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第4章

 いささか時をさかのぼる。

「すみません、足の高い椅子ってありますか?」

 ライサンダーがたずねる。小柄なライサンダーは、他の面々と同じ高さの椅子では、テーブルに背が届かないのだ。

「ああ、ごめんなさい。すぐに用意させるわ」

 間髪いれず、メリサンドラが答える。

「すみません、お手数おかけして」

「どういたしまして」

 にこやかに会釈を交しあう二人。ハルディアナはのんびりと、エルメラートは物珍しげにあたりを見まわしながらその両脇に腰かける。エルメラートの襟元には、クレアノンが創りだした黒貂の黒蜜が巻きついている。

「初めまして――で、いいのかしら?」

 ライサンダー用のいすが運ばれてきたのを確認し、クレアノンが優雅に小首を傾げて口を開く。パーシヴァルは椅子にはつかず、無言で壁際に立ち部屋全体を見渡している。

「こんにちは。私は黒竜のクレアノン」

「というと――ディルス島の、ドワーフ鉱山の周辺を縄張りにしているわけですね?」

 緊張で幾分青ざめた顔のミーシェンが口を開く。

「そうよ」

 クレアノンは悠然と答えた。

「よくご存じね」

「あ、ちなみにそのドワーフ鉱山って、俺の生まれ故郷です」

 ライサンダーが愛想よく口をはさむ。

「なるほど――」

 ミーシェンが軽く唇を噛む。

「稀覯書蒐集家としての御名声は、かねがねうかがっております」

「あら」

 クレアノンはおかしそうに笑った。

「私、本を売りに行く時にわざわざ名乗ったりしなかったのに。いつの間にかそんなことで有名になってたのね」

「あ、はい」

 クレアノンの笑顔に安心したのか、ミーシェンが少し緊張の解けた顔でうなずく。

「だって、その、クレアノンさん――と、お呼びしてもよろしいのでしょうか?」

「もちろん」

「ありがとうございます。ええと、あの、クレアノンさんは、確かに名乗りはしなかったでしょうが、積極的に隠しもしなかったでしょう?」

「そうね、そんなめんどくさいこと、やらないわ、私」

「だったらすぐに素性は知れわたりますよ。お目当てのものを探す蒐集家の執念ときたら、それはもうすごいですから」

「あら――そうね、確かに」

 何かを思い出したクレアノンは、クスクスと笑った。

「どうしても欲しい本があるから、って、私のところまでわざわざやってきた人も、いたっけ、昔」

「蒐集家とはそういうものです」

 しかつめらしい顔でミーシェンがうなずく。

「あなたはミーシェンさんね。ソールディンの五兄弟の末っ子、でしょう?」

「――そ、そうです」

 クレアノンの言葉に、ミーシェンの頬がパッと染まる。

「その僧衣を見たところ――」

 クレアノンはにっこりと、ミーシェンが身にまとう、目が覚めるように青いハイネル教の僧衣を見つめた。

「あなたは、ええと――ねえ、ハイネル教の場合、僧侶でいいの? それとも、神官?」

「あ、ええと、昔は『神官』だったんですが、今は一般に『僧侶』ですね、はい」

「ありがとう。あなたはなかなか優秀な僧侶みたいね。私の知識が間違っていなければ、ハイネル教の僧衣は、最下位がほとんど黒に近い紺色で、最高位が純白。大雑把に言って、紺から白に近づけば近づくほど位が上がるんでしょう? あなたの年で、そんなに鮮やかな青の僧衣をまとうことが許されているなんてたいしたもの――なのよね? 私、人間や亜人の社会的地位って、ほとんど書物の知識しかないからこれであってるかどうかちょっと不安なんだけど」

「それであっている」

 リロイが重々しく宣言する。

「ミーシェンは非常に優秀な僧侶だ。曙王、リルヴィア陛下の側近の一人だ」

「そ、それは言いすぎです」

 ミーシェンが真っ赤になる。

「ボ、ボクはその、ま、まだ、見習いのようなもので、そんな側近なんて――」

「いーからだまってほめられとけよ、ミー公」

 カルディンがケラケラと笑う。

「兄貴が、どうがんばったってお世辞なんて言えないたちだってこと、知らねーわけじゃねーだろーがよ」

「――お世辞が、言えない?」

 クレアノンの目がチカリと光る。

「そう――やっぱり、リロイさんは――」

「私がどうかしたか?」

 リロイがクレアノンを見つめる。

「間違っていたらごめんなさい。どうもあなたのいろんな評判を総合するに――」

 クレアノンの銀の瞳がリロイを見つめる。

「あなたは、アスペルガー症候群的傾向が、だいぶ強いみたいね」

「…………私はそんな言葉は知らん」

「ああ、ごめんなさい。この世界には、まだない言葉と概念だったわね」

 クレアノンが肩をすくめる。

「ねえリロイさん、あなた、自分で決めた予定が狂うのが、ものすごく嫌いでしょう? たとえば――一度朝ごはんのパンには蜂蜜をつけて食べる、って決めちゃったら、その日からもう、朝ごはんのときにパンにつける蜂蜜がないと我慢できないでしょう?」

「――つけるのは、蜂蜜ではないが」

 リロイは少し驚いたように言った。

「思い当たる節はある」

「やっぱりね」

「クレアノンさん」

 ナスターシャが口をはさむ。

「まさか――リロイにぃのそれも、私みたいに病気の一種なのか? 薬で治るのか?」

「あら――本気でなおしたいの?」

 クレアノンは眉をひそめた。

「え?」

「リロイさんのそれは、病気といえば確かに病気よ。普通の人が苦手なことがとても得意になるかわりに、普通の人が得意なことがとても苦手になる病気、って言えばわかりやすいかしら。まあ、もちろん、この説明は完全に正確とは到底言い難いんだけど」

「病気は――病気なのか?」

「そうね、そうとも言えるわね。でも、よく考えてみて。リロイさんをなおす事は、出来なくはない――と、思うわ。ナスターシャさんをなおすより、だいぶ難しくはなるでしょうけど。でもね」

 クレアノンの銀の瞳が光る。

「リロイさんが『なおって』しまったら、今リロイさんが得意としているいろんなことが、出来なくなってしまうかもしれないのよ?」

「え――」

 ナスターシャは絶句した。

「――私はその必要は感じていない」

 リロイが静かに言った。

「子供のころは、つらいこともあったがな。今は、もう、兄弟達も家族のみんなも、私の厄介な性格のことを理解して、つきあいにくい私とうまくつきあってくれている。ただ、そうだな――もしおまえ達が、私のこの厄介な性格をなおして欲しい、というなら、私も考えるが」

「いや、その必要はねーよ。今の兄貴とちがう兄貴なんて、兄貴らしくねえよ。俺ら、生まれた時から兄貴とつきあってんだぜ? いまさら変わられたらかえって混乱すらあ」

 カルディンの言葉に、弟妹たちが大きくうなずく。

「――だそうだ」

「わかったわ」

 クレアノンもまた、大きくうなずく。

「でも――ナスターシャさんのナルコレプシー――ああ、ええと、眠り病は、なおしたいわけよね」

「なおるものだったら、なおしたい」

 ナスターシャはきっぱりと言った。

「ただ――その代償が――」

「ええ。私が求める代償は、あなた達――というか、『ソールディン家』の協力よ」

 クレアノンもまた、きっぱりと言う。

「あなた達にとっても、それなりに利益のある話――を、持ちかけたつもりなんだけど」

「――失礼なことを言うつもりはないんだけど」

 メリサンドラが大きくため息をつく。

「クレアノンさん、あなたのおっしゃる『利益のある話』とやらは、わたし達の耳には夢物語にしか聞こえないんだけど」

「あら」

 クレアノンはちょっと口をすぼめた。

「ひょっとして、私がほんとに竜なのかどうか疑ってるのかしら?」

「それは疑っていません」

 ミーシェンの顔が、また少し青ざめる。

「クレアノンさん――今あなた、かろうじて人間の形だけはとっているけど、自分が竜であることを全然隠そうとしていないでしょう?」

「そうよ。――わかるのね、あなたには」

 クレアノンはニヤリと笑った。

「なかなかたいしたものじゃない」

「――それは、どうも」

 ミーシェンは、大きく息をついた。

「あなたが竜であることを疑ってはいませんが――」

「――が?」

「――あなたは、あの暴虐の白竜よりも強いんですか?」

「弱いわね」

 クレアノンはあっさりとそう答えた。

「でもね」

 クレアノンは不敵に微笑んだ。

「ガーラートよりよっぽどたくさんの、搦め手を知ってると思うわよ、私」

「――」

 一瞬の空白に響いたのは。

 ミーシェンがテーブルに置いた水晶玉から流れ出す、子供の――ミオとヒューバートの声だった。

 そして、場面は。

 エリックの登場へとなだれこんでいくのだ。




「いやいやいや、どもどもどーも、おっさわがせしましったーん☆」

 ケタケタと軽薄な笑い声をあげながら、エリックが庭木からすっぽ抜け、そのままふわりと舞い上がって2階の窓からスルリと部屋にすべりこむ。不可思議千万なことに、さっきまで確かにエリックがめり込んでいたはずの庭木には、めり込んだ後どころか傷跡一つついていない。

「クレアノンさん、お待たせッス。ナルコレプシーの治療薬、とりあえずは1カ月分、調達して参りましたー♪」

「ありがとう、エリック」

 クレアノンは鷹揚にうなずいた。

「さて――ごめんなさいね、お騒がせして。でもこれでとりあえず、眠り病の治療薬が1カ月分手元に届いたわ。ああ、もちろん、使ってみて具合がよかったらこれから続けて調達してあげるわ」

「ちょっと待って」

 メリサンドラの目が鋭く光った。

「わたし達はまだ、あなたに協力するとは言っていないわ」

「それに」

 リロイが、冷静な声で口をはさむ。

「クレアノンさんの要求を満たすためには、私達ソールディン家の協力だけでは到底足りないだろう。かの白竜から旧神聖ハイエルヴィンディア皇国の領土を奪い返すから、そこへの再移住をはかれ。そしてファーティスとの領土争いを終結に導け。そんなこと、ソールディン家が協力するだけでどうこうできるわけがないだろう。どう控えめに見積もっても、このハイネリア一国をあげての協力が必要になる」

「それによお、クレアノンさん、あんた知ってっかあ?」

 カルディンが大きく肩をすくめる。

「ハイネリアの、四貴族合同会議で、意見が全員一致することなんて、まあまずめったにないんだぜえ?」

「そうね――私は、書物や口伝えの知識だけしかないから、これであっているかどうかはよくわからないけど」

 クレアノンが小首を傾げる。

「あなたがたハイネリアの人々は、権力を出来るだけ分散させるように――権力が一点集中しないように、かなり心を砕いてきたみたいね」

「かの白竜戦役の教訓からです」

 ミーシェンが、しかつめらしい顔で言う。

「旧神聖ハイエルヴィンディア皇国は、典型的な、権力一点集中型国家でした。権力を一点に集中させれば、確かに有事の際には命令系統の混乱もなく迅速に対応することも出来るでしょう。権力の一点集中は、すべてがうまくかみ合えばすさまじい力を発揮します。しかし――」

 ミーシェンは、大きくため息をついた。

「命令を下す頭が一つしかなければ、その頭がつぶされた時、残されたものはもうどうすることも出来ません」

「だからわたし達は、頭の数を増やすことにしたの」

 と、メリサンドラがつけくわえる。

「なるほどね」

 クレアノンがうなずく。

「つーことで」

 カルディンが、パンと手をたたく。

「俺らがあんたに約束できるのは、『ソールディン家』の協力までだ。他の家のことや、三相王の皆様方のことまでは、俺たちゃどうにもできねえよ」

「まあ、『どうにも』出来ない、っていうのは言いすぎかもしれないけど」

 メリサンドラが苦笑する。

「でも、まあ、基本的にはカルディンの言う通りよ」

「それでかまわないわ」

 クレアノンはにこりと笑った。

「そこまであなた達にやらせる気はないわよ。他の家や、三相王陛下がたとの交渉は、私が自分でやるから安心して」

「――だから、ちょっと待ってくれ」

 最前から黙って耳を傾けていたナスターシャが、少し苛立ったように口をはさんだ。

「私達は、まだ、あなたに協力するとは言っていない」

「そうね」

 クレアノンは目をしばたたいた。

「じゃあ、私に協力できない理由を教えてくれる?」

「え――」

「ない」

 絶句するナスターシャにかわり、リロイがきっぱりとそう答える。

「あなたに協力しない理由は、ない。私達――ハイネリアの国民達自身、自分達が余所者で、余計者で、ファーティスから力ずくで領土を奪って無理やりこの地に住みついたのだということを、誰よりもよく知っている。といって――私達にはもう、ここより他に、身を落ちつける場所がない」

「だから私が創ってあげる」

 銀の瞳を光らせ、クレアノンがささやく。

「あなた達の故郷を、私が取り戻してあげる」

「ちょーっとまったあ!」

 カルディンが、大仰な身振りで、しかし、この上なく真剣な声で話に割り込む。

「クレアノンさん、俺やだぜ。あんたがあの、おっそろしい白竜と戦いたいっていうのはそりゃ勝手だけどさあ、俺たちゃ人間だぜ? 竜と竜との戦いに首突っ込んで、無事ですむわきゃねーだろーがよ!」

「あら、それじゃあ、ファーティスとの領土争いでは、犠牲者なんて出ていないの?」

「え――」

「――ごめんなさい。意地悪言っちゃったみたいね」

 クレアノンはため息をついた。

「でも、安心して。さすがに私もガーラートとまともにやりあう気はないわ。というか――まともにやりあったら確実に私が負けるでしょうし」

「それじゃあ、どうするつもりなんですか?」

 ミーシェンが、兄弟達の疑問を代弁する。

「ええと――大雑把に説明するとね、ガーラートがやりたいと思っていることをやるためには、あんなに広い土地は本当は必要ないのよ。だからね、その、交渉してちょっと譲ってもらおうかと――」

「ちょーっとまったーあ!!」

 カルディンが悲鳴を上げた。

「ク、クレアノンさん、あんた俺らに、あのおっそろしい白竜の隣りで暮らせっていうのかよ!?」

「安心して」

 クレアノンはきっぱりと答えた。

「私も一緒に住むから」

「え――」

 ソールディンの兄弟達のみならず。

 ライサンダー、ハルディアナ、エルメラート、パーシヴァル、エリック達もみな。

 驚いてクレアノンを見つめた。

「私も、あなた達と一緒に暮らすわ」

 クレアノンは静かに告げた。

「私は、確かにガーラートには勝てない。でも――戦ってもガーラートには傷一つおわせることが出来ない、っていうほど、弱くもないの。私と戦ったら、ガーラートだって無事ではすまないわ。だから――私が間に入れば、ガーラートがあなた達を攻撃してくることはないわ。あいつは無茶をやるけど、馬鹿じゃないからね」

「どうしてわたし達のためにそこまでしてくれるの?」

 思わず、といったふうにメリサンドラがたずねた。

「あなた達のためじゃないわ」

 クレアノンは、ふと。

 遠い目をした。

「私は、私のために、私にも出来ることがあるってことを、私が何かを変えることが出来るってことを、私は新しい世界をつくることが出来るってことを証明したいの。ねえ――竜の病って知ってる? 私達竜はね、個体差はあるけど、たいてい他の種族をはるかにしのぐ力と寿命とを持って生まれてくるわ。でもね――私達には、やることがないの。失礼なことを言うけど、あなたがたのような寿命の短い種族なら、そんなことを考える間もなく寿命が終わってしまうことも多いわ。でもね――私達には、何百年、何千年の時間が投げ渡されているの。しかも、私達は強大な力を持っている。――生きる苦労をしなくて済むのよ、私達。そのかわり、竜の病に取りつかれる。なんにもやることがない、退屈でたまらない、自分の生きている意味がわからない――」

 クレアノンは、大きくため息をついた。

「私がこれをはじめた理由は――正直に言うわ。ひまつぶしよ。ひまがつぶせればそれでいいと思った。でも――でも、みんなと、ライサンダーさんと、ハルディアナさんと、エルメラートさんと、それから、リヴィーさんやミラさんと――」

 クレアノンは一瞬口ごもった。今のところ脱走兵であるユミルやアレンのことを口に出すのはまずいと、とっさに思ったのだ。

「パーシヴァルやエリックと出会って、みんなでおんなじ目的のために働いて、旅をして、おしゃべりをして、みんなと友達になって――それがすごく、すごく楽しかったの。やっとわかったの。私は、知識を集めるのが好き。でも、私が知識を集めていた本当の理由は――」

 クレアノンはいとおしげに、部屋の中の面々を見まわした。

「私は、他の種族のことを、もっともっと知りたかったのよ。私は、本当は、竜じゃない、他の種族の方達と、仲良くなってみたかったの。それがようやくわかったの。ようやく、自分の本当の望みがわかったの。だから――」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「だから後は、望みをかなえるために努力するだけよ」

「――変わってるのね、あなた」

 メリサンドラは、クスリと笑った。

「どうする、兄さん?」

「ソールディン家の協力は約束する」

 リロイはきっぱりとそう宣言した。

「それ以上のことは、何も約束できないが」

「十分よ」

 クレアノンは大きく笑った。

「ありがとう」

「――そういうことなら」

 メリサンドラが、大きく息をついた。

「クレアノンさん――あなただけ残って下さる?」

「え? 別にかまわないけど――」

「兄さん」

 メリサンドラは、不思議な色を浮かべた瞳でリロイを見つめた。

「これから先の話は――きっと兄さんには、あんまり理解できないと思うの。席をはずしてくれないかしら?」

「わかった」

 リロイはあっさりとうなずいた。

「おまえに任せる」

「ありがとう。カル、あなたは残って。ターシャは兄さんをたすけて、皆さんをおもてなしして。シェンは――」

 メリサンドラは、わずかに考えこんだ。

「――残って。ただし、話が終わるまで口をはさまないで。黙って聞いていて。お願い」

「わ――わかりました」

「――これから話す事は、誰でも知ってる話なの」

 ため息をつきながら、メリサンドラはつぶやいた。

「それでも――あんまり多くの人に、聞いて欲しい話でもないのよ」




「――あなたはもうご存知かもしれないけど」

 クレアノンの連れと、リロイとナスターシャが退室したのを見届け、メリサンドラは重いため息をついた。

「あのねクレアノンさん――あなた、ハイネリアの四貴族を説得する順番、間違っちゃったかもしれないわね」

「あら」

 クレアノンは目をしばたたいた。

「それは、どうして?」

「それはね――」

 メリサンドラは再び、重いため息をついた。

「イェントンの当主――ザイーレン・イェントンが、ひどく――ひどく、兄さんの――ソールディン家当主、リロイ・ソールディンのことを嫌っているからよ。クレアノンさん、あなたが最初にイェントンに声をかければ、なんの問題もなかったの。でもね――あなたは真っ先にわたし達に、ソールディンに声をかけたでしょう? これで間違いなく、ザイーレンさんはへそを曲げるわ」

「ったく、あの陰険しんねりむっつりめ」

 カルディンが音高く舌打ちした。

「兄貴がいったい何したってんだよ?」

「なんにもしてないわ、兄さんはただ――ただ天才だっていうだけ」

 メリサンドラは悲しげに言った。

「んーなの兄貴のせいじゃねーだろーがよ。兄貴のせいでもねえことで、なんで兄貴が理不尽に嫌われなきゃなんねーんだよ。ったく、ザイーレンのくそったれめ」

「そんなふうに言わないで」

 メリサンドラは、さらに悲しげに言った。

「カル――あなたは小さかったから覚えてなくても無理ないけど、兄さんとザイーレンさんは、子供のころは、本当に仲がよかったのよ」

「…………へ?」

 カルディンが絶句する。メリサンドラの言いつけを守り、黙って大人しく座っているミーシェンも、驚いたように目を丸くする。

「う、うっそだろお?」

「こんなことでうそついてどうするのよ。――ほんとのことよ。兄さんとザイーレンさんは、子供のころ、本当に仲がよかったの。まるで性格の違う二人だけど、だからかえってよかったのかもね。子供のころは――ザイーレンさんは、いつも、兄さんをかばってくれてたのよ。ほら、兄さん、人がたくさんいるところだと緊張しすぎて、子供のころはかんしゃく起こしたり泣き出したりしちゃってたでしょう? あなたはそれも、小さすぎて覚えてないかしら? でもそうだったの。兄さんは、人がたくさんいるところが本当に苦手だったの。今でも苦手は苦手でしょうけど、子供の頃よりはだいぶましになってるわ。兄さんがかんしゃく起こしたり泣き出しちゃったりすると、ザイーレンさんはいつも、あっちで一緒に遊ぼうよ、って言って、兄さんを人込みから連れ出してくれていたの。わたし、思ってたわ――」

 メリサンドラが、ふと遠くを見る目をする。

「ザイーレンさんはまるで、兄さんの兄さんみたいだ、って。あの人は――ザイーレンさんは、わたしにもとっても優しかったわ。ちっちゃい女の子なんて邪魔っけだったでしょうに、いつもわたしも遊びの仲間に入れてくれたわ――」

「――ザイーレンのやつ、姉貴のことが好きだったんじゃねえ?」

 カルディンは、わざとらしくはしゃいだ声をあげた。

「――どうかしらね」

 メリサンドラは小さく笑った。

「ねえ」

 クレアノンは首を傾げた。

「どうして、そんなに仲のよかった二人が仲たがいしていまったの?」

「くらべられたからよ」

 メリサンドラの声には、強い怒りがこもっていた。

「くらべられたからよ。くらべられ続けたからよ。くらべてもしかたのないことを、絶えずくらべられ続けて、ずっとずっと、ひどいことを言われ続けたからよ――!」

「――どんな事を言われたの?」

 クレアノンは静かにたずねた。

「――」

 メリサンドラは、大きく息をついた。

「――『十で神童、十五で天才、二十歳すぎればただの人』」

「――どこでも言うのね、そういう事って」

 クレアノンは肩をすくめた。

「それと似たようなことを、あちこちの世界で聞いたわ」

「おい、姉貴、兄貴は――」

 言いかけカルディンは、ハッと口をつぐむ。

「――ええ」

 メリサンドラは肩を落とした。

「幸か不幸か、兄さんは天才よ。二十歳を過ぎても、大人になっても、ずっとずっと――ね。でも――」

「でも、ザイーレンさんは天才ではなかった」

「――」

 クレアノンの言葉に、メリサンドラはうなだれた。

「――違う、だけなのよ。二人は、得意なことが違っていただけなの。兄さんは、誰にも出来ないことが出来るかわりに、誰もが普通にできることがとっても下手。とっても苦手。ザイーレンさんは――確かにあの人は、誰にも出来ないことをすることは出来ないかもしれない。でもあの人は、みんなが不器用にしかできない、日々のとても大切なことを、誰より上手にやってのけることが出来る人なのに――」

「――兄貴のせいじゃねえだろうがよ」

 カルディンが、幾分弱々しくつぶやく。ミーシェンもそれにうなずく。

「でも、ザイーレンさんのせいでもないのよ」

 メリサンドラはため息をついた。

「兄さんは――兄さんは、いいの。だって兄さんは、よその人が自分のことを何と言おうと、まるで気にしない人なんだから。時々、もうちょっと気にしてくれればいいのにって思うくらいよ。でも、ザイーレンさんは――言われ続けたの。なんて言われ続けたか――わかるでしょう、あなた達には――?」

「――『二流ぞろいのイェントン』」

 クレアノンは静かに告げた。

「私の推測、正しいかしら?」

「――正しいわ」

 メリサンドラは再びため息をついた。

「ザイーレンさんは言われ続けたの。小さい頃は兄貴分みたいになれても、やっぱりしょせんはイェントンだ。ソールディンの天才には到底かないやしない――って。本当に、馬鹿馬鹿しい話よ。だって兄さんは、兄さんは、魔術とか算術とか、派手で目立つようなところで二つ三つ勝ったってだけなのよ? 他のほとんどのこと――人づきあいとか、他人への気配りとか、当意即妙な受け答えとか、地味かもしれないけど本当に大切なほとんどのことは、ザイーレンさんの方がずっと上手だったのに――今だって、ずっと上手なのに――」

「――だからって、兄貴を嫌うこたねえだろうがよ」

「カル」

 メリサンドラは、軽くカルディンをにらんだ。

「あなた生まれてこのかた、誰にも嫉妬したことがないの?」

「――怒るなよ、姉貴」

「――怒ってないわ。――兄さんには、わからなかったの」

「え?」

「兄さんには、わからなかったの」

 メリサンドラは悲しげに言った。

「自分がどうして、ザイーレンさんに嫌われるようになってしまったのか。あたりまえよ。だって兄さんは――嫉妬って言う感情そのものが、ほとんど理解できてないんだもの。兄さんは、他人に嫉妬したことがないわ。他人と自分が違うっていうのはわかっても、それが嫉妬っていう感情には結びつかないの。いえ――たとえ兄さんに嫉妬っていう感情が理解できても、それでもやっぱり理解できなかったかもしれない。だって、兄さんにとってザイーレンさんは、自分よりずっとずっとしっかりした、頼れる一番のお友達なのよ? ザイーレンさんが自分に嫉妬する理由なんか、兄さんに見つけられるはずがないのよ」

「つったって――ガキの頃の話だろお?」

 カルディンが眉をひそめる。

「――そうね。もし逆なら――わたしのほうが、兄さんやザイーレンさんより年上なら、もしかしたら二人を仲直りさせてあげることが出来たのかもしれない。でも、わたしも子供で――どうして兄さんに意地悪するの、って、ザイーレンさんのことを責めることしかしなかったわ。兄さんは兄さんで――悲しいことだけど、ザイーレンさんに嫌われてる、っていうことだけは、わかってしまったのよ、兄さんは。理由はわからなかったけど、嫌われてるってことだけはわかってしまったの。だから兄さんは――あのころずいぶんしょげてたわ。自分じゃ覚えてないけど、きっとザイーレンさんを怒らせるようなことをしてしまったんだ、って。そして兄さんは――ザイーレンさんに近づかないようになってしまった」

「そりゃそうだろうよ。近づきゃ意地悪されるんじゃ――」

「違うの。――そうじゃ、ないの。兄さんはね――兄さんは、自分が嫌いな人に近づいてこられるのがとてもいやだから、ザイーレンさんもきっと、嫌いな自分が近づいていったらいやだろう、って、そう思ったの。兄さんは、ザイーレンさんのことが好きだったのよ。好きだったからこそ、近づいていやな思いをさせたくなかったの」

「な――」

 カルディンが絶句し、ミーシェンが息を飲む。

「そして――あの結婚式で、二人の仲は決定的にこじれてしまったの。あの――ザイーレンさんの、一番目の結婚式で」

「あー、あの、花嫁が土壇場でバックレた、あの悲惨な結婚式」

「そう。兄さんはね――兄さんは、ザイーレンさんにこう言っちゃったの。『何か手違いがあったのか? 手違いなんて誰にでもあることだから、あんまり気にするな』って」

「うわ」

「それは――」

 カルディンとミーシェンが顔をしかめる。

「兄さんは、親切のつもりで――っていうか、兄さんは、本当に、言葉のとおりのことを思ってたのよ。手違いがあったみたいだけど、手違いなんて誰にでもあることだから気にするな、って、兄さんは、ザイーレンさんを慰めるつもりだったの。でも――」

「当然ザイーレンのやつは、それをとんでもない皮肉だと思ったわけだ」

 カルディンがますます顔をしかめた。

「――そのとおり」

 メリサンドラは深いため息をつき、

「――馬鹿みたいでしょ、わたし達」

 悲しげな笑みを浮かべてクレアノンを見やった。

「そこまで原因がわかってるのに、いまだに仲直りが出来ないのよ」

「――ありがとう、話してくれて」

 クレアノンは、静かに一礼した。

「竜の私からすれば、うらやましくなるくらい濃密なのね、あなたがたの関係は。人づきあいが苦手だっていうリロイさんだって、そんじょそこらの竜よりよっぽど、相手のことを思いやっているわ」

「でも、人間にとっては十分じゃないのよ」

 メリサンドラもまた、静かにそう言った。

「だからね、クレアノンさん――わたし達が協力しているって知ったら、イェントンは、あなたの努力とは関係なく、あなたの申し出を拒むかもしれないわ。――それを、言っておこうと思って」

「ありがとう」

 クレアノンは再び、深々と頭を下げた。

「後悔はさせないわ」

「え?」

「あなたが私に、話してくれたということを」

 クレアノンの瞳は、銀色に輝いていた。




「子供は好きか?」

 唐突にリロイは問いかけた。

「ああ、好きですね」

「まあ、好きよお」

「好きですよ、ぼく」

 ライサンダー、ハルディアナ、エルメラートが即座に答える。

「私は――子供は好きなんですが、子供に怖がられることが、ええ、ありますねえ」

 と、パーシヴァルが頭をかく。

「安心して欲しいッス」

 エリックがきっぱりと言う。

「オレは、胸は、無乳派じゃなくて微乳派なんス。ぺったんこの胸よりも、すこーしふくらみかけた、あるのかなー、ないのかなー、あれー、よく見るとふくらんでるよー❤ ってくらいの胸が好きなんス。だから、完全なお子ちゃまは――イデエッ!!」

「たわごとですすみません本当にたわごとなんです気にしないで下さいどうもすみません本当にすみません!!」

 回し蹴りでエリックをふっ飛ばしたパーシヴァルが、床に倒れ込んだエリックの頭をさらにグリグリと床に押しつける。

「……なんだかよくわからんが」

 リロイはきょとんと言った。

「とにかくみんな、子供は好きなんだな?」

「はい」

 と、一同を代表してライサンダーがうなずく。

「そうか。それなら――」

 と、リロイが小首を傾げる。

「もしよかったら、私の家族達に会ってはくれないか? ヒューバートとミオは、あなた達のことがずいぶん気になっていたようだからな。子供らと少し遊んでもらえると、大変うれしいのだが」

「はい、よろこんで」

 にこにことライサンダーがうなずく。あわせてハルディアナとエルメラートもうなずく。

「…………マシュター」

 エリックがパーシヴァルに頭を押さえつけられたまま、情けない声をあげる。

「はにゃしてくんにゃいと――オレ、こーしちゃうんだからね!」

「ギャッ!?」

 エリックの言葉とともに、人形サイズに体を縮められてしまったパーシヴァルが悲鳴をあげる。

「な、なにをする!?」

「そーのほおが、かーわいいっすよお♪」

 エリックは勝ち誇ったようにケタケタと笑った。

「よっしゃあ、エリちゃん、復活❤」

「お、おい、エリック、や、やりすぎたのは悪かった。もとに戻してくれ」

 パーシヴァルがエリックの周辺をクルクルと飛びまわる。

「わ、私、この格好でちっちゃい子の前に出ると、頭をかじりとられかねんのだ!」

「そしたらオレがなおしてあげるッスよお」

 エリックはケラケラと笑った。

「だーいじょおぶッスよマスター。手の届かないところに浮いてりゃいいでしょー?」

「…………それは、そうだが」

 パーシヴァルは恨めしげにうめいた。

「ああ――まあ、しかたない。今のところ、おまえが私の主人なんだからな」

「ま、そゆことッス」

 ニヤリと笑ったエリックは、ポカンと口を開けたナスターシャにむかってヒラヒラと手をふって見せた。

「ヤッホー、びーっくりしちゃったッスかあ?」

「……びっくりした。すごく、びっくりした」

 ナスターシャは素直にうなずいた。

「あなたがたは――種族は、なんなんだ?」

「オレは、悪魔ッス」

 エリックはヘラヘラと、ナスターシャにむかってVサインを出してみせた。

「私は、エリックに仕える、使い魔です」

 パーシヴァルが、人形サイズで出来得る限り重々しく、ナスターシャにむかって一礼する。

「――この世界の住人では、ないのか?」

「ま、そゆことッス」

「そういうことになりますね」

「ナスターシャ、まだわかっていなかったのか?」

 リロイが、少しきょとんとナスターシャに問いかける。

「――今、よくわかった」

 まだ少し呆然と、ナスターシャはうなずいた。


「あ!」

 最初に気がついたのは、やはりミオとヒューバートだった。

「えっと、あの、さっきはごめんなさい」

「ごめんなさい」

「いや、俺達は、別にそんな迷惑とかしてないし」

 神妙に頭を下げる二人に、ライサンダーは微笑みかけた。

「ってか、俺らまだ自己紹介してなかったね。俺はライサンダー。種族は、ドワーフとホビットの混血」

「あたしは、ハルディアナ」

 ハルディアナがにこりと笑う。

「種族は、まあ、一応エルフなんだけど――」

 ミオとヒューバートが、興味しんしんで自分のおなかを見つめているのを見たハルディアナがクスリと笑った。

「あたしのおなか、気になる? 赤ちゃんが入ってるのよお」

「うわ」

「やっぱりそうなんだ!」

 と、ヒューバートとミオがうなずきあう。

「お行儀悪いぞ、二人とも」

 と、ナスターシャがたしなめる。

「まあまあ」

 と、エルメラートがなだめながら、

「こんにちは。ぼくはエルメラート。種族は淫魔です」

 と、軽やかに自己紹介する。

「――ふうん?」

「――いんま?」

 きょとんと小首を傾げるミオとヒューバートにとって、『淫魔』という種族名は、たんなる『いんま』という音の連なりでしかないのだろう。

「オレはエリック。悪魔でえーっす♪」

 と、エリックがVサインを出す。

「悪魔!?」

「悪魔!?」

 目を丸くした二人がズザッと後ずさる。

「っととと、そーんなに怖がらなくっても、オタクらみたいないい子ちゃん達にはなーんにもしないッスよお」

 と、ケラケラ笑うエリックにむかい、

「何かするつもりなら、私の屍を踏み越えてからにしろ」

 と、リロイが恐ろしすぎる釘をさす。

「ええと――」

 幾分おどおどとエリックの後ろから顔を出したパーシヴァルを見て、二人の目がまたまん丸くなる。

「私は、パーシヴァル。そこのエリックの、使い魔です、はい」

 と言いながらパーシヴァルは、子供には手の届かない天井近くにまで舞い上がる。

「――あ、えっと、わたしは、ミオ。ミオ・ソールディンです」

 しばし呆然としてから、ミオがハッとしたようにペコリと一同に頭を下げる。

「あ、えっと、えっと、ぼくは、ヒューバート。ヒューバート・ソールディンです」

 ミオについで、ヒューバートもペコリと頭を下げる。

「よろしく」

「よろしくねえ」

「よろしくお願いしまーす」

「よろしくッス」

「以後、よろしくお願いいたします」

 一同が、ミオとヒューバートの自己紹介に、思い思いの返事を返す。

「――リロイ」

 ミオとヒューバートの後ろから、おっとりとした声がかけられる。

「お疲れさま。お茶にする?」

「ああ」

 リロイは、ライサンダー達一行が初めて見る、心からほっとした顔をした。

「そうだな、お茶の時間だな。ダーニャ、皆さんにもお茶をお出ししてくれ」

「ええ、もちろん」

 にこやかにうなずくのは、リロイの愛妻にしてヒューバートの母親、ダーニャ・ソールディンだった。一目見て誰もが親子であることを看破するであろうほど、ダーニャとヒューバートはよく似た顔立ちをしている。のっぺりとした、穏やかな、温和を絵に描いたかのような顔だ。

「みなさん、どうぞこちらへ。ええと、小さい子がたくさんいるんですけど、お邪魔じゃないかしら? もしお気にさわるようでしたら、子供達を別の部屋に移しますけど?」

「いえ、俺達みんな、子供好きですから」

 一行を代表して、ライサンダーがにっこりと笑う。

 そして。

 和やかなお茶会が始まる。




「――こんなことを聞くと、人間のあなたがたは不愉快に思うかもしれないけど」

 クレアノンは、銀色に底光りする瞳をしばたたいた。

「ザイーレンさんの弱みって何かしら?」

「不愉快には思わないわ。当然気になると思うから」

 メリサンドラは平然と答えた。

「ザイーレンさんの弱みは、別に意外でもなんでもないし、とっても有名で誰でも知っていることよ。ザイーレンさんの弱みは――あの人の家族よ。もっと正確に言うなら、奥さんのエリシアさんと、お嬢さんのレオノーラちゃんよ。その二人を押さえられたら、ザイーレンさんは、自分の首を自分で切り落とせって言われても、その命令に従うでしょうね」

「ああ、それじゃだめだわ」

 クレアノンは肩をすくめた。

「人質をとっていうことを聞かせるなんて、そんなの、最高に、それとも最低に、かっこ悪いわ。かっこ悪すぎるわ。私、そういうの趣味じゃないの」

「――その言葉が聞けてうれしいわ」

 メリサンドラは薄く笑った。

「ねえクレアノンさん、わたし達ハイネリア人はね、あの白竜、ええと――」

「ガーラート」

「そう、その、ガーラートっていう白竜に国を滅ぼされた時の恐怖を、まだ忘れきっていないのよ。ハイネリア人は――竜が怖いの。わたしも、今は大丈夫だけど、初めてあなたが竜だって知った時は正直ギョッとしたわ。そんなあなたが――竜のあなたが、自分の目的のために人質を取るような手段をとったりしたら、ハイネリアがあなたに協力する可能性は皆無になるわ。万に一つ、じゃないの。皆無よ、皆無」

「あら」

 クレアノンはクスリと笑った。

「それじゃあ私は、試験に合格したわけね」

「今のところはね」

 メリサンドラも、クスリと笑った。

「さて――それじゃあクレアノンさん、あなたの考えはわかったわ。だからわたしは、もっと詳しい事情を説明することにするわ」

「ありがとう」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「うかがうわ」

「そう――どこから話そうかしらね」

 メリサンドラは、しばし言葉を探した。

「そもそもの始まりはやっぱり――さっき少し話したけど、ザイーレンさんの一度目の結婚式から始まるの」

「ボクが生まれる前――でしたっけ?」

 ミーシェンが、思わず、というふうに口をはさむ。

「そうよ。シェンはまだ19歳でしょう? あれは、ちょうど20年前のことだったから」

「あー、俺、あのことに関してだけは、ザイーレンは気の毒だったと思う」

 カルディンが肩をすくめた。

「結婚したくねえってのは、そらまあしょうがねえけどよお、だったらもっと早くに言っておかなきゃだめだって。よりにもよって、結婚式の当日にトンズラぶっこくこたあねえだろうがよ」

「そうなのよね」

 メリサンドラはため息をついた。

「ザイーレンさんの一番目の結婚相手は、パトレアさんというんだけど、パトレアさんにはその、ザイーレンさんの他に、好きな人がいたのよね」

「ああ、あなたがた人間のあいだでは、本当に好きな相手と生涯を共にする伴侶が、別の人だってことがよくあるみたいだからね」

「――」

 メリサンドラは一瞬クレアノンの顔色をうかがったが、クレアノンは皮肉を言っているわけではなく、単に自分の知識を披露しただけだということがわかって吐息をもらした。

「――そうなのよね。とにかく、パトレアさんは本当は、ザイーレンさんとは結婚したくなかったの。それは、まあ、しかたがないことだと思うのよ。言っちゃなんだけど、自分がいっしょになりたい相手と、周りが結婚させようとする相手が違うなんて、結構よくある話だし。ただ――パトレアさんがとった行動がね、その――最悪だったのよね、ある意味。結果から先に言うと、結婚式の当日、会場いっぱいの招待客の面々の目の前で、ザイーレンさんにこれ以上ない大恥をかかせたわけだからね」

「――なるほど」

 クレアノンがゆっくりとうなずく。

「それでね――まあその、無理もないことだと思うんだけど、ザイーレンさんは一時期、ひどい女嫌いになってね。一時はもう一生結婚せず、親戚から養子をとってあとを継がせるんじゃないかって話も出たんだけど――」

「でも今は結婚して、お子さんもいらっしゃるわけよね?」

「そうなんだけどね――」

 メリサンドラは歯切れ悪くこたえた。

「その結婚相手が――エリシアさんっていうのがまた、なんていうかその――」

「何か事情があるわけね」

 クレアノンはわずかに身を乗り出した。

「どんな事情があるの?」

「この件に関しては、エリシアさんにはなんの罪もないのよ」

 メリサンドラはため息をついた。

「ただ――その――エリシアさんは、パトレアさんの娘さんなのよ」

「――え?」

 クレアノンは、きょとんと目を見開いた。

「パトレアさんって、ええと――ザイーレンさんとの結婚式をすっぽかした、あのパトレアさん?」

「そのパトレアさん」

「…………へえ」

 クレアノンは、ポカンと口を開けた。

「あなたがた人間のあいだでは、そういうことって――」

「もちろん普通じゃないわ。ザイーレンさんとエリシアさんの結婚は、周り中から猛烈に反対されたわ。その――ええと――こう言っちゃなんだけど、ザイーレンさんが、その、なんというか、健全な意図を持ってエリシアさんと結婚しようとしているとは、その、みんな思うことが出来なかったのよね。本当に申し訳ないことだけど。ええと――わたしが言っていること、その、意味がわかるかしら、クレアノンさん?」

「感情はともなわないけど」

 クレアノンは銀の瞳をしばたたいた。

「そういう場合にはそういう反応が返ってくるであろうことを推測できるくらいの知識はあるわ、一応」

「そう。とにかくね、二人の結婚は周り中から猛反対された。でも、ザイーレンさんは押し切ったの。それこそありとあらゆる手を使って。それでね――結局、わたし達周りの人間の心配は、みんな下衆の勘繰りだったの。ザイーレンさんとエリシアさんは、本当に愛しあっていたのよ。それこそこのうえない相思相愛だったの。今のあの二人と、愛娘のレオノーラちゃんは、傍が見てうらやむほどの幸せな一家よ。ただ、なんていうか――事情が事情でしょう? エリシアさんはイェントンの一族の中で、ちょっとその、孤立しちゃってるみたいね」

「――なるほど」

 クレアノンは、しばしまぶたをおろして考えこんだ。

「私が間違っていないのなら」

 クレアノンはゆっくりとまぶたをあげた。

「ザイーレンさんは、周りからどんなに反対されようとも、自分の恋を貫いたのね?」

「ええ、そういうことになるわね」

「なるほど――」

 クレアノンの銀の瞳が輝く。

「ねえメリサンドラさん、推測でいいんだけど、その結婚はザイーレンさんをどう変えたの?」

「あの人、ずいぶん幸せそうになったわ」

 メリサンドラは言下にこたえた。

「気難しいところはまだ残っているけど、それでもずいぶん幸せそうになったわ。本当にエリシアさんのことが好きなのね。ただ――」

「ただ?」

「その――一族の中には、いまだにエリシアさんを認めてない人達もいるみたいで、それはその――たぶんつらく思っているんでしょうけど――」

「――ねえ、メリサンドラさん」

 クレアノンはまっすぐにメリサンドラを見つめた。

「そんなザイーレンさんが、同じ、イェントンの血に連なる者が、戦場でファーティスの魔術師と出会って恋におち、二人が結ばれるために国を捨てて脱走兵にまでなった――と、いうことを知ったら、いったいどんな行動に出るかしら?」

「――なんですって」

 メリサンドラの目の色が変わった。

「ちょっと待って――冗談でしょ!? クレアノンさん、あなたが言ってるのはまさか――臨界不測爆鳴気りんかいふそくばくめいきの拘束場から、ファーティスの魔術師とともに行方をくらましてしまった、ユミル・イェントンのことだっていうの!?」

「――そうだと言ったら?」

「――冗談でしょう?」

 メリサンドラは大きくあえいだ。

「どうしてそんな偶然が、こんなに都合よく起こったりするのよ!? クレアノンさん――その二人は、今、あなたの保護下にいるのね!?」

「自分で言うのもなんなんだけど」

 クレアノンはいたずらっぽく、クスクスと笑った。

「竜の周りではね、よく、とんでもないことが起こるものなのよ」




「あーはいはい、わかりますわかります!」

 ライサンダーは大きくうなずいた。

「そうそう、電気を使った溶接っていうのもあるんですよね!」

「ああ」

 リロイもまた、大きくうなずいた。

「まあ、私は力の調節が下手だから、雷の魔術を使って溶接する、なんてことはできないな。その必要が生じた場合は、外注してやってもらっている」

「あ、そうなんですか?」

「ああ。私は力の絶対量こそかなり大きいが、微妙な力の調節といううものが出来ないんだ。私は、『同胞』は『同胞』だが、その能力は、あまりたいしたことはない」

 謙遜するでも卑屈になるでもなく、リロイはただ、事実のみを述べる口調で言う。

「いやあ、そんなことないでしょう。俺なんて、魔術そのものが苦手で」

 と、ライサンダーは言う。

「あなたは確か、ドワーフとホビットの混血だったな。どちらの共同体で育ったんだ?」

 と、リロイが小首をかしげる。

「あ、ドワーフのほうです。親父がドワーフで」

「ドワーフがたのあいだでも、電気を使った溶接というのはやっているのか?」

「いやー、そういう技術があるってことは知ってるし、やろうと思えばできますけどね。うちの連中はやっぱり何と言うか、昔ながらの技術が好きな人達が多くて。電気を使った溶接なんかは、ノームの皆さんのほうが盛んにやってますよ」

「そうか、なるほど」

「あ、ケーキもう一ついただきますね」

 といいながらライサンダーは、皿に盛られたケーキを一つ取り、ぱくりと噛みつく。

「あ、おいしい! え、これもしかして、ダーニャさんのお手製とか?」

「うふふー、そうなんですよ。お気に召したようでうれしいですわ」

 と、リロイの妻ダーニャが機嫌よく笑う。

「いや、ほんとにおいしいですよこれ。あの、もしよかったら後で作り方教えていただけませんか?」

「いいですよー。でも、別にそんなに特別なことはしてないんですよ。ああ、しいて言えば、そのケーキ、ゼスティの皮をすりおろして入れてあるんですけど、皮をすりおろすとき、一番上の赤いところだけ使って、内側の白いところは絶対に入れないようにするのがコツって言えばコツかしら」

「あー、わかります。ゼスティの皮の白いところには、苦味がありますもんね」

「そうなんですよねー」

「――話がはずんでますねえ」

 エルメラートがハルディアナにそっと耳打ちする。

「ライちゃんのドワーフっぽいところがリロイさんとの話に役に立って、ホビットっぽいところがダーニャさんとの話に役に立ってるみたいねえ」

 と、ハルディアナが答える。職人気質で有名なドワーフと、快適な家庭を作り上げることに定評があるホビットの、両方の血がライサンダーには流れている。

「フォレ、タッピャーもってくえあよかったにゃあ」

 口いっぱいにほおばったケーキをもぐもぐとやりながら、エリックが言う。

「エリック、おまえ何十年私に、口に物を入れたまましゃべるなと言わせる気だ?」

 天井の付近を漂うパーシヴァルがため息をつく。

「らっておいひーんらもん。んぐ。ねーマスター、マスターも下りてきて一緒に食べましょーよー」

「ああ……そうしたいのはやまやまだが……」

 パーシヴァルは不安げな顔で、目をキラキラさせて自分を見上げている、小さな子どもたちを見下ろした。

「ねー、おねーたん」

 折りしも、ミオの弟、3歳のロンがパーシヴァルを見上げて言った。

「ぼく、あのうごくおにんぎょたん、ほしーな」

「もう、ちがうよ、ロン」

 ミオがロンをたしなめる。

「あれは、お人形さんじゃないよ。あれは、パーシヴァルさん。うちのお客様なんだよ」

「ふうん?」

「あー」

 まだよちよち歩きがやっとのミオの妹、一つになるかならないかのリーンが、パーシヴァルを見上げ、欲しそうに両手をパタパタさせる。

「こ、子どもは好きだが……き、君達のつぶらな瞳が今は恐ろしい……」

 パーシヴァルがうめく。人形サイズのパーシヴァルが不用意に小さな子どもの手の届くところに下りた場合、最悪の場合パーシヴァルが自分で言ったとおり「下手したら頭をかじり取られかねん」のだ。

「大丈夫です、パーシヴァルさん」

 ミオがきっぱりと言う。

「わたしがリーンをおさえてるから。ヤンはロンを見張ってて」

「ねーちゃん、ルカは?」

 ミオの弟、8歳のヤンが、5歳の弟ルカのほうを見やる。

「ルカはもう5歳だもん。ちゃんとおりこうに出来るよね?」

「うん、できるよ」

 と、ルカが胸を張る。

「だからパーシヴァルさん、下りてきてください。ダーニャおばさんのケーキは、本当においしいから!」

「――ありがとうございます」

 パーシヴァルはにっこりと笑った。

「では、お言葉に甘えて」

「ほいマスター、パース❤」

「どわっ!?」

 エリックにポンとケーキを投げ渡されたパーシヴァルが大きくよろめく。

「お、おまえ、私に何か恨みでもあるのか!?」

「いやー、恨みはないッスけど、ここはそうやっておくのがお約束かなー、って♪」

「妙な気をきかせるな!」

「――ねえ、エリックさんにパーシヴァルさん」

 最前までおとなしくしていたヒューバートが、小首を傾げて二人を見る。

「『悪魔』って、この世界じゃない、どこか別の世界から来たって、本当?」

「フフフ、本当ッスよ」

 下級悪魔のエリックがにやりと笑う。

「この世界のほかにも、世界ってあるの?」

 ヒューバートが目をパチクリさせる。

「もちろんあるッスよお。たっくさんたっくさん、それこそ数え切れないくらいあるんスから」

「ねえ」

 ヒューバートが身を乗り出す。

「ぼくもいつか、別の世界に行けるかな?」

「オタクが?」

 エリックが小首をかしげる。

「んー、不可能とは言わないッスけど、かーなーりむっずかしいッスねえ。だってオタクは人間でしょ? 人間って言うのは基本的に、自分の生まれた世界の外には行けないものッス」

「なあんだあ、そうなの?」

 ヒューバートががっかりしたように肩を落とす。

「ま、不可能とは言わないッスけど」

 と、エリックはニヤニヤ笑う。

「妙な誘惑をするな、エリック」

 パーシヴァルが硬い声で言う。

「ヒューバートさん、私は元は、人間でした。だからあなたに忠告しておきます。人の身で、自分の生まれた、自分の所属する世界以外の世界をのぞこうとするものは、その代償に、人間をやめる覚悟が必要なんです。これは、あだやおろそかな気持ちで開いていい扉じゃない。あなたがどうしてもそれを選ぶというならとめはしませんが、その代償のことは知っていたほうがいい」

「え……」

「マスター、マスター」

 エリックがヒラヒラと片手をふる。

「子供相手に何ムキになってるんスか。ヒューちゃん怖がってるでしょー?」

「え? あ、す、すみません。お、大人気ない態度でしたね、今のは」

「……そんなことないです」

 ヒューバートはかぶりをふり、まっすぐにパーシヴァルを見つめた。

「教えてくれて、ありがとうございます」

「……どういたしまして」

 パーシヴァルはにっこりと笑った。

 それぞれがそれぞれなりに楽しみながら。

 お茶会は、今がたけなわ。




 それは、少し昔の物語。


 ――ざまあみろ。

 ザイーレンは、心の中でそう吐き捨てた。

 ざまあみろ。

 最も彼自身、一体誰に向かって「ざまあみろ」と思っているのか、どうもさっぱりわからない。

 ただ漠然と吐き捨てる。

 ざまあみろ。

 知っている。

 知っている。

 私は、知っているんだ。

 私が傘を持たずに外出すると、雨が降る。

 私が傘を持って外出すると、雨が降らない。

 知っているんだ、そんなこと。

 ほら――今日だって、私が傘を持たずに外出したから、見事にきっちり雨が降ったじゃないか。

 でも。

 私はいまさら、傘をほしがったりなんかしない。

 いまさら、雨宿りできる場所を求めて右往左往したりなんかしない。

 私はただ、悠然と。

 雨の中を、傘もささずに歩き続けてやるんだ。

 ――ざまあみろ。

 ザイーレンはぼんやりと、そんなことを考えていた。

 ザイーレンは、あてもなく、とりとめもなく、街を歩くのが好きだった。

 わずかな、自分の気には触らないような方法で身辺を護衛してくれている者達だけをつれ、ぶらぶらと街をほっつき歩いていると、ハイネリア四貴族筆頭、イェントン家当主、ザイーレン・イェントンであることを、ほんのひととき忘れることが出来た。

 そう。

 何をどうやってもかの異能の天才、ハイネリア四貴族次席、ソールディン家当主、リロイ・ソールディンに勝てない自分であることも。

 結婚式のまさにその当日に、満場を埋めつくす招待客たちの面前で、花嫁から見捨てられた、みじめな男であることも。

 ほんのひととき――完全に忘れることまでは出来ないまでも、頭の片隅に追いやっておくことが出来た。

 ザイーレンは、街を歩くのが好きだった。

 街の雑踏の中では、自分がただの群衆の一人であると思うことが出来た。

 街を歩くのが好きだった。

 気を紛らわすことが出来るから。忘れることが出来るから。

 だから――少し注意力が散漫になっていたのかも知れない。

 角を曲がった、そのとたん。

 ザイーレンは、小さな人影と思い切り衝突した。


「あ! す、すまん。大丈夫かね?」

「あ、はい、こ、こちらこそごめんなさい、ぶ、ぶつかっちゃって」

 と、言いながら、その人影――小さな少女は、あまり大丈夫そうには見えなかった。

 ザイーレン自身、別に大柄なほうではないが、その少女は本当に小さかったのだ。ザイーレンは衝突しても少し驚いただけでびくともしなかったが、少女はまともにひっくり返り、ご丁寧にも手に持っていた紙包みを水溜りの中にぶちまけてしまっていた。

「すまない。服が汚れてしまったね」

「――別にいいんです。こんな服、どうでも」

 少女は奇妙に硬い声で言った。少女が身にまとっている服は、奇妙に――奇妙に――。

 奇妙にかわいらしすぎる。ザイーレンの脳裏に、そんな不思議な言葉が浮かんだ。奇妙にかわいらしすぎる。あちこちにリボンがつき、ビラビラとひだ飾りがつき、奇妙にかわいらしすぎる。その服は正直、その少女にあまり似あってはいなかった。

「――あ!」

 自分の両手が空っぽであることに気がついた少女が悲鳴を上げ。

「――ああッ!?」

 水溜りの中に落ちた紙包みを見て、さらに悲痛な声を上げる。

「す、すまない、大切なものだったのかな?」

「あ――ご、ごめんなさい、へんな声出して。い――いいんです。わたしが不注意だったのがいけないんです」

 少女はけなげにも、ザイーレンに向かってにっこりと微笑んで見せた。

「そちらのほうこそ、あの、だ、大丈夫ですか? お、おけがとかありませんか?」

「君のようなかわいらしい子にぶつかられたくらいで、けがなんてしやしないよ」

 ザイーレンもにっこりと笑った。花嫁に逃げられていらい、ひどい女嫌いになったザイーレンだが、この少女はザイーレンの目には『女』ではなく、『子供』に見えた。だからにっこり笑ってやることも出来た。

「本当にすまなかったね。これ、君のだろう?」

「は、はい」

 ザイーレンの手から紙包みを受け取った少女は、あわてて中身をひっぱり出した。

 その中身は、2冊の本だった。

 そして。

 泥水にぐっしょりと濡れてしまっていた。

「――あ――」

 ザイーレンに気を使ったのだろう。少女は、悲しげな声を押し殺し、ぎゅっと唇を噛んだ。

 しかし、こらえきれなかったのだろう。その両目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

「あ――ほ、本当にすまない! べ、弁償するよ!」

「え――あ、い、いいんです。わ、わたしがもっと気をつけていればよかったんです」

 少女はまっすぐにザイーレンを見てそう言った。

 少女が、本当にそう思っているのだということが、ザイーレンにはよくわかった。

 それを失ったことで、涙を流すほど悲しんでいながらも、その原因をつくったザイーレンのことを、少女は微塵も責めてはいなかった。

「――どんな本なのかな、それは?」

 ザイーレンは、出来るだけ優しい声で問いかけた。

「もし私が手に入れることが出来るようなものなら、新品を買ってお返しするよ」

「え――あ、い、いいんです」

 少女は、奇妙におびえたような顔で言った。

「まあ、ちょっと見せてごらん」

 ザイーレンは半ば強引に、少女の手から本を受け取った。

 そして、目を丸くした。

「――『白竜戦役がもたらした国家機構再編成と肥大化した組織の強制的削減』。こっちは――『血統から見た魔術の才の伝承についての考察――『同胞』は遺伝するのか?』。これは――」

「お――おかしいですか、わたしみたいなちっちゃな女の子がこんな本を読むのって?」

 そう問いかけながら、少女はもう、答えを予測していた。

「君みたいな小さな女の子が、こんな本を読むなんておかしいな」。――そういわれることを予想していた。

 ザイーレンには、それが容易に見て取れた。

「――おかしくなんかない」

 ザイーレンは、にっこり笑ってそう言った。

「むしろ立派なことだと思うよ。君のような小さな女の子が、こんなに素晴らしい本を読むなんて。私は両方とも読んだことがあるが、どちらもとてもいい本だった」

「――ほ、ほんとですか?」

 少女の目が輝き、頬が真っ赤にほてった。

 それをザイーレンは、奇妙に痛ましいような気持ちで見つめた。

 この少女は、きっと今まで誰からも、そんな言葉をかけてもらったことがないのだろう。

 そう、思った。

「これは、君が自分のお金で買ったのかな?」

「そ――そうです。母さんは、わたしがいりもしない、着たくもない服はいくらでも買ってくれるのに、わたしが本当にほしい本は、絶対に買ってくれないから、だから私、は、働いて――」

「そうか。君は本当に偉いね」

 お世辞ではなく、ザイーレンは本当にそう思ったのだ。ザイーレン自身、本を読むのは好きだった。

「だったらなおさら、私にその本を弁償させてくれ。ああ――この近くに、私のいきつけの本屋があったな。そこにいけば、多分その2冊はおいてあるだろう。――しかし」

 ザイーレンは、ぐしょぬれになった少女と、同じくぐしょぬれの自分に、そのときようやく気がついた。

「やれやれ、ぐしょぬれだな、二人とも。――君は、あそこの喫茶店に入ったことはあるかな?」

「え、ええと、い、一回だけ」

「そうか。だったらあそこが、ちゃんとした店だということはわかるだろう。あそこでちょっと、服を乾かそう。もちろん、お茶ぐらい私がごちそうするから」

「え――わ、悪いです、そ、そんなことまでしていただいちゃ」

「いいんだよ。君みたいないい子をこんなひどい目にあわせたまま帰らせてしまっては、私の気がおさまらない」

「え――ええと――」

「さあ、行こうか」

「あ――はい――」

 そして二人は、喫茶店に向かって歩き出した。


 ――それが二人の出会いの話。

 イェントン家当主、ザイーレン・イェントンと、その妻、エリシア・イェントンの出会いの話。

 ザイーレンは、そのときまだ気がついていなかった。

 だが。

 あの時に。

 自分の大好きなことを、初めて誰かにほめてもらった少女の、真っ赤にほてる頬とキラキラ輝く瞳を見たとき、すでに。

 ザイーレンは、恋におちていたのだ。

 ザイーレンがそれに気づくのは、その出会いから、しばらくの時を経ることとなるのだが。




「単刀直入にうかがうんだけど」

 クレアノンはまっすぐにメリサンドラを見つめた。

「今ユミルさんをハイネリアに連れ帰ったとしたら、ユミルさんは、何らかの罪に問われるのかしら?」

「あなたは、ユミルさんが罪に問われたりして欲しくないんでしょう、クレアノンさん?」

 メリサンドラは小さく笑った。

「もちろん」

 クレアノンは大きくうなずいた。

「私、もう、あの二人にすっかり情がうつっちゃってるから」

「二人――ね」

 メリサンドラは、小さくため息をついた。

「お相手は、どんな人なのかしら?」

「どんな――」

 クレアノンは考えこんだ。

「そうねえ――ひとことで説明するのは難しいわね」

「女の人?」

 と、メリサンドラがまずたずねたのは、他でもない弟のカルディンが、男も女も見境なしの漁色家だからである。

「…………ええと、今はどっちなのかしら?」

「え?」

「ええとね、あの」

 クレアノンは小さく吐息をついた。

「その人、人間と淫魔の混血でね。男と女を、いったりきたりしちゃうのよ」

「…………あら、まあ」

 メリサンドラは小さく肩をすくめた。

「それはそれは」

「やるじゃん、ユミル」

 カルディンはケラケラと笑った。

「俺がふざけて口づけしてやろうとしたら、すっとんで逃げたお坊ちゃんが、いや、がんばったがんばった」

「カル――あんた、そんなことしてたの?」

 メリサンドラがあきれたように言う。

「からかっただけだって」

 カルディンはニヤニヤと笑った。

「大概にしときなさい」

 メリサンドラは、軽くカルディンをにらんだ。

「それで、ええと――とにかく、クレアノンさんは、その二人が名乗り出ることで、二人がひどい目にあったりしないようにしたいわけね?」

「ええ、そうよ」

 クレアノンは小首をかしげた。

「出来るかしら? 二人が罪に問われないようにすることは?」

「そうね――」

 メリサンドラは、ちょっと口をすぼめて考えこんだ。

「――なんとかなると思うけど」

「本当? 私、あなたがたのことは、ほとんど書物の知識しかないから。いい方法があるなら、教えていただけるならありがたいわ」

「そうね――そもそも」

 メリサンドラはニヤリと笑った。

「ユミルさんは、何か罪に問われるようなことをしたのかしら?」

「え、で、でも、メリー姉さん」

 ミーシェンが、思わず、といったふうに口をはさんだ。

「お話によれば、ユミルさんはその、どう聞いても、脱走兵としか思えないんですけど? あ、ご、ごめんなさい、余計な口出しして」

「いいのよ、シェン。もう自由にしゃべっていいわ。というか、あなたの考えをどんどん聞かせてちょうだい。あなたはユミルさんのことを、脱走兵だと思うのね?」

「そうとしか聞こえないんですけど」

「そうかしら?」

 メリサンドラの唇に、不敵な笑みが浮かぶ。

「ねえミーシェン、こう考えてみて。ユミルさんは、臨界不測爆鳴気の拘束場の中で、ファーティスの魔術師と二人っきりになり、どういう過程を経たのかはわからないけど、その人と恋におちた。その人はね、ファーティスから、このハイネリアに移住したい、亡命したいと思ったの。なぜならその人も、ユミルさんに心から恋をしてしまったから。もちろんユミルさんも、そうして欲しいと思った。でも――」

 メリサンドラは、大きく息をついた。

「拘束場の中にいる人間に、外の様子はまったくわからない。拘束場が消えたとき、そこにいるのが私達ハイネリアの軍隊なら、なんとかユミルさんが説得することも出来るかもしれない。でも、そこにいるのがファーティスの軍隊だったら――」

「――二人とも、その場で殺される可能性がありますね」

 硬い声で、ミーシェンは言った。

「そのとおり。だからね、二人はとりあえず、緊急避難をすることにしたのよ。とにかくその場を離れて、それからハイネリア軍に合流しようと思ったの。これまた方法はわからないけど、二人はどうにかして、拘束場を抜け出すことに成功した。でも――『どこに』脱出するか、っていう、場所までは、選ぶことが出来なかったのね。二人はなんと、クレアノンさんの住む、ディルス島にまで飛ばされてしまった。もちろん二人は、すぐにハイネリアに来て事情を説明するつもりだったのよ。でも、右も左もわからない土地でしょう? 勝手がわからなくて困ってしまっているところを、クレアノンさんに保護されたわけよ。――どう、シェン」

 メリサンドラはクスリと笑った。

「二人は何か、ハイネリアに対する罪を犯しているかしら?」

「そ――その話で押し通すつもりですか?」

 ミーシェンは目を白黒させた。

「だってそういう話でしょう?」

 メリサンドラは、平然と言い放った。

「――さすがだわ」

 クレアノンは、大きく拍手をした。

「あなたがたが力を貸してくれることになって本当によかった」

「ありがとう」

 メリサンドラはにっこり笑った。

「たかだか人間風情が、あなたのような竜にそんなにほめてもらえるなんて光栄よ」

「『たかだか』なんてことはないわ。あなたがた人間のほうが、私達竜より優れているところなんていくらでもあるもの」

「あら」

 メリサンドラは目を丸くした。

「お世辞でもうれしいわ」

「お世辞じゃないの」

 クレアノンはかぶりをふった。

「たとえば、私達竜は、あなたがた人間のように、それとも亜人のように、国家をつくることなんてできないわ。私達竜は――自分以外の他者と協力するってことが、とっても苦手なの」

「あら、あなたも竜でしょ?」

 メリサンドラはいたずらっぽく笑った。

「あなたは、他者との協力が苦手なようにはとっても見えないんだけど?」

「ああ」

 クレアノンは苦笑した。

「そういう意味では、私は変わった竜なんでしょうね」

「ありがたいわ」

 メリサンドラは真顔で言った。

「そんなあなたと、協力しあうことが出来て」

「――光栄よ。そんなふうに言っていただけて」

 クレアノンは、静かに微笑んだ。

「さて――そういうことなら、二人をハイネリアに連れてきても大丈夫そうね」

「そうね、まあ――」

 メリサンドラの目が、鋭く輝いた。

「当分の間は、この屋敷にかくまうのが無難だと思うけど。そうね、兄さんは、うそがつけない人だから、それが問題といえば問題だけど――」

 メリサンドラは小さく苦笑した。

「兄さんは、『この人達はお客さんだから』とだけ説明しておけば、『そうか、わかった』って言って、それ以上の説明なんて何にもなくても、その人達をお客さんとしてもてなしてくれる人だから。兄さんには、余計なことを教える必要はないわ。そうすれば、うそをつく必要もなくなるもの。だって本当に知らないんだから」

「――大丈夫なんでしょうか?」

 ミーシェンが不安げに問いかける。

「そんな――ファーティスの魔術師なんかを、この屋敷に入れて――」

「だって、シェン」

 メリサンドラは肩をすくめた。

「この屋敷ではもう、竜をお客様としておもてなししてるのよ?」

「…………確かに」

 クレアノンを見やったミーシェンが、素直にうなずく。

「――と、いうことで」

 メリサンドラはクレアノンににっこりと笑いかけた

「そこらへんの細々としたことは、わたし達に任せてもらえるかしら?」

「ええ、もちろん」

 クレアノンもまた、メリサンドラににっこりと笑いかけた。

「そうしていただけると、本当にたすかるわ」

「それじゃあ、そういうことで。いいわね、カル、シェン」

「まあな、そういうことは、姉貴がいっちばんうまいからな」

「ボクも異存はありません。全面的に協力します」

「ありがとう。あとは、兄さん――は、とりあえずおいておくとして。ターシャもたぶん、反対はしないでしょうね」

「だったら」

 クレアノンは目を輝かせた。

「私、いつごろあの二人をハイネリアまで連れてくればいいのかしら? あなた方の都合にあわせるから、都合のいいときを教えてちょうだい」

「そうね――兄さんと、義姉さんに、相談してみるわ」

 メリサンドラは軽くクレアノンにうなずきかけた。

「たぶん、明日にでもつれてきて大丈夫だって言ってくれるわよ。兄さんは、そういうことをそっくり義姉さんに任せてるし、義姉さんは、本当に家の切り盛りがうまいんだから」

「わかったわ。ありがとう」

 クレアノンは大きく笑った。

「ああ――私、なんだか、今、本当に生きてるんだって気がするわ!」

「――おかしいわね」

 メリサンドラは、やさしい微笑を浮かべた。

「あなたはきっと、わたしなんかよりずっとずっと年上なんでしょうにね。なのに、今、あなたが若い女の子みたいに見えるわ」

「――そうなのかもね」

 クレアノンは、静かに微笑んだ。

「これをはじめた――新しい世界をつくろう、って決めたその日こそが、私の第二の誕生日なのかもしれないわね」




「結局、私が竜だってことは隠さなくていいのね?」

「隠したほうが、バレた時にまずいでしょう、いろいろと」

 メリサンドラは肩をすくめる。

「まあ、わざわざ吹聴してまわる必要もないと思うけど」

「わかったわ」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「それじゃあ――」

 メリサンドラも、クレアノンににっこりと笑いかけた。

「子供が多いから、ちょっとうるさいけど我慢してね。――兄さん、入っていいかしら?」

「ああ」

 メリサンドラのノックに、リロイの短い返事が返る。

「お待たせー。ようやくこっちの話がまとまったわ」

「だから」

 扉を開けた面々の耳に、話に熱中しているナスターシャの声が飛び込んできた。

「風の魔法で飛ぶのと、浮遊魔法で飛ぶのとでは全然違うんだ。ハルディアナさんは、エルフだから浮遊魔法が得意だろう?」

「そうねえ、浮遊魔法は、あたし達エルフのお家芸ねえ」

「飛んでる時の感覚が、もう全然違うんだから!」

「そうなの?」

 ミオが目を丸くする。

「どっちが気持ちいい?」

「ん?」

 ナスターシャは、目を白黒させた。

「のんびり空をお散歩したい時は浮遊魔法で、風みたいに思いっきり空を駆けまわりたい時は風魔法ねえ」

 と、ハルディアナがクスクス笑いながら答える。

「ふうん」

「あ!」

 扉から入ってきたクレアノンを見つけたヒューバートが、パッとそばによる。

「こ、こんにちは! ええと、ええと、ぼくは、ヒューバート・ソールディンです! ええと――」

 ヒューバートは首を傾げた。

「あなたはどちらさまですか?」

「ご丁寧なご挨拶、どうもありがとう、ヒューバートさん」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「私はクレアノン。種族は、黒竜よ」

「……え」

 ヒューバートの口が、ポカンと開いた。

「りゅ――竜!?」

「ああ――私のことが怖いのかしら?」

 クレアノンは、少し悲しげに言った。

「確かにガーラートは――あなたがたのもといた国を滅ぼしてしまった白竜は、本当にひどいことをしたものね。あなたがたが竜を怖がるのもわかるわ。でも――私は、あなたがたと、仲良くしたいの。本当よ」

「ヒューバートさん」

 ライサンダーが、笑いながら口をはさんだ。

「怖がらなくても大丈夫ですよ。クレアノンさんは、本当に優しい竜ですから。俺達なんか、ディルス島からハイネリアまで来る時、クレアノンさんの背中に乗せてもらってきたんですよ。ビューンとね、こう、空を飛んで」

「え!?」

 ヒューバートの頬が、パッとほてる。

「りゅ、竜の背中に!? うわあ、すごいなあ――」

「すごい? そう?」

 クレアノンが、ちょっときょとんとする。

「別に、そんなに大変なことでもなかったわよ? ああ、まあ、私は飛ぶのはあんまりうまくないから、いつもよりちょっと気をつけて魔法を使ってはいたけど」

「いやいや、クレアノンさん」

 ライサンダーが苦笑する。

「ふつーの連中にとっちゃ、竜の背中に乗るなんて、ただそれだけで一大事件ですって」

「ふうん? ああ、まあねえ、たいていの竜は、他の種族と仲良くなんてしようとしないものねえ、あんまり」

「ク――クレアノンさん」

 ヒューバートは、頬をほてらせたまま言った。

「ぼ、ぼく――ぼくも――ぼくも、クレアノンさんの背中に乗ってお空飛びたいなあ!」

「ヒュー、ずるい!」

 口をとがらせてミオが割りこむ。

「わたしだって、クレアノンさんの背中に乗せてもらいたい!」

「ぼくも!」

「ぼくも!」

「ぼくもお!」

 ミオの小さな弟達も、口々に騒ぐ。一番小さな妹のリーンだけが、話の意味もわからず、エルメラートの服の中やら体の上やらを素早くいったりきたりする黒貂の黒蜜を見てキャッキャッとはしゃいでいる。

「あらあら」

 クレアノンは、うれしそうに笑った。

「ええと――こういうときって、確か、あなたがたの文化だと、ご両親におうかがいを立てるものなのよね?」

「そうね」

 メリサンドラはクスリと笑った。

「俺は反対したりしねーよ」

 カルディンが即座に答える。

「つーか、反対したりしたらこいつらに髪の毛全部むしられちまう」

「やったー!」

「わーい!」

「うあーい!」

「おそら!」

 ミオ達が口々にはしゃぐ。

「と――父さん」

 ヒューバートが、少し不安そうにリロイを見つめた。

「ぼ――ぼくも、いいでしょ?」

「――」

 リロイは、じっと息子を見つめた。

「――ヒューバート」

「は、はい」

「おまえ」

 リロイの青い瞳は、まっすぐにヒューバートの茶色い瞳を見つめていた。

「クレアノンさんと、ずっと仲良くできるか?」

「え?」

「大人になってからも、ずっと仲良しでいられるか?」

「え――」

 ヒューバートは、困ったように目をしばたたき。

 ややあって。

「――うん」

 と、大きくうなずいた。

「だって、クレアノンさん、にこにこ笑ってるもん。ちっとも怖くないもん。クレアノンさんのお友達の、ライサンダーさんも、パーシヴァルさんも、エリックさんも、エルメラートさんも、ハルディアナさんも、みんなみんな、とってもいい人達だもん。だから、ぼくきっと、大人になってからも、ずっとクレアノンさんと仲良しでいられるよ」

「そうか」

 リロイは大きくうなずいた。

「だったら、いい。許す。――クレアノンさん」

「なあに、リロイさん」

「私達人間の寿命は、短い」

「――」

 唐突なリロイの言葉に、クレアノンはちょっと驚いたようだが、口をはさむことはしなかった。

「私達の寿命は、短いんだ」

 リロイは繰り返した。

「他の、似たような姿をした者達――エルフやドワーフやノームやホビットと比べても、まだ短い。淫魔よりもたぶん、私達の寿命は短いんだろう」

「――そうですね」

 エルメラートは静かにうなずいた。

「ええ。ぼく達淫魔の寿命は、あなたがたより長いですね」

「私達は、すぐに死んでしまう」

 リロイは、まっすぐにクレアノンを見つめた。

「あなたよりも、ずっと早くに」

「――」

 クレアノンは、かすかにうなずいた。

「――だから、子供達と仲良くしてほしい」

 まなざしと同じように。

 リロイはまっすぐに言った。

「私達は、すぐに死ぬけど、そのかわりに子供を産むから。私達が子供を産んで、子供達はまた子供を産むから。だから、子供達と仲良くし続けていけば――」

 リロイは、静かな笑みを浮かべた。

「あなたはずっと、私達と仲良くし続けていくことが出来る。――あなたが望んだとおりに」

「――」

 クレアノンは息を飲んだ。

 リロイは確かに、人づきあいが得意ではない。彼が努力しても彼には理解することが難しい感情というものもいくつかあるし、彼の、それなしでは心の平静を保てない、独自の規則やこだわりも、事情を知らない者達からは、単なる奇癖やわがままととられてしまうことが多い。

 だが、それは。それらのことは。

 リロイが、他者の気持ちを思いやることが出来ないということを、示しているのではないのだ、決して。

「――ありがとう」

 珍しいことに。

 クレアノンは、言葉をつまらせていた。

「本当に――ありがとう、リロイさん」

「――」

 リロイはしばし、目をしばたたき。

「――どういたしまして」

 と、生真面目にこたえた。




「もしもーし、アレンさん、聞こえるー?」

『うわ!? ユ、ユミル、リリーがしゃべりました!?』

 アレンのびっくり仰天した声に、ライサンダーやメリサンドラが苦笑する。クレアノンがアレンに渡した黒猫リリー――他の世界ではもしかしたら『ペットロボット』と呼ばれるのかもしれない――が、いきなりクレアノンの声でしゃべり出したのに、素直に驚くアレンの声を聞いて。

『落ちついて下さいアレン。クレアノンさんが言っていたでしょう。連絡を取りたい時は、リリーや竜鱗刀に話しかければいいって。今回は、クレアノンさんのほうが、私達と連絡を取りたがっているんですよ』

 落ちついてアレンをなだめるユミルの声に、クレアノンはにっこりと笑う。

「そのとおりよ。ユミルさん、アレンさん、ちょっとお話があるんだけど、いいかしら? あ、それと、映像のほうもつなげちゃってもいい?」

『え、映像ですか? ああ、はい――どうぞ』

「それじゃ」

 クレアノンが水晶玉の上で手をふると、水晶玉の中に、ライサンダー達の家で留守番中の、ユミルとアレンがうつしだされる。

『ク、クレアノンさん』

 ユミルの、あっけにとられた声が響く。

『リ、リリーの上に、な、なんかその、え、映像が出てきたんですけど!?』

「うん、通信状態は良好ね」

 クレアノンは満足げに笑った。

「あのねユミルさん、結論から先に言うわ」

『え? あ――はい』

 水晶玉の中のユミルの顔がひきしまる。

『どうぞ』

「私達、ソールディン家と協力関係を築くことに成功したわ」

『――』

 ユミルの瞳が、複雑な色を宿して揺らめく。

「――クレアノンさん」

 メリサンドラがささやく。

「わたしもお話しできるかしら?」

「ええ。じゃあ、あなたの映像を送るわね」

 クレアノンが片手をひらめかせる。

『――メリサンドラさん』

 ユミルの口から、ため息のような声がもれた。

「わたしをご存知なの?」

『ハイネリアに住んでいて、ソールディンの四兄弟を知らない人なんていませんよ』

「あら、それは光栄だわ」

 メリサンドラは悪びれずににっこりと笑った。

「それじゃあ、これでクレアノンさんの言葉を信じていただけたわね?」

『――あなたの姿を見なくても信じますよ、私は』

 ユミルは、いささか反抗的に言った。イェントン家とソールディン家の確執――というか、イェントン家のかなり一方的な強い劣等感――は、どうやらユミルの内にも根をおろしているらしい。

「そうね。疑うようなことを言ってごめんなさい」

 メリサンドラはサラリと謝罪した。

「それで――と。わたし、というかわたし達、あなたがた二人にお願いがあるんだけど。ああ、といっても、具体的な方法を考えてもらうのは、ほとんどあなたになると思うけど、ユミルさん」

『――何をお望みですか?』

 幾分警戒しながら、ユミルが問いかける。

「――」

 メリサンドラは、大きく息をついた。

「――クレアノンさんがやろうとしていることは、わたし達、ソールディン家だけの協力でどうこうできるようなことじゃないの。どう少なく見積もっても、ハイネリア全体の協力が必要になるのよ」

『――それは、そうだと思います』

 ユミルは、鋭く目を光らせながらうなずいた。

『それで――私にどうしろと?』

「調べさせてもらったわ」

 メリサンドラは目をしばたたいた。

「ユミルさん、あなたは一時、ザイーレンさんの養子に、という話もあったそうね?」

『ああ、はい、あったそうですね。まあ、もうザイーレンさんにはお子さんがいらっしゃいますから、いまさらそんな必要もないと思いますが』

 ユミルはさばさばとした口調で言った。過去はどうだか知らないが、少なくとも今現在、彼はそのことに対してなんら痛痒を感じてはいなかった。

「それでね」

 メリサンドラは、再び息をついた。

「あなた――なんとかして、ザイーレンさんを説得できないかしら?」

『――』

 ユミルは軽く唇を噛んだ。

『――あなたが、私にそんなことを依頼する理由は、一応わかっているつもりです』

 ユミルはゆっくりと言った。

『イェントンとソールディンは、仲がいいとは言えない――いえ、正直に申し上げますと、そちらは特になんとも思っていないのに、こちらが勝手に毛嫌いしています。まあ、その、それくらいの自覚はあるんですよ、私達にも』

「――わたし達も、いけなかったの」

 メリサンドラは、重い声で言った。

「知らん顔して、ほうっておいたのが一番いけなかったの。ほんとは――ほんとはもっと、仲良くする努力をするべきだったのよ、わたし達」

『――ありがとうございます』

 ユミルはにっこりと笑った。

『ええ、私もそう思います。いがみあっているより、仲良くしあったほうがずっといい。こんな簡単なことを、アレンに出会ってようやく、私は学ぶことが出来ました』

「そちらが、アレンさんね?」

『ええ』

 ユミルは、誇らしげに胸を張った。

『私の、妻です』

 ユミルの発言に、部屋の中の面々がどよめく。

「あら、おめでとう」

 メリサンドラは、クスリと笑った。

「はっえー!!」

 カルディンがすっとんきょうな声をあげる。

「おめー、俺より手が早かったのかよ。やるなあミルミル」

『…………うう』

 ユミルが、いきなり頭の上に一抱えもある岩を投げ落とされたかのような顔でうめいた。

『わ、私のことをそんなふざけた呼びかたで呼んだのは、い、いまだかつて一人しかいません……』

「そーだよーん、男も女も見境なしの、カルディンだよ~ん♪」

『自分で言わないで下さい自分で!』

「まあまあまあまあ。いやー、しっかしかわいーねー、おまえさんの幼妻は」

『カルディンさん』

 ユミルの目が凶悪な色をおびる。

『もしアレンに手を出すなんてふざけたことをしたら、私あなたを人間松明にしますからね!!』

「おっとお」

 カルディンは面白そうににやにやした。

「ミルミルは、俺の二つ名を知っててそういうことを言うのかなー?」

『――『炎のカルディン』だろうとなんだろうと、私はやりますからね』

 さらに凶悪さを増すユミルの後ろで、アレンがおろおろしているのが見える。

「カル」

 メリサンドラの鉄拳が、カルディンの頭に炸裂する。

「あんたちょっとひっこんでなさい。大事な話なんだから」

「へーいへいへい。いやー、相変わらずからかいがいのあるやつだ❤」

「どきなさい」

 メリサンドラのさらに重みを増した鉄拳が、カルディンのみぞおちにめり込む。

「ウゲッ!?」

「――本当にごめんなさい。この馬鹿のことは気にしないで」

 メリサンドラが大きくため息をついた。

「で、ええと――」

『ザイーレンさんを説得すればいいんですね?』

「出来るかしら?」

『…………』

 真剣な顔でユミルが考えこむ。返事を待つクレアノン達が、そろって固唾を飲む。

『…………私は』

 ゆっくりと、ユミルが口を開く。

『あらゆる意味で、ザイーレンさんには勝てません。あの人を論破しようとしても、反対にこちらが打ちのめされるのが関の山です。私をネタに同情を誘おうというのも、まあ無駄なことでしょう。あの人の身内に対する優しさと厳しさは表裏一体です。あの人は、道を踏み外したものに対してはこの上なく苛烈です。――ああ』

 ユミルが、あわてたような顔でアレンを見やる。

『アレン、別にあなたのことを責めているんじゃないんですよ。――とにかく、私ではきっと、ザイーレンさんを説得することなど出来ないでしょう。――ただ、もしかしたら』

「もしかしたら?」

『もしかしたら』

 ユミルの琥珀色の瞳は、静かな光を放っていた。

『エリシアさんが――ザイーレンさんの最愛の人が、おそらく今最も必要としているであろう存在に、なることぐらいは――出来る、かもしれません。確信はありませんが』

「ユミルさん」

 メリサンドラが目を輝かせた。

「それはいったい、なにかしら?」

『――恥ずべきことです。イェントンの一族の中で、あの人に寄り添おうとした者が一人もいなかっただなんて。――もちろん、私も含めて』

 ユミルはまっすぐに部屋の面々を見つめた。

『でも、今の私にはわかります。エリシアさんが、いったい今何を必要としているのか。どれほどそれが必要なのか。――よく、わかります。だってそれは――私達もまた、必要としていたものなんですから。――クレアノンさん達と出会うまでは』

「――」

『エリシアさんが、きっとこの上なく必要としているもの、それなのに、誰もそれになろうとはしなかったもの、それは――』

 ユミルの、口から。

『――味方になってくれる、いつでも味方になってくれる、自分が悲しい時、つらい時、困っている時にそばにいてくれる――友人、ですよ』

 明日へのしるべが告げられる。

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