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第3章

「あれ?」

 クレアノンとともに朝食の席につく中年の男性を見て、ライサンダーは首を傾げた。

「ええと――」

「あらあ」

 ハルディアナがクスクスと笑った。

「パースちゃんじゃない」

「あ! ほんとだ、パーシヴァルさんだ!」

「どうも、おはようございます」

 パーシヴァルは、少し照れたように一礼した。

「クレアノンさんのお力添えで、その、昔の大きさに、一時ながら、戻れたわけでして、はい」

「へー」

 エルメラートがにこにこと笑った。

「お似合いですね、二人とも」

「あら」

 クレアノンは、半ば楽しげに、半ばいたずらっぽく笑った。

「恋人どうしに、見えたりするのかしら?」

「え!?」

 と、目を白黒させたパーシヴァルは、

「見えますよお」

 と請け合うエルメラートの言葉に、さらに慌てふためいた。

「え、いや、その、そんな、い、いくらなんでも格が違いすぎますよ! そ、それに私は、妻のいる、ああ、いや、妻はすでに他界しましたが、それでもやはり私の心の中では私の妻はガートルード様ただ一人でありまして!」

「ごめんなさいね、からかったりして」

 クレアノンは、クスクスと笑った。

「でも私、そんなこと言われたの初めてだから、とっても楽しかったの。それに、うれしかった」

「いや、その――す、すみません、お見苦しいところをお見せして」

 パーシヴァルが頭をかきながら言った。

「エリックにもよく、私は堅物すぎると言われるんですが。どうもその、持って生まれた性格というのは、人間をやめてしまっても、そう簡単にはなおらないようでして」

「それはそうかもね」

 クレアノンはまた、クスクスと笑った。

「ごめんなさいね、先に軽くいただいてるわ」

「あ、いや、かまいませんよ。俺達のほうこそ、遅くなってすみません」

「クレアノンさんは」

 エルメラートは、テーブルの上のパンやチーズや温野菜を添えたいり卵などを見まわした。

「ほんとの体は、すっごく大きいですよね? あの、ええと、こんなちょっぴりで足りるんですか?」

「あら」

 クレアノンは吹きだした。

「私が本当の体の時に食べる量を食べたりしたら、ここの宿の人達、みんな目をまわしちゃうじゃない」

「でも」

 パーシヴァルの結界で、周りの人間が、このテーブルの会話を聞こうという気がまったくなくなっていると知っているエルメラートは、興味しんしんと言う顔で身を乗り出した。

「おなかすいちゃいません?」

「竜はね、かなり食いだめがきくの」

 クレアノンはちょっと照れたように笑った。

「おなかいっぱい食べておけば、半年ぐらいは楽にもつの。だから大丈夫よ。今私は、ほんとは食べなくても大丈夫なんだけど、料理の味や、食事の雰囲気を楽しみたいから食べているの」

「ああ、そうなんですか」

 エルメラートは、納得したようにうなずいた。

「よかった、こんなちょっぴりじゃ、絶対足りないと思ってたんですよ、ぼく」

「ありがとうね、気を使ってくれて」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「さ、みなさんも、好きなものを注文してちょうだい」

「いや、クレアノンさん」

 ライサンダーが口をはさんだ。

「ゆうべおごっていただいたんですから、今朝は俺がおごる番ですよ」

「あら――私、調子に乗っていろいろ頼んじゃったんだけど」

「大丈夫です」

 ライサンダーは、厳かにうなずいた。

「俺だって、ちゃんと旅費は持ってきてますから」

「ありがとう。それじゃあおごっていただくわ」

 クレアノンはうれしそうに言った。

「私、誰かにおごってもらうのって初めてよ」

「クレアノンさんは、ぼく達よりずっと――ええと、ぼく達より、ずっと年上ですよねえ? あ、女の人にこんな事をうかがうのは失礼ですか?」

「厳密には私は女性じゃないし、もし女性だったとしても別に失礼とは思わないわ」

 クレアノンはおかしそうに笑った。

「そうね、あなたがたより、そこのハルディアナさんより、ずっと年上よ」

「いやあねえクレアノンちゃん、あたしの年を引き合いに出す事ないじゃない」

 ハルディアナが口をとがらせた。

「あら、ごめんなさい。よけいなこと言っちゃったみたいね」

 クレアノンは首をすくめた。竜族ほどでないにせよ、エルフもまた、長命が世に名高い種族である。見た目にはまだまだ若いハルディアナも、実際はライサンダーやエルメラートより、かなり年上であった。

「クレアノンさんはそんなに長生きしたのに、初めてのことがいっぱいなんですね」

 エルメラートは無邪気に言った。

「あら――ほんとだわ」

 クレアノンは目をまるくした。

「そうね、私、あなた達と出会ってから、初めてのことがいっぱいで、とってもワクワクしてるわ」

「俺達も初めての連続ですよ」

 ライサンダーがにっこりと笑った。

「つーか俺、まさか自分が一生のうちで一度でも、竜の背中に乗って海を渡るなんてことをするだなんて、思ったこともなかったなあ」

「――きっと、すごく不謹慎に聞こえるんだろうけど」

 クレアノンは、小さくため息をついた。

「私がこんな事をはじめたのは、ものすごく正直に言うと――退屈で死にそうだったからなの。私達竜族には、確かに長い寿命と、程度の差はあれ、他の種族から見たら強大としか言いようのない力があるわ。でもね――その長い寿命と、強大な力とを使ってやるべき何かを、きちんと見つけている竜って、実はほんとに少ないのかもしれない。性格的に、問題が多々ある――というか、他の種族から見たら問題しか見つからないような性格の白竜のガーラートも、量子力学、っていう、自分の寿命と力とを全て注ぎこめる対象を見つけることが出来た、っていう点においては、そうね、他の竜からは、うらやましがられる存在なのかもね。――もっとも」

 クレアノンはクスリと笑った。

「竜っていうのは基本的に、他の存在に、あんまり興味がないからね。だからいっつも、みんなそれぞれ、勝手なことをしてばっかり」

「協力しあったりはしないんですか?」

 エルメラートが首を傾げた。

「竜どうしの個体差って、異常なほど激しいのよ」

 クレアノンは肩をすくめた。

「共通して興味を持てるような事ってほとんどないの。それに、わざわざ協力しあわなくても、たいていの竜は、たいていのことは自分だけでなんとか出来ちゃうし」

「あら、まあ」

 ハルディアナは嘆息した。

「それはある意味、運がよかったのかもねえ。だって、竜さん達がみんなで同盟を組んであたし達と戦おうなんて思っちゃったりしたら、あたし達、ひとたまりもないものねえ」

「それはないわ。安心して」

 クレアノンは断言した。

「いつかライサンダーさんが言った通り、基本的に私達は、相手からちょっかいを出されなければわざわざ自分から他種族にちょっかいを出したりしないわ。竜族って」

 クレアノンは苦笑した。

「自分の興味があること以外には、基本的に、怠け者なの」

「クレアノンさんは違いますね」

 ライサンダーが言った。

「あら、どうかしら」

 クレアノンはクスリと笑った。

「たまたま、私が興味を持っていることが『知識の蒐集』だから、あなた達にはそうは見えないだけで、ほんとは私も、とんでもない怠け者なのかもよ?」

「そうですかねえ?」

 ライサンダーは首をひねった。

「そうなのかもよ」

 クレアノンはクスクスと笑った。

「さ、それじゃあ、そろそろみなさん、朝ごはんの注文をはじめてちょうだい。今日も一日、観光を楽しむつもりなんだから、私」

 ハイネリアにやってきて、初めての朝の光景である。




「俺さあ、不満があるんだよね」

 ソールディンの四兄弟の一人、カルディン・ソールディンは、そう言って口をとがらせた。

「何が不満なのよ、カル?」

 その姉、メリサンドラ・ソールディンは、ルティ茶を飲みながら小首を傾げた。

「だってさあ」

 カルディンは、子供のようにプッとむくれた。

「だーれも俺を、俺が一番呼んで欲しい名前で呼んでくれないんだぜ?」

「え?」

 メリサンドラは、ちょっときょとんとした。

「あなたが一番呼んで欲しい名前って、いったい何よ?」

「それはもちろん」

 カルディンは、グイと胸をはった。

「『爆炎彫刻のカルディン』」

「――あのね」

 メリサンドラは小さく肩をすくめた。

「言っちゃなんだけど、あなたの彫刻ってわかりづらいのよ。もっとこう、何をつくったんだか誰が見てもわかるようなものをつくったら?」

「それじゃつまんねーじゃん!」

 カルディンはすねたように言った。

「俺はね、『人たらしの』とか、『炎の』とか言われるよりも、『爆炎彫刻のカルディン』って言われたいの!」

「そんなのわたしに言ったってダメよ」

 メリサンドラはあきれたように言った。

「みんなにそう言って欲しかったら、自分で努力なさい」

「努力はしてるよ」

「それじゃ、気を長く持ちなさい」

「俺、そういうの苦手なんだよ、知ってるだろ、姉貴?」

「よく知ってるけどね」

 メリサンドラは苦笑した。

「あなたもいいかげん腰を落ち着けなさいよ。あなたに比べたら、ターシャやシェンのほうがよっぽどしっかりしてるわ」

 ちなみに『ターシャ』とは、四兄弟の一番下の妹、ナスターシャのことで、『シェン』とは、世間一般の数えかたでは四兄弟の数に入れられることのない、腹違いの末っ子、ミーシェンのことだ。他人はソールディンの兄弟達のことを『ソールディンの四兄弟』と呼ぶが、兄弟達にとっては、ソールディンの兄弟とは、長男リロイ、長女メリサンドラ、次男カルディン、次女ナスターシャ、そして、腹違いの三男、ミーシェンの、五兄弟以外のなにものでもなかった。

「俺は永遠の少年、世界中みんなの恋人のまんまでいたいんだよ」

「寝言は寝て言いなさい」

 ビシッとかっこをつけたカルディンの宣言を、メリサンドラは歯牙にもかけず一蹴した。

「ところで――あなた、どうせまた、どっかにフラフラ出かけていくんでしょ?」

「人聞きの悪い。情報収集活動と言ってくれ」

「あなた、わたしよりもましな情報持って来た事って何回あったっけ?」

「それを言うなよ姉貴。俺だって努力はしてるんだよ」

「かわいい子をひっかけるための努力を、でしょ」

「ありゃ、よくおわかりで」

「まったく」

 メリサンドラはクスクスと苦笑した。

「ほんとにしょうがない子ね」

「おい姉貴、この年の男をつかまえて、『しょうがない子』はやめてくれ」

「だってほんとのことじゃない」

「チェッ、言ってろ」

「――で」

 メリサンドラは顔をひきしめた。

「ちゃんと見てきたんでしょうね?」

「ああ」

 カルディンも真顔になった。

「見てきたぜ」

「あそこで『臨界不測爆鳴気りんかいふそくばくめいき』が発生したっていうのは確かなの?」

「確かだな。発生源は、イェントンのとこのユミルと、ファーティス側は、どうやら『水の同胞』だったらしい」

「――それじゃ」

 メリサンドラは眉をひそめた。

「ユミルさんは、もう――」

「それが」

 カルディンは顔をしかめた。

「よく、わからん」

「え――だって、ユミルさんは確か、『同胞』じゃないわよね?」

「つーか、イェントンには『同胞』は一人もいねえよ。今回は――どうも妙なんだよ。様子がおかしすぎる」

「カルディン」

 メリサンドラは背筋をのばした。

「ひとことで言って。様子がおかしいって、どう様子がおかしいの?」

「――俺の見た印象を素直に言うぜ」

 カルディンは眉間にしわを寄せた。

「ユミルと、ファーティスの『水の同胞』は、臨界不測爆鳴気の、拘束場が開放される、その前に、二人そろってどっかに姿をくらましたとしか思えん」

「――うそでしょう?」

 メリサンドラは息をのんだ。

「それって――それってただ単に、脱出するところを見逃したってだけじゃないの?」

「見張ってたのは、イェントンとキャストルクの混成部隊だぜ。あいつらが見逃したってんなら、そっちのほうが俺にとってはよっぽど不思議でおっかねえ出来事だよ」

「――どういうこと?」

 メリサンドラも眉間にしわを寄せた。

「拘束場の中で、二人が殺し合った――」

「だとしても、死体や痕跡ぐらいは残るだろ。そうじゃねえんだよ。霧が晴れた時、拘束場の中には、誰もいなかったんだよ」

「――どういうこと?」

 メリサンドラは、再びつぶやいた。

「拘束場の中から、二人そろって消えてしまったなんて――」

「しかもその一人が、言っちゃなんだけど、イェントン家の一員だぜ」

 カルディンは大きく肩をすくめた。

「『二流ぞろいのイェントン』。ひでえ言われようだけど、たしかにそりゃほんとのことだよ。イェントンには、秀才はごろごろいるけど、天才はいない」

「あなた」

 メリサンドラが、軽くカルディンをにらんだ。

「ユミルって人に、手を出したことは?」

「からかったことならあるけどよ」

 カルディンはニヤニヤと笑った。

「いかにもイェントンでございって感じの、ちょっとひねた、ちょっと気障な、でも基本的にはかわいいお坊ちゃんだぜ。かっこつけて口髭なんて生やしやがって。けっこうにあってたけどよ」

「あら」

 メリサンドラは目をしばたたいた。

「若いの、その子?」

「あー、ミー公より、ちょい上、くらいかなあ。ターシャよりは下、かな?」

「――そう」

 メリサンドラは、小さく吐息をもらした。

「ファーティスの『水の同胞』――まあ、何人か思いあたるけど――誰だかわからないの?」

「ファーティスの連中ってのは、いつだって、えらく秘密が好きだからなあ」

 カルディンは肩をすくめた。

「わかったら教えるよ」

「そうしてちょうだい。――ファーティスのほうは、この事態をどう見ているの?」

「臨界不測爆鳴気が発生した後すぐ、イェントンとキャストルクがその場を固めたからな。なんか妙なことが起こってるかもしれない、くらいはわかっても、それがどんなふうに妙なことなのか、までは、わかってないと思うぜ」

「――そう」

 メリサンドラは、再び吐息をもらした。

「――ねえ、カルディン」

「ん?」

「ターシャなら――拘束場から、一人で脱出できると思う?」

「いや」

 カルディンは即答した。

「ターシャでも、一人じゃたぶん無理だ。――最低二人は必要だな」

「わたしもそう思うわ」

 メリサンドラは、軽く唇を噛んだ。

「カル――ファーティスが、事態を把握してないっていうのは確かなのね?」

「俺にはそう見えたけど」

「――よりにもよって、イェントンの子が」

 メリサンドラはポツリとつぶやいた。

「ファーティスの、『水の同胞』と――」

「俺らやセティカの連中だったら、みんな大して驚かねーだろうけどな」

 カルディンは肩をすくめた。

「もし俺や姉貴が思ってる通りの展開だったら、イェントンの連中、全員卒倒するぜ」

「――カル」

「ん?」

「あなた、これからは、その事件を中心に情報を収集しなさい。わたしもそうするから」

「了解。――姉貴」

「ん?」

「兄貴には――伝える? やめる?」

「こんな不確かな事態を報告したって、兄さんを混乱させるだけよ」

 メリサンドラはかぶりを振った。

「もっと、ちゃんと、筋道の通った説明が出来るようになるまで、わたし達で情報を収集することにしましょ」

「了解。ターシャやミー公はどうする?」

「あの子達は――」

 メリサンドラは、しばし考え込んだ。

「あの子達の仕事を続けてもらいましょ。一つの事にあんまり全力を注ぎこむのも、ちょっと危ないと思うから」

「だな。それじゃ、姉貴」

「何よその手は?」

「かわいい弟にお小遣いちょーだい」

「調子に乗らない」

 メリサンドラは、ピシャリとカルディンの手を叩いた。

「ルティ茶くらいならご馳走するから、それでよしとなさい」

「へいへい」

 カルディンはため息をついた。

「俺、重度の万年金欠病なんだけどなあ」

「自業自得でしょ」

 メリサンドラはあっさりと言った。

「ルティ茶にお砂糖は?」

「いらねーよ。ルティ茶って、もとから甘いじゃん」

「あら、子供の頃は、お砂糖入れてあげなきゃ絶対飲まなかったのに」

「何十年前の話だよ、ったく」

「そんなに昔の話でもないわよ」

 顔を見あわせて笑いあうのは。

 どこにでもいる、仲の良い姉と弟だった。




「うっふふー」

 ハルディアナは得意げに、小さな銀の円盤の周りを繊細な銀線細工が囲む首飾りを見せびらかした。

「見て見てえ。買っちゃったあ。いーでしょー?」

「ええッ、ハルさん、この間クレアノンさんから首飾りもらったばっかりなのに、また買ったの!?」

「えー、いいじゃないライちゃん、せっかくの旅行なんだし。それにこれ、ただの首飾りじゃないのよお」

「え、そうなの?」

「そうよねえ、クレアノンちゃん」

「ええ。私もおそろいで買ったんだけど」

 クレアノンがうれしそうに、ハルの物とよく似ているが、銀線細工の意匠がわずかに異なる首飾りを見せた。

「これはね、ハイネル教のお守りの、ハーネ、なんだって。ハイネル教は、太陽崇拝が中心だから、このハーネは、太陽をかたどったものなのよね。あ、もちろん、私もハルディアナさんも、別にハイネル教徒ってわけじゃないんだけど、お店の人に聞いたら、別に教徒じゃなくてもつけてていいって言ってたし」

「へえ、それ、お日さまなんだ」

 ライサンダーは、興味深げに二人のハーネを見つめた。

「そう言われてみれば、銀線細工の形なんかそれっぽいけど。でも、色がなあ。銀色って、お日さまっていうより、なんかお月さまみたいだなあ」

「いいじゃない、ちょっと変わってたほうが。ねー、クレアノンちゃん」

「ねー」

 と、クレアノンがおどけてハルディアナに調子を合わせる。

「いいなあ、ぼくもそういうの、ちょっと欲しいかも」

 エルメラートがうらやましげに言う。今日は、クレアノンとハルディアナ、ライサンダーとエルメラートとがそれぞれ別々に街を観光し、パーシヴァルは単独行動をとっていたのだ。

「あ、エーメ君も、そういうのに興味があるんだ」

「そりゃ少しはありますよ。だってぼく、半分は女の子なんですから」

 純血の淫魔のエルメラートは、男性体、女性体、中性体を、自分の任意で選ぶことが出来る。体の変化にあわせて、心理状態もそれなりに変化するのだ。

「じゃ、今度買ってあげるよ」

「ほんとですか? じゃ、ライさんもおそろいの買いましょうよ」

「えー、俺はいいよ。俺が首飾りなんかしたって似合わねえよ」

「あらあ、ライちゃん、ハイネリアの人は、男だってちゃあんとハーネを身につけてるわよ?」

 と、ハルが口をはさむ。

「俺、ハイネリア人じゃねえもん」

 ライサンダーが、ちょっと口をとがらせる。

「あらあ、そお?」

「柄じゃないって」

「そうかしらねえ?」

 ハルディアナは優雅に小首を傾げた。

「そう言えば、今日は、パースちゃんは?」

「パーシヴァルは、今日は一人でぶらぶらしてみたいんですって。ここは、前いたところとそんなに極端に違うわけじゃないから、安心して楽しめるって言ってたわ」

 と、クレアノンが答える。使い魔のパーシヴァルは、悪魔との契約により、悪魔の一番下っ端である、使い魔になる前は、クレアノン達が今現在いる世界とは、別の世界で人間としての生を送っていたのだ。

「さて――ところで話は変わるけど」

 クレアノンは、面々を見まわした。

「しばらくハイネリアを観光してみて、みんな、どんな感想を持ったかしら?」

「なんていうか、みんな生き生きしてますよね」

 エルメラートが即座にこたえる。

「服の色も綺麗だし、市場にはいろんな品物があるし、あちこちで芸人さん達が芸をしてるし。ぼく達みたいな亜人も、あっちこっちにいっぱいいるし」

「そうそう、俺、昨日出稼ぎに来てる遠縁のおじさんに会っちまいましたよ」

 ライサンダーは首をすくめた。

「いつまで淫魔やエルフなんかとフラフラしてるんだってどやしつけられて、いや、参った参った」

「あらあ、あの人、ライちゃんの親戚だったの」

 ハルディアナがのんびりと言う。

「あたしが出てったら、いきなり真っ赤になっちゃったけどお?」

「そりゃね、ハルさん」

 ライサンダーは、ハルディアナの胸元をちらっと見つめた。

「頭の上で、そんな暴力的なオッパイゆらされたら、たいていの男はそうなるって」

 ライサンダーの父方の血筋、ドワーフは小柄で筋骨隆々、ハルディアナの属するエルフは長身で痩身と相場が決まっている。ただしハルディアナは、世間一般で言うところのエルフにはあるまじき程、豊満で色気たっぷりで肉感的な体型と、それに見合った性格とをしていた。

「へえ」

 クレアノンは興味深げな顔をした。

「あそこのドワーフ鉱山から、ハイネリアへ出稼ぎって、わりと一般的なことなのかしら?」

「まあ、ドワーフは、わりと出不精が多いから、そんなにぞろぞろ出稼ぎに行くってこともないですけど。でもそうですね、ハイネリアは、けっこう待遇もいいし、それに――」

 ライサンダーは、ちょっと息をついた。

「ハイネリアの人達は、けっこう面白い発明をすることがあるから。いや、これは俺が言ったんじゃなくて、シャスおばさんの受け売りなんですけど。シャスおばさんいつだったか、ハイネリアの人達は面白い発明をするって言ってましたよ。俺なんかはまだまだ若造なんで、そういう話はまだ早いっておやじとかニックおじさんとかは詳しく教えてくれませんでしたけど、なんていうかなあ、お互いの技術を学び合う、ってことも、あったと思いますよ、確か」

「あら」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「貴重な情報をありがとう」

「いや、もっとはやくに言っときゃよかったんですけどね」

 ライサンダーは、照れたように頭をかいた。

「こういうことって、なんかきっかけがないと、思い出さないもんですねえ」

「きっかけがあった時に思い出してくれればいいのよ」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「なるほど――どうやらハイネリアはやっぱり、私が思っている様な国みたいね」

「というと」

 エルメラートが身を乗り出した。

「どういう国でしょう?」

「貿易国家にして技術国家よ」

 クレアノンは即答した。

「え? ええと――」

「ああ、ええとね」

 きょとんとしてしまったエルメラートを見て、クレアノンは言葉を探した。

「私とパーシヴァルとで、ちょこちょこ色々調べてみたんだけど、ハイネリアの今現在の国土の中に、大きな鉱山はないわ。だから、ハイネリアの人達は、ライサンダーさんの故郷や、他のドワーフ鉱山、他の人間の国の鉱山から、鉱物を輸入してるのよ」

「あらあ、それじゃ、うかつに戦争なんて出来ないわね」

 ハルディアナが肩をすくめた。

「だって、輸出を止められちゃったら、いっぺんに武器がつくれなくなるどころか、生活だって困っちゃうじゃない」

「そうなのよ」

 クレアノンが大きくうなずいた。

「ハイネリアが、ファーティス以外の国には、基本的に友好政策をとっているのはそれが大きな理由でしょうね。ハイネリアには、資源がないのよ。他の国と喧嘩して、一番困るのはハイネリアなわけ」

「でも、国土を奪い合ってるファーティスとだけは、やりあわざるをえない、ってか」

 ライサンダーがため息をついた。

「他人事ながら、難儀なことですね」

「ほんとにね」

 クレアノンは、真顔でうなずいた。

「その、資源の絶対的な不足を補うために、ハイネリアの人達は、貿易と技術開発に、国の力を注いだみたいね。そう、きっと――」

 クレアノンの瞳が、ふと曇った。

「ガーラートに国を滅ぼされて、ジェルド半島まで落ちのびてきた時、ハイネリアの人達には、もう、ろくな土地が残ってなかったんでしょうね――」

「それがファーティスとやりあう原因にもなってるわけですね」

 ライサンダーが、再びため息をついた。

「こりゃ厄介だなあ。土地問題って、もめるんだほんと」

「あら、実感がこもってるわね」

「俺らの鉱山には、みんなで共有している地区と、誰かが新しく発見して、決められた期間はその発見したやつに独占権がある地域とがあるんですよ。共有部分はいいけど、新しく発見した鉱脈のことでは、こじれるともう、ひっどいひどい」

「なるほど」

 クレアノンは、再び深くうなずいた。

「やっぱりあなたがたがいっしょにいてくれてよかったわ。竜ってね、奪う事は得意でも、そういう複雑な争いは、あんまりピンとこないのよ」

「複雑っつーか、なんつーか」

 ライサンダーは苦笑した。

「でもすごいですねクレアノンさん。俺がチラッと言った事だけで、それだけのことが考えられるんですから」

「あなたがたのおかげよ」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「さっきライサンダーさんが言ったように、私もね、考えをまとめるのに、きっかけを必要とするたちなの。あなたがたはね、いつも、いつでも、そのきっかけを私に与えてくれるのよ」

「そうですか?」

 ライサンダーは、照れたように笑った。

「お役に立ててるんなら、いいですけど」

「立ってるわ。すごく立ってる」

 クレアノンは力強く保証した。

 そして。

「ねえ、みんな」

 クレアノンは、目を輝かせて面々を見まわした。

「話は変わるんだけど、『鳥船祭とりぶねまつり』に、行ってみたくない?」

「それってどういうお祭なんですか?」

 エルメラートが身を乗り出した。

「最近始まったお祭なんだって。風の魔法で飛ぶようにつくられた、『鳥船』を、空に走らせて、速さを競うお祭なんだそうだけど、私とパーシヴァルが調べたところによるとね――」

 クレアノンは、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「そのお祭に、ソールディンの四兄弟の一人『風のナスターシャ』が、出場するんだそうよ」




『二流ぞろいのイェントン  奇人変人ソールディン

かっちん頭のキャストルク  逃げ足一番セティカの衆』



「――私は、いい」

 ザイーレン・イェントンは、声には出さずにつぶやいた。だいぶ白髪が混ざった茶色い髪に、眉間をはじめとして、深いしわが縦横無尽に走る顔。ザイーレンは、年より老けて見られることがひどく多かった。同い年のソールディン当主、リロイ・ソールディンが、その老いをまるで表に現さない容姿であるのと、残酷なまでに対照的に。

「私は――いい。どう言われようと、どう思われようと。それは私がやったことと、私が出来なかったこととに対する正当なる報いだ。――私は、いい。どう言われようと、どう思われようと――どんな仕打ちを受けようと。だが――」

「とーたん」

 幼子の声に、ザイーレンの顔がほころぶ。

「ああ、レオニー、レオニー、おめめが覚めたのかな? 私のお姫様のご機嫌はいかがかな、レオニー?」

「とーたん、おはよー」

 母、エリシアの腕に抱かれた、まだ三つになるかならぬかという幼さの、ザイーレンの一人娘レオノーラが、機嫌良く短い腕を振り回す。もっとも、ザイーレンの家族についてよく知らぬ者は、たいてい妻のエリシアをザイーレンの娘と、娘のレオノーラをザイーレンの孫と勘違いするのだが。

「エリシア、疲れないか?」

 ザイーレンは、小さく華奢で、しかも、子供を持つにはいささか若すぎると言われかねない年の妻に、いたわりの言葉をかけた。

「私がかわろう。レオニー、父さんの所へおいで」

「あいっ!」

 元気のいい返事とともに、レオノーラがエリシアの腕の中からザイーレンの腕の中へと飛び込む。

「ありがとうございます、ザイーレンさん」

「エリシア」

 ザイーレンは苦笑した。

「君の、その、慎み深いところを私はとても愛しているんだが、その、こんなときくらいは、もう少し、その、くだけた口をきいたってかまわないんだよ。なにしろ――」

 ザイーレンは、まだ競技が始まってもいないのに、すでに青空を縦横無尽に駆け回っている鳥船とりぶね達をまぶしげに見上げた。

「今日はお祭なんだから」

「ええ――そうですね、レン」

 エリシアは、はにかんだように微笑んだ。

「とーたん」

 レオノーラが、短い両腕でザイーレンの首にしがみつき、まん丸い目で空の鳥船たちを振り仰いだ。

「おふね、いっぱいね」

「そうだね。今日は鳥船祭りだからね」

「ごめんなさいね、レン」

 エリシアが、申し訳なさそうにザイーレンを見あげた。

「え――どうして謝るんだね、エリシア?」

「あの、ええと、レンは忙しいのに、わたし、なんだかわがまま言っちゃったみたいで――」

「わがままじゃない」

 ザイーレンは身をかがめ、エリシアの瞳をまっすぐにのぞきこんだ。

「若い娘がお祭に行きたいというのがわがままだなんて、そんなひどいことを私は言ったりしないよ」

「でも、レンは忙しいのに――」

「なに、別に君に強制されたわけじゃない。私自身が、君と、レオニーといっしょに、家族みんなでお祭に来たかったんだ。――家族、みんなで」

「――ええ」

 エリシアは、そっとザイーレンに寄り添った。

「ありがとう。本当に――ありがとう、レン」

「――どういたしまして」

「とーたん!」

 レオノーラがはしゃいだ声をあげる。

「レオニーも、おふね、のるの!」

「え――ああ、どうかな、頼めば乗せてくれるかな?」

「あ、危なくないですか?」

 エリシアが不安げな声をあげる。

「低いところを飛んでもらえば――」

 言いかけて。

 ザイーレンの顔が、一瞬歪む。

 天空高くを自由自在に飛び回るより、地面近くをすれすれに飛ぶほうが、実は高度な技術を要求される。天高く昇るのは、昇るまでは苦労するかもしれないが、いったん上がりきってしまえば障害物は何もない。地面すれすれの、障害物だらけの、地形によって気流が乱されてしまうようなところを飛ぶほうがよっぽど難しい。

 イェントンに、そんな腕を持った者はいない。そんなに高度な風魔法を操れる物など一人もいない。

 地面すれすれを、こともなげに縦横無尽に飛びまわれる者。

 風魔法の天才。

『風の同胞』と呼ばれる人々。

 イェントンに天才はいない。秀才ならいくらでもいるが、天才はいない。

 天才が生まれるのは、天才を数多く生み出す血筋は――。

「――奇人変人――」

「ザ――ザイーレンさん?」

「――え?」

 はっと、ザイーレンがわれに帰る。

「――とーたん?」

「――ああ」

 娘の不安げな顔を見て、ザイーレンは大きくため息をついた。

「レオニーは、お船に乗りたいのかな?」

「うん!」

「じゃあ、あとで、父さんが乗せてくれるように頼んであげようね」

「あいっ!」

 レオノーラは大喜びで、ザイーレンに抱きかかえられたまま両の手足をばたつかせた。

「とーたん、あいがと!」

「どういたしまして」

 レオノーラには、一番素晴らしい物を与えたい。

 ザイーレンは思う。痛切に、思う。

 愛娘に、最高の物を与えたい。

 愛娘の乗る鳥船を操る者は、最高の腕の者であって欲しい。

 ただ――ただ。

 その、最高の腕の持ち主に、頭を下げることに、自分は耐えられるのか。

 ザイーレンは、知っている。

 自分の嫌悪も憎しみも、すべてが一方通行だ。

 相手は自分の事など、まるで何とも思っちゃいない。軽蔑ですらない。単なる他人。ただそれだけの存在なのだ。

 相手――相手。

 ザイーレンは、ふと思う。

 メリサンドラとカルディンはまだましだ。あの二人なら、事と次第によっては、自分と同じ土俵に乗ることがある。同じ言葉で会話が出来る。同じように利害をぶつけ合い、同じように憎しみ合う事さえできる。

 ただ。

 実を言うとザイーレンは、その二人の事はそんなに憎んでいるわけでもないのだ。メリサンドラとカルディンは、うっとうしく目障りではあるが、鮮烈な憎しみを感じるような相手ではない。

 ザイーレンが憎むのは。

 本当に、鮮烈に、心の底から、それが理不尽な憎しみであることを自分自身、誰よりもよく知っていながら、その愚かしさを自分自身、骨身にしみて知っていながら、どうしても憎まずにいられないのは。

「――『からくりリロイ』に、『風のナスターシャ』――」

 声に出さずに、ザイーレンはつぶやく。

 もちろんザイーレンはよくわかっている。

 ハイネリアを束ねる四貴族の当主同士が憎み合って、得になることなど一つもない。

 いや――そもそも、『憎み合う』ということすら不可能なのだ。

 ソールディンの当主、リロイ・ソールディンと、その妹、ナスターシャ・ソールディンは。

 他者の悪意を理解することが出来ないという、大いなる欠落を持った、歪な天才達なのだから。

「さあ――レオニー」

 自分の中の何かを、自分の奥底へと封じ込めるべく、ザイーレンは愛娘に弾んだ声をかける。

「父さんが肩車をしてあげよう!」

「うあーい!」

 自分の肩の上ではしゃぐ愛娘のあたたかさを感じながら、ザイーレンは血を吐くような思いで願う。

 自分はいい。どう思われようと、どう言われようと、どんな仕打ちを受けようと。それは自分がしてきたことと、自分が出来なかったこととに対する、正当なる報いなのだから。

 だが――レオノーラは。

 まだ汚れることすら知らない、何よりも愛おしい小さな幼子には。

 天才ではなく秀才であるという、ただそれだけで、ただそれだけのことで、あんなにも嘲られるということのない、安らかな人生を与えたい。自分が悪いわけでもないのに、相手が悪いというわけですらないのに、不毛な憎しみに、いたずらに心をすり減らす。そんな思いをして欲しくない。

 それがザイーレンの、父親としての切なる望みであった。




「やれやれやれ、整備はこんな所ですかね」

 ノームの少女、ルーナジャは、グイと額の汗をぬぐった。白銀の髪をひどく無造作な二つのクチャッとしたおさげにまとめ、身につけているのは、汚れが目立たないよう藍色に染められた、あちらこちらにポケットがやたらとついたシャツとズボン。ノームに典型的な、小柄で華奢な体を、うんと大きくのばしてのびをする。

「――ターシャ?」

 ルーナジャはふと、鳥船『比翼号』のかたわらで、空とよく似た青い瞳で、空の果てを見つめているナスターシャに目をとめた。

「なにを見ているのですか?」

「ああ――ナジャ」

 ターシャはふっと吐息をもらした。外見は、ルーナジャと同じく、少女のように見えるナスターシャだが、その実彼女はもう何年も前に成年を迎えている。口の悪い者には、嫁き遅れなどと言われてしまいかねない年なのだ。

ナスターシャの栗色の絹糸のようなまっすぐな紙と、青空よりもわずかに濃い色の青い瞳は、まぎれもなく彼女の一族、ソールディンの血によるもので、その彫刻のような美貌は、一番上の兄、ソールディン当主、リロイとひどくよく似ていた。髪型が、リロイと同じく、肩を過ぎた長さの髪を無造作に後ろで束ねるというものだったので、とくにその相似が強調された。身につけているのはルーナジャと、大きさこそ違え全く同じ意匠の服で、この二人が同志であることが一目でわかる。

「空の果てにはいったい何があるのだろう――と、思っていた」

「空の、果て?」

 ルーナジャは首を傾げた。もともと、彼女の属するノームは、大地に属すと言われている種族だ。鳥船の整備士などをやっているルーナジャは、かなりの変わり者といえよう。そのルーナジャにして、ナスターシャの空への憧れは、時々ひどく不可解にさえ見えてしまうほど、切実で強烈なものと映っていた。

「そう。空の果て。この空を、どんどん、どんどん、どんどん登っていったら――」

 空色の瞳が、焦がれるように空を見つめた。

「いったいどんなものがあるんだろう――」

「息が苦しくなると思いますよ」

 ルーナジャは、実際的な意見を述べた。

「高い山に登った人の話によると、高い山の上では、ひどく息が苦しくなるそうで、それより上に行くとしたら、いやはやいやはや、なにが起こるやら」

「――行けなかったんだ」

 ナスターシャは、深いため息をついた。

「相方が、くたびれてしまってだめだったんだ」

「ああ――」

 ルーナジャの瞳に、同情の色が浮かんだ。

「ターシャにあの眠り病さえなければね――。あの眠り病さえなかったら、ワタシなんかをいっしょに乗せて、よけいな重さを増やす事もないのに」

「しかたがない。そう生まれついてしまったんだ。それに」

 ナスターシャはにっこりと笑った。

「ナジャといっしょに空を飛ぶのは楽しいし」

「おやおや、それはそれは、どうもどうもどうも」

 ルーナジャは照れたように笑った。

「でもワタシ、一回見てみたいですねえ。ターシャがあの、眠り病の事を気にせずに、全力で力を発揮するところを」

「ナジャは、あれを、病気だとわかってくれるから助かる」

 ナスターシャは再びため息をついた。

「私のあれを、ただの怠け癖だと思ってる人たちも大勢いる。リロイ兄さんの、決められたことがきめられた通りに進んでいかないと逆上してしまうあれを、ただのわがままだと思ってる人達が大勢いるみたいに」

「ああ――」

 ルーナジャはうなずいた。人間――もしくは亜人――には、誰にでも、他人にはよくわからないこだわりが、一つや二つはあるものだ。ただ、リロイにはそのこだわりが異常に多く、また、そのこだわり通りに事が進まない場合の逆上が、異常なほど激しいのだ。例えばリロイは、食事の時に食べる目玉焼きが、卵二つのものでなく、一つや三つだったりした場合、顔が真っ青になるほど動揺してしまう。一事が万事、その調子なのだ。

「ノームにもああいう人はいますよ。というか、他の種族よりああいう人の割合は多いかもしれません。ワタシがリロイさんとちょっとはうまく付き合えているのも、たぶんそのおかげでしょうね」

「とても助かっている」

 ナスターシャは真顔でこたえた。

「いやいやいや、どうもどうもどうも。――ところで」

 ルーナジャが、不敵な笑みを浮かべた。

「――今年も優勝はいただきですかね」

「さあ、どうだろうな。勝負は時の運というから」

「いやいやいや、大丈夫ですよ」

 ルーナジャは不敵な笑みを浮かべたまま、グルリとあたりを見渡した。

「だって、ターシャほど、風に愛されている人が他にいるはずないんですから」







「――戦争につかえるわね」

「ふえっ!?」

 クレアノンの不穏当極まりないひとりごとを聞いてしまったライサンダーは飛び上がった。

「な、なんですって、クレアノンさん!?」

「ああ――ごめんなさい、つい」

「いや、つい、って――」

 ライサンダーは、先ほどまでとは全く違う視線で、空を飛び交う鳥船達を見あげた。

「あれを――戦争に?」

「あれとよく似たものを、戦争に使っている世界があるわ」

「へ、へえ――」

「――そうならないといいけど。空爆って、ほんとに悲惨なものだから」

「見たことあるの、クレアノンちゃん?」

 ハルディアナが小首をかしげる。

「ああ、ええと、水晶玉の中で、ね。こことは違う世界の話よ。直接この目で見たわけじゃないわ」

「ふうん」

「へえ――あれを、ねえ――」

 ライサンダーは、むつかしい顔で鳥船を見あげた。

「ハイネリアの人達、そういうこと、考えてますかね? ええと、その、なんていうか、鳥船を戦争に使おうとか――」

「どうかしら? 考えているかもね。今は考えてなくても、じきに思いつくんじゃないかしら。戦争をしている人達の思考法って――」

 クレアノンはため息をついた。

「どこの世界でも、なんだかどこか似ているから」

「――でも、今は」

 エルメラートが、いつもよりほんのわずか、明るい声で言った。

「ここは、平和ですよ」

「そうね」

 クレアノンは、にっこりと笑った。

「せっかく来たんですものね。お祭りを楽しまなくちゃ」

「ここの魔法は――私の世界の魔法とは系統が違います」

 先ほどから、完全に度肝を抜かれた顔で鳥船を見あげていたパーシヴァルは、ため息とともにそう言った。

「いや、私、こんなもの初めて見ました」

「安心して下さい。俺も初めて見ました」

 とぼけた顔でそういってのけるライサンダーの言葉に、パーシヴァルはクスリと笑った。

「そうなんですか。いやあ、私、こんなに驚いているのは私だけかと」

「いやいやいや、俺だって驚いてますって。なにしろ、父方のドワーフも、母方のホビットも、大空にはあんまり縁のない種族ですからね。こんな鳥船なんて、思いつきすらしませんって」

「けっこう人がいますねえ」

 エルメラートが楽しげに言った。

「ライさんライさん、鳥船競争の、順位あての賭けが出来るみたいですよ」

「俺はやらない」

 ライサンダーは、きっぱりと言った。

「賭け事なんてものは、胴元しか儲からないって相場が決まってるんだから」

「そうね、確率論的に、それは正しいわあ」

 ハルディアナがのんびりといった。

「あたしも、賭け事なんかするより、おいしいもの食べてるほうがいいわあ」

「えー、ぼくだって、本気で儲かるとか思ってませんよ。でも、ちょっとぐらいお金かけてたほうが、見てて楽しいじゃないですか」

「じゃ、エーメ君だけ買って来なよ」

 ライサンダーは苦笑した。

「っと、もしかして、クレアノンさんやパーシヴァルさんも、賭け札買ったりしたいですか?」

「私はいいわ」

 クレアノンはクスリと笑った。

「私は買わなくても十分楽しめるから」

「私も、賭け事はしたことがないので」

 パーシヴァルがふとため息をもらした。

「いや、ここにエリックがいなくてよかったですよ。あいつ、やたらと弱いくせに妙に賭け事が好きで」

「あらあ」

 ハルディアナが少し驚いた声をあげた。

「悪魔なのに、賭け事に弱いのお?」

「ええ、あの、契約を結んだ相手を、賭け事に強くしてやる、というのは、出来るそうなんですがね。それと自分の賭け事の腕とは、まったく別の問題だと、エリックは言っておりましたが」

「あらあ、意外と不便なのね」

「そうですねえ、まあ、悪魔も万能というわけではありませんので、はい」

「あらあ、なあんだ」

 他愛のないおしゃべりを聞きながら。

 クレアノンは、祭りの喧騒を十二分に楽しんでいた。




「えへへ」

 クレアノンは、ちょっといたずらっぽく笑いながら、どこからともなく掌にすっぽりと収まる大きさの水晶玉をとりだした。

「ちょっとズルして、操縦士さん達の顔とか、よーく見えるようにしちゃおーっと」

「クレアノンさん、そんなの全然、ズルでもなんでもありませんよ」

 ライサンダーがクスリと笑った。

「遠見の術が出来るやつなら誰でもやることですって。それを商売にしてるやつだっていますし」

「あら、そうなの?」

 クレアノンも、クスリと笑った。

「じゃあ堂々と、みんなで見ましょうか」

「ぼくは自分の目で見ますよ」

 エルメラートが、ちょっと肩をすくめた。

「だって、水晶玉じゃ、ええと、なんていうか、全部が見えないじゃないですか」

「え?」

 クレアノンは面白そうな顔をした。

「全部が見えないって?」

「え、だって、水晶玉じゃ、ええと、狭いところ、っていうか、ほら、操縦士さんの顔とか、鳥船が一艘だけとか、一部分しか見えないじゃないですか。ぼくは、全部をいっぺんに見たいんです」

「あら、そうね、そういう考えかたもあるわね」

 クレアノンは大きく頷いた。

「あたしは両方見るわあ」

 というなりハルディアナは、クレアノンの隣に腰をおろした。

「クレアノンちゃんもお坐りなさいな。ライちゃんが、せっかく敷物用意してくれたんだから」

「ありがとう。そうさせてもらうわ」

 敷物の上に腰をおろしたクレアノンは、手のひらの上の水晶玉にむかって、ちょいちょいと指を動かした。

「――うん、感度良好。バッチリだわ」

「へえ――俺もそんなの出来たら便利だろうなあ」

 ライサンダーが、感心した声をあげる。

「ははあ――ここでは、自分が遠見したものを、他の人に見せることまでできるんですか」

 パーシヴァルは、感心しきった声をあげた。

「あ、パーシヴァルさんがもといた世界では、そういう魔法ってなかったんですか?」

 パーシヴァルの結界に守られていることをよく知っているライサンダーが、気軽にちょっとした秘密を口にする。

「そうですねえ、ある、と言えばありましたが、その、こんなふうに、水晶玉の中に映し出したりは出来ませんでしたねえ。遠見をしている、本人の頭の中に絵が浮かぶだけで、他人がそれを見ることはできません。それに――」

 パーシヴァルの瞳を、追憶がよぎった。

「そんなことが出来る人は、遠見が出来るというただそれだけのことで、世の常の人とは全く違う存在として扱われますからね」

「あ、おせっかいとは思うけど、パーシヴァルの言葉を補足しておくわ」

 クレアノンが口をはさんだ。

「パーシヴァルの言っている、パーシヴァルの世界の『遠見』は、ただ遠くのものが見えるっていうだけじゃないの。そうね、ある種の、予知の力も加わっているわ」

「うわ、そりゃ、ここでだってたいした力ですよ」

 ライサンダーが目をむいた。

「予知の力なんて、そうそうめったにあるもんじゃないです。つーか俺、予知の力を持った人って、まだ見たことがありませんよ。あー、まあ、占い師連中の力も、予知の力の中に入れるんなら話は別ですけど」

「予知なんて、面白くないわよお」

 ハルディアナが肩をすくめる。

「予知をする連中なんて、絶対に、あいまいでどうとでもとれるようなことしか言わないんだもの。あれはきっと、はっきりいっちゃうとはずれた時に思いっきりばれちゃうから、わざとわかりにくく言ってるのよお」

「まあ、それだけが理由じゃないと思うけど」

 クレアノンは苦笑した。

「観察される世界は、観察者の存在によってその在りかたを変えてしまうからね。世界を観察しつつ、いかにして、その観察そのものが世界に与えてしまう余剰情報を抑制していくか、が、優れた観測者の腕の見せどころよ」

「……ナンカスゴイコトイッテルッテノダケハワカル……」

 ライサンダーが、なぜか急に片言になってそうつぶやき、首をすくめる。

「え? 別にそんなにすごいことを言ってるわけじゃないんだけど。例えば、そうねえ――」

 クレアノンは、クスリと笑った。

「口うるさい親戚のおじさんに見張られてるって知ってたら、どうしたってお行儀よくしてようとするでしょ? 私が言ってるのは、つまりそういうことよ」

「うーん、そう言われると、なんかわかるような気もするんですけど」

 ライサンダーが首をひねる。

「に、しても、観察だけで世界が変わるって――」

「変わるのよ」

 クレアノンは、不意にどこか、はるか遠くにある何者かにむかって微笑みかけているかのような笑みを浮かべた。

「観察する。ただそれだけのことで、世界の形すら変わってしまうの」

「じゃあ、ぼくにも世界を変えることが出来るんですか?」

 エルメラートが面白そうに口をはさんだ。

「あら、もうやってるじゃない」

「え?」

「生きとし生けるもの全て――いえ、この世に、この世界に、存在しているものたち全てが」

 クレアノンの瞳に、銀の炎が宿る。

「存在している、ただそれだけのことで、絶え間なく世界を変え続けているのよ」

「――あたし達の、赤ちゃんも?」

 ハルディアナはやわらかい笑みを浮かべ、そっと自分のおなかをなでた。

「あたし達の赤ちゃんも、もう、ここにいるだけで、ただそれだけで、世界の形を変えはじめているのかしら?」

「もちろん」

 クレアノンは大きく笑った。

「きっともう、その子ずいぶん世界の形を変えたわよ」

「あらまあ、せっかちさんだこと」

 ハルディアナはクスクスと笑った。

「おなかの中でくらい、のんびりおねんねしてればいいのに」

「でもまあ、ぼく達の子ですから」

 エルメラートがそっと、ハルディアナのおなかに手をあてた。

「こんな面白いお祭の日に、グゥグゥ寝てたりしませんって」

「それはそうかもなあ」

 ライサンダーもまた、ハルディアナのおなかに手をあてた。

「起きてるかー? 今日はなー、いい天気でなー、風が気持ちよくてなー、俺は自分じゃ飛べないけれど、飛ぶにはきっと、絶好の日だぞー」

「――いいものですね」

 パーシヴァルは、そっとつぶやいた。

「家族というのは本当に――本当に、いい、ものですね――」

「――ほんとね」

 クレアノンの瞳に、ふと羨望が浮かぶ。

 どの竜でもそうだが、竜という種族は一般に、家族との縁がひどく薄い。

「――ねえ」

 クレアノンは、そっと問いかけた。

「私も、ハルディアナさんのおなか、さわっても、いい――?」

「もちろんよお」

 ハルディアナはにっこりと笑った。

「あたし達、お友達じゃない」

「あ、それなら、パーシヴァルさんもですよ」

 エルメラートが、ヒョイとパーシヴァルを見やった。

「せっかくだから、ここにいるみんなで、ぼく達の赤ちゃんに、外はすっごく楽しいんだってことを教えてあげましょうよ」

「光栄です」

 パーシヴァルはにっこりと笑った。

 そして。

 五人の手が、ハルディアナのおなかの上でひしめきあったまさにその時。

 鳥船達が、こぞって空に舞い上がった。




 ナスターシャは、知っている。

 自分が奇妙な――病と言っていいかどうかさえよくはわからぬ、ある発作を持っていることを。

 ナスターシャは、覚えている。

 いつからそれが始まったのか。

 確か、そう――子供の体から、大人の体へと変わりはじめ、小さな女の子が、可憐な少女へ、そして大人の女へと、見えない階段を駆け上っていく時期。

 ナスターシャは、奇妙なものにとりつかれてしまった。

 いや――他人から見れば、ナスターシャの兄や姉、そして小さな弟以外の人々から見れば、それは、よくて単なる気まぐれで、悪くするとひどい怠け癖にしか見えない。

 だが、そうではないのだ。

 ナスターシャは、怠けたいわけではない。気まぐれにふるまいたいわけでもない。

 ただ、ナスターシャは、時々。

 真昼間だというのに、抗いがたい凄まじい眠気に襲われてしまうことがあるのだ。

 感情が昂ぶると、なぜだか体の力ががっくりと抜けてしまうことがあるのだ。

 兄弟達は、わかってくれた。

 それはナスターシャのせいではないと。ナスターシャは、怠けたくて他人の目の前でも突然眠りこんでしまうわけではない。気まぐれなせいで話の途中でいきなり黙りこんでしまうのではない。

 それはきっと、病のようなものなのだろう、と。

 兄弟達は、わかってくれた。

 だが、他の人々は。

 両親でさえ、完全にはわかってくれなかった。

 だからナスターシャは、いつでも他人から、風の魔法ではまさに世紀の天才と言ってもいいが、他のことにはひどく気まぐれで怠け癖がある女性だと思われてきた。

 違うのに。本当は、そうではないのに。

 そう言いたいのに、わかって欲しいのに、うまく言えなかった。伝えられなかった。

 だから。

 初めて出会った時。

 兄弟達、以外で、初めてナスターシャのことを理解してくれた者に――ノームの少女、ルーナジャに出会った時に。

 ナスターシャは、自らの船に『比翼号』と名をつけたのだ


「――なんてこと」

 クレアノンは息を飲んだ。

「ナルコレプシーだわ!」

「え?」

 ライサンダーはきょとんとクレアノンを見つめた。

「な、なんですって?」

「ああ――この世界には、まだこの病気のことを表現するちゃんとした名前がないんだけど」

 クレアノンは、食い入るように水晶玉、より正確には、水晶玉の中に映し出された、『比翼号』の操縦席に座った女性――ナスターシャを見つめたままライサンダーの問いに答えた。

「昼間でも――というか、時と所をかまわずに、すさまじい眠気の発作に襲われる病気があるのよ」

「え――そ、それって、睡眠不足とかのせいじゃなくて?」

「全然違うの。どんなに睡眠が足りていても、どんなに本人が起きていようと努力しても、その発作は起こってしまうの」

「え――ま、まさか!?」

 ライサンダーは飛び上がった。

「と、鳥船の操縦士の中に、そ、そんな病気のやつがいるんですか!?」

「あらあ、大変」

 ハルディアナも大きく目をむいた。

「クレアノンちゃん、その人、事故でも起こしそうな感じなの?」

「いえ――どうやら大丈夫そうね。もしかして、この人――ナスターシャさんは、自分の病気のことを、よくわかっていて、ある程度付き合っていく方法を、独自に見つけ出しているのかもしれないわ」

「そ――そんなことが、どうしてわかるんですか?」

「ナスターシャさんの船には、副操縦士がいっしょに乗っているわ」

 クレアノンは、わずかに肩の力を抜いた。

「他の船の人達はほとんど、操縦士一人しか乗っていないのに。まあ当然よね。速さを競うんだもの、よけいな重荷になる副操縦士なんていないほうが楽に速度をあげられるにきまってるわ。でもナスターシャさんの船には、副操縦士が乗っている。あの子は――ノームかしら。空を飛ぶノームっていうのも、けっこう珍しいわね。――ああ、今はそういう話をしてるんじゃなかったわね」

 クレアノンは、小さく吐息をついた。

「鳥船っていうのは、私が見たところ、一度風に乗ってしまえば、ある程度は風魔法なしでそのまま飛び続けることが出来るように作ってあるのね。だからナスターシャさんの船は、副操縦士さんがきちんと操縦しさえすれば、別に事故なんて起こさずにすむわ」

「あ――それは、よかった」

 ライサンダーが、ほっと体の力を抜く。

「に、しても――え、そ、そんな病気なんて、ほんとにあるんですか?」

「ええ。もっともこの世界では、それが病気だってことに、まだほとんどの人が気づいていないようだけど」

 クレアノンはため息をついた。

「そうね、きっと、それこそさっきライサンダーさんが言ったみたいに、単なる寝不足とか、もっとひどければ怠け癖で片づけられてしまうんでしょうね」

「あ――そ、そうですね、俺、きっとそんなふうに思っちゃうと思います」

 ライサンダーは、ばつの悪そうな顔をした。

「でも――そうじゃ、ないんですね?」

「ええ。そうじゃ、ないの。まあ、まだ正式な診断をしたわけじゃないから、ほんとにそうかどうかははっきり言えないんだけど――」

 クレアノンの瞳がふと曇った。

「もしナスターシャさんが本当にナルコレプシーを患っているんなら――今までそのせいで、ずいぶん誤解とかされてきたんじゃないかしら――」

「その危惧はあたっているかもしれません」

 パーシヴァルが頷いた。

「ナスターシャさん――ナスターシャ・ソールディンの二つ名は『風のナスターシャ』です。これは、風魔法の大天才というのと、風のように気まぐれだというのとが理由になっているそうですが――」

「風魔法の大天才、っていうのはともかく、風のように気まぐれ、っていうのは」

 クレアノンが、真面目な顔で言った。

「もしかしたら、誤解なのかもしれないわね。病気のせいで、そんなふうに見えてしまうだけで」

「それは」

 パーシヴァルの瞳に影が落ちる。

「なんとも、お気の毒な――」

「――私なら――」

 クレアノンは、ふと物思いに沈んだ。

「私なら――ナルコレプシーの治療薬を、他の世界から持って来ることが出来るわ――悪魔の力を借りてもいいし――」

「クレアノンさん」

 エルメラートが、真顔で言った。

「ナスターシャさんに、薬を分けてあげてもいいと思ってるんですか?」

「ええ。彼女達――ソールディンの四兄弟、それとも五兄弟と、取引をする糸口になるわね――」

「だったらそう言ってあげましょうよ」

 エルメラートはクレアノンに頷きかけた。

「取引のことは、ぼくよくわかりません。クレアノンさんに任せます。でも、病気が治る薬なら、誰だって欲しいに決まってますよ」

「ええ――よく、考えてみるわ――」

 クレアノンの瞳は、すでに鳥船を見てはいなかった。




 本当は。

 本当は、ミーシェンは。

 本当はミーシェンは、いつだってこう呼びたいのだ。

 兄さん、姉さん――と、子供の頃のように何の屈託もなく。

 だが、ミーシェンは気づいてしまった。

 兄弟の中で――自分だけ、違う。

 兄達は、姉達は。

 栗色の絹糸のようなまっすぐな髪。空の青を溶かしこんだかのような青い瞳。抜けるように白い、シミ一つない肌。どこまでも滑らかに整った、人形か彫刻のような顔。

 対して、自分は。

 蜂蜜色の、クルクルとした巻き毛。青とも緑ともつかぬ、兄達や姉達とは明らかにちがう色の瞳。子供のころからどうしても消えてくれないそばかす。目と口の大きな、あけっぴろげすぎる顔。

 自分だけ――どこまでも、違っている。

 そう、そして。

 自分だけ。

 自分だけ――天才ではないのだ、兄弟の中で。

 いや、ミーシェンも、ある意味では天才なのかもしれない。ミーシェンのことを天才と呼ぶものも、探せばきっといるだろう。

 だが、ミーシェン自身は、どうも自分のことを、天才であると自覚できない。

 ミーシェンは、ただ。

 とても頭がいいだけ。

 それで十分だろう、と、多くのものは言うだろう。十分すぎるだろう、と、きっと言われることだろう。

 兄達も、姉達も、そのことを喜んでくれた。

 ミーシェンが、とても頭がよいことを。そして、兄弟の中でミーシェンだけが、様々な系統の魔法を扱えることを。

『雷のリロイ』

『水のメリサンドラ』

『炎のカルディン』

『風のナスターシャ』

 兄達と姉達は、四人ことごとくが『同胞』だ。同胞。ある一つの系統の魔法には、まさに天才的な力を発揮する代わりに、それ以外の系統の魔法を何一つ扱うことの出来ない魔術師達。

 ミーシェンだって、本当は。

 同胞で、ありたかったのだ。

 兄達と、姉達と、おんなじようでありたかった。

 でも――兄達も、姉達も、ミーシェンが同胞ではないことを、様々な系統の魔法を自在に扱えることを、心の底から喜んでくれた。本当に本当に喜んでくれた。そんなにいろんなことが出来るなんて、ほんとにすごいねと言ってくれた。

 それがほんとにうれしかったから。

 ミーシェンは、出来るだけ色々な魔法を使うことが出来るよう努力を重ねてきた。

 でも、心の底ではいまだにかすかに思っている。

 自分だけ、違う。

 そう――ミーシェンは、自分だけ天才ではないと思っている。

 そして同時に知っている。

 自分だけが、兄達や姉達が代償のように支払っている、犠牲を支払わずにすんだ。

 長男のリロイは、余人には思いもつかぬ、異常なまでに独創的な発想をすることが出来る。誰にも思いつかぬからくりを、誰にも思いつかぬ陣形を、考えだす事が出来る。

 まるでその代償のように、リロイはいつも、異常に強い自分のこだわりに苦しめられている。日々の予定、安定した日常に、どんな小さな齟齬が生じても、リロイはまるで、歯車の中に石を放りこまれたからくり人形のようになってしまう。そしてまた、リロイはひどい人見知りでもある。知らない人達の前ではリロイは、壊れたからくり人形のようなぎくしゃくした動きをしか、することが出来なくなってしまう。

 長女のメリサンドラは、一度聞いた話ならほぼ完璧に記憶出来る。あちこちで聞いた話の断片をつなぎ合わせ、華麗なタペストリーを織りだす事が出来る。

 まるでその代償のように、メリサンドラは、文字を読むのがひどく苦手だ。いや、メリサンドラの頭が悪いわけでは決してない。ただ、文字を読むのがひどく苦手と言うだけだ。もっともこれを代償というのは、原因と結果が逆転しているのかもしれない。文字を読むのがひどく苦手だからこそ、そのかわりにメリサンドラは、聞いた話を決して忘れないよう、努力をしているのかもしれない。

 次男のカルディンは、いつでもびっくりするほど活気に満ち溢れ、いつだって何かしら新しい事に手を出していて、話題が豊富で明るくて、灯火のように人々をひきつける。

 まるでその代償のように――いや、これを代償と見るものは、きっとほとんどいないだろう。単なる性格、しかも、カルディンのようなものならごく当然の性格だと思うことだろう。

 ただ――兄弟達は、知っている。カルディンの、異常なまでのあきっぽさを。人の話を大人しく聞くということがどうしても出来ないことを。どんなに他人に注意されても、時間を守るということがどうしても出来ないことを。

 次女のナスターシャは、風の魔法の大いなる天才だ、国中探したってナスターシャに比肩する風魔法の使い手などまず見つかるまい。

 まるでその代償のように、ナスターシャは奇妙な眠り病にとりつかれている。寝不足ではない。怠け癖でもない。ただナスターシャは、時と場所とをかまわずに、すさまじい眠気の発作に襲われてしまうことがあるのだ。こんな病気、なおす方法、どころか、それが本当に病気なのかどうか、ナスターシャのほかにもこんな病気に悩んでいるものがいるのかどうか誰も知らない。

 ミーシェンだけが、何の代償も支払わずにすんだ。

 兄達も、姉達も、そのことをとても喜んでくれた。

 だが、ミーシェンは、やはり時々こう思ってしまうのだ。

 どんな代償を支払ってもいい。自分も兄達や姉達と同じ、異能の天才でありたかった。

 自分だけ。

 自分だけ――違う。

 子供の頃は、呼んでいたのだ。

 何の屈託もなく呼んでいたのだ。

 兄さん、姉さん、と、何の屈託もなく。

 だが――いつからだろう。ミーシェンは、気づいてしまった。

 自分に向けられる嘲笑に。

 なんて厚かましい――と、ささやき交される言葉に。

 ミーシェンは、兄達や姉達とは母親が違う。

 ミーシェンは、兄弟達の父、フェルドロイが一夜の過ちを犯してしまった、その結果なのだ。生前のフェルドロイは、ミーシェンを見るたび――そもそもフェルドロイがミーシェンにあおうとすること自体非常にまれだったのだが――ひどく疎ましげな顔をしていた。兄達や姉達の母親、正妻のメラルディアは、それ以上に激烈に、生涯ミーシェンを拒み通した。兄達や姉達が、自分を育て、いつくしんでくれなかったら、今ごろ自分はどこかで野垂れ死にをしていただろう。ミーシェンはそう思う。

 だからミーシェンは――心の底から反発しながら、その言葉を聞き流す事がどうしても出来ないのだ。

 なんて厚かましい――という、その言葉を。腹違いの兄弟達のお情けだけにすがって生きのびているみじめなガキが、自分も他の兄弟達と同じつもりでいる。兄さんだと? 姉さんだと? おまえにそんな資格があるのか? お情けをかけて下さる恩人達のことを、なれなれしくもそんなふうに呼ぶ資格がおまえにあるのか、という、そんな嘲りを。

 いつからだろう、ミーシェンは、他人がいるところでは呼ぶことが出来なくなった。

 兄さん、と。姉さん、と。

 兄達も、姉達も、そのことをひどく残念がっている。いつだってこう言ってくれる。どんな場所でも、どんな人たちの前でも、兄さんと、姉さんと、呼んでくれてかまわないのだと。そうしてくれたほうがうれしいのだと。

 だがミーシェンは――そうすることが、どうしても出来なくなってしまった。

 本当は――呼びたいのだ、いつだって。

 なのに出来なくなってしまった。

 だって自分だけ違うから。

 ミーシェンの心の奥底には、そうべそをかく幼子がいる。

 だってボクだけちがうから。

 今でもそう言って泣きじゃくっている。

 兄達も、姉達も、これ以上を望むことが出来ないくらい優しくしてくれる。

 でも、それでも、思わずにいられないのだ。

 ボクだけ、ちがう。

 ――だが。

 だが。

 違っていようと、同じだろうと。

 今はそんなことは関係ない。

 関係ないのだ、そんなことは。

 兄弟達が、呼んでいる。

 本当に大切なことを兄弟で決めなければならない時にだけ出される、非常招集がかかったのだ。

 兄弟達が、呼んでいる。

 自分の傷も葛藤も、何もかもひとまずお預けだ。

 そう――他人は呼ぶ。『ソールディンの四兄弟』と。

 だけど、兄弟達はいつだって。

 自分が五人兄弟であることを、忘れることなどありはしない。




「いよお」

 カルディンはいつものように、気軽く口を開いた。

「こやって全員が集まるのって、けっこう久しぶりじゃね?」

「おまえは全員集まるたびに同じことを言っているな」

 リロイは冷静に指摘した。

「あ、そだっけ?」

 カルディンはケラケラと笑う。

「あら、まあ」

 メリサンドラは、ミーシェンを見あげて微笑んだ。

「あなた、また背が伸びたんじゃない、シェン?」

「はあ、そう見えますか? ボク、さすがにもう伸びるのは終わったかと思ったんですけど、まだ伸びてます?」

 ミーシェンが、ちょっと情けない顔で頭のてっぺんに手をやる。もともと、ソールディンの一族は、長身で痩身というのでよく知られている。だがミーシェンは、長身で痩身、というより、恐ろしくのっぽでひょろ長い、とでもいったほうがいい様な体型に成長してしまった。末っ子のミーシェンが今では、兄弟達の中で一番背が高い。

「忙しいだろうに、すまないな、シェン」

 ナスターシャもまた、ミーシェンを見あげる。

「ターシャ姉さん」

 そう、余人を交えぬ兄弟達だけのかたらいの時には、ミーシェンも素直に口に出す事が出来る。

 兄さん、と。姉さん、と。

「ほんとですか? ターシャ姉さんの眠り病をなおす薬があるって」

「と、私に取引を申し出てきた連中は、そう言っているんだが」

 ナスターシャは肩をすくめた。

「私にはよくわからない。私の眠り病は、毎日発作が起こるわけじゃないからな。連中にもらった薬を飲んで、もしも発作が出なかったところで、それは薬がきいているんだかたまたま発作が出ない時期だったからなのか、私には判断が出来ないからな」

「うかつに変な薬を飲んだりしないほうがいいわよ」

 メリサンドラが眉をひそめる。

「中毒性のある薬の禁断症状って、ほんとにひどいものだから」

「でもよお、薬で治るってんなら、その薬、欲しいよな」

 と、カルディンがナスターシャを見やる。

「それは欲しい」

 ナスターシャが頷く。

「でも連中は――私だけじゃなくて、みんなにも、兄弟全員に、協力を要請しているんだ」

「兄弟全員――って」

 ミーシェンが、幾分おどおどと言う」

「ええと――その『兄弟』の中に、ボクも入っているんですか?」

「あたりまえだ」

 ナスターシャはミーシェンに大きく頷きかけた。

「だから私も、連中が、五人兄弟全員に協力を要請する、と言ったからこそ私も、連中の話を聞く気になったんだ」

「――」

 ミーシェンの鼻の奥が、ツンと熱くなる。

「いきなりしんみりしてんじゃねえやミー公」

 カルディンがミーシェンを小突く。

「あったりまえの話を聞いて、なんでしんみりしたりできるかね、このチビ助は」

「カル兄さん」

 ミーシェンは口をとがらせた。

「ボクのどこがチビ助ですか。なんだったらここで背比べでもしましょうか?」

「うっるせえ。ナマいってんじゃねえぞこの鼻たれ小僧」

「うう、いつまでもボクを子供扱いするのはよして下さい」

「だっておめーはガキじゃねーかよ」

「カルディン」

 リロイが口をはさんだ。

「ミーシェンはもう成人式を終えている。立派な大人だ。あまりガキガキ言うのはよせ」

「兄貴はいっつも、ミー公にあめーんだから」

 カルディンが肩をすくめた。

「俺だってかわいい弟なのによー。ミー公ばっかひいきすんなっての」

「私は事実を指摘しただけだぞ」

「へいへい。わーったわーった。――で」

 カルディンが、ふと真顔になる。

「兄貴はどう思うんだよ、今回の話?」

「もしナスターシャの眠り病をなおす薬があるというのなら、私は全面的に協力する」

 リロイは即答した。栗色の絹糸のような髪に青空のような瞳。白くなめらかな彫刻のような顔は、四十の坂をすでに越えたという年齢を感じさせない際だった美貌をとどめている。いつもかけている銀縁の丸眼鏡がいささかその美貌を隠してしまってはいるが。

 リロイの全身からは、当主としての威厳が、静かににじみ出ていた。

「おまえ達も同じ気持ちとは思うが、一応確認する。メリサンドラ」

「わたしも当然、同じ気持ちよ」

「カルディン」

「薬が本物ならな、そら俺だって協力するよ」

「ミーシェン」

「も、もちろんボクだって協力します。その、あの、薬が本物なら」

「それだ」

 リロイがミーシェンに頷きかけた。

「今最も大きな問題は、その薬が果たして本物なのかどうか、ということだ。ミーシェン」

「は、はい」

 いきなりリロイに名指しされたミーシェンは目を白黒させた。

「な、なんですか?」

「そこで、おまえの力が必要になってくる。

「え――ボクの、力?」

 ミーシェンはきょとんとした。

「ボクは――何をすればいいんです?」

「私達――おまえ以外の兄弟達はみんな、私も含めて、たった一つの系統の魔法しか扱えない」

 リロイが見まわすと、兄弟達がそろって頷く。

「おまえだけなんだ、様々な系統の魔法が扱え、そのうえ、魔法の系統だった知識があり、さらに異世界の知識まである程度かじっているのは」

「え――」

 ミーシェンの目が、大きく見開かれる。

「ちょっと――待って下さい。その――取引を申し出てきた連中、っていうのは、異世界と何らかのつながりがあるっていうんですか!?」

「まあ、あるんだろうな、きっと」

 リロイは頷いた。

「なにしろ連中は、竜とその仲間達だと主張している」

「え――」

 ミーシェンの顔が青ざめる。かつて、白竜のガーラートに一度祖国を滅ぼされてしまったハイネリアの人々の胸の内には、竜に対する抜き難い恐怖心と警戒心とがある。

「り――竜!? え――あ、あの」

「なんだ」

「そ、その、竜とかいう連中は、ボク達にいったい何を要求しているんですか?」

「ナスターシャ」

 リロイがナスターシャのほうを見やる。

「みんなの前でもう一度説明してくれ」

「わかった。ええと、連中は、こう主張しているんだ」

 ナスターシャは、大きく一つ息をついた。

「『今現在白竜のガーラートが占有している旧神聖ハイエルヴィンディア皇国領を、全部とはいえないまでも、一部はガーラートから取り戻してみせる。その、ガーラートから取り戻した国土への再移住をはかることによって、今現在ハイネリアとファーティスとの間で続けられている、領土争いを終結へと導けないだろうか』――と」

「え?」

 メリサンドラが眉をひそめる。

「なによ、その夢物語は」

「なるほど、そりゃあ確かに、竜でもなけりゃあふけねえ大ボラだなあ」

 カルディンが肩をすくめる。

「――ボクは」

 ミーシェンの目が、強い光を放つ。

「話を聞いてみてもいいんじゃないかと思います」

「根拠は?」

 リロイがミーシェンを見つめる。

「根拠は」

 ミーシェンが大きく息をつく。

「『白竜のガーラート』という名前です。かつてボクらの国を滅ぼした竜は、確かに白竜でした。それはみんな知ってます。でも――」

「あ――」

「そっか――」

「なるほど――」

 メリサンドラ、カルディン、ナスターシャが、ハッと何かに思いあたったような顔になる。

「――」

 リロイが、『よくやった』と言いたげに、大きくミーシェンに頷きかける。

「その白竜の名前を知っている者なんて一人もいません。――少なくとも、人間の中には」

「――わかった」

 リロイがゆっくりと、兄弟達を見まわした。

「その連中に、あってみる事にしよう」




「ねえミオ、本当にこの木にのぼるの?」

 10歳ほどに見える少年が、ちょっと心配そうに連れの少女に問いかける。

「のぼるよ。だって、この木にのぼんなきゃ、あの部屋の中見えないじゃん」

 少年と同じくらいの年ごろに見える少女が、口をとがらせて言い返す。

 少年の名はヒューバート・ソールディン。ソールディン家当主、リロイ・ソールディンの一人息子だ。美貌をうたわれることの多い父リロイには、幸か不幸かあまり似ていない。ヒューバートは、母ダーニャに生きうつしだ。のっぺり、茫洋とした、温和を絵に描いたかのような顔に、優しい茶色の瞳。絹糸のような栗色の髪だけが、父によく似ている。性格もまた、その容貌によく見あった、おっとりと温和で、のんびりとしたものだ。

 ちなみに、侍女あがりの上、容貌も、醜くはないが美しいとは到底言い難い、しかも、目から鼻に抜けるような才気煥発さもない、そんなダーニャをリロイが妻にめとった時は、ほうぼうの口さがない連中が、やっかみ半分かしましく騒ぎたてたものだが、リロイと、そしてリロイの兄弟達は、何があっても動じない、いつでもおっとりと穏やかな、しかもリロイの、ごくつまらないことにでも異常にこだわってしまうことがあるという奇癖をいつも鷹揚に受け入れてくれるダーニャを心から愛していた。

 少女の名はミオ・ソールディン。リロイの弟、カルディン・ソールディンの娘だ。ヒューバートとミオを並べて、どちらがリロイの子に見えるかと聞けば、ほぼ全員がミオを指さすだろう。ミオは、ソールディン一族の血を色濃くひいている。栗色の絹糸のような髪に、青空のような瞳、白くなめらかに整った彫刻のような顔。今は従兄のヒューバートと同じような服で、同じように泥まみれになって飛びまわっているが、年頃になればあまたの男達の心を片端から射抜いていくことだろう。

 ちなみに、ソールディンの兄弟達の内、結婚しているのはリロイとメリサンドラだけだ。カルディンは、子供はいるが結婚はしていない。子供の数はというと、リロイ本人の弁を借りれば「兄貴んちに預けてるのが5人くらい。よそに何人いるかは俺もよくわからん」とのことである。この言葉とその事実とが、カルディンという男を端的に象徴している。

「でもさあ、ミオ」

 と、ヒューバートが首を傾げる。

「待ってれば、お客さん達、きっと下におりてくるよ。そしたらきっと母さんが、お茶でもどうぞ、っていうからさあ――」

「だってさ」

 ミオはじれったげに、ヒューバートの言葉をさえぎった。

「お客さんとおじさん達、ケンカしちゃうかもしんないじゃん!」

「あ――そうだね」

 ヒューバートはうなずいた。

「父さん、かんしゃく起こすとすごいもんね」

「リロイおじさんはいいよ、他の人に怒ったって、他の人に怒られる事はないんだから。うちのくそ親父なんか、しょっちゅうよその人を怒らせてばっかりだよ、ほんとにまったく」

「このあいだ窓から放り出されてたよね」

 ヒューバートが同情したように言う。

「カルおじさん、今度は何やったの?」

「いつものことだよ」

 ミオがむくれかえった。

「弟か妹が一人増えただけ。生まれたら連れてくるってさ」

「ああ」

 ビューバートが納得したようにうなずく。

「カルおじさん、また、『俺は絶対に結婚しない!』って言っちゃったんだ」

「馬鹿なんだよ、ほんとに」

 ミオは深々とため息をついた。

「――ごめんね、ヒュー」

「え? どうしてミオが謝るの?」

「また、リロイおじさんとダーニャおばさんに面倒かけちゃうね」

「だってさ」

 ビューバートは一所懸命に言葉を探した。

「父さん言ってたよ、カルおじさんからちゃんと養育費もらってるって。だからさ、別に、面倒とかじゃないよ。それに、ぼくも母さんも、赤ちゃん、好きだしさ」

「うちのくそ親父がまともに養育費なんて払ってるわけないじゃん」

 ミオはひどく大人びた顔で言った。

「リロイおじさんはくそ親父が払ってると思ってるだろうけど、あれ絶対、ダーニャおばさんか、でなきゃメリーおばさんが払ってくれてるんだよ」

「え――そ、そうかなあ?」

「絶対そうだよ」

 ミオはきっぱりと言い切った。

「まあいいや。とにかくわたしは、この木にのぼるんだからね!」

「でも、ミオ」

「なんだよ、ヒューの弱虫!」

「この木にのぼれば、そりゃ部屋の中はのぞけるけど、そのかわりに、部屋の中からも丸見えだと思うけど?」

「え――」

 ミオはちょっと絶句した。確かに、手入れが非常に行きとどいた庭の木は、枝葉も適度に刈り込まれ、すっきりと軽やかに仕上がっていてたいそう見栄えがするが、それはつまり、人間の子供一人を楽々覆い隠せるほどの、うっそうとした茂みがないということだ。

「――まあ、大丈夫だよ」

 ミオは口をとがらせて言いきった。それをリロイかメリサンドラが見ていれば、その顔は幼かりし日のカルディンに、とてもよく似ていると絶対の自信を持って保証してくれたことだろう。

「わたしはヒューとちがってすばしっこいもん。ちゃんと隠れられるもん」

「そう? じゃ、ぼくは下にいるね」

「なんだよ、弱虫。見つかるのが怖いの?」

「え、だって、ぼくが下にいれば、ミオがおっこってきた時に助けてあげられるでしょ? ぼくさ、けっこう風の魔法が使えるようになったんだよ。ミオがおっこってきたら、ぼくが助けてあげるよ」

 にこにことそういうヒューバートは、もちろん完全に善意からその申し出をしたのだが。

「な、な、な――なんだよッ! ヒューのイジワルッ! わたしおっこちないもん! おっこったりするもんか! フーンだ!」

 気の毒なことに、ミオにはそう思ってもらえなかった。

「いいもん! わたしひとりでのぼるもん!」

 そう言って、憤然と庭木のほうに向きなおったミオと、そして、ミオにつられて庭木のほうを見たヒューバートは。

 ポンッ、という、いかにも軽薄な音とともに。

 庭木の幹にめり込むようにして、奇妙な男が出現するのをしっかりと目撃してしまった。

「ハーロハロハローン、こにゃにゃちわー♪」

 奇妙な男は、庭木に逆さまになって半ばめり込んでいるというとんでもない体勢をものともせずに、たいそう陽気に二人に声をかけた。

「呼ばれて飛び出て、ジャジャジャジャーン♪ …………って、あ、あり?」

 奇妙な男が目を白黒させたのかどうかはわからない。男の顔の上半分は、ひどく奇妙なもので覆われていたからだ。その奇妙なものを他の世界の住人が見れば、なんだ、バカでかいミラー加工のサングラスか、ですんだはずだが、そんなものを生まれてからただの一度も見たことのないミオとヒューバートには、それはたいそう不気味なものに見えた。

「あ、ありー、な、なんかちょっと、えー、まっずいなあ、エリちゃんってば、座標計算間違えちった?」

「キ、キ、キ――」

 数秒間金縛りにあっていたミオの口が、ここで大きく開いた。

「キャーッ!」

 そのとたん。

「てめえッ!!」

「カルにぃ!!」

 の、叫び声とともに、二階の窓からカルディンが文字通り飛び出して来た。とっさにはなったナスターシャの風魔法が、カルディンの着地の衝撃を和らげる。

「俺の娘に何しやがった!?」

「な、な、な、なんにもしてないッスよお!」

 逆さまになったままカルディンに胸倉をつかまれた奇妙な男は、なさけない悲鳴を上げた。

「オ、オレ、ただ単に、出現場所の座標計算を間違えちっただけっすよ!」

「――ああ、エリック」

 二階の窓から顔をのぞかせたパーシヴァルが、うんざりしたようにかぶりをふった。

「おまえいまだに、出現地点の座標計算を間違えてるのか? 言っちゃなんだが、そのくらい、私だってもう、ちゃんと時間をもらえば間違えずに出来るぞ」

「いや、これはね、エリりんのせいってゆーか、なんつーか、ソフトをバージョンアップしてなかったのが、いくなかったかなー、って」

 奇妙な男の正体は――もちろん、下級悪魔のエリックだ。エリックはカルディンに胸倉をつかまれて揺さぶられながら、のんびりとパーシヴァルにそう答えてみせた。

「ねーオタク、そろそろはなしてチョーダイよ。チビちゃん達をびっくりさせたのは謝るッスよ。いやその、悪気はなかったんスけどねえ」

「――と、こいつは言っているんだが」

 カルディンは真剣な顔でミオを見つめた。

「本当か? なんにもされてないか? 大丈夫か、ミオ」

「う――うん。び、びっくりしちゃっただけ。あ――ありがとう、お父さん」

「おーおー、くそ親父とはえらい違いだな」

 カルディンは苦笑した。

「おまえらなあ、ああいう事はよそでやってくれよ。今日はミーシェンが遠見と聞き耳の術でこの屋敷のまわりをバッチリ警戒してるんだぜえ? 俺恥ずかしかったのなんの。おまえらがいらんことペラペラ言ってくれちゃうせいで、兄貴とターシャ以外のやつらがずーっとクスクス笑いっぱなしだったぞ!」

「ご――ごめんなさい、お父さん」

「ごめんなさい、カルおじさん」

 ミオとヒューバートが、神妙な顔で頭を下げる。

「ヒューバート、ミオ」

 二階の窓からリロイの声がかかった。

「心配しなくても、私達はこの客人達と喧嘩したりしない。いや――もしかしたら、喧嘩するかもしれないが、お茶の一杯もごちそうせずにいきなり叩き出したりはしない。だから二人とも、おとなしく下で待っているんだ。そうすれば、私達の話が終わった後で、おまえ達の相手をするから」

「はい――ごめんなさい、父さん」

「リロイおじさん、ごめんなさい」

 再びヒューバートとミオは、神妙な顔で頭を下げる。

「エリック、大丈夫?」

 二階の窓から、クレアノンが顔をのぞかせる。

 その時はまだ、二人とも知らない。

 ただ、これが。

 ヒューバートとミオが、生まれて初めて竜と出会った瞬間だった。



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