのだが、ただ竜であるというそれだけのことで、森の動物達は怖がって近寄ろうとしない。寂しい日々を過ごしていたある時、あんまり一所懸命なぞなぞを考えすぎたネズミが、道を間違えて竜の目の前に迷い込んでしまう。はじめは逃げようとしたネズミだが、竜に、お茶とケーキをごちそうしてあげると言われておっかなびっくりお客さんになる。おもてなしを受けているうちに、ネズミは自分がいくら考えても答えのわからないなぞなぞのことを竜に話す。竜はそのなぞなぞをサラリと解いてしまう。すっかり感心したネズミと、お客さまを迎えて浮かれる竜は、次から次へとなぞなぞを出し合って楽しく遊ぶ。最後にはネズミは、たくさんおみやげをもらい、今度はもっと友達を連れてくると約束して家路につく――。
まあ、ごく他愛ない話だ。だが、丁寧に描きこまれた竜が立体的に飛び出してくるページは、ザイーレンでも感心するほどの迫力があり、竜がネズミにごちそうする、ネズミにとっては自分の家ほどもある巨大なケーキも、本からこぼれおちてしまうのではないかと思うくらい、目一杯こちらへ向かって飛び出して来て、まるで竜から巨大なケーキを出された時のネズミのような気分になることが出来た。
「ネズミしゃん、くるねー。りゅうしゃん、おいでおいでっていうねー。りゅうしゃん、ケーキくれるのねー」
エリシアの朗読にあわせ、レオノーラが得意げに、絵本のあちこちを指さして解説する。愛娘の成長ぶりに、ザイーレンの顔はほころびっぱなしだ。
「――こうしてネズミさんは、たくさんおみやげをもらって、自分のおうちに帰っていくのでした。次に来る時はきっと、たくさんのお友達を連れて来てくれることでしょう。めでたしめでたし」
「ネズミしゃん、ばいばいねー。りゅうしゃんも、ばいばいねー」
ちょっと名残惜しげにレオノーラが言う。
「――いい絵本じゃないか」
ザイーレンはにっこりと笑った。
「誰が持って来てくれたのかな?」
「あ――初めての人なんですよ」
「ほう」
ザイーレンはちょっと驚いた。ハイネリア四貴族筆頭、イェントンの屋敷に飛びこみで入ってくる行商人がいるとは、ある意味暴挙すれすれの、見あげた度胸というものだ。
「それはまた、なかなかの度胸だな」
「ディルス島からいらっしゃったんですって」
「ほう」
ザイーレンはなんとなく納得する。資源がないハイネリアが技術と貿易に力を入れているように、島国のディルスもその地理的条件から、海洋貿易が非常に盛んで、たくましい商人達が多いことで有名だ。
「あ、それでね、レン」
エリシアは、テーブルの上から一冊の本を取り上げた。
「その人、倉庫を持っていて、本当にいい本は倉庫に置いてあるんですって。あのね、それで、目録を持って来てくれたから、もし、あの、ええと、いい本があったら――」
「もちろんいくらでも買えばいいよ、エリシア」
「きっと、レンの気にいる本もあると思うんですけど」
「ほう? それほどの品ぞろえなのかな?」
「びっくりしますよ」
少しいたずらっぽくエリシアは笑う。受け取った目録をパラパラとめくって、ザイーレンは目を見張った。
「なに、シュディーノの『等価論』が全巻そろっている!? こちらは――じょ、冗談だろう!? 神聖ハイエルヴィンディア皇国開祖、エディオン王の養父、ミティエールの日記の原本!? いや、さすがにそれは本物じゃないだろう!!」
「行商人さんは、本物だって言ってますけど」
エリシアはクスクス笑った。
「それは」
ザイーレンは大きく息をついた。
「その行商人がとんでもないペテン師か、さもなくばその行商人自身がとんでもないペテン師にだまされているか、さもなくば――」
「さもなくば?」
「――その行商人が、とんでもない凄腕の、古書蒐集家か、だ」
「わたしには、どれが正しいのかわかりません」
エリシアはクスクス笑った。
「ねえ、レン、おひまが出来たら、でいいんです。その行商人さんが本をおいているって言う倉庫に、一緒に行っていただけますか? わたし、本は好きだけど、古書の真贋なんて、全然わからないんですもの」
「あ――ああ」
ザイーレンは、半ば呆然と、大きくうなずいた。
「そうだな、そうしたほうがいいだろう。この目録に載っている本の、半分だけでも本物なら、まことにもって、たいしたものだ」
「その倉庫には――本の好きな人が、たくさんやって来るんですって」
エリシアの瞳に、今までとは違う色が浮かんだ。
「だから、そこに行けば、本が好きな人達と、仲良くなれるかもしれないわ。レン、わたし――」
エリシアは、すがるような目でザイーレンを見あげた。
「お――お友達が、欲しいの――」
「エリシア――」
ザイーレンの胸は張り裂けそうになった。
妻が、エリシアが、その母親のせいで、その若さのせいで、ザイーレン以外の後ろ盾を何一つ持たないことのせいで、イェントンの一族の中で孤立してしまっていることは、ザイーレンとて痛いほど承知していた。
「そうだね――お友達が、出来るといいね――」
出来るだけ早く、その倉庫とやらに行く機会をつくろう。
ザイーレンは、固く決意した。
『竜の本屋さん
見るだけならただです
どなたでも歓迎いたします
どうかお気軽にお入りください』
「――これは」
ザイーレンは馬車の中で少しあきれた声をあげた。
「倉庫、というより、館、だな。よくまあ本を売るためだけに街の真ん中にこんなものをつくったものだ」
言いながらザイーレンは、かすかな不安を感じる。
仮にも、ハイネリア四貴族筆頭、イェントン家の当主たるこの自分が、ここにやってくるまで、こんな建物が街に出来たということをまるで知らなかった。
いったい――なんなんだ、これは?
「ねえ、おにいちゃん」
妻エリシア、娘のレオノーラとともに馬車からおりたザイーレンの耳に、幼い少女の声が飛びこんできた。
「これ、なんてかいてあるの? おにいちゃん、よんでちょうだい」
「――」
不意に。
その言葉が、ザイーレン自身思いもよらない事に、幼かりし日の記憶をよみがえらせた。
(これ、なんてかいてあるの? おにいちゃん、よんでちょうだい)
ああ――そうだ。
幼かりし日、何度も聞いたその言葉。
リロイの幼い妹、メリサンドラは、文字を見るたびに兄のリロイにそうせがんでいた。
これ、なんてかいてあるの? おにいちゃん、よんでちょうだい。
そうせがまれるたびにリロイは、生真面目な顔で、妹に文字を読み聞かせてやっていた。
「――」
ザイーレンの胸を痛みがよぎる。
ザイーレンは、わかっている。
憎むのも、嫌うのも、みんな自分がはじめたこと。リロイは――ソールディンの他の兄弟達はともかくとして、リロイだけは絶対に――自分に、ザイーレンに、悪意すら抱いたことがないであろうことを。
ザイーレンは知っている。
ザイーレンは――覚えている。
昔はリロイが好きだった。
それくらいは――覚えている。
そして。
他のことも、覚えている。
リロイは、奇妙な子供だった。
頭はとてもいいのに、『うそ』というものを、理解することが出来なかった。リロイは、他人の言ったことを、何でもかんでも全て真に受けた。
そのせいで、他の子供によくからかわれたり、いじめられたりしていた。リロイとて、ハイネリア四貴族の次席、ソールディン家の次期当主候補だったのだ。普通だったら、いじめられるどころか、逆に媚びへつらわれることのほうを心配したほうがよかったかもしれない。
――ただ。
リロイは――異質、だったのだ。
リロイはいつも、本当のことしか言わなかった。――いや。
リロイはいつも、本当のことしか『言うことが出来なかった』。
つまり。
他の子供にとっては、大人には知られたくない、自分達だけで大切に隠しておきたい秘密も、リロイにとっては、知っているからには、たずねられたら必ずこたえなければならない知識の一つでしかなかったのだ。
そう、そもそも。
リロイには、秘密という概念がなかったのだ。
だからリロイは、他の子供達によくこう責められた。
この、チクリ屋――と。
もちろん、リロイは自分がなぜ責められているのか、まったく理解することが出来なかった。
(だからさ、ロイちゃん)
ああ――なぜだろう。
ザイーレンの耳の奥に、幼かりし日の自分の声がよみがえる。
(知ってることや、思ったことを、全部口に出したりしちゃいけないんだよ)
(どうしてだ?)
ああ、そうだ。リロイはひどく、困惑した顔をしていた。
(だって、お父さんもお母さんも、いつも私に言っているぞ。親や大人に隠し事しちゃいけない、って)
そうだ、もちろんリロイは、両親や目上の大人に言われたことも、全て全て、残らず真に受けていたのだ。
(でも――みんな、秘密にしておきたいことや、言われたくないことだってあるんだよ)
(――レンちゃんは、どうしてそんなことがわかるんだ?)
あ。
――ああ。
あの時、幼いリロイの目には。
困惑とともに、自分にはどうしても理解することが出来ない難解きわまることを、たやすく理解してのけるザイーレンに対する混じりけのない尊敬の念があった。それはすでに、崇拝ですらあったのかもしれない。
(私には全然わからないのに。すごいな。レンちゃんは、ほんとにすごいな)
そうだ、あの目を、あの純粋な崇拝をたたえた瞳を、自分は何度も見たことがあるのだ。
リロイは、出来ることも出来ないことも、ひどく極端な子供だった。誰もが投げだした、複雑きわまりない寄木細工のからくり箱を、いともたやすく開けて見せるかと思えば、あきれてしまうくらいに単純な、ごく他愛もない言葉遊びのなぞなぞを、どうしても解くことができなかったりした。
そんななぞなぞの答えを教えてやるたびに、リロイは尊敬しきったまなざしで自分の事を見つめたのだ。
「――」
ザイーレンは、思い出す。
そして、思い知る。
エリシアと出会い、二人が共に恋におちるまで、自分にあんなまなざしを向けてくれたのは、ただリロイ一人だけだった。
リロイだけが、胸が痛くなるほど純粋に、自分の事を尊敬してくれた。
なぜ、こんなことを思い出すのか。
不意に。
ザイーレンの胸に、エリシアの言葉がよみがえる。
(レン、わたし――お――お友達が、欲しいの――)
エリシアが求めるものを、自分はかつて、持っていた。
自分には、友がいたのだ。
なぜ――リロイを憎むようになってしまったのか。
自分でも、ひどく矛盾していると思うのだが、ザイーレンは本当は『リロイ』を憎んでいるのではないのだ。
そうでは、ないのだ。
でも。
でも――。
「――レン?」
エリシアのいぶかしげな声に、ザイーレンはハッと我に返る。
「どうかしたの? なんだかボーっとしちゃって」
「――いや、なんでもない」
どうしてこんなことを思い出したのか。
ザイーレンは、自分で自分を不思議に思う。
そして。
ザイーレンは、ひそやかにため息をつく。
もう、失ってしまったものだ。今になって、どんなにそのことを悔やんでも、もう失ってしまったものなのだ。
――悔んでいるのか、私は。
ザイーレンは、わずかに驚く。
そうだ、もしかしたら。
悔んでいるからこそ、逆に執拗に憎み続けたのかもしれない。
自分が失ってしまったものの事を悔やみ続けるより、自分には手に届かないところにいるものを、憎み続けるほうが楽だったから。
だが、エリシアのあの言葉は。
ザイーレンの胸に、後悔を呼び覚ましてしまった。
(レン、わたし――お――お友達が、欲しいの――)
エリシアが、涙ぐむほどに求めているものを、自分はかつて、持っていた。
それなのに。
自分からそれを、手の届かないところに追いやってしまった。
ああ、そうだ。
それを悔やみ続けるのはあまりにつらいから。
だからきっと、自分はこれからも。
リロイとソールディン家とを、憎み続けていくのだろう。
「ここは――」
『竜の本屋さん』の中に招き入れられたザイーレンは絶句した。
そして、一瞬にして悟った。
ここは、倉庫ではない。いや、もしかしたらどこかほかの一角に、倉庫のようなものがあるのかもしれないが、少なくともこの部屋は、そんなものではありはしない。
「これは――これでいったい、ちゃんと採算は取れるのか?」
ザイーレンが思わずそうつぶやいたのもむべなるかな。
そこは――驚くほど広い、驚くほど快適な部屋だった。床一面に、ふかふかとした絨毯が敷かれ、そこに上がる時にはどうやら靴を脱がなくてはならないらしい。部屋の壁には一面に、背の低い本棚が並び、その本棚の上には、様々な絵本が開かれた状態で飾ってある。部屋に置かれたテーブルもまた、床に座ったまま使うことを想定された、ごく背の低いものだ。
そして。
そこには、たくさんの子供と、何人かの母親達がいた。子供も、母親も、様々な階層からやってきたのが一目で見てとれる。言ってはなんだが、みすぼらしいとさえいえる格好の者達も、ザイーレンも面識のある、ある名士の妻子達も、それぞれわけへだてなく、屈託なく床に座りこみ、それぞれ思い思いに絵本を読みふけったり、自分の子供や弟妹達に、小さな声で読み聞かせてやっていたりした。年齢もまた様々だ。赤ん坊から、孫を連れて来たらしいおばあさんまでいる。
「とーたん」
レオノーラが、真面目くさった顔で言った。
「あかたん、いるねー」
「ああ、そうだね」
ザイーレンはクスリと笑った。ザイーレンの目から見れば、レオノーラ自身もまだまだ『赤ちゃん』なのだが、そんなことを言っておねえさんぶりたい年頃のレオノーラの心を傷つけるほど、ザイーレンは無粋ではない。
「あかたん、かあいいねえ」
「そうだね。赤ちゃんは、かわいいね」
「いらっしゃい」
部屋の奥から現れた人影を見て、ザイーレンは、その部屋には、二つの出入り口がある事に気がついた。
「あら」
その人影――どっしりとした体格の黒髪の女性――は、エリシアを見てにっこりと笑った。
「ようこそおいで下さいました。あの絵本は、お嬢さんのお気に召したかしら?」
「ええ」
エリシアもまた、にっこりと笑った。
「レオノーラったらすっかり、『竜とネズミがお茶したら』がお気に入りになっちゃって。毎日一度は読んでくれってせがまれるんですよ」
「あら、それはうれしいわ」
黒髪の女性はにっこりと笑った。
「ここは、見るだけならただですけど、気に入ったものはお買い上げくださることも出来ますからね。どうかゆっくり見ていってくださいな。ええと――」
黒髪の女性は、小首を傾げてザイーレンを見た。
「そちらのかたは――」
「夫のザイーレンです」
ザイーレンは、黒髪の女性に軽く頭を下げた。姓を名乗る必要はない。一度屋敷を訪れたからには、その屋敷の主がどんな人物かは百も承知だろう。
「ようこそおいで下さいました」
黒髪の女性は優雅に一礼した。
「店主の、クレアノン・ソピアーです」
「――」
どこかで聞いたことのある名前だ。
一瞬考えこみ、ザイーレンは思いあたる。そういえば、ディルス島に、そんな名前の黒竜が住んでいると聞いたことがある。なるほど、その黒竜と同じ名前だから、この店――店なんだか倉庫なんだかそれ以外なんだか、ザイーレンにはいまだに判別がつかないのだが――に、『竜の本屋さん』などという名をつけたのか。
「――ここには、あの目録に乗っていた稀覯書はないようですね」
とりあえずザイーレンは、当たり障りのないことを口にした。
「ここは、絵本の部屋ですから」
クレアノンはにっこりと笑った。
「稀覯書は、別の場所に保管してあります」
「なるほど」
それはそうだろう。もしあの目録に乗っていたものが、本物ではない、よく出来た写本だったとしても、それでもそれを、こんな子供の手の届くようなところに置いておくなど、古書好きからすればそれこそ身の毛のよだつ所業だ。
「――ディルスからいらっしゃったんですか?」
再びザイーレンは、当たり障りのないことを口にする。
「ええ」
クレアノンはにっこりと笑った。
「この本も――ディルスから?」
「ええ、まあ、だいたいはそうですね。まあ、ディルス以外のいろんなところからも、チョコチョコと」
「――」
ザイーレンの胸中に、大きな疑問が膨れ上がる。
ディルスからこれだけの本を運んでくるとしたら、運送料だけでひと財産吹っ飛ぶだろう。しかも、ここにある本は、クレアノンの口ぶりからして『竜の本屋さん』にあるもののほんの一部でしかないらしい。
「――失礼な話ですが、運搬料がかなりかかったんじゃないですか?」
「いいえ、全然」
クレアノンはクスリと笑った。
「だって、全部自分で運びましたもの」
「…………」
ザイーレンの胸中の疑問がますます膨れ上がる。自分で運んだ、ということは、このクレアノンという女性は、自分の、もしくは自家用の、貿易用帆船を持っているとしか思えないのだが、いかにディルス島が海の向こうとはいえ、それほどの力を持つ貴族、または豪商の名が、ハイネリア四貴族筆頭、イェントン家当主たる、ザイーレンの耳に届いていないはずがないのだ。
「自分で――?」
「ええ、自分で」
クレアノンはにこにこと笑った。その屈託のない笑顔を見ても、ザイーレンの疑念は一向に晴れない。
これは、もしかしたら、容易ならざる相手なのではないだろうか。
ザイーレンはひそかに身構える。今のところ、クレアノンに害意は見受けられないが、どのような種類の力にせよ、かなり強力な力を持っているであろうことは明白だ。
「自分で――ですか。――なるほど」
「とーたん」
不意に、レオノーラがザイーレンのズボンをぐいぐいとひっぱった。
「レオニー、えほんみたい!」
「え? ああ、そうか。レオニーは、絵本が見たいのか」
ザイーレンはレオノーラを抱きあげ、愛娘をまっすぐ見つめてにっこりと微笑んだ。
「ええと――クレアノンさん、話の途中で申しわけありませんが――」
「かまいませんよ。レオノーラちゃんはご本が見たいのね」
クレアノンはレオノーラににっこりと微笑みかけた。
「どうぞ、たくさん見ていってちょうだい」
「あいがとー」
レオノーラがにこにことクレアノンにお礼を言う。
「どうぞ、よかったら見ていってください」
クレアノンは、その顔に微笑みを残したままザイーレンに言った。
「そうそう、これから、紙芝居をやるんですよ。ご覧になっていかれませんか?」
「紙芝居――」
そんなものは、子供のころに見たきりだ。
正直ザイーレンは、子供の紙芝居に特に興味があったわけではないのだが。
まあ、せっかく勧めてくれるのを断るのも角が立つだろう。
「それでは、せっかくですので」
「ありがとうございます」
クレアノンは大きく笑った。部屋の奥の出入り口から、ほっそりと小柄な、黒髪の少女が出てきて、いそいそと紙芝居の準備をはじめる。
「どうか楽しんでいってください」
クレアノンはまっすぐにザイーレンを見つめた。
「――ええ」
ザイーレンは、思わず目をしばたたいた。
きっと目の錯覚だろう。だが――。
だが、一瞬。
クレアノンの茶色の瞳が、銀色に鋭く光ったのが見えた、ような気がした。
「――『小さな男の子のお話』」
クレアノンはゆったりとした声で、紙芝居を読みはじめた。
「あるところに、小さな男の子がおりました。
その男の子は、少しだけ、みんなと違っていました。
どう違っていたかって?
たとえば、その男の子は、新しい服を着るのが嫌いでした?
どうして? 新しい服ってとっても綺麗で、着ていて気持ちがいいでしょう?
でも。
その男の子の肌は、とっても敏感でした。他の人なら平気なことも、その男の子にはつらかったのです。
男の子は、新しい、パリパリの服を着ると、服と肌がこすれて痛くなってしまうので、新しい服を着るのが嫌いでした」
――カシャリ。
ザイーレンの記憶の歯車が回る。
(ロイちゃんは、どうして新しい服が嫌いなの? 新しい服って、きれいじゃない。きれいでいいじゃない。きれいな服を着るのが嫌いなの?)
(ううん、きれいな服は好きだよ。でも、新しい服って、とっても固いんだ。着ていると、体が痛くなっちゃうんだ。だからぼく、新しい服を着るのはいやなんだ)
(ふうん、そうなんだ。だからロイちゃんは、新しい服を着るのが嫌いなんだね)
「たとえば、その男の子は、大きな音や、大きな声が嫌いでした」
クレアノンの声に、ザイーレンはハッと我にかえる。
「その男の子の耳も、やっぱりとっても敏感だったのです。他の人の耳より、ずっとずっと、音が大きく聞こえてしまう耳だったのです。だから、他の人には何でもない音でも、その男の子には、とてもとても怖い、大きな大きな音だったのです」
カシャリ。
また、歯車が回る。
(ロイちゃん、あんなふうに、『うるさい!』って言ったりしちゃだめだよ。みんなびっくりしちゃうよ。ねえ、みんな、そんな大きな声でしゃべってなかったよ?)
(レンちゃんは――大きな声には聞こえなかったの?)
(うん――ちょっとは、大きな声だったけど、ロイちゃんがあんなに怒るほど、大きな声じゃなかったよ)
(ぼくには――とっても大きな声に聞こえたんだ。大きな声が――怖かったんだ。でも、レンちゃんは平気だったの?)
(うん。きっと、ロイちゃんは、すっごく耳がいいんだね。だから、すごく大きな声に聞こえちゃったんだね。ねえ、あっちで遊ぼうよ。あっちは静かだよ。うるさくないよ。あっちで一緒に遊ぼうよ)
「――みんな、その男の子の事を、わがままだって言いました。
だって、せっかくお母さんが用意してくれた服を、いやだいやだってだだをこねて着ないんですもの。
本当は、着ると体が痛くなるから着たくなかっただけなのに。わがままだって言いました。
お母さんがせっかく用意してくれた服がいやなの? わがままな子ね、って言いました。
そうじゃないのに。体が痛くなるのがいやなだけだったのに。
でも、男の子は、そのことをうまく説明することができませんでした。
だからみんなに、わがままだって言われました」
「――」
ザイーレンの瞳に、恐怖に似た色が浮かぶ。
これは――この話は――。
「みんな、その男の子の事を、わがままだって言いました。
だって、みんながせっかく楽しくおしゃべりしているのに、『うるさい!』って怒るんですもの。
みんなが楽しくしているのがいやなの? わがままな子ね、って言いました。
そうじゃないのに。その男の子は、大きな音が、大きな声が、とってもとっても、怖かっただけなのに。
でも、男の子は、そのことをうまく説明することができませんでした。
だからみんなに、わがままだって言われました」
これは――。
リロイの話ではないのか!?
ザイーレンの心に、恐怖にとてもよく似たものがあふれる。
このクレアノンという女性は――なんなんだ、いったい!?
「――その男の子は、きれいな石を集めていました」
カシャリ。
また、歯車が回る。
(ほら、レンちゃん、これ、ぼくの宝物。きれいな石)
(――『きれいな』石?)
(うん。どの石も、とってもきれいでしょう?)
(ロイちゃんは――こういう石が、きれいに見えるの?)
(ん? だって、きれいでしょう? ねえ、さわってみて。――ね? きれいでしょう?)
(そっか――ロイちゃんは、こういう石が、『きれいな』石だと思うんだね)
(うん、そう)
(んっと――ちょっと待っててね。今ぼく、ロイちゃんが好きな『きれいな』石を探して来てあげるから)
(ほんと!? ありがとう、レンちゃん!)
「男の子がきれいな石を集めていると知ったみんなは、いろんなきれいな石を、男の子のところに持って行ってあげました」
(ほら、ロイちゃん、これ、ロイちゃんが好きな『きれいな』石でしょう?)
(うん! レンちゃん、ありがとう!)
「でも、男の子は言いました。『ちがうよ。これはみんな、ぼくの好きなきれいな石じゃないよ』って。
せっかくきれいな石を持って行ってあげたのに、そんなことを言うのです」
(レンちゃんだけだ。ぼくの好きなきれいな石持って来てくれたの。みんな、きれいな石をあげるよ、ってぼくに石をくれるんだけど、それ、ぼくの好きなきれいな石とはちがうんだ)
(ねえ、ロイちゃん――)
「だからみんな、男の子の事をわがままだって言いました」
「――違うよ」
ザイーレンの記憶が唇を割った。
紙芝居の中には、べそをかく小さな男の子がいた。
その、黒い巻き毛も、茶色の瞳も、リロイとは似ても似つかないのに。
途方に暮れて泣きじゃくるその表情は、まぎれもなく、幼かりし日のリロイがよく浮かべていた表情だった。
「ねえ、ロイちゃん、ロイちゃんは、言葉の使いかたが、みんなと少しちがってるんだよ。ロイちゃんが、こういう石のことを、『きれいな』石だって思ってるのはわかるけど、そういう言いかたじゃ、みんなにはわからないよ」
「――だったら」
部屋の奥から現れた人影を見ても、ザイーレンは驚かなかった。
心のどこかで、とっくに予想していた。
そして。
自分でも意外な事に。
嫌悪も、憎悪も、怒りも、胸の中には浮かんでこなかった。
かわりにわきあがったのは。
とてつもない――懐かしさだった。
だって、その人影は。
リロイは。
幼かりし日に何度も見た、そしてそのたび、何度も一所懸命慰めてやった、途方に暮れた泣きべそ顔で、自分の事を見つめていたから。
「だったら――どう言えばいいの? 私には、わからないんだ。ねえ――レンちゃん、教えてくれる?」
「あのね」
幼かりし日と同じ言葉が、ザイーレンの口をついて出る。
「ロイちゃんが好きなのはね、『きれいな』石じゃなくて――うん、もちろん、ロイちゃんがこういう石をきれいだと思ってるのはわかるんだけど――ロイちゃんが好きなのはね、『ツルツルして、スベスベして、さわり心地のいい石』なんだよ。ロイちゃんは、自分の好きなものが、みんなきれいに見えるんだね。でもね、他のみんなは、そういう言いかたじゃわからないんだよ。だから、言いかたを変えるだけでいいんだよ。言いかたを変えれば、きっとみんな、ロイちゃんがどんな石が欲しいのかわかってくれるよ」
「――でも、レンちゃんは、私が上手に言えないのに、私が言いたいことわかってくれた」
そう――『私』という一人称は、大人になったリロイのものだ。
だが、リロイの瞳の中には、あの日と同じ幼子がいた。
「レンちゃん、いつもありがとう。レンちゃんがいろいろ教えてくれるから、レンちゃんが、私の言いたいことわかってくれるから、私はとってもうれしいんだ。レンちゃんがお友達でいてくれて、私はとってもうれしいんだ」
リロイが、にぎりしめた拳を突き出し。
そして――ゆっくりと、開いた。
「な――なんで――」
ザイーレンは絶句した。
「リ、リロイ――お、おまえ、なんで――なんで、なんでそんなもの持ってるんだ――? だ、だってもう、何十年も前の事なのに――!?」
「――だって、うれしかったんだ」
リロイの瞳から、涙が一筋流れた。
「レンちゃんが私の言いたいことわかってくれて、私はほんとに、ほんとにうれしかったんだ」
リロイの手のひらの上には。
幼かりし日のザイーレンが、リロイのために探して来てやった、ツルツルして、スベスベして、このうえなく、さわり心地のいい小石が、静かにちんまりと乗っかっていた。
一瞬の静寂を破ったのは。
「とーたん、なかない!」
レオノーラの、懸命な声だった。
「とーたん、なかない、なかない! とーたん、なくのだめ。とーたんなくと、レオニーもなくの。とーたん、なかない、なかない! とーたん、なくのだめ。とーたん、なくのだめよう!」
「ああ、レオニー」
ザイーレンは、泣き笑いの表情でレオノーラを抱きあげた。
「違うんだよ。父さんはね、悲しくて泣いているんじゃないんだよ」
「とーたん、なかない」
レオノーラは、小さな両手をザイーレンの顔にのばした。
「とーたん、にこして? ね?」
「――」
ザイーレンはにっこりと笑った。レオノーラの小さな手が、ザイーレンの唇を、笑いの形にしようと懸命にひっぱっていた。
「――かわいい娘さんだな」
静かな声で、リロイが言った。
「――ありがとう」
ザイーレンもまた、静かにこたえた。
「――さて」
エリシアの手にレオノーラを渡したザイーレンは、クレアノンをじっと見つめた。
「あなたはいったい、誰なんだ? いったいなんのためにこんなことをする?」
「あら?」
クレアノンはにっこりと笑った。
「もう、名乗ったわよ。私はクレアノン。ああ、でも、『ソピアー』っていう姓は、私が自分で勝手につけたんだけど」
「――」
ザイーレンは一瞬眉をひそめ。
ついで、大きく両目を見開いた。
姓を持たぬ種族。
姓を名乗る習慣を持たぬ種族。
その、典型は――。
「あ――あなたは、まさか――ほ、本当に竜なのか!? ほ、本当に、ディルス島の黒竜、クレアノンだというのか――!?」
「最初から、そう名乗っているじゃない」
クレアノンは、クスクスといたずらっぽく笑った。
「私は竜の、クレアノン。黒竜のクレアノン」
「――」
ザイーレンは絶句した。
そして、エリシアを見つめた。
「――驚いていないな」
ザイーレンは小さく笑った。
「エリシア、君は知っていたんだな?」
「ごめんなさい、だますような真似をして」
エリシアは、ほんの少しだけ心配そうな顔でザイーレンを見つめた。
「でも――みんな、ほんとのことなの。ザイーレンさん、みんな、ほんとのことなの。わたしがお友達が欲しいっていうのも、クレアノンさんがこの場所で、本屋をはじめようとしていることも、みんなみんな、ほんとのことなの。それに――それに――」
「私はずっと、レンちゃん――ザイーレンさんと、仲直りがしたかった」
リロイは、まっすぐにザイーレンを見つめた。
「私、人とつきあうのがうまくないから、レンちゃ――ザイーレンさんの事、怒らせちゃって、でも、どうやって謝っていいのかわからなくて、それで――それで――」
「――レンちゃんでいいよ」
ザイーレンは、かすかに笑った。
「――ごめんね、ロイちゃん。ロイちゃんが、どうやって謝っていいか、わかるわけがないんだよ。だって私は、ロイちゃんはなんにも悪くないのに、勝手に怒ってたんだから。だから――だからロイちゃんが、どうやって謝ればいいのか、わかるはずがないんだよ」
「でも――ごめんね」
リロイは、子供の時のままの口調で、ザイーレンに深々と頭を下げた。
「ほんとは、私、レンちゃんとずっと仲良くしたかった。でも、レンちゃんが、私のこといやだって、くっついてくるなって、あっちいけって言ったから――」
「あ――」
ザイーレンは絶句する。
そして、思い出す。
子供のころ――リロイと大きく差をつけられたと、いつもいつも比べられて、いつもいつも自分が嘲られると、誰とも知らぬ何者かに、ひどく腹を立てていたあの頃。
無邪気なだけの子供ではいられず、分別のある大人にもなれなかったあの頃。
(ねえ、レンちゃん――)
(――うるさいんだよ)
(え?)
(うっとうしいんだよ! なんでいつもいつも、ぼくのあとをずっとくっついてくるんだよ! ロイが一緒にいると――ロイがずっとくっついてくると――ぼくまで変なやつだって思われるじゃないか!!)
「あ――」
衝撃とともに、ザイーレンは思いだす。
自分がどんなに、ひどいことを言ってしまったのか。
(あっちいけよ!)
そう、そして――。
(あっちいけ! もうくっついてくるな! もううんざりだよ、ぼくがいるのに、ぼくだっていつも、ロイと一緒にいるのに、いつもいつもみんながロイの話ばっかりするのはもううんざりだよ!)
そして、リロイは――。
(あっちいけよ! もうぼくに近づくな! ロイなんて大ッ嫌いだ!!)
リロイは、人から言われたことをすべて、丸ごと真に受けてしまう子供だった――。
「だ――だか、だから? だからロイちゃん、私に近づかないようになったのか――!?」
ザイーレンのほうからすれば、それは子供のかんしゃくだったのだ。言った当人が、二、三日もすれば忘れてしまうようなことだったのだ。現にザイーレンは、その時の言葉は辛うじて思い出す事が出来たが、いったい自分がなんでそんなにリロイに腹を立てていたのか、すでに思い出す事が出来ない。
「――」
リロイの目は、怒りを浮かべてはいなかった。ザイーレンをとがめてもいなかった。リロイの目にあるのは、ただひたすら、悲しみと、そして――。
「レンちゃん――もう、怒ってない?」
そしてひたすら、ザイーレンの許しだけを求めていた。
「――怒ってないよ」
ザイーレンは呆然と言った。
「そんな――そうだったのか――わ、私は――私は、ロイちゃんのほうこそ、怒ってるんだと思って――で、でも、ロイちゃんはいっつも、平気な顔してたから、ロイちゃんは、もう、私のことなんてどうでもいいんだと思って――」
「『リロイ、おまえももう、子供じゃないんだ。もう、子供だからって、許してもらえる歳じゃないんだ』」
「え――?」
「『おまえは、自分の感情をあんまりあからさまに表に出しすぎる。いいか、そんなことが許されるのは、子供のうちだけだぞ。もうこれからは、そんなことは通用しないぞ』」
「――」
ザイーレンは悟った。
リロイは、そのずば抜けた記憶力で、少年の日にいわれた言いつけを、一字一句、残らず記憶していたのだ。
「『いいかリロイ、これからは、家族以外の人の前で、自分の感情を表に出すな。おまえは、それくらいでちょうどいいんだ』」
「――」
ああ、そうだ、もちろんリロイは。
「――と、父に言われた。その言いつけを、出来るだけ守るように努力してきた。私は、そういうことがうまくないから、いつも上手にできるわけじゃないけど」
その父の言いつけも、丸ごとすっかり、真に受けてしまったのだ。
「――ロイちゃん」
ザイーレンの目から、静かに涙が流れた。
「ロイちゃんは、ずっと――ずっと、我慢してたのか――」
「――とーたん」
エリシアに抱かれたレオノーラが、不安げに手足をパタパタさせた。
「ないちゃだめ。ないちゃ、だめよう! とーたんなくと、レオニーもなくのよう!」
「――ごめんね、レオニー」
ザイーレンは、そっとレオノーラの頭をなでた。
「――ロイちゃん」
ザイーレンは、瞳に涙を残したままリロイを見つめた。
「ごめん――ごめんね。ほんとに――ほんとに、ごめんね。ねえ、ロイちゃん――」
その瞬間。
ザイーレンの昔を知らぬ者達の目にさえ。
「また――また、私と仲良くしてくれる? 私のこと――許して、くれる――?」
少年の日の、ザイーレンの姿が見えた。
「――私は怒ってないよ」
リロイは。
にっこりと笑った。
「レンちゃんがまた、私と仲良くしてくれるなら、私はとても――とっても、うれしいよ」
そして。
リロイのその笑みは。
少年の日に忘れてきた、友とわかちあう笑みだった。
「――大人気だな」
ザイーレンはクスリと笑った。
「そうだな」
リロイは生真面目な顔でそう答えた。
大の大人二人が、そろって泣き出してしまう――という珍事に遭遇した、絵本の部屋にいた子供達は、二人が泣いていたあいだこそびっくりして口をつぐんでいたものの、二人が泣きやむが早いか、ワッとクレアノンに群がり、中断していた紙芝居の続きをせがみはじめたのだ。
そして、今。
クレアノンは、紙芝居を読んでいる。無事めでたしめでたしになった『小さな男の子のお話』を読んだだけでは、子供達は到底満足できないらしい。クレアノンは、後いくつか紙芝居を読み終わるまで、子供たちに解放してもらえそうになかった。
もちろん、クレアノンの紙芝居に聞き入る子供達の中には、ザイーレンの幼い愛娘、レオノーラの姿もある。
「あの人は――人と言っていいのかどうかよくわからんのだが――クレアノンさんは、本当に竜なのか?」
「そうだ」
ザイーレンの問いに、リロイは短く答える。
「――昔からリロイは、嘘をつくことが出来なかったものな」
ザイーレンは小さく笑う。嘘を『つかない』ではなく、嘘を『つくことが出来ない』と表現するあたり、ザイーレンもまた、リロイのことをとてもよく理解する者の一人なのだ。
「クレアノンさんは――いったい何が目的なんだ?」
「『今現在白竜のガーラートが占有している旧神聖ハイエルヴィンディア皇国領を、全部とはいえないまでも、一部はガーラートから取り戻してみせる。その、ガーラートから取り戻した国土への再移住をはかることによって、今現在ハイネリアとファーティスとの間で続けられている、領土争いを終結へと導けないだろうか』――と、クレアノンさんは主張している」
「…………」
今日何度目になるのだろう。ザイーレンは絶句した。
「ガーラート、というのは、神聖ハイエルヴィンディア皇国を滅ぼした、かの暴虐の白竜のことだ」
と、リロイが律義に解説する。
「……彼女の目的はいったい何だ? だって――彼女は、竜なんだろう? 同じ仲間の竜と、敵対するようなことをして、いったい彼女にどんな得があるんだ?」
「――私達と、友達になりたいんだそうだ」
簡潔に、要点だけを、リロイは述べる。
「…………」
ザイーレンは、ポカンと口を開けた。
「わ――私達と、友達になりたい!?」
「と、クレアノンさんは主張している」
「…………」
ザイーレンは、あっけにとられた表情のままクレアノンを見やった。
様々な声色を使いわけながら、楽しそうに紙芝居を読んでいるクレアノンは、どこにでもいる子供好きのおばさんのようにしか見えない。
「――どうして、私達と友達になりたいんだ?」
「――楽しいから、だそうだ」
少し考え、リロイはそう答える。
「楽しいから?」
ザイーレンは軽く眉をひそめる。
「いったい何が楽しいんだ? 私達人間なんて、竜族からしてみれば、ちっぽけで非力で寿命も短い、どうでもいい生き物にすぎないんじゃないのか?」
「クレアノンさんは、そうは思っていないようだ」
リロイの空色の瞳が、クレアノンを見つめた。
「――これは私の推測だが」
相変わらず生真面目な顔で、リロイは言う。
「クレアノンさんは――寂しかったんじゃないのか、ずっと」
「…………」
ザイーレンは、虚をつかれたようにリロイを見つめた。
そして、悟った。
ああ、自分は――。
「ああ――私が、ロイちゃんと仲良く出来なかったあいだ、ずっとずっと、寂しかったみたいにか――」
「――私も、寂しかった」
リロイの瞳が、チラリと揺れた。
「一緒に楽しいことをする友達がいないと――楽しいことをしていても、どこかが少し、寂しいままなんだ」
「――そうだな」
ザイーレンは、静かにうなずいた。
「――リロイは、あの人は信用出来ると思うのか?」
「出来ると思う。私が判断する限り、あの人の今までの主張や発言に、嘘や矛盾は見つけられない」
「――まったく、とんでもないことを考えつくな、竜という種族は」
ザイーレンは小さく苦笑した。
「今日私とリロイとを仲直りさせたのも、彼女の考える遠大な計画の中の一手なのか?」
「――私が頼んだ」
「え?」
「私が頼んだ」
リロイは、まっすぐにザイーレンを見つめた。
「クレアノンさんは言った。領土争いをやめさせるために、ハイネリアのみんなに協力して欲しい、と。『みんな』の中には、もちろんザイーレンも入る。でも、ザイーレンは、私に近づきたくないから、私と一緒に何かするのは、いやなんじゃないか、と、私は思った」
「リロイ――」
「イェントンとソールディンは、ハイネリア四貴族の筆頭と次席だ。クレアノンさんのやろうとしていることは、間違いなく、国をあげての大事業だ。いくらハイネリアが様々な勢力に権力を分散させることに努めてきた国家だとはいえ、クレアノンさんの要求にこたえるためには、四貴族が、イェントンとソールディンが、心を一つにすることがどうしても必要だろう」
「――」
ザイーレンは軽く唇を噛む。そう――今現在ファーティスとの間で続けられている領土争いは、一種険悪な小康状態とでもいうべきものがずっと続いている。お互い相手に譲る気はないが、だからといって、総力戦に持ち込もうという気もない。国境付近の険悪な小競り合いが、それこそ何十年も延々と続いている。
だが。
クレアノンの主張のとおり動くとしたら。
動くのは、ハイネリアだけではない。
ファーティスの了解――少なくとも、ある種の停戦協定――をとりつけなければ、領土回復に力を割いたその隙に、あっという間にハイネリアはファーティスに国土をもぎ取られるだろう。最悪、再び祖国を失う羽目になりかねない。
そう、クレアノンに協力するためには。
まずは国を一つにする必要がある。
「――私は、レンちゃんがつらいのはいやだ」
リロイは、ひどく素直な声でそう言った。
「だから、クレアノンさんに頼んだんだ。レンちゃん――ザイーレンさんと仲直りしたいんだけど、私はそういうことが上手じゃないから、いい方法を知っているのなら教えて欲しい、と。――私は自分で自分のことを馬鹿だと思う」
「え?」
「私は、自分のことを馬鹿だと思う」
誇張でも自嘲でもなく、リロイは本当にそう思っているようだった。
「私はそういうことが――人とつきあうことがうまくないんだから、もっと早くに、誰かに相談していればよかったんだ。もっと早くに、誰かに、たすけて欲しいって言えばよかったんだ。でも、私は、そんなことを思いつかなかったんだ」
「――そうだな」
ザイーレンの瞳が、わずかにうるんだ。
「私のほうこそ、変な意地を張っていないで、もっと早くに、ちゃんと話しあっていればよかったんだ。リロイより、私のほうがそういうことは得意なんだから、私のほうから、仲直りしよう、って、言っていればよかったんだな」
「でも、もう、仲直りできた」
リロイは、ザイーレンに向かって微笑みかけた。
「だからこれから、また仲良くすればいい」
「そうだな」
ザイーレンも微笑んだ。
「正直彼女の――クレアノンさんの主張を受け入れ、彼女に協力するかどうかは、到底私一人で決められることではない。国や他の四貴族より先に、私は一族を納得させる必要がある」
「どちらの方向に納得させる必要があるんだ?」
「――」
ザイーレンは小さく笑った。以前は皮肉に聞こえていたこんな言葉も、今はもう、その意味をきちんと理解することが出来る。
リロイは、言われたことを言われた通りにしか受け取ることが出来ない。微妙な空気や、文脈といったものを読むのが極端に苦手なのだ。
「――誰かのことを、ずっと憎み続けるのは、つらい。自分の心が灰になる。そして凍りついていく。なのに焼き焦がされていく。あんな思いは――もう、したくない」
ザイーレンの瞳は、憎しみにとらわれていた過去を見つめていた。
「誰かにそんな思いをさせたくもない。憎みあわずにすむのなら――そうしたほうがいいに決まっている」
「つまりザイーレンはどうしたいんだ?」
「つまり」
ザイーレンは、不敵な笑みを浮かべた。
「彼女の主張を受け入れてみよう、ということだ」
「ああ、楽しかったわ!」
クレアノンは本当に楽しそうに、顔を上気させ、にこにこと笑いながらザイーレンとリロイが茶を饗されている部屋に現われた。
「あんなに熱心に話を聴いてもらえると、本当にやりがいがあるわ!」
「……いや、驚きました」
ザイーレンは、いささか呆然とした顔で言った。
「あら」
クレアノンはクスリと笑った。
「いったい何に驚いたのかしら?」
「それはもう、いろいろなことに」
ザイーレンは苦笑した。
「あなたが竜だということに驚いたのはもちろんですが、他にも――」
「他にも?」
「先ほどお茶を持ってきて下さったハルディアナさん」
「ハルディアナさん?」
クレアノンは小首を傾げた。
「ハルディアナさんが、何か驚くようなことをしたかしら?」
「した、というか――」
ザイーレンは、再び苦笑した。
「私、身重のエルフなんて初めて見ましたよ」
「ああ」
クレアノンは目をしばたたいた。
「そうね、エルフは、子供が生まれにくいから、子供や妊婦を、本当に大切にするものね。エルフって元々、自分達の里の外にあんまり出てこない種族だけど、特に子供や妊婦は、絶対というほど里の外には出さないものね」
「と、いうことは」
ザイーレンの目がチラリと光る。
「あの、ハルディアナさんというかたは、普通のエルフではない、ということですね」
「そうね。少し、変わり者かもね」
クレアノンはあっさりと答えた。
「私、変わり者とつきあうのが好きなの」
「おや、それではどうやら私は、あなたのお気に召す事は出来ないようですね」
ザイーレンは小さく笑った。
「何しろ、『二流ぞろいのイェントン』の、典型のような人間ですから」
「でも、あなたはエリシアさんと結婚したわ」
クレアノンはじっとザイーレンを見つめた。
「一族のみんなと、それ以外のいろいろな人達から反対された、って、私は聞いているわ。それでもあなたは、エリシアさんと結婚した」
クレアノンはクスリと笑った。
「それは『普通』のことではないでしょう?」
「――それだけですよ。私にあるのは、それだけです」
「でも、『ある』んでしょう?」
クレアノンの瞳が、銀の輝きを宿す。
「どこにも、何も、普通でないところ、変わったところがない人なんて――人間だって、エルフだって、ドワーフだって、ホビットだって、淫魔だって、悪魔だって、他のいろんな種族だって、そしてもちろん、竜だって――どこにも一人も、いるはずないのよ」
「――」
ザイーレンは、クレアノンの言葉をどう受け取ればいいのかよくわからなかった。
ただ。
不思議と、いやな感じはしなかった。
「だから私は、今、とても楽しいわ」
クレアノンはにっこりと笑った。
「どんな人を見ても、どんな種族を見ても、そのたびに新しい発見があるわ。私は今まで、本を読んで、それで全部わかったつもりでいたわ。でも――全然違ってたのね。本を読むのと、自分で体験するのとは、全然違うことなのね。私、そんな簡単なことも、今までちゃんとわかってなかったわ」
「――」
ザイーレンは、ふと、くすぐったいような気分になった。
クレアノンの外見は、すでにそれなりの年齢に達している、どっしりとした女性だ。おばさん、と表現することも出来るだろう。そしてもちろん、竜であるクレアノンは、人間であるザイーレンよりはるかに長く、竜としての生を重ねてきたのだろう。
だが、今。
クレアノンの瞳には、少女のような輝きがあった。
その輝きは、ザイーレンの妻、エリシアの瞳に浮かぶ輝きと、どこか似通っていた。
「リロイは、あなたが私達と友達になりたがっていると言いました」
ザイーレンは静かに告げた。ザイーレンとクレアノンの会話を無言で見守っているリロイも、小さくうなずく。
「ええ」
クレアノンはにこりと笑った。
「あなた達と友達になれたら、本当にうれしいわ」
「――こう申し上げることが、失礼にあたらなければいいんですが」
ザイーレンはクスリと笑った。
「あなたは変わった竜ですね」
「なんだかみんなにそう言われてるような気がするわ」
クレアノンは苦笑した。
「そうねえ、自分ではよくわからないんだけど、みんながそろってそう言うんだから、私は変わった竜なのかもね」
「――あなたの考えていらっしゃることを、リロイから聞きました」
ザイーレンが真顔になる。
「そう」
クレアノンもまた、真剣な顔でザイーレンを見つめる。
「それで――あなたの意見をうかがってもいいかしら?」
「――私個人としては、あなたの主張を受け入れてもいいと思っています」
ザイーレンはまっすぐにクレアノンを見つめた。
「別に私達は、ファーティスに恨みがあって戦っているわけではないんです。戦わずにすむ方法があるのなら、その方法を選んでみたい」
「――あなた個人としては、賛成なのね」
クレアノンはうなずいた。
「では――ハイネリア四貴族筆頭、イェントン家の当主としては?」
「――」
ザイーレンは、しばし視線をさまよわせた。
「――一族の中には、そもそもあなたの――竜の言うことなど信じられない、という者達も多くいるでしょう。かの暴虐の白竜――ガーラートという名だそうですが――かの白竜に対する恐怖は、いまだ私達、ハイネリアの人間の心に根深く残っています。その恐怖が、竜族一般に対する、恐怖と不信につながっている。それに――」
「それに?」
「こう言ってはなんですが、あなたがた竜族と、私達人間との力の差が大きすぎるんです」
ザイーレンはきっぱりと言った。
「無礼を承知で申し上げますが、あなたがた竜族にとっては戯れにすぎないことも、私達人間には生死をかけた大問題になってしまう、ということも、よく――本当によく、あるのです」
「――ガーラートがあなたがたのご先祖さま達にした仕打ちも、その一つでしょうね。もちろんガーラートは、自分がやったことを、戯れだなんて思っていないでしょうけど。あいつはほんとに、よくも悪くも、自分の目的以外何一つ目に入らないのよ」
「――一つ、うかがいたい」
ザイーレンは、厳しい目つきでクレアノンを見つめた。
「あなたが私達を見捨てないという保証がどこにあります?」
「――」
クレアノンは、少し考えこんだ。
「――万の言葉を費やしても、信じてもらうことは出来ないでしょうね」
クレアノンは、小さくため息をついた。
「だから私は、あなた達とともに生きることで、私の誠意を示すわ。ねえ――私達、竜族の寿命は、とても――とても、長いのよ。私は――あせらないわ。私には、たくさんの時間が与えられているの。あなたがたの信頼を得るために百年が必要だというのなら、私は喜んで百年の時を費やすわ」
「――」
ザイーレンは絶句した。ザイーレンは人間だ。竜族との時間の感覚の違いに、ザイーレンは、いささか打ちのめされた思いだった。
「――あなたは、そんな覚悟までしていたんですか」
「私にあるのは、時間と、知識と、竜としての力だけだもの」
クレアノンの瞳が、ふと、遠くを見やる。
「あなたがたが私を信用できない、っていうのは、ある意味当然よ。だって私は、今まであなたがたに信用してもらえるような、何かをしてきたわけではないのだもの。――だから」
クレアノンはきっぱりと言った。
「私は、あせらない。あなたがたの信頼を得るために、いくらでも時間と、そして、私の心を捧げるわ。――あなたがたが、私という存在を、受け入れてくれればの話だけど」
「私達人間が、竜を拒むことなど出来るとお思いですか?」
ザイーレンは、わずかに皮肉っぽく言った。
「――出来るわ」
クレアノンの声に、わずかに悲しみがにじんだ。
「私がいくら強力な力を持っていたって、憎まれれば、嫌われれば、怖がられれば、拒まれれば――私の心は、やっぱり痛むわ」
「――失礼な事を申し上げました」
ザイーレンは深々と頭を下げた。
「どうかお許し願いたい」
「失礼とは思わないわ。あなたの言うこともわかるもの」
クレアノンはかすかに笑った。
「――さて、それでは」
ザイーレンは、小さく肩をすくめた。
「とりあえず私は、一族のみなを納得させなければならないようですね」
「――当主様がそのおつもりなら」
部屋に入ってきた人影を見て、ザイーレンは目を見張った。
「どうか私の力をお使い下さい」
「――立ち聞きとは、よくない趣味だな、ユミル」
「これは失礼」
人影は――ユミルは不敵に笑った。
「しかし私もいささか、なりふりかまってはいられない状況にありまして」
「なるほど」
ザイーレンの唇にもまた、不敵な笑みが浮かんだ。
「では、ゆっくりと話を聞かせてもらおうか」
ザイーレンはじっとユミルを見つめた。
臨界不測爆鳴気の拘束場から、脱出不可能なはずのその空間から、敵国ファーティスの魔術師とともに、忽然と行方をくらましていた、一族の青年を。
「体の調子はどうですか?」
「ありがとうございます。あの、なんかまだ、つわりも来ていないみたいで」
「ああ、つわりは、重い人と軽い人の差が結構大きいですからねえ」
「あたしはけっこう軽くすんだわねえ。子供が出来て、前よりおデブになっちゃったくらいよお」
エリシアとアレンとハルディアナが、同じ母親という立場から情報を交換しあう。クレアノンの助手として紙芝居を用意していた黒髪の少女、アレンが、実はファーティスの人間兵器とも言うべき天才魔術師、水の同胞であることも、人間と淫魔の混血で、淫魔としての、性別や容姿を変える能力が不安定なため、ユミルとの性的な接触により、本来の年齢相応の貧相な中年男と、今現在の姿である可憐な少女とをいったり来たりしてしまうことも、ただいまユミルの子供を妊娠しているため性別が女で固定されていることも、すべて、知らぬはザイーレンばかりである。
「まだ、ほんとに、いるんだかいないんだか全然わからないんですけど」
アレンが愛しげにおなかをさする。
「でも、クレアノンさんもエルメラートさんも、間違いないっておっしゃってましたし、それに、その――」
アレンはポッと頬を染めた。
「その――そ、そういうことをしても、私の姿が変わりませんでしたし」
「――」
「なら、間違いないわねえ」
エリシアは無言で微笑み、ハルディアナはのんびりとした声をあげる。
「どう――なんでしょうねえ?」
アレンは不安げに眉をひそめた。
「私、本当は、到底若いとは言い難い年ですからねえ。赤ちゃん、ちゃんと産めるでしょうか――?」
「わたしもレオノーラを産む時、子供を産むには若すぎるって言われましたよ」
エリシアは肩をすくめた。
「大丈夫ですよ。過信は禁物かもしれませんけど、心配しすぎるのだってやっぱり、赤ちゃんにはよくないと思いますよ」
「そ、そうですね。そうですよね」
アレンは大きくうなずく。
「――ユミルさん、大丈夫でしょうか?」
アレンが不安げに、今ユミルがザイーレンと対峙しているであろう、奥の部屋をうかがう。
「お、怒られてないでしょうか?」
「ザイーレンは、そんなに話のわからない人じゃないですよ」
エリシアはにっこりと笑った。
「きっとわかってくれますよ」
「――怖くないんですか?」
不意にアレンはポツリと言った。
「え?」
「なにを怖がればいいのお?」
エリシアとハルディアナは、きょとんと顔を見あわせた。
「――国で、よく言われました」
アレンは、泣きべそのかわりのような、悲しい笑みを浮かべた。
「バケモノ――って」
「え――ひどい――」
「――そう言いたくなる気持ちもわかりますよ」
絶句するエリシアに、アレンは悲しい笑みをむけた。
「私は――戦いが嫌いなんです。でも、戦わなくちゃいけなかった。だからそういう時、私はいつも――私を手放してしまっていたんです。戦いの度に、私は狂って、戦いのあいだの記憶を、その前後の記憶ごと捨ててきました。戦場の私は――まぎれもない、狂人でしかないんです。だから、私は――あなたがたの大切な人ばかりではなく、味方である、ファーティスの人達まで、たくさん、たくさん、巻き添えにして――」
「――アレンさん」
エリシアはそっと、アレンの手に手を重ねた。
「もう、いいです。もう、言わなくていいです。あなたがどうしてもそのことを言いたいというのなら聞きますが、そうでないのなら、そんなに無理をして傷口に指をつっこむようなことをしなくてもいいです」
「――ありがとう、ございます」
「ファーティスの連中って、馬鹿ばっかりなのかしらあ?」
ハルディアナが珍しく、憤然とした声をあげる。
「どこからどう見たってアレンちゃんは、そういうことには向いていないじゃない。アレンちゃんはせっかく、天才的な水魔法の力を持っているんだから、その力をもっと、残らず全部、きれいに出し切るようなお仕事をさせればいいじゃない。なんでわざわざアレンちゃんに、その実力の半分も出しきれないような仕事ばっかりさせてきたのよお。せっかくの力を、どうして無駄に捨てるのかしらあ?」
「――私が殺したからでしょう」
ポツリと、アレンは言った。
「私はいやだった。戦うのも、殺すのも、ほんとに私はいやだった。でも、私は、戦場に出されて――恐怖で自分を手放してしまった。狂気に身を任せてしまった。戦場に出されれば――追いつめられれば――人を殺せると、殺す事が出来ると、たくさんたくさん、殺す事が出来るのだと、私は――私自身の行いで、みんなにそれを、示して、しまった――」
「――」
エリシアは泣きそうな顔で、そっとアレンの背中をさすった。
「――ありがとう」
アレンはうるんだ瞳でエリシアを見つめた。
「私のことを、バケモノと言わずにいてくれて、ほんとにほんとに、ありがとう、ございます――」
「なんでこんなにかわいいアレンちゃんがバケモノなのよお」
ハルディアナはアレンのほっぺたをムニッとつまんだ。
「ほーら、アレンちゃん、ニコッてしなさい。ね、赤ちゃんはねえ、お母さんの気持ちに、ほんとに敏感なものなのよお。――なーんて偉そうに言ってるけど、あたしもほんとは、子供を産むのはこれが初めてなのよねえ」
「あら」
エリシアがクスリと笑った。
「じゃあ、わたしが一番先輩ですね」
「そおねえ。エリシアちゃんが一番若いのにねえ」
「ああいう光景を見ていると」
エリシアは、年上の子が絵本を読んでくれているのを、他の小さい子供達と一緒に夢中になって聞いているレオノーラを見ながら言った。
「娘には本当に、友達が必要なんだなあ、って思うんですよね。友達と――それに」
エリシアは、ちょっといたずらっぽくクスッと笑った。
「弟か妹も、何人か欲しいかな、なんて」
「何人だってつくっちゃいなさいよお。エリシアちゃん、まだ若いんだから」
「ふふふ」
エリシアは照れくさそうに笑った。
「まずはザイーレンと相談しないと」
「あらあ、あの人がダメっていうわけないじゃない」
「ふふふ」
エリシアは再び、照れくさそうに笑った。
「――お友達」
アレンはそっと、自分のおなかをなでた。
「私達の赤ちゃんにも、お、お友達が、出来るといいな――」
「出来るに決まってるじゃない」
ハルディアナがきっぱりと言った。
「あたしのおなかにいる赤ちゃんはもう、アレンちゃん達の赤ちゃんと、お友達になるって決定してるんだからね」
「け、決定ですか?」
「そおよお。決定よお」
目を丸くするアレンに、ハルディアナは大きくうなずきかけた。
「レオノーラも、仲間に入れていただけるとうれしいです」
エリシアは、アレンとハルディアナに微笑みかけた。
「あの子、おねえさんぶりたい年頃だから、お二人の赤ちゃんと遊ぶことが出来たら、きっととっても、喜ぶと思うんですよ」
「あらあ、いいじゃない」
「――」
アレンは目にいっぱい涙をため、グスッと鼻をすすりあげた。
「ほーら、ニコしなさいってば」
ハルディアナは再び、アレンのほっぺたをつまんだ。
「ねえ、楽しみじゃない。そうするとあたし達、親子二代でお友達になるのねえ」
「親子二代で――」
「お友達――」
エリシアとアレンは、大きく目を見開いてハルディアナを見つめた。
「あらあ、何を驚いてるのお?」
ハルディアナは肩をすくめた。
「あたしは、あたし達もう、とっくにお友達だと思ってたんだけど、ちがってたのかしらあ?」
「――」
「――」
エリシアとアレンは、大きく笑った。
そして。
「違いませんよ」
「ええ、違いません」
二人そろって、にっこりと。
「わたし達は」
「私達は」
「「お友達ですよね、もう」」
と、晴れやかに宣言した。