28歳
<田渕>
「本日より井川君を営業2課課長に任命する。」
パチパチパチ・・・・・・・・・。
同期が先に出世した。
4人の同期のうち、3人が課長に昇進した。
残ったのは俺一人だ。
俺の名前は田渕浩司(28歳)どこにでもいる、なんの取り柄もない28歳の男だ。
28歳は人生の分岐点だと言われるが、それなら俺の人生はこの先も余り期待できないな。
華々しく活躍する同期に降灰を受けて今日も何となく仕事をする。
「田渕!!何度言ったらわかるんだ!!」
部長の席の前に立たされ、今日も俺はいつもの様に部長に怒鳴られる。
周りの社員から失笑が漏れる。
28にもなると怒られる事にも慣れてきた。反論せずただ黙って聞く、何を言われても嵐が去るのをただ待つのみ。どうせ頑張って俺はあんたの望むレベルの仕事はできないよ。
説教が終わり、そそくさと外回りとホワイトボードに書き込み会社を出る。
しかし、外へ出たとしても何となくやる気も起こらず、客先を回る事をぜず俺は昼飯変わりにパンをかじりながら川を眺める。
大人になるにつれ自分の可能性、能力の限界に気付いてくる。
自分が特別な人間ではないこと、決して主役にはなれない事も・・・・。
今日もただ時間が過ぎるのを待つ自分がいた。
世の中の全てがめんどくさい。何をやっても力が入らない。何か楽しい事でも起こらないかな・・・・。
退屈で何も無い。一体、何の為の人生だ。
<石原>
「・・・・どういう事ですか!?」
俺は大学病院の医務室で思わず声を荒らげた。
「大変ショックなことだと思われるが聞いて下さい。あなたの前十字靱帯はもう元にはもどりません。走ることによって痛みが伴い、前へのストップが効かなくなる。人工の靭帯を入れることで走る様にはなりますが、元のスピードには戻らないでしょう。選手としては致命的です。」
俺の名前は石原真司(28歳)東京ユニオンズFCの中心選手だ。
東京ユニオンズは日本のプロサッカーチームであり、過去に優勝5回を誇る名門だ。
俺はそこで司令塔の役割をこなす攻撃的ミットフィールダーだ。
中央から得意のドリブルで相手を抜き去り、ゴール前で決定的な仕事をする。
先日のキリンチャレンジカップで始めてフル代表に招集され、高評価を得ている。
学生のころから各世代の代表に招集されており、ほぼ順風満帆なサッカーのキャリアを歩んできた。
先日、敵から激しいチャージを受けて膝を少し捻ったが、
痛みは無かった為そのままプレーを続行、後半に入り運動量が落ちた為監督に交替を命じられた。
念のため膝の状態を見てもらおうと今日、病院を訪れた。
突然の事で思わず気が動転する。そんな、どうして俺が・・・・?
<木本>
「それでは、本日の朝礼を終わります。何か質問等はありませんか?」
木本の問いかけに誰も声を出さない。
「よろしい、では、掛け声の方をよろしくお願いします。
今日もお客様の美と健康の為に!」
「今日もお客様の美と健康の為に!」木本に続いて三人の美容務員が声を揃える。
「私たちは常に笑顔で接客致します。」
「私たちは常に笑顔で接客致します!」
掛け声が終わり、各自がそれぞれの持ち場に着く。
「よし!今日も売るぞ。」
木本は頬を二回ほど軽く叩き、気合を入れた。
私の名前は木本真理子(28歳)化粧品メーカー共和堂の美容務員として新宿大手百貨店の一階で活躍している。
今のところうちの店舗が他の共和堂の店舗よりも結果を残している。
このまま売上を伸ばしていけば私の本社勤務も夢では無い。
木本は本社勤務の夢に向かって邁進中だ。
しかし、木本の知らないところで大きな力が動き始めていた・・・。
その日の夕刻、木本の足元に本日刷られた号外が飛んできた。
「共和堂、外資系コスメ・Dファクトに買収される!!」
そんな馬鹿な、木本は号外に目を通した。最近、業績不振が続いていた共和堂は外資からの企業買収に従う形になった。
不気味なほどに見出しは黒地に黄色い文字でデカデカと記載されていた。
<吉井>
Lv72のアルティメット・メタル・ドラゴンが現れた。
ドラゴンのファイヤーブレスにパーティーのメンバーは苦戦している。
パーティーの陣形が徐々に崩れていく。
やれやれ、僕が行かないといけないな。
僕のアバターであるハンターマスター・ブルースがドラゴンに向かって駆け出した。
ドラゴンが吐き出すブレスをジャンプで躱し、先日ネットマネーで購入したライトニングブレードを振り下ろす。
9843のダメージ、ドラゴンは大ダメージを喰らい悲鳴を上げる。
直ぐ様、体制を立て直し稲妻系の魔法をドラゴンの脳天にお見舞いし止めを刺す。
9999のダメージ、ドラゴンは悲鳴をあげて崩れ落ちた。
見事にドラゴンを倒す事に成功した。
<いやー、今日もヨッキ様のブルースのおかげで完勝ですた。>
<ドラゴンもブルースの前ではティウンティウンでしたねwwwww。>
<さすが、我らがリーダー、ヨッキ様>
ここは人気オンラインゲーム、ドラゴンレジェンドの世界の中。
僕はLv129、ハンターマスター・ブルースを操るヨッキ事、吉井徹(28歳)だ。
僕のレベルは世界ランク945位、1000位以内の日本人は3人しかいない。
一度も本当の顔を見たこともない仲間たちと毎日、ドラゴンレジェンドの世界を冒険する。
吉井は一日中自分の部屋に引きこもりオンラインゲームに没頭している。
ここ何10年かは、トイレ以外で自分の部屋から出た事は無い。いわゆる引きこもりのニートである。
オンラインゲームの世界では自分がヒーローであり、みんなが自分を尊敬してくれる。
パソコンを通してのコミュニケーションしか気が付けば出来なくなっていた。
それでもいい、この世界で僕に敵う奴なんていない。
僕はこの世界の帝王だ!!
すると突然、パソコンの画面が真っ暗になり緑色の斑点がところどころに画面の中に現れた。
「??何なんだ?パソコンの調子が悪いのか?ゲームのサーバに異常がおきたのか?」
その緑色の反転はやがてひとつひとつつながりを持ち形になってきた。
「・・・ドクロ?」
それは、ドラゴンレジェンドのサーバーがクラッカーにより破壊された証だった。
<田渕>
今日も上司が帰るのを見計らって早々と仕事を切り上げ、帰宅の準備をする。
「おい!田渕、井川の昇進祝いやるけどお前もどうだ?」
「ああ、悪い、俺はパス。」
「おいおい、同期のよしみだろ?少しぐらい付き合えよ。」
「悪い、ちょっと体調が良くないんだわ。早めに帰って寝るよ。」
「そうか・・・じゃあな。」
社会に出てから面倒くさい人間関係の躱し方だけ上手くなった。
上手く、波風立てず、要領よく立ち回る。
それだけを頭に置いて日々を過ごしている。
今日もいつもどおり総武線の快速に乗って新小岩で降りる。
駅前のコンビニで適当にビールを自分の分だけ買って家路につく。
「あっ、おかえり。」
部屋に入るとあずさが夕飯を作っていた。
あずさは6年前に友達の紹介で知り合って、どちらから告白するわけでもなく何となく付き合って、2年前からなんとなく同棲している。
「おう、今日飯何?」
俺はネクタイを外しながらあずさに聞いた。
「今日は鶏の甘辛煮とほうれん草のおひたしよ。」
「甘辛かあ・・・俺、前に甘辛嫌いって言わなかったっけ?」
昨日脱いだスウェットを探しながら文句を言った。
「そんなこといわないでよ・・・・。それよりこーちゃん。今度、久しぶりにディズニーシーに行こうよ。新しいアトラクションができたんだよ。」
あずさはぴょんぴょん跳ねながら雑誌を持ってきて、付箋の貼ってあるページをひらいた。
「んー、また今度な。」
スウェットに着替え、今に座って缶ビールを開けた。飲んでみてビールでは無く発泡酒だった事に気づき思わず顔をしかめ、ラベルを確認する。
「今度っていつ?こないだも温泉の話して結局行かなかったじゃない。日にち決めようよ。」
あずさは子供のようにむくれながら田渕の二の腕を掴んだ。
「日にち決めてもいいけど、お金かかるぞ?そんな金うちにはあるのか?」
リモコンでテレビを付けながら、なんとか行かない方向に話をそらす。
テレビ画面の向こうではひな壇に座る芸人達が面白いトークを繰り広げている。
「それは・・・けど、たまには出かけたいし・・・・。」
「ははは!こいつらおもしれーな。」
「ちょっと!こーちゃん!話聞いてる?」
「解ったよ。また今度な。」
こうやって小さな小競り合いをしながら、そのうち出来ちゃって結婚するんだろうな。
なんだかめんどくさいと思いながら、最新のギャクに笑いを堪えきれなかった。
翌日も部長の説教から逃れ外回りに出る。
得意先までなんとなく遠回りをして車を転がす。
ラジオから浜崎あゆみの曲が流れてきた。そういえば、俺が高校のころは浜崎あゆみの全盛期だったなぁ、なんて事を思いながら鼻歌を歌いながら車を走らせる。
赤信号で止まり、ふと歩道を歩く人たちを眺める。
走りながら荷物を運ぶ運送屋に、携帯を片手に話しながら歩くサラリーマン、工事現場でコンクリートをこねながら汗をかくガテン系の若者。
そんなに頑張ったって何も出ないよ。
田渕はその人たちを冷めた目で見つめていた。
すると、その中に見慣れた人影を発見した。
そこには白いフェミニンな感じのコートに、少し短かめのスカートを履いたあずさいた。
「あいつ、なにやってるんだ?今日は確か仕事だったはずだが?」
おーい、あずさと車の中から声を出そうと思った瞬間、あずさは自分とは逆の方向に手を振った。
そこには品の良い白のセダンが止まっており、中からライトブラウンの皮のジャケットに黒のタートルネックの顎髭を生やした30半ばぐらいの男が出てきた。
あずさを見つけると親しげに右手を上げた。
田渕には無い大人の余裕がその男から滲み出ていた。
あずさは小走りでその男に寄って行き、前から首にぶら下がる様に抱きついた。
歩道の真ん中で男も困った様な笑顔であずさの頭をなでる。
あずさは田渕の前では見せない少女のような笑顔で男に何か話しかけている。
二人は手を繋ぎながら白いセダンに乗り込んだ。
おい!嘘だろ?田渕は気が動転して思わす車を止めてしまう。
ビーと後ろからクラクションを鳴らされて正気に戻る。
あずさの乗ったセダンと進行方向が一緒の為、田渕はセダンの後ろ側に着くかたちになった。
尾行なんて悪趣味だ。そう思う自分とは裏腹にセダンに牽引される様に後についていく。
セダンは乃木坂辺りの小洒落たカフェに止まる。
あずさと男は表通りを歩く人々にみせつけるかのごとく、ランチを食べながら手をつないだり、頭をもたれかけたり二人の世界を満喫していた。
あずさの幸せそうな顔を見ていると、怒りというよりも切なさが心を満たした。
いつも一緒にいるあずさなのに、あんなにも幸せそうな甘えた顔を見たのは初めてだ。
どこかあずさが遠い存在に見えた。
あずざが席を立ち、一人になったところで男はウェイターを呼び寄せて支払いをした。
そういったスマートな仕草も大人の余裕を感じさせた。
少ししてあずさが戻って来ると二人で腕を組んで車に乗り込む。
そのまま、しばらく車を転がして赤坂あたりまで着くと右にウインカーを出して路地に入っていく。
そして、しばらく入り組んだ路地を通ると・・・・・リゾート風の派手な外観のラブホテルの中にセダンは吸い込まれて行った。
田渕はしばらく目の前で起こった事にショックを隠しきれなかった。
そんな、あずさが・・・・どうして?
カーシートの背もたれを少し倒してラブホテルを見つめていた。
ちょうどカーステレオから田渕が高校時代に流行っていた浜崎あゆみのMがかかっていた。
M 作詞:浜崎あゆみ 作曲CREA
<‘MARIA’ 愛すべき人がいて
時に 深く深いキズを負い
だけど 愛すべきあの人に
結局何もかも癒されてる
‘MARIA’ 誰も皆泣いている
だけど信じていたい
だから祈っているよ
これが最後の恋であるように
理由なく始まりは訪れ
終わりはいつだって理由をもつ…
「理由なく始まりは訪れ、終わりはいつだって理由をもつ・・・。」
その歌詞が胸を締め付けた。
<石原>
「おい、石原。」
練習グラウンドに向かう途中にコーチの山岡に声をかけられた。
「病院に行ったそうじゃないか・・・どうだった?ケガの具合は?」
山岡は心配そうに石原を見つめた。
「・・・大丈夫っす。どうやら軽い捻挫みたいなものらしいんで。今日は軽い別メニューにしていただいてもいいですか?」石原はあえて本当の事を言わなかった。言ったら間違いなくメンバーから外されるし、医者の言った診断結果がにわかに信じ難かった。
「おお、構わんよ。お前はうちが誇るスーパーエースだからな!明日の試合も頼んだぞ。今はうちが首位だがハイベリーズが勝ち点3差ですぐそこまで迫っている。明日は日本代表のセルタ監督も視察に来る。燃えてくるんじゃないか?」
優勝争いの真っただ中で、日本代表監督のセルタの前でアピールできれば代表定着も夢では無い。
石原の頭の中で怪我の不安は微塵も感じられなかった。
大きなファンファーレと共にピッチに子供と手をつないで選手達が入場する。
緑色の芝を照明が照らし、海の様な輝きを放つ。競技場を包む大きな歓声・・・・。
石原はベンチでその高揚感を味わっていた。
東京ユニオンズFC VS ユナイテッド・ハイベリーズ大阪
現在首位の東京ユニオンズをユナイテッド・ハイベリーズ大阪が勝ち点3で追いかけている。
今日の直接対決に勝った方が優勝に王手をかける事ができる。
ユニオンズのフォーメーションは3-5-2、トップ下に司令塔である石原を置いた昔ながらのバランスのいい布陣だ。一方のハイベリーズは4-4-2のサイド攻撃を中心とした攻撃サッカー、左サイドの森田が得意のドリブルでディフェンスラインをズタズタに切裂き、右サイドの今井が正確無比のアーリークロスをゴール前に上げる。
現在、セルタ監督も3-5-2、4-4-2のどちらの布陣が良いか決めかねている。石原のポジションである攻撃的ミッドフィールダーは一番の激戦区、仮に4-4-2が採用されれば石原より適正のある森田や今井に代表の座を奪われてしまう。
今日は何としても勝たなければならない。
しかし、試合は思う通りには行かなかった。
前半からハイベリーズの森田のドリブルがユニオンズゴールに襲いかかる。ゴールバーを叩く危ないシーンも多く見られて、明らかにハイベリーペースで試合が進んでいる。
そして前半28分、右サイドの今井がボールをキープ、正確無比なアーリークロスをゴール前に放つと中央で競り合うハイベリーズとユニオンズの頭上を超えて左サイド手前へ、そこに走り込んだ森田がゴール隅に綺麗に流し込む。先制はハイベリーズだった。
鮮やかなゴールに会場のボルテージも一気にあがる。セルタ監督も満足そうに資料に何かを書き込む。
「くそ!このままじゃ・・・!」
石原はベンチで焦りを抑える事で必死だった。
ハイベリーペースで前半を終える。
後半もハイベリーズ優勢で試合が進む。
ハイベリーズの怒涛の波状攻撃にユニオンズは防戦一方である。
監督がチラリと石原を見た。
石原もそれに目で応える。
「石原、少し早いが行けるか?」
「はい。」
石原はすぐに返事をし、ベンチコートを脱いだ。
電光掲示板が10番の交替を表示すると、先まで御通夜の様に静まり返っていたユニオンズサポーターが沸き立った。戻ってくる選手と軽い抱擁を交わし、石原はピッチの中央に駆け出していく。
少し全力で走ってみたが、痛みは無かった。
「オー、オー、イ・シ・ハ・ラ!!ゲット・ゴール・イ・シ・ハ・ラ!!」
割れんばかりの石原コールがフィールドを包み込む。
石原は燃え上がる感情を抑える事が出来なかった。
「石原!!」
ディフェンスラインから絶妙なロングパスが石原に渡る。
石原にボールが渡った瞬間に会場から割れんばかりの歓声が上がる。
前掛りになっていたハイベリーズはカウンターを喰らった形になった。
ハイベリー側はキーパーを含め3人、石原と前方左方向にユニオンズのブラジル人FWキャンベルが走り込んでいた。
一人が石原のチェックに行く、石原は右サイドに流れ相手を圧倒的なスピードで振り切った。
そのまま中央に深く切り込んでゴールを目指す。
もう一人のDFが石原のチェックに行く。
「イシ!」キャンベルが手を上げてボールを呼んでいる。
おいおい、今日は最高にキレてるんだ、邪魔しないでくれ!!
石原はパスを出さずDFに向かって行った。石原が体重を右に傾ける、DFも思わす右に体重を傾ける、石原は直ぐ様体重を左に傾け相手を振り切る。
DFは右に体重をかけすぎて思わず反応が遅くなり足をもつれさせる。
DFをあざ笑う様に振り切り、残るはキーパー1対1である。
GKに向かって石原はドリブルをますます加速していく。
ぐんぐんスピードを上げる石原に誰もついて行くことが出来なかった。
たまらず滑り込んでくるGKをおちょくるかのようにふわりとボールを浮かす。
その直後、石原もGKをジャンプで交わした。
あとは無人のゴールにボールを流し込むだけ、石原は完璧なプレーで左足から着地した。
すると、着地の直後に左膝から全身に電流のような痛みが体中に走る。
一瞬、気を失いそうになり石原は体制を崩しピッチに倒れ込む。
体が動かない、石原は燃えるように痛みを放つ左膝に目をやった・・・・・左膝はじゃがいものように腫れ上がっていた。
目の前のボールがゴールのタッチラインを割ることなく目の前に転がっていた。
遠くから石原を呼ぶ声と担架が運び込まれ、石原はピッチの外に運び込まれた。
仰向けに担架に乗せられピッチの外に運びこまれる途中、照明がやたら眩しかったことだけ今も覚えている。
<木本>
「ちょっと!どういうことよ!!イメージを伝えたのに全然違うじゃない!!!」
百貨店の一階、化粧品売り場で奇声がこだまする。
「左様でございますか。しかし、お客様のおっしゃられた通り、小顔になるようにお化粧をさせていただいたのですが・・・・。」
「でもも、しかしも無いわよ!!どこが小顔だって言うのよ!!私はあの子みたいな小顔にしてって言ったのよ!!」
客の女が共和堂のファンデーションのポスターを指さす。
そこには今人気のモデルが笑顔で新色のファンデーションを顔の横に持ってきていた。
片や客の女は下膨れの、団子っ鼻、しじみの様な小さな目にフリフリの洋服を来ている、洋服が白を基調にしている為、太い体が余計膨張して見える。
整形手術でもしない限りポスターのモデルのような顔には成らない。
「お客様、どうされましたか?」
木本が騒ぎを聞き付けて駆け寄る。
「どうも、へちまもないわよ!この女の技術がヘタクソで全然小顔にならないのよ!!」
「左様で御座いますか、大変申し訳ございません。私めに少しお任せいただけますか?」
木本はサッと客の女の後ろにまわり、優しくほほ笑みかける。
「まずは自分の肌色にぴったりのファンデーションを塗ります。お客様は非常にお肌が綺麗で白いので、この色がいいかもしれませんね。
あごには自分の肌より暗いシェードカラーを塗ります。これでさらに顔のラインを引き締めをします。
小顔に見えるメイク術の最後は、パウダーやチークなどです。アイメイクで目を大きく見せれば、そこに視線が集まって、顔が小さく見えますので、たとえば、明るい色をアイホール全体に入れ、パールをまぶたの中心に丸く乗せて光らせます。
さらに、ダークカラーを目頭から中央、目尻から中央へと入れていくと、色のグラデーションによって、目が立体的に見えます。そこへアイラインで目の輪郭を強調し、黒目の上下を強調するようにマスカラを付けると、出来上がりです。どうです、お客様の可愛らしいお顔が、より愛らしく見えるようになったと思いませんか?」
「そ、そうかしら?」
「ええ、以前より華やかで、お客様のような方に弊社の商品を使って頂けたら・・・ポスターよりもとても良い宣伝効果になること間違い無しです!」
木本は間違い無しですを少し強調し客の購買意欲を盛り上げた。木本の流れるような説明と、相手をさりげなく褒める技術により客の女もまんざらでもなさそうだ。
「じゃあ、このファンデーションと、今日使った商品を全て頂けるかしら。」
「ありがとうございます。すぐにお持ち致しますので少々お待ちください。」
木本は90度のお辞儀をして在庫を取りに行った。
「小川さん、あれほど言ったでしょ。お客様を怒らせてはいけないって!」
業務後、従業員控え室で恒例の説教タイムが始まった。
今日は先ほど客を怒らせてしまった小川が餌食だった。
「すみません。でも、小顔になるようなメイクをほどこしたんですが・・・・。」
小川は消え入る様な声で言った。
「でもじゃありません!!例えそのようなメイクをしたとしても、お客様が納得しなければ何の意味もありません!だいたい、あなた、お客様の前で言い訳しようとしたでしょ?あれは火に油を注ぐようなものだとあれほど言っているじゃない!」
木本の説教はそれからも続いた。
説教が終わり更衣室に向かう。
「ねー、まだ木本さんの説教つづいてるのかな?」
「怖いよねー、最近、店舗責任者になったから調子乗ってるんじゃない?」
「解る、解る、最近、何かしらしゃしゃり出てきては出来る女ぶりをアピールするようになったよね!」
「本社栄転でも狙ってるんじゃない。あの人、男日照り続いていて仕事しか無いから。」
「そーなんだ。もういい年だもんね。人の肌の乾燥気にする前に自分気にしなさいよね。」
「きゃはは、うける。」
バン!!
裏で全てを聞いていた木本が勢い良く更衣室の扉を開ける。
着替え中の美容務員達がびくっと飛び上がり、思わず固まる。
「木本さん・・・・お疲れ様です。」
その挨拶に木本は応えず、無言で自分のロッカーに向かっていく。
他の美容務員達は蜘蛛の子を散らすように更衣室から出ていった。
いつもこうだ。自分が必死で頑張っているのに周りの人間は誰一人として私を認めてくれない。
説教や、叱咤も好きでやっている訳じゃない。全ては貴方達の為を思ってやっているのになぜそれが理解出来ないのか?
男に気に入られようと必死な貴方達より、私の方が絶対価値がある。
木本は自分に言い聞かせながら着替えを終えた。
職場から4駅ほど乗り継いだ駅に木本は1Kのマンションを借りて住んでいる。
缶チューハイと百貨店のタイムセールで安くなった弁当を抱えて、誰も待っていない部屋に鍵を通す。
ただいまと言ってみたが、真っ暗な部屋から返事は帰って来るわけでもなく、ただ虚しいだけだった。
弁当と缶チューハイの入ったビニール袋を机の上に置いて一息入れようと思ったが、留守番電話のランプが着いている事に気がつき再生する。ピーという機械音の後にメッセージが再生された。
「もしもし、お母さんです。真理子元気にしてる?あなた、去年の正月も一番忙しい時期だって言って帰ってきていないでしょ。お母さんは心配です。もう28歳なのに結婚もせずにいつまで一人でいるの?真理絵といい、あんたといい、ちょっとは周りの目を気にしなさい。
この間、吉倉さんの奥様からお見合いの紹介があってね。市役所勤務のおぼっちゃまだそうよ。ねえ、こっち返った時でいいから、一度会ってごらんよ。それから、」
あまりにも煩わしくて途中でメッセージを消した。
両親は口を開けば結婚、結婚。
木本の家は神奈川の旧家である。年頃の娘がいつまでたっても独り身なのは世間体がある為、由々しき問題なんだろう。
結局、田舎では周りの目が一番重要なのだ。
誰も自分の事を思ってくれてくれなくて、やけくそに缶チューハイを一気に飲み干した。
翌朝、いつもの通りミーティングをはじめようとすると。急遽エリアマネージャーに呼び出され、木本を含めたメンバー全員が個室に呼び出された。
そこにブロンドの髪をしっかりと結びつけた白人女性が上座に座っていた。
外人なのでパンツスーツが道に入っている。しかし、青い目は冷たい印象を際立たせた。
「みなさん、おはようございます。今日から貴方達のボスとなるDファクト日本支社のレベッカ・レッドハートです。」
木本達はブロンドの白人が下手したら自分たちよりも流暢な日本語を話す事に驚いた。
それ以上に突然この白人が上司になる?木本は頭の中を整理する事で精一杯だった。
「皆様、知っての通り共和堂はDファクト社に吸収合併されました。今後は皆様にDファクト社のやり方にしたがってもらいます。」
白人女性は動揺を隠せない木本達を尻目に説明を続けた。
「まずはDファクトは若さやみずみずしさを売りとする商品が中心です。なので貴方達販売員もイメージチェンジを図ってもらいます。まず、年齢が25歳を過ぎた販売員の方は他の部署への配属になります。現在、流山にある倉庫の管理業務が受け入れ先です。また、化粧品の実演販売もコストカットの為行いません。」
白人女性はまるでマニュアルを読むかの様に淡々と言い放った。
「ちょ、ちょっとよろしいですか?」
メンバーの中でいち早く冷静さを取り戻した木本が挙手をする。
「なんですか・・・・んー、ミス・・・・。」
「木本真理子です。」
「ミス・木本。なんですか?」
「先ほどの話を聞かせていただきましたが、少し乱暴すぎませんか?まず、年齢で美容務員を区別するのはどうかと思います。それに化粧品の実演販売が出来ないとなると私たち美容務員の存在価値がないのでは?黙ってにっこり笑顔で商品を持って接客するだけなら、失礼な話、誰にでも出来る事です。」
他のメンバーも加勢したいが、どうしても勇気がでない。しかたなく白人の新しい上司の顔を見る。
白人の上司は眉一つ動かさず、冷酷な目で木本を見つめている。
「ミス・木本。つまりあなたは我々、Dファクトの販売マニュアルが間違っていると言いたいのですね?」
「いえ、間違っているとは想いません。ただ、急にDファクトのやり方にしてしまうのは、お客様がそのやり方を受け入れてくれるかが心配です。」
このやり方で共和堂のリピーターが離れてしまうことを木本は一番恐れていた。
同時に、美容務員の自分たちの接客があってこそ商品が売れるのだという自負もあった。
白人上司はしばらく黙っていた。
「ミス・木本。貴方は明日から来なくて結構です。貴方の解雇は私が本社に伝えておきます。」
白人上司は眉一つ動かさず業務連絡の様に言った。
木本は一瞬にして自分の体温が氷点下まで達したような感覚に陥った。
そんな・・・・そんな事ってあるの?
<吉井>
ドラゴンレジェンドのホストコンピューターがクラッカーに破壊されてから数日、多くのトッププレイヤーの装備のデータが消される事態が発生した。
その中に吉井のアバターも含まれていた。
今まで何百時間も掛けて集めてきた装備が一瞬にして水の泡になった。
吉井は朝から目が出目金の様になるまで泣きはらした。
「うう・・・・、ううぅ・・・・・・・。チクショウ!どうしてくれるんだよ!!俺はドラゴンレジェンドの帝王だぞ!今更、LV1の木の棒と木綿の服で旅に出ろというのか?それとも、あれか?モンハンやバハムートに引っ越せってか?チクショーーーーーーー!!」
吉井は部屋の物を手当り次第投げた。おかげで散らかっている部屋が、余計散らかってしまった。
ピロリロリン!パソコンからメッセージを告げる着信音が鳴った。
いつも冒険を共にしている仲間達からだ。
「ヨッキざまあwwwwwwwwwwwwww。」
「いつも見下しやがって!お前なんか全然リア充じゃねえWW。」
「とっと引退しろよ、このコミュ障ニート!!」
今まで自分を慕い、仲間だと思っていたメンバーが自分を叩き、苛めている。
顔が見えない、正体が解らない者だからこそ言える残忍な言葉。
吉井はかつて自分が引きこもりになった時の事を思い出していた。
中学時代、吉井は背が小さくて、ガリガリだった事からオカマと呼ばれクラスメートから苛めを受けていた。
上履きや体操服を隠される事だけではなく、机の上に落書きをされたり、濡れ雑巾を頭からいきなりかぶされた事もあった。
周りのクラスメートは誰も助けてはくれない。助ければ自分もいじめられるからだろう。
気が付けばクラス全員の苛めのはけ口となっていた。
何度か先生に助けを求めた。その時対応したのは体育教師の西という若い先生だった。
如何にもスポーツマンな西は生徒からも人気の先生だった。
皆の人気もの西先生なら僕をたすけてくれるはずだ。
吉井は今の現状を涙ながらに語った。
すると西の口からある言葉が帰ってきた。
「苛められるお前にも原因があるんじゃないか?もっと、男ならしゃきっとしろ!」
西は笑いながら吉井の肩を叩いた。
その笑顔は人を喰らう悪魔のように残忍で恐ろしく見えた。
吉井は一瞬何を言われているのかが解らなかった。
苛められている自分が悪い?僕がしゃきっとしていないから、背が低くて、色白だから苛められているというの?僕みたいな子はみんな苛められる運命なの?
もう、だれも信じれない、信じたくない・・・・・その日から13年間、吉井は一歩も家から出た事が無い。
「もう、いい、僕は一人なんだ・・・・だれも僕が死んでも気づかないんだ。」
孤独と絶望間の中で吉井は再び泣いた。
「だれかと話したい・・・・だれかとつながりたい。だれか・・・・助けて・・・。」
吉井は必死でネットを徘徊した。
そして、一つの掲示板のスレットを立ち上げた。
題名には28歳と明記した。
お願いです。僕は孤独です。だれか・・・・・助けてください。
無人島に残された人間の様にひたすら救助を待った。
<田渕>
「どういう事なんだ?」
ダイニングのテーブルを挟んで田渕とあずさは向かい合って座っている。
ダイニング以外の部屋の電気は消してある。静まりかえった部屋は何故だか冷たく感じた。
田渕は帰宅後、あずさを問い詰めた。
あずさは一瞬、真っ青な顔をしたがうつむいたまま何も喋らなくなってしまった。
静かな部屋に二人・・・・。
時計の秒針の音だけが部屋に響きわたる。
コツ、コツ、コツ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・。
あずさはうつむいてしまって表情を伺う事が出来ない。
沈黙だけが部屋を包む。
「なあ、なんでこんな事したんだ?」
たまりかねず田渕が聞いた。
あずさは応えない。
「・・・・・寂しかった。」
消え入りそうな声であずさが言った。
「え?いや、寂しかったからって浮気はだめでしょ。その・・・ホテルとか・・・・。」
田淵は批判しようにも上手く批判出来ない自分をもどかしく思っていた。
「ホテルに行った事がダメなの?あの人とそういう事したのがだめなの?」
あずさは急に田渕を見て反論しはじめた。その目には涙がこぼれ落ちそうなぐらいたまっていた。
「いや、それはまずいというか・・・俺たち付き合っているわけだし。」
あずさの勢いに田渕はしどろもどろになる。ここまで強く追い詰めてくるあずさを見たことは無かった。
「・・・・こーちゃんは私の事・・・・愛してる?」
突然の問いに田渕は押される一方だ。
「それは・・・もちろんだとも。」
「うそ、最近私の話を聞いてくれないじゃん!私は空気みたいな存在なの?あの人は私の事、本当に好きでいてくれる・・・・私、嬉しかった。寂しかったんだよ私!!」
あずさはひとしきりしゃべった後で号泣した。
収集がつかないと感じた田渕は一人寝室へ逃げ込んだ。
明日になれば少しは落ち着くだろう。あずさの浮気を発見しただけでなく、ここまで追い詰められるとは思わなかった。
田渕は心身共に疲れていたため、泥のように眠った。
翌朝、目が覚めるとあずさの姿はどこにもなかった。
あずさが心配だが出勤時間が迫っていたのでいつもどおり出勤する。
そして、帰宅した部屋にはあずさの荷物はなくなっていた。
机の上には合鍵とありがとうとだけ書かれたメモが置いてあり、それはあずさとの6年の終わりを意味していた。
田渕はあずさの居ない部屋に一人腰掛け思い出に浸った。
そういえばこの椅子・・・あずさと二人で選んだんだったよな。
あずさの物は全てなくなったのに・・・・あずさとの思い出はこの部屋にたくさん残っている。
どうせなら思い出も俺の心の中から持っていってくれればいいのに。
あずさの荷物の無い部屋はいつもより広く、冷たく感じた。
思えばあいつはいつも俺の事を思ってくれたよな。
なのに俺は、俺の為にしか動いていない。
仕事も上手くいかない、彼女にも愛想つかされた。
本当に俺は何も無い男だな・・・・・。
田渕はいつもより広く冷たい感じのする部屋で泣いた。
泣いて、泣いて、泣いて・・・・・喉が切れ、頭が破裂するほど泣いた。
自分の情けなさ、あずさがいない寂しさ全てを絞り出すように、泣いた。
もう嫌だ、俺にはもう何も無い。
その時、田渕のパソコンに新着メールが入って来た。
新しい掲示板が立ち上がったお知らせのメールだ。
しかし、そのメールに田渕が今晩、気付く事は無かった。
<石原>
また、朝が来た・・・。
石原は元気にプレーしていた頃の夢を見ていた。
光り輝くピッチの上で、自分はボールを使い思う存分自分を表現する事が出来た。
自分は特別な人間だ、自分は誰よりも早い、どこまでも飛んでいける・・・・・。
突然、石原はバランスを崩し倒れ込む。
ふと足を見ると左膝から先が粉々に砕け散っている。
毎朝、自分の悲鳴で目が覚めてしまう。
石原は枕元にあるスポーツ新聞に目をやった。
<東京ユニオンズ石原、左膝靭帯断裂・現役引退か?>
<石原負傷!ユニオンズ優勝に暗雲。>
<ユナイテッド大阪・森田炸裂!!セルタ日本代表監督も太鼓判!!>
新聞の一面に左ひざを抱え苦しんでいる石原の写真が掲載されている。
思わず目を背けたくなる記事ばかりだ。
「またうなされていた様だね。」
そこには石原の主治医である岡部が立っていた。
岡部は年は石原と同じくらいだが、細身でメガネをかけておりその表情から感情を読み取る事は出来ない。物腰も落ち着いており大分年上のような印象を受ける。
石原はベッドから立ち上がろうとした。
しかし、左足が全く動かない事に気付く。
石膏のギプスで固められた足を見ながら現実を受け止めるしかなかった。
「やれやれ、最初、君がこの病院に搬送された時は驚いたよ。前十字だけではなく膝のほとんどの靭帯が断裂していた。よくそんな足でサッカーが出来たもんだ。そのかわり、君は人工膝の手術を受けて歩ける様にはなる。現代の医学に感謝するんだな。」
石原はあの試合の途中で病院に運ばれた。その時、診察したのが岡部だった。
石原の膝は手の施しようが無かった。直ぐ様、人口膝の手術が行われた。
そして、あの日から一ヶ月位、石原は今でも入院中である。
「感謝?俺はもう現役復帰は難しいんだろ?復活できても前のスピードには戻らない。それのどこに感謝しろって言うんだ!ふざけるなよ!」
手元にあった新聞を岡部に投げつけた。岡部のとなりにいた看護婦がキャっと悲鳴を上げた。
岡部は何も言わずに新聞を拾い上げ石原の元に持ってきた。
そして、石原の胸ぐらを掴み自分の鼻先まで顔を持ってきた。
「先生!!」と止めに入る看護師を完全に無視して石原に詰め寄る。
岡部の感情の無い目がメガネ越しに石原を射抜く様に見つめる。
その勢いに石原はただ圧倒されれた。
「いいか、この病院には運ばれた時点で手遅れだったり、二度と歩く事が出来ない患者が山ほどいる。貴様はまだ幸運な方だ。それを感謝出来ないのなら今すぐここから出てけ!」
岡部の言葉は容赦なかった。それだけ言い終えると胸ぐらを離しきびずを返して病室を出ていく。
「あ、あの、石原さん。午後からギプスを外しますのでよろしくお願いします。」
看護婦が頭を下げてそそくさと岡部の後を追った。
午後からギプスをはずず為、電動ノコギリの様な物でギプスの両サイドに切れ込みを入れた。
ギプスを外した瞬間に心地よい爽快感を感じたが、左足を見て思わす卒倒しそうになった。
そこには子供の足の様に細くなった左足と膝には痛々しい手術の後が無数に刻まれていた。
健常の右足と比べるとそのアンバランスさに本当に自分の足なのか疑ってしまう。
「しばらくは松葉杖と歩具をつけてくださいね。明日から固まった関節を曲げるリハビリを始めます。」
看護師がギプスを片付けながら言うが、石原の耳には届いていなかった。
本当に俺は歩ける様になるのか?
石原は病院のベランダで途方にくれていた。
そこに小さなゴムボールが転がって来た。
ボールを見るのも嫌な石原は思わず顔を背ける。
「すみません。取ってもらえますか?」
そこには車椅子に乗った小学校5年生ぐらいの男の子がいた。
クリっとした愛らしい目に、色白だが笑うと笑窪が出来る、だれからも好かれそうなオーラを放っている。
石原は顔を背けながら少年にボールを渡した。
「ありがとう。お兄ちゃん新しく入院してきたの?どこが悪いの?」
「・・・・・・・。」石原は応えない。
「すぐに治るの?病棟は?名前は?」
「うるさいな!!ほっといてくれ!!」
石原は怒りを全面に出して声を発した。
男の子は思わず黙り込む。
「・・・・・ごめんね。」
男の子はしょんぼりして離れて行った。
石原は自分のいらだちを抑える事ができなかった。くそ!俺はこんなところで何しているんだ!
日本代表だってあと少しで手が届きそうだったのに・・・。
石原は自分の太ももを強く叩いた。
「シンジじゃないか!久しぶりだなぁ!!!」
石原が病室に戻ろうとした時、後ろから声をかけられた。
振り返るとそこにはニット帽を目深に被った初老の男性が立っていた。
「熊田監督!おひさしぶりです!どうしてここに?」
熊田監督は石原がユニオンズのユース時代にお世話になった監督だ。
ユース日本選手権などで過去に数々の栄光をユニオンズユースにもたらした名将である。
「ちょっと体にがたがきてな、年波さ。」
ずいぶん痩せた印象を受けるが、がはははははっはははは!!と豪快に笑う姿も昔と変わらない。
「どうだ一杯!久しぶりの再開だ!」
熊田監督はお銚子をクイっとやる真似をした。
「病院内に一杯やるところなんてあるんすか?」石原は思わず苦笑いをした。
「大丈夫だ!おれの病室までついてこい。」
相変わらず豪快なところは変わってなかった。
熊田の病室で隠していたビールを二人で味わう。
久しぶりの酒に思わず顔がほころぶ。
「そうか・・・・・それは難義だったな。」
「ええ、日本代表どころか現役続行も危ないですよ。」
石原はグラスに残ったビールを見つめながら寂しそうに呟いた。
「なあ、シンジよ。お前のプレーは自己中だけどガンガンドリブルで進むスタイルだ。」
熊田はつまみのスルメを口にほうばりながら言った。
「そうですね・・・・それが。」
「一度、止まってみろ。そしたら、止まった時にしか見えない風景があるはずだ。」
その言葉は石原の心に染み渡った。
「俺の息子には怪我を恐れず、動いてみろって逆の事を伝えたいんだがな。」
熊田は寂しそうにグラスを見つめた。
「息子さんは最近会ってるんですか?」
「いや、あいつがサッカーやめて、東京の大学行って、俺が離婚してからはほとんど会っていない。今思えば息子に伝えたかった事を上手く伝えられなかったから、お前らにサッカーを通して伝えていたんだろうな。俺はダメな父親だった。」
監督が始めて出した父親としての顔だった。
その顔はいままで見たどの顔よりも優しくて、寂しい顔だった。
自分の病室に戻り石原はおもむろに自分のパソコンを開いた。
28歳という題名のスレットが新しく立ち上がっていた。
「お願いです。僕は孤独です。だれか・・・・・助けてください。」
スレットにはそう一言打ち込まれていた。
「人に会ってみたら?」
石原は一言だけ打ち込んでみた。
<木本>
あれから二週間が経った。
解雇自体は正当な理由は無かったものの、裏ではDファクトの大規模なリストラ政策があったらしい。
Dファクト社が手がけたのは現場の若返り、25歳以下の美容務員の解雇及び、配置転換であり木本もそのリストに該当していた。
たとえ今回の解雇が不当だとしても、美容務員からの配置転換は免れないだろう。
木本は自ら辞表を提出した。
大丈夫、自分には今まで積み重ねてきた美容務員としての技術やキャリアがある。
次の職場などすぐに見付かる。そのころの木本はまだ自分は危機的状況では無いと判断した。
しかし、現実は甘くなかった。
翌日からハローワークに赴くがいい返事はひとつも無い。
「何か資格はお持ちですか?」
「いえ、共和堂の美容務員として6年間勤めてきました。現場経験と技術なら身に付けています。」
今までの仕事のキャリアを熱っぽく語る木本に対して、禿げた中年太りの職員は椅子にふんぞり返って、頭をボールペンの先で書きながらめんどくさそうにため息を着く。
「美容務員ねぇ・・・、あの共和堂っても化粧品の売り子さんでしょ?あんなの若ければ出来るんじゃないの?
それにあの業界は採用希望の年齢が低くてね。今、28だっけ?応募採用年齢が25のところがほとんどなんだよ。」
若いなら誰でも出来る仕事と言われて木本は煮えたぎる様な怒りを持った。自分達が売上を上げる為、お客様に喜んでもらえる為にどれだけ夜遅くまで残ってメイクの勉強をして努力してきたのか、あんたにわかるのか!!そんな思いが体の中を駆け巡った。
「28ならそろそろ結婚したほうがいいんじゃない?売り子さんは潰しが効かないからね。事務経験も無いみたいだし、らっきょの瓶詰め作業の仕事紹介しておくから、あとは自分で探して。」
「ちょっと!!他にもいろいろ話を聞いてください!販売という枠で探すとか何かないですか!!」
「こっちも忙しいんだよ。はいはい、次の方。」
木本は座っている椅子から無理やり引きずり降ろされた。
「なによ!若い、若いって!!私は6年間、共和堂の美容務員として頑張って来たキャリアがあるのよ!若いだけで出来るわけがないじゃない!」
木本は自分のお気に入りの居酒屋で一人荒れていた。今日はもう焼酎をボトル一本空けてしまった。
とはいえ今月から無職の為、収入も無い。今住んでいるマンションの家賃もあるし、早めに職を見つけないと・・・・。
木本はもう一杯焼酎のロックを空けた。
フラフラになって夜の街をさまよう木本。
すると、右の方からけたたましいダンスミュージックが聞こえてくる。
見上げるとそこは学生時代に友達と一度だけ行ったことのあるクラブだった。
「久しぶりに行ってみるか・・・。」
木本はクラブの門をくぐった。
耳をつんざくような音楽に、煌びやかなライト、男達はダンスに汗を流し、女たちは下着の見えそうなきわどい服装で奇声を上げながら笑っている。
木本はしばらくおとづれていなかったクラブという世界に圧倒されていた。
思えば最後に来たのが大学4年生の頃だった。あの頃と音楽も違うし、周りの人間が大人に見えたが今はほとんどが年下だろう。大学生の頃は男の子が変わる変わる声を掛けてきてはお酒をおごってくれた。
今は一人、ダンスフロアの隅で自分で買ったお酒を飲むだけ。
28歳、もう女の子として売れる時期は過ぎてしまったのかな?
寂しくて、鼻の奥がツンとした。
涙を堪えて木本はバーカウンターに行ってテキーラを飲んだ。
一時間後、大分いい具合に酔っ払って来た。
何だか気分がとってもハイだ!そう、私はまだまだよ!!まだまだ行けるのよ!
「おねーさん。何してるの?お酒飲もうよ。」
スーツを来た若いサラリーマン風の男が声を掛けて来た。
しばらく男に酒をおごってもらって話をしていると、男が肩に手を回してきた。
木本は気分が良くてそのまま男に寄りかかった。
そこから記憶が途絶えてしまった。
・・・・・・・・・・。
木本が起きるとそこは鏡ばりの間接照明の部屋だった。
一瞬自分がどこにいるか解らなかったが、全裸でベッドの上に寝そべっている姿が鏡に写されていて飛び上がった。
シーツを体に巻きつけて手探りで下着を探す。下着は上下違いそれを見られたかと思うと悲しくなる。
私は・・・・一体誰と?
枕元を見たがコンドームは開けられていない。
まさか!木本は自分の性器を指でなぞり、その指先を見てみた。
指先に自分のものとは違う、乳白色の液体が着いていた。
「もう・・・最悪。」
情けなくて、悔しくて、寂しくて木本はベッドでうずくまって泣いた。
それから二ヵ月、ハローワークに顔を出したが一向に職がみつからなかった。
頑張っても、頑張っても、結果はどんどん逃げて行く。
誰も私を認めてくれない、誰も私を必要としてくれない。
木本は徐々にやつれ、精神バランスも崩れ、体調を崩す様になってきた。
貯金はあと少しで底をつき、今までこまめに連絡を取り合っていた仲間とも音信不通になっていた。
どうして?私がいままで必死の思いで積み上げてきた技術は?キャリアは?評価されないの?
そして、あまりの体調の悪さに木本は病院に診察に行った。
「一ヶ月目ですよ。おめでとうございます。」
その言葉は木本を絶望に突き落とした。
暗い部屋で身重の自分が一人、化粧も落とさず、髪もボサボサのままで呆然としている。
美容務員として輝いていたころの自分が嘘のよう。
実家に帰ったらなんて言われるだろうか?
それを考えるだけでも憂鬱になる。
スマートフォンの着信が鳴った。
誰かが新しいスレッドを立ち上げたらしい。
28歳という題名のスレッドだった。
「お願いです。僕は孤独です。だれか・・・・・助けてください。」
一言だけ打ち込まれていた。
「私も」
それだけ打ち込んで木本は眠りについた。
<吉井>
「人に会ってみたら?」
その書き込みを見たのが深夜3時の事だった。
思えばここ10年ほど人には会っていない。両親も食事を持ってきて部屋の前に置くだけの存在になっていた。
人に会う。それだけでも自分にとっては大きな冒険だった。
ふと部屋にある鏡で自分の姿を見てみる。
伸びきった髪とヒゲ、スナック菓子で弛んだ腹、しばらく着替えていないスウェットにはところどころにシミが付いていた。
こんな自分に誰が会ってくれるのか?こんな醜い自分に会う人間なんてこの世にいない。
あきらめと同時に寂しさが心を溺れさせる。
吉井は寂しくて窒息しそうだった。
会いたい、だれでもいいから誰かに会いたい!!
例えどんな代償を払っても誰かに会いたい。けど、どうやって?
いつもの癖で吉井はパソコンの画面を開いていた。
何か人に会う方法は無いのか?こんな醜い自分に会ってくれる人はいないだろうか?
ネットをうろついているうちにある広告にぶつかった。
「デリバリーヘルス・ピンクドルフィン メールひとつで24時間」
それはショッキングピンクのイルカの様な生き物が飛びはねている広告であった。
吉井は思わずその広告をクリックした。
申し込み画面、住所と連絡先、女の子を選択してください。
吉井は住所と連絡先を入力した。
さて、問題は女の子だ。ここ10年ぐらい人とコミュニケーションを取っていない。
いきなり女の子はハードルが高すぎるんじゃないかな?
そう思いながら写真を見てみた。
<元気いっぱい、ギャル娘!!エミカ!>
色黒で明るい髪の女の子がセーラー服をはだけて、顔の横でピースしている。
こういう子は言動がきつそうだ、なにより自分みたいな根暗な男を馬鹿にするだろう。
<あなたを包む巨乳ロリ系お姉さん、レン>
白いスケスケのワンピースをまとった黒髪の清純そうな子が写っていた。
この子にしようか?いや、そもそもロリ系でお姉さんってのが矛盾している。
それにこんなに大きな胸を見ただけで興奮して倒れそうだ。
それに、清純そうにみえても何を考えているか解らない。却下だ。
その様な理由で女の子に一人でケチをつけて吉井は写真を物色した。
<あなただけの小さな天使・マイミ>
そこには10代にも見えるあどけない表情にツインテールの女の子が上目遣いでこっちを見ていた。
この子なら自分を攻撃しなそうだ。黙って言うことを聞いてくれそうだな。
弱くて、小さい女の子なら自分に強く出ないだろう。
吉井はそんな理由で小さな天使を指名した。
一時間後、母親からメールが入った。
「お客様がきたわよ。」
吉井は「上がってもらって」と短く返した。
思えば引きこもってから10年は家族とも話をしていないし、顔をあわせてもいない。
いつも朝昼晩と食事を運んで来てくれるだけの存在だった。
無論、コミュニケーションもメールだけで済ます。
コンコンとドアをノックする声に吉井はびくっと跳ね上がった。
「失礼します。入ってもいいですかぁ?」
予想より声は高く鼻にかかった、甘い声をしていた。
はやる気持ちを抑える為、吉井は一度深呼吸をして答えた。
「ど、どうぞ。」
女の子がドアを開けた。
そこには色白で、細い、愛らしい顔をした、ツインテールの・・・・・170cmぐらいの身長の女の子が立っていた。
167cmの吉井は少し女の子から見下されるかたちになった。
小さな天使?僕より大きいじゃないか?
吉井がポカンとしていると女の子はつかつかと部屋のに入ってくる。
「クッサ!なにこの部屋!!あんた鼻大丈夫?」
愛らしい表情、声からにても似つかない関西弁で女の子はまくし立てた。
「あ・・・・うう・・・・。」
久しぶりの会話と、聞き慣れない関西弁と、人生初と言っても過言でもない女の子との会話に思わず言葉が出てこない。
「換気するから窓あけるで!」
吉井の返事を待たず女の子は窓を開ける。2月の冷気が部屋を包み込む。
「うひやあああああああああああああ!さ、寒い!」
「女みたいな声ださんといて!次は・・・・あれやな。」
ベッドの上に積まれている雑誌を無理やり落とした。もはや部屋を壊す怪物にしか見えない。
「座るところもないやないか!今から、いらないもの捨てるで!!えーと、このおもちゃはなんで二個あるん?」
「そ、それはドラゴンレジェンドの会員100000人突破記念の際に販売されたフィギュアで限定120個なんだ。おそらくネットオークションでは5倍の価値を叩き出すと思われるよ。ちなみに一つは保存用、もう一つが観賞用だ。」
「ふーん、よーわからんけど、遊ばへんならもういらへんな。」
女の子はフィギュアを乱雑にゴミ箱に投げ入れた。
ゴミ箱の中で限定120個のフィギュアの首が無残にも折れた。
「あーーーーー!なにするんだよ!」
「うるさい!!次!この雑誌は?」
「それはドラゴンレジェンドが発売された当初のゲーム通信で、内容は頭の中に・・・・・。」
一時間後、
「ふう、ようやく座れる位になったわ。」
部屋にあったほとんどの物がゴミ箱に詰められて、部屋はほぼ殺風景になってしまった。
吉井はベッドの端に座り落ち込んでいる。自分がいままで集めてきた物、作り上げてきた部屋が一瞬にしてなくなってしまった。しかし、それと同時にどこかスッキリしたような感じがある。
「やれやれ、よっと!なあ、あんた普段仕事してんの?」
吉井の横に女の子は腰を掛けた。ふわっと、女の子のいい匂いがした。
「べ、別に、君には関係ないだろ。」
「解った!あんた引きこもりやろ!いい年してしょーもない。」
ストレートに物をいう女の子のペースに吉井は押されっぱなしだ。
「まずは部屋を綺麗にする事、それとそのきったない服と髪をなんとかする事!次回までにやっといて。」
「じ、次回?次回っていつだよ?」
「さっき言った事ができたらな。ほな帰るで!」
「ちょ・・・ちょっと!」
「ああ、名前か!マイミいうねん!よろしくな!」
吉井に握手を求めて来た。吉井も思わず握手する。
その手は細く、柔らかかった。
「ほな、またな!」
女の子は吉井のフィギュアなどの詰まったゴミ袋を持って帰って行った。
一人取り残された吉井は殺風景な部屋で一人呆然としていた。
パソコンを開き28歳のスレッドに書き込んだ。
「人に会いました。いろんなものを壊して帰って行きました。いい意味で?」
<田渕>
「人に会いました。いろんなものを壊して帰って行きました。いい意味で?」
「いい意味でってどういう意味だ?」
田渕はトーストをかじりながらパソコンを開いていた。
人に会う・・・・会いたい人もいないしなあ。
しかし、あずさが居なくなり寂しさだけが残る部屋にいるのも気が滅入る。
「・・・・会いに行ってみるか。」
田渕は服を着替え始めた。
外へ出ると木枯らしが頬を撫でた。
まだまだ温かくなるには時間が必要だなぁと感じながら最寄りの駅から電車に乗り、二回ほど乗り換えをした。
虎ノ門病院に着いたのは昼過ぎだった。
半年位ここにはきていなかったなぁ、田渕はエレベーターで5階に上がった。
一番奧の病室の前に立つとちょっとした緊張感が走った。
コンコンとノックをする。
「どうぞ。」
中から声がしたため田渕は静かに中に入った。
「久しぶり。」
「・・・・浩司か、久しぶりだな。」
そこにはニット帽を被った初老の男性がベッドの上で本を読んでいた。
田渕の父、正雄である。
父は10年前に田渕の母と離婚し現在にいたる。
原因は父が仕事に打ち込みすぎて何日も別居が続いた事である。
最初のうちはちょくちょく会っていたが、今は一年に一度合うか合わないかの存在になってしまった。
ここ数年で父が体調を崩し入退院を繰り返していた。
「元気?」
「ああ、元気という訳ではないが、なんとか生きてるよ。そっちは順調か?」
「まあ、ぼちぼちかな。」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
それ以上の会話は続かない。なぜだろう?昔はあんなに普通に話せたのに、いつの間にか会話をする事さえ難しくなっていた。
どこの親子もそうなのか?それとも離れていた時間がそうさせるのか?
「・・・・酒、最近飲んでるの?」
「いや、最近は止められててな。・・・・この間、久しぶりに舐める程度の量のビールを飲んだ。」
「そっか・・・・。」
昔は帰って来ると旨そうに晩酌をしている父が大きく見えた。いつも父に憧れていた。
物静かだが、優しく大きな父のようになりたかった。
父は社会的にも有名な人間だった。周りは父の様に成る事を強要した。
気がつくと父のやる事、父の存在全てに反抗していた。
俺は俺なんだ、父の代わりじゃない。気が付けば父との距離が離れていた。
あれからもう10年近くなる。あのころの俺からみて父より誇れる大人になっているのかな?
「なあ・・・父さん。」
父さんと口に出すのが少し恥ずかしかった。
「体調治ったらさ・・・・二人で飲みに行こうよ。安いとこで構わないからさ。」
「お、おう、解った。」
短い返事だったがその時の父はすごく嬉しそうだった。
その照れながらも嬉しそうな笑顔は自分が大好きだった頃の父の笑顔だった。
<石原>
「止まってしか見えない景色か・・・。」
石原はベランダで一人座って空を眺めていた。
するとベランダの奥の方の扉があいて、前に出会った車椅子の少年が入って来た。
「あ・・・・。」
お互い目が合う。少し気まずい。
車椅子の少年がベランダから出ようとする。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。」
石原は車椅子の少年を急いで呼び止めた。
「この間は悪かったな・・・・、ごめん。」
「いいよ、気にしてない。」
少年はにっこり笑った。その笑顔は弾けるような光を放っていた。
「名前なんていうんだ?」
「僕はトシキ。お兄ちゃんは?」
「俺は石原真司だ。」
「ケガしてるの?」
「ああ、俺はサッカー選手なんだけど・・・・試合中に大きなケガをしてしまってな。」
サッカー選手なんだと言ってみたが、石原はそれも言葉に出してみて後悔した。
この先、サッカー選手でいられるのか?そんな不安が石原の頭のなかで蠢いている。
「サッカー選手なんだ!お兄ちゃんすごいや!!話聞かせてよ!!」
トシキの目が輝く、石原は照れくさそうに話をはじめた。
石原はサッカーを始めた時の事、始めてレギュラーに選ばれた時の事、各世代で代表に選ばれてきた事、ユニオンズのメンバーやサポーターの事・・・話すたびトシキはそれで、それからと詳しく聞いてくる。
その輝く瞳をみているとつい雄弁になってしまう。
「いいなぁ、お兄ちゃんはサッカーを通じていろんな体験ができて・・・・。」
トシキは少し寂しそうにうつむいた。
「足は・・・治らないのか?」
「僕の病気はだんだん筋力が弱まっていく病気なんだ・・・・・そのうち自分で呼吸もできずに死んでしまう。だから、僕は皆と遊んだり、学校に行ったりはできないんだ。病院の中の学校で通信教育を受けるしかないんだ。」
石原は胸が締め付けられた。この少年は自分が難病に冒され、体が弱って死んでいくのを解っている。
それでも何故こんなに平気でいられるんだ?
「怖くはないのか?」
「そりゃ、怖いよ。けど仕方ないんだよ・・・・。」
その横顔がひどく悲しく見えた。
「なあ、トシキ。」
「なあに?」
「学校に行っていないなら、友達はいないのか?」
「うん・・・・いないんだ。」
「だったら俺が友達になってやるよ。」
トシキは一瞬ポカンとして石原を見つめたが万辺の笑みでそれに答えた。
「本当に!!いいの!!!お兄ちゃんが友達になってくれるの!!」
「おう!俺が友達になってやる!!そのかわり友達なんだかから俺はお前をトシと呼ぶ。俺のことはシンと呼べ。」
「・・・けど、年上の人には敬語を使えってママが言ってたのに・・・。」
「友達はいいんだよ。これからよろしくな、トシ。」
「うん、よろしくシン!!」
二人は硬い握手をした。
一日のリハビリが終わり、新しい友人が出来た事を報告しに石原は熊田の病室に向かった。
しかし、5Fに降りるとそこは医師と看護師が忙しなく走りまわっていた。
「本日、17時43分、様態が急変。」
「バイタル40の110、下がって来ています。」
「現在、意識不明、心臓マッサージとオペの準備を」
そこはいつもの静かな病棟と違い戦場と化していた。
石原は嫌な胸騒ぎを感じた・・・・まさか?
医師や看護師がせわしなく駆け回る。
石原は松葉杖をつきながら病室を目指した。
勘違いであってくれ・・・・そう願いながら病室を目指したが一歩近づくにつれて絶望が一つ一つ増えていく。
病室の前についたとき確信した。
石原は扉を開けた。
そこには立ち尽くす医師と看護師、眠るような死顔の熊田が横たわっていた。
「様態が急変してな、手を尽くしたが先ほど安らかに眠ったそうだ。」
岡部がすれ違いざまに石原の肩に手を置いた。
監督・・・・本当に逝っちまったのかよ。
ベッドの近くに近寄り熊田の顔を覗き込む。
その顔はどこか微笑んでいるようにも見えた。
翌日、熊田の通夜がしめやかに行われた。
ユース日本選手権などで過去に数々の栄光をユニオンズユースにもたらした名将である熊田の通夜にはサッカー関係者を始め、多くの人々が訪れた。
石原も正直、今の状態でユニオンズのメンバーに会うのは憂鬱だが熊田の通夜には出席をした。
通夜で久しぶりにヘッドコーチの山岡に会う。
「ご無沙汰しています。」
「お、おう・・久しぶりだな。」
他のユニオンズのメンバーにも会ったがどこか石原を腫れ物にでも触る様な対応をとる。
「石原さん・・・・。」
後ろからチームメイトの植原に声を掛けられた。
植原は高校を出てすぐにユニオンズに入団した選手だ。
高校3年の時に親を病気で亡くし、それ以来母親と弟を自分の足で食わせている。
生真面目で親切な性格で石原を始めチームメイトから慕われていた。
「ちょっとこっちへ・・・。」
植原は手招きした。
「実は・・・・上層部でウチに郷田が来る噂があるんです。」
「帝東大のか?」
帝東大学の郷田義政は今年大学選手権でMVPを取った大学No1選手だ。
和製ロナウドの異名を持つ郷田はプレースタイルもポジションも石原とかぶっていた。
「・・・・そういうことか。」
上層部は石原を切って、その余った資金で郷田を取る。
プロの世界は余りにも残酷でシビアだ。
「石原さん・・・・足は戻るんですか?」
石原は下を向いたまま応える事が出来なかった。
このまま行けば足は治るだろう。しかし、前のスピードに戻らない俺に居場所などあるのか?
「石原さん・・・・俺、信じてますから。また、フィールドの上で石原さんの背中見せてください。」
植原のポジションはセンターバックだ。自分の後ろをいつも見ていてくれたと思うと心が痛む。
石原は振り返らずに右手だけを上げてその場を去った。
サッカー関係者との接触を避けたくて石原は喫煙所の方に足を運んだ。
サッカーにたずさわる人間で愛煙家は少ないからである。
喫煙所には一人の男性が座っていた。
確か親族の席に座っていた熊田監督の息子だったと思われる。
石原は松葉杖を立てかけその男と並ぶように腰を掛けた。
男が気を使ってか胸元からタバコを取り出し石原に差し出した。
石原はそれを制す。
「いや、ちょっとサッカー関係者から離れたくてね。」
「ああ、なるほど。」
男はそれ以上は聞かなかった。年は自分と同い年くらいだろう。目元が熊田監督によくにていた。
「失礼ですが・・・・息子さんですか?」
「ああ、申し遅れました。熊田の息子、田渕浩司です。」
「田渕?」
「離婚して母方の姓を名乗っていまして。確かユニオンズの石原さんでしたよね?」
「ええ、熊田監督にはユース時代色々お世話になりました。」
「お世話かぁ・・・・あの無口な父がサッカーの監督をしていたなんて僕は未だに信じれないですよ。」
「そうなんですか?僕の知ってる監督は良く喋り、豪快に笑う人でしたよ。」
「父がですか?意外だな・・・。」
監督にも父親としての顔があったんだなと改めて感じた。
「監督は良くご家族のお話をされてましたよ。お前たちと同い年の息子がいるって言ってました。けど、その子がサッカーをやめてしまった事をすごく悲しんでました。」
「そうなんですか・・・・その時、僕は父の子である事から逃げ出したかったんでしょうね。お前は熊田監督の息子だからサッカーをやるべきだ。例え良い結果を残したとしても熊田監督の子だから当たり前だろうと見られる事が辛かった。だから、勝手にクラブチームをやめていました。
それから、会話が少しづつ少なくなっていきましたね。小さなころはあんなに自然に話せたのに・・・親子ってのは難しいですね。」
「・・・・そうなんですか。」
監督にも普通の父親の様に苦悩もあったのだ。
「ただ、死ぬ2日位前かな、父と飲みに行く約束をしたんですよ。僕が大学で親元を離れてしまったので飲む機会が無くてね。その時の父の笑顔が今でも心に残っているし、約束を守りたかったし、話もたくさんしてあげたかったですね。」
「監督は酒が好きでしたからね。」
「父はどんな監督でしたか?自分の父親の仕事をしている姿って子供は意外と知らないんで。」
「監督は・・・・明るく、前向きで豪快な人でしたね。どんなに負けている試合でも下を向くな!前を見ろ!どんどん仕掛けて行くんだ!と声を張り上げていました。だからユース出身の選手にはドリブラーが結構多いんですよ。チームの更衣室にも前進と書かれた横断幕が貼られていたんです。けど、死ぬ前日ぐらいに会った時に<一度、止まってみろ。そしたら、止まった時にしか見えない風景があるはずだ。>って全く逆の事を教わりました。
この状況を見ての通り、もう少し早く止まる事を覚えていればこんなふうにはならなかったんでしょうね。」
石原は自由に動かない自分の左足を見ながら自虐的に笑って見せた。
「いや、石原さんの行動力や挑戦する意識は素晴らしいですよ。僕ももっと父と話をして、明るく前向きなところを学べば良かったな・・・・。」
「監督が死ぬ間際に言ってました。息子にはお前らに教えた様に怪我を恐れず、動いてみろって逆の事を伝えたかったって、きっと監督も田渕さんと話がしたかったんですよ。」
「そうですか・・・・。」
二人の男の間に沈黙が流れる。
「偉大な男でしたね。」
どちらからともなく言う。
「ええ、偉大な男でした。」
どちらからともなく応える。
二人は黙ってしばらく夜空を眺めていた。
<木本>
「真理子!!どういう事なんだ!!説明しろ!!!」
「真理子!!父親は誰なの?お母さんに言って、あなたが帰って来たことが町内で少し知られているの!」
「まったく、真理絵と違ってお前はいつもいい子で手が掛からないと思ったのに!だから、俺はお前を都会へ出す事に反対だったんだ!」
「あら?貴方は真理子が東京の大学に行くことに賛成だったじゃない?いいわよね、都合の良いときだけ俺は、俺はって言うのやめてもらえます?」
「そんなこと言ってないだろ!だいたい母さんが真理子が帰ってくるから早く見合い相手さがしてくれだの言うから俺は役所の保安部長の息子さんを紹介してもらったのにだ。帰ってきたら、妊娠しましただ!俺の面目はどうなるんだ!恥ずかしくて役所を歩く事も出来ん!!」
「あら、言わせてもらいますけどね!私も婦人会での評判が心配なのよ!まったく、未婚の母なんてここで変な噂でも流されたら夜も眠れないわ!!」
気の滅入る様な掛け合いのなかで木本は憔悴しきっていた。
貯金も底を着き中絶も出来ない、お腹もすこしづづ大きくなり、つわりもひどくなって堪りかねて実家に逃げ帰った。
両親は自分の事よりも近所での評判や周りからの目が気になる様だ。
両親の喧嘩を冷めた目で見ながら木本はいままでの自分を思い出してみた。
神奈川県の名家に生まれた真理子は、幼い頃から数々の習い事を掛け持ちし、欲しいモノはある程度買ってもらった。教育熱心な両親の元で勉強に打ち込み小中高と成績トップを譲る事はなかった。
貴方は木本家のお嬢様なの、昔から刷り込み式の様に教えられてきた。
だから一度も親に反抗せず、親の望む通りの娘でいようとした。
小学校の時、家族で東京に行った時にたまたま入ったデパートの一階を見て木本は驚いだ。
なんて華々しく多くの女性たちが働いているんだろう。
そこには化粧品を実演販売してくれる綺麗な女性たちが美を競い合っていた。
その目は真剣で、笑顔は美しく、お辞儀は丁寧、会話には知性が溢れていた。
私もいつかこの人達の様になりたい!その時、木本は東京で美容務員になる事を目標とした。
あれから、10年が過ぎまさかこんな結末が自分におとづれようとは思いもしなかった。
このまま消えてしまいたかった。
今の私は木本家の娘では無い。ただの厄介物だ。
バン!!勢い良く障子が左右に開いた。
そこには和服の女性が仁王立ちしていた。
「か、母さん・・・。」
「お母様・・・・。」
「おばあちゃん。」
その場にいた誰もが黙る。
「やれやれ、あんたたちの下らない話で私の大好きな音楽が聞こえないじゃない。そろそろ、終わりにしてくれるかね?」
穏やかだが、有無を言わせない迫力が祖母にはあった。
「しかし、母さん・・・・今は大事な」
「黙らっしゃい!!でもも、しかしもありません!!終わりと言ったら終わりです!!真理子、私の部屋にいらっしゃい。」
それだけを言い終えると祖母は障子を勢い良くしめて自分の部屋に戻って行った。
沈黙だけが3人の間に流れた。
一時間後、祖母の住む離に木本はやってきた。
整頓された和室と不釣合いな海外のロックンローラーがポスターの中でギターをかき鳴らしていた。おそらくあれはジミー・ヘンドリックだろう。
木本と祖母は向かい合って座っている。
静寂が辺りを包む・・・・。
「真理子」
ビクッと木本は跳ねる。子供の頃から祖母の雷を受けてきた為、つい反応してしまう。
「怒らないから正直に話してごらんなさい。」
その声はいままでの祖母からは想像もつかないほど優しかった。
木本はいままでの事を関を切った様に喋った。
突然会社から解雇された事、ハローワークに行っても馬鹿にされるだけで職が見つからない事、ストレスで体調を崩した事、酔った勢いで自分の体を知らない男に弄ばれた事、望まぬ妊娠をしてしまった事・・・・。すべてを吐き出すように離した。
それを祖母は黙って聞いてくれた。
気がつくと木本は泣いていた、一粒涙がながれると洪水のように涙が溢れ出し子供のように祖母の膝の上に顔を埋めて号泣した。
「明日・・・病院に行ってくる。」
何時間たっただろう。目を真っ赤にして鼻水をたらした木本は消えそうな声で言った。
「そうかい。」
「堕ろしてくる・・・どうせ誰の子か解らないし。」
「それが、真理子の本心かい?」
木本は何も答えなかった。
「見えますかー、木本さん。この丸い部分が赤ちゃんの頭ですよ。ここが心臓で・・・」
お腹にエコーを当てながらベテランの看護師が話しかけてくる。
そこには小さな物体が弱々しく動いていた。それは紛れもない人の形をしていた。
「木本さんの場合は妊娠してから2ヵ月半が経ってますから、赤ちゃんの形になってきていますね。中絶する場合はスプーンのような細長い器具を使って、子宮内から胎児や付属物を掻き出す方法でします。器具がシンプルなので、感染などのトラブルを起こしにくいのが利点ですが、器具の細長い形状によって柔らかな子宮を傷つけてしまう危険性が少なからずありますよ。
掻き出す時にね・・・・赤ちゃんが逃げるんです。嫌だよー。死にたくないよー。お母さん助けてって必死ににげるんですよ。」
その説明は木本のボロボロのハートをさらに締め付けた。
私は、私の都合で小さな命を殺すの?
「では、一時間後に手術をします。必要な書類を記入したら受付に提出してください。」
もはや慣れているのか、ベテランの看護師は終始にこやかだった。
その笑顔が木本にとっては子供を喰らう鬼の様に見えた。
いや、鬼は自分なのかもしれない。自分の軽率な行動が招いた結果だ。
私は最低の人間だ。
気がつくと木本は病院のベランダにいた。
外はまだ寒々としていたが嫌味な程に晴れ渡っていた。
眼下には海と綺麗な住宅街がみえる。
ここから飛び降りれば全て終わりに出来るかな?
この子だけ殺して、私だけ生きるなんて不公平だよね・・・・。
木本は手すりに足を掛けてゆっくりとよじ登った。
そして手すりを乗り越え両手を水平に伸ばした。
「さようなら、木本真理子。」
目を瞑り、体重を前に傾けた。
「兄ちゃん!!」
澄んだ少年の声に木本は一瞬、後ろを向いた。
そこには若い男が両手を広げ木本を羽交い締めにしようとしていた。
直ぐ様木本は捕まり若い男に力づくでベランダに引きずり戻された。
「離して!!ほっといてよ!!」
木本は手足をバタバタさせて暴れるが、若い男に羽交い締めにされて動く事が出来ない。
「やれやれ、トシが気付かなかったら危ないところだったぜ。」
若い男は木本が暴れる事など無視して車椅子の少年に話かける。
「僕じゃあ、このおねえちゃんを抑えられないし、シンがいて助かったよ。」
どうやら車椅子の少年がトシ、羽交い締めにしている若い男がシンの様だ。
木本は抵抗する事を観念しておとなしくなった。
シンという若者にお姫様抱っこされてベンチに座らされる。
さっきまで飛び降りようとして、止められて、少し冷静になると自分の行動が恥ずかしくて下を向いたまま二人と目を合わす事が出来なかった。
「どうしておねえちゃんは飛び降りようとしたの?」
車椅子のトシが木本の顔を覗き込む。
木本はチラリと顔を覗いた。そこには目鼻立ちの整った少年の顔があった。
あらかっこいい、ジャニーズ系の顔だし将来が楽しみだなぁと不覚にも思ってしまった。
「別に・・・全てが嫌になったから・・・。」
木本はむくれた様にそっぽを向いて言った。
「おい、嫌になったからって飛び降りてもいいってのか?良いわけないだろ!子供じゃあるまいし!」
シンが大きな声で怒鳴る、確かにそれは正論だ。しかし、正論だからこそ上から言われると腹が立つ。
「なによ!あんたに私の気持ちがわかるの!?」
言っている事が無茶苦茶なのは解っている、ただ、叫ばなければやってられなかった。
「おい!あんたいい加減に!!」
怒鳴り返そうとしたシンをトシが抑えた。そして、また木本の顔をのぞき込む。
その美しくまっすぐな瞳に木本は思わずドキッとしてしまった。
「ねぇ、おねえちゃん・・・そんなに死にたいならその命を僕に頂戴。僕は体中の筋肉が徐々に弱って行って、最期には息も吸えなくなって死んじゃうんだ。命がいらないなら、僕に頂戴。」
その告白に木本ははっとした。この少年は人より長く生きる事が出来ない。
自分がどのくらいで死ぬかも恐らく解っているんだろう。
木本は自分が身勝手な人間だという事を思い知った。
「あんたが死にたい理由はとやかく言わない。ただ、覚えておけ、みんな何かしら辛い現実にぶつかりながら生きている。それができるだけでもありがたいんだ。あんたが死にたい今日は、こいつにとってはかけがえのない生きている時間だし、大切な人に思いや約束を果たす為に生きたかった人がどんなに願っても生きれなかった一日なんだ。」
シンの目は真剣だった。彼は今、トシの事を、そして大切な人に思いや約束を果たせなかった人の事を思っているのだろう。
「シン、もう行こうよ。おねえちゃん、またね。」
トシは最後にとびきりの笑顔を見せてベランダからシンと共に出ていった。
「それでは、手術を始めます。はい、息を吸って・・・・。」
薄暗い分娩室で木本は天井を見つめていた。
気持ちをおちつかせようと目を閉じた。
「それが、真理子の本心かい?」
祖母の声がどこからともなく聞こえてくる。
「ねぇ、おねえちゃん・・・そんなに死にたいならその命を僕に頂戴。僕は体中の筋肉が徐々に弱って行って、最期には息も吸えなくなって死んじゃうんだ。命がいらないなら、僕に頂戴。」
トシの声が聞こえてくる。
「あんたが死にたい理由はとやかく言わない。ただ、覚えておけ、みんな何かしら辛い現実にぶつかりながら生きている。それができるだけでもありがたいんだ。あんたが死にたい今日は、こいつにとってはかけがえのない生きている時間だし、大切な人に思いや約束を果たす為に生きたかった人がどんなに願っても生きれなかった一日なんだ。」
シンの声が、
「赤ちゃんが逃げるんです。嫌だよー。死にたくないよー。お母さん助けてって必死ににげるんですよ。」
看護師の声が、みんなの声がスパイラルになって頭の中に渦巻く。
「・・・・・・・待ってください!!」
離れの障子を開けるとそこには涙で顔をはらした木本が立っていた。
「おばあちゃん、私、おろせなかった。誰の子か解らないじゃない。この子は・・・・私の子。」
祖母は黙って木本を抱きしめた。
昨日と同じ様に木本と祖母は向いあって座った。
「母親になる覚悟は出来たんだね。」
木本は首を強く縦に振る。
「よし、けど真理子、あなたこのままで終わっていいの?」
祖母の問いかけに木本は首を横に振った。
「私はこのままじゃ終われない。やっぱり美容の世界が好き。あの世界が私の生きる道だもの。もう一度コスメ業界に舞い戻ってやるわ!」
木本の目には情熱の炎が宿っていた。
強くならなきゃ!自分の為に、生まれてくるこの子の為に!
「よく言ったわ!私の若い頃にそっくりよ。ただし、生まれてくるその子の為に無理はしないこと、それだけは約束して。部屋は離れの一階を使いなさい。あなたの為に最新のパソコンを用意したわ、光ファイバーで回線も早い。私からのプレゼントよ。」
祖母はそこらへんの若者よりも最新の機械に目がなく誰よりも詳しい。
財力もあるため、祖母の部屋には最新の電化製品が備え付けられている。
「おばあちゃん・・・ありがとう。」
「なに、久しぶりのお年玉よ。それと私からもう一つプレゼントがあるわ。」
祖母はおもむろにリモコンで最新のオーディオの電源を入れた。
巨大なコンポから重低音が鳴り響いた。
イッツ・マイ・ライフ 作詞・作曲:ボンジョビ
<This ain't a song for the broken-hearted
No silent prayer for the faith-departed
I ain't gonna be just a face in the crowd
You‘re gonna hear my voice
When l shout it out loud
It's my life
It's now over
I ain't gonna live forever
I just want to live while I'm alive
(lt's my life)
My heart is like an open highway
LikeFrankie said
I did lt my way
I just wanna live while I'm alive
lt's my life
(この歌は、絶望した人々のためじやない
信念のない人々に、静かな祈りなど捧げられない
群衆の中の名もない存在にはなりたくない
さあ、俺の声を聞いてくれ
今から大声で言うことを
これが俺の人生さ
今でなきゃダメなんだ
かぎりある命
その命あるかぎり、精一杯生きたい
(俺の人生なのだから)
この心は開かれたハイウェイ
フランキーが言ってたみたいに
我が道を歩んできた
命あるかぎり、精一杯生きよう
それが俺の生き方なのだから)
それはボン・ジョヴィのIt's my lifeだった。
「拳を握って戦いなさい。女でしょ!」
祖母は木本の肩に手をあてて見つめた。
木本は祖母の前で力強くファイティングポーズを決めた。
<吉井>
ファイティングガール:何だか前向きになれた気がする。
ドーナ:もう飛び降りるなよ笑
ファイティングガール:うるさい!!もう、後ろ向きにならないわよ。
東響:ファティングガールさんの前向きなコメント見ていると僕も元気になりますよ。
最近、28歳のスレッドが元気だ。
どうやらドーナは東響とファイティングガールの知り合いらしい。
みんなスレッドで意気投合している。
いいなあ、こんな友達が僕にもいたらなぁ・・・・。
そんな事を思いながら部屋を見回してみる。
マイミが来てから部屋のいらない物がなくなってずいぶん部屋が綺麗になった。
後は髪と服装かぁ・・・・・。
吉井は思い切って部屋を出てみた。
トイレ意外で部屋を出る事はほとんどなかった。
けど、マイミに言われた課題をクリアするためにはある事をクリアしなければならなかった。
吉井はゆっくりとした足取りで台所に向かった。
「か、母さん。」何十年ぶりに母親を呼んだ。
その声に台所で夕飯の支度をしていた母親は驚いた表情で振り返った。
「徹、徹なの・・・?」
その声は涙ですこしかすれてた。
思わず吉井ももらい泣きしそうになった。
「あ、あのさあ・・・・お願いがあるんだ・・・・。」
「徹の髪を切るなんて久しぶりね。母さんが理髪店に勤めていた頃よりも腕は落ちているけど、なんとかしてあげるわ。」
チョキチョキと小気味のいいリズムで髪を切って行く。目の前を長い髪が落ちていく。
今までの悪い事が全て洗い流されていくように髪が切り落とされていく。
「出来た!どう、スッキリしたでしょ。」
母が手鏡を渡してくる。そこには髪を切る事により少し印象の明るくなった吉井がいた。
思わず自分の頭をなでまわしてみる。スポーツ刈りの様な頭はシャリシャリとした触感が気持ちよかった。
「あ、ありがとう。」
「他には何?何をして欲しいの?」
母は目を輝かせながら自分の息子のわがままを聞いてあげたくて仕方ないらしい。
「じゃ、じゃあ、もうひとつだけ。」
「何?どうしてほしいの?」
吉井はネットからアウトプットした紙を手渡した。
「やほー!入るで!」
吉井の返事を待たずマイミが乱暴に扉を開けた。
「あれま!!」
マイミが感嘆の声を上げた。
「や、やあ」
そこにはピカピカに磨きあげられた部屋に、髪を短髪にし、ヒゲを剃り、真新しいシャツを着た吉井が恥ずかしそうに立っていた。
「ふーん、まあまあやな。」
そう言いながらも腕組みをしながら立つマイミは嬉しそうだ。
「第一段階はクリアやな。よっしゃ!第二段階!!」
「だ、第二段階!?」
吉井は思わず素っ頓狂な声をあげた。
「アホ!第一段階で合格と思ったんかい?そんな甘ないわ!次は人間に一番大切な事や!ほれ、答えてみ!」
「・・・えっと、水分と」
マイミはいきなり吉井の頭を叩いた。
「な、な、なんだよ!」
「あんたはホンマにアホやな!人間に一番大切なんは人を思いやる事や!つまり、相手を知ること、相手を思う事や。そこで欠かせんのがコミュニケーションや!」
マイミの先生の様な口調に思わず吉井は正座して聞いてしまう。
「まず、ウチと話してみ。」
マイミが吉井の隣に勢い良く腰をおろす。
「え、あ、え?何を?」
「だー!!なんでもええねん!今日は何食べた?」
「確か朝トースト食べたな。」
「トーストには何塗ったん?」
「バターかな?」
「あんたはバターぬるんは好きなん?」
「好きと言うわけではないけど・・・・、どっとかと言えばジャムが好きだな。いちごジャム。」
「そうなんや!うちもいちごジャム好きやで。」
「そうなんだ、それは良かった・・・・。」
するとまた頭を叩かれた。
「な、何するんだよ!」
「アホ、せっかく共通の話題が出来たんや、いつからジャムが好きなの?とか、どこのいちごジャムが美味しいの?とかきかんかい!ウチの事知りたないんか?思う心はないんか?」
「じゃ、じゃあいつから好きになったの?」
「小四の頃にお姉ちゃんが手作りのジャムを作ってくれてん。それが始まりやな。」
「お姉ちゃんはどんな人?」
それから吉井はマイミの事を聞いて聞いて聞きまくった。マイミも吉井の事を聞きまくった。
それを日にちを掛けて何ども繰り返した。
二人は知らないことのない何十年かの親友の様になっていた。
「あー、あんた意外とおもろいな。なんで引きこもってるん?」
その質問に吉井は顔を曇らせた。
マイミはハッとして両手を合わせた。
「ごめん!!地雷やったな!ホンマにごめん!!」
「いいんだ。実は中学時代、僕は背が小さくて、ガリガリだった事からオカマと呼ばれクラスメートから苛めを受けていた。
上履きや体操服を隠され、机の上に落書きをされたり、濡れ雑巾を頭からいきなりかぶされた事もあった。
周りのクラスメートは誰も助けてはくれない。助ければ自分もいじめられるからだろう。
気が付けば僕はクラス全員の苛めのはけ口となっていた。
何度か先生に助けを求めた。その時対応したのは体育の若い先生だった。
スポーツマンな人気の西先生だった。
皆の人気者の西先生なら僕をたすけてくれるはずだ。
僕は今の現状を涙ながらに語ったんだ。
けど、西先制はこう言ったんだ。
苛められるお前にも原因があるんじゃないか?もっと、男ならしゃきっとしろ!ってね。
僕は一瞬何を言われているのかが解らなかった。
苛められている自分が悪い?僕がしゃきっとしていないから、背が低くて、色白だから苛められているというの?僕みたいな子はみんな苛められる運命なの?
それから人を信じれなくて、人に会うのが怖くて引きこもったんだ。」
吉井は始めて自分の引きこもりの原因を語った。
「そっか、それは難義やったな・・・。」
するとマイミは立ち上がり吉井を包み込む様に抱きしめた。
吉井はマイミの柔らかい物が顔に当たりドキドキした。
「こういうコミュニケーションの取り方もあるんやで。」
それは温かくて心地が良く、とてもいい匂いがした。
「あんたはこれから外へ出て、いろんな人と出会ってたくさんの経験をせなあかん。そら、楽しい事ばかりじゃないで、きついこと、おもんない事、いろいろあると思う。けど、どんな時もウチはあんたの味方や。絶対約束する。地球のどこにいてもあんたをうちが応援する。絶対、絶対、約束や!」
マイミは強く吉井を抱きしめた。
「僕、頑張って外に出てみるよ。」
それから何時間が経っただろう。吉井が強く言った。
「マイミにはたくさんの元気や勇気を貰った。今度は僕が勇気を見せる番だ。」
そのまっすぐな瞳にマイミは顔を赤面させた。
「さよか、なら卒業試験は外に出る事、絶対外に出る。約束やで。」
「ああ、約束する。」
マイミが帰った後、吉井はダイニングに降りて行った。
母がそこでは夕飯を作っており、久しぶりに出張から帰ってきた父は新聞を開いて見ていた。
「徹・・・お前。」
驚く父に母は終始笑顔だった。
「丁度夕飯が出来た所よ。今日は徹の好きなとんかつよ。」
「ありがとう。父さん・・・その、久しぶり。」
「おお、そこに座りなさい。母さんビールだ。コップは2つ。」
「ふふ、お酒はお医者様に止められているんじゃなかったかしら?」
「こんな嬉しい日に飲まないなんてあるか!」
家族団欒の夕飯は非常に盛り上がった。
徹もマイミのレクチャー通り両親にたくさんの事を聞き、たくさんの事を話した。
気が付けば何時間も話をしていたような気がする。
食事が終わり、吉井は決意を込めて言った。
「外に出てみるよ。」
「徹、無理しなくてもいいんだぞ。もっとゆっくりでも・・・。」
「いや、もうゆっくりしてられないよ。それにもう大丈夫だから。」
「そっか、私たちも応援するわ。」
「徹、何かあったらいつでも相談に乗るからな。」
「うん、ありがとう。」
マイミに、父、母、こんなにもたくさんの人たちが自分を応援してくれる。
徹の胸は久しぶりに熱くなった。
玄関の前に吉井は佇む・・・・。
何十年もこの扉の向うには行っていない。
家中に響きわたるのではないかと思うほど心臓の鼓動が高まる。
手の汗が尋常ではない量が出ている。
後ろでは両親が心配そうに吉井を見つめる。
吉井はマイミの言葉を思い返していた。
「あんたはこれから外へ出て、いろんな人と出会ってたくさんの経験をせなあかん。そら、楽しい事ばかりじゃないで、きついこと、おもんない事、いろいろあると思う。けど、どんな時もウチはあんたの味方や。絶対約束する。地球のどこにいてもあんたをうちが応援する。絶対、絶対、約束や!」
ありがとうマイミ、吉井はドアノブに手を掛けた。
がちゃっと、音を立てて扉を開いた。
ひんやりとした風が顔をなでる。そとは夜だった。
住宅街の静寂が辺りを包む中で吉井はゆっくりと家の前まで出てみた。
昔より少し高い建物が建った街並みが目の前に広がっていた。
夜空には月と星空が輝いていた。
吉井は思わず両手を上にあげ伸びをし、大きく深呼吸をした。
外の新鮮な空気が吉井の体に染み渡る。
「マイミ、僕はついにやったよ。スタートラインにたったんだ。」
月の光が優しく吉井を包み込んでいた。
さっそくマイミに報告したくて、吉井はピンクドルフィンに連絡を入れた。
「徹、お客さんよ。」
吉井は階段から転げ落ちそうになるくらいの速さで階段をおりた。
「マイミ!」
思わずそう呼んでしまったが、そこに立っていたのは黒のジャケットに派手なシャツ、サングラスの男が立っていた。
「吉井さんだよね?」
吉井はその得たいのしれない男に恐怖を感じた。
男はジャケットの胸ポケットに手を入れる。
吉井は思わずあとづさりをした。
しかし、中から出てきたのは小さな便箋だった。
「これ、マイミちゃんが渡してくれってさ。実はマイミちゃん、海外で仕事をするためにお金貯めてたんだよ。で、目標金額がたまったから辞める予定だったわけよ。だから、あんたが最後の客になる予定だったんだ。けど、マイミちゃん、帰ってきたらもう少し延長させてほしいっていうんだよ。しかも、吉井さんの時は絶対行くって言い出してな。そんで延長を許可したわけだよ。
で、昨日、あんたの仕事が終わって迎えに行ったら少し車を止めてまってて欲しいって言うんだよ。
何のことか解らなかったが、あんたが家から出てきた途端、車の中で大号泣よ。
そんとき感じたね。マイミちゃん、あんたに惚れてるって。
ちなみにマイミちゃん、あんたの仕事の料金は自分の給料から差っ引てたから、あんたは一円も身銭切ってないはずだぜ。」
「マイミは今、どこに?」
「わかんねぇ、昨日の段階で荷物まとめてどっかに行っちまった。念願の海外進出かもな。」
その男から便箋を受け取って中身を見てみた。
<徹へ
とつぜん手紙なんか書いてごめんな。
けど、どうしても今の気持ち伝えたくて書いてみたわ。
徹に始めて会った時は正直、根暗なオタクやなって思った。
けど、あんたの迷子の子犬みたいな目をみてるとほっとけなかってん。
日を追うごとにあんたは一生懸命努力して、自分を変えていった。
それはホンマに凄い事なんよ!!
あんたが昨日、外に出たのを影でこっそり見てた時、めっちゃ嬉しかった。
思わず泣いてしまったやないか笑
それと同時にうちにも夢がある。いつまでもここにはおられへん。
それに、うちがいつまでも一緒におったらあんたにとっての成長にはつながれへん。
あんたは外の世界で新しく一から人間関係を作るんや。
もう引きこもりでも、苛められっ子でもない。
今はあんたと離れるのがさみしい。
あんたがこの先、外の世界で活躍したら、いつかうちの事も忘れてしまうんやろうなと思うと胸が張り裂けそうや。
けど、それでええねん。
うちも世界のどこかで頑張るから、たまに、ホンマにたまにでええから空を見てうちの事を思い出して欲しい。
同じ空の下でうちも頑張っているから。
この先も、一生うちはあんたを応援し続けるからな。
さようなら。
そして、ホンマにありがとう。
マイミ>
その手紙を読んで吉井は駆け出した。
駆け出してもマイミがどこにいるかなんて解らなかった。
それでもこの気持ちを抑えるには駆け出さざる終えなかった。
手紙 作詞・作曲:TUN
<見慣れた文字で君から手紙が届いた
いつもの真っ白でキレイなシンプルな封筒
何度も何度もその手紙を読み返すよ
読めば読むほどに君のキモチがほら伝わるよ
あの日ふたりは出会い同じ季節を歩く
春夏秋冬 どれも思い出すたびに思う
ふたりで歩いた坂道や やたら狭い道
どれもこれも思い出は濃ゆすぎてならない
今なら君は振り向いてくれるかな
あれから長い月日が経ったけど
やっぱり恋には時効などないのかな
今日も君を後悔と共に思いながら
置いてきた思い出はふたりでやさしく包んで
いつかまた会ったなら 互いに理想な人に
振り向きもしないまま去って行く君の背中を
冷たい陽が射すよ
あれから意味のない落書きを続ける毎日
外の風景はなぜか色褪せて見える
気付けば またほら君のもとに手紙を書いてる
何もなかったように書いていた いつものラブレター
今さら何を書いてるの?無理なのに
自分が出した答えだったのに
あのまま一緒なら今頃はふたりで
どこで何をしながら思い出を飾ってるの?
置いてきた思い出はふたりでやさしく包んで
いつかまた会ったなら 互いに理想な人に
振り向きもしないまま去って行く君の背中を
冷たい陽が射すよ>
「マイミ、マイミ・・・。」
走りながら吉井は何どもマイミと呟いたが、その喪失感を埋める事は出来なかった。
<田渕>
父親の葬儀が終わり翌日は友人との飲み会があったので田渕はそれに出席した。
二次会でカラオケに行きいつもの様に盛り上がる。
学生時代の友人達で今でも変わらず付き合いは続いている。
「親父さん残念だったな・・・。」
大学時代の友人の真也が優しく声を掛ける。
「まあ、こうなるのは少し前から解ってたけどな。」
コップに目を落とし田渕は考える。
「怪我を恐れず前に進めかぁ・・・・・。」
石原から伝言で聞いた父親が自分に言いたかった事、それは自分に一番欠けている事だった。
親父には最後まで心配かけさせたな、最後まで親不孝な息子だった。
前に進まなければ、転んでもいい、無様でもいい・・・・。
「おい!田渕!次お前だぞ。」
直樹がデンモクを渡してくる。田渕はお気に入りのナンバーを入力した。
非線形のほうき星 作詞・作曲:鹿島公行
<擦り切れそうな価値観持って
過ぎてゆく日に必死にしがみつく
ガキのくせにと頬をぶたれた
世界が全て歪んで見えた
学もなければ、とりえもなかった
もちろん金も時間もなかった
だから走ったとにかく走った
小さな権利を強く握りしめていた
歩めば何かに立ち止まるだろう
止まれば尚更沈んでくだろう
一つ疑問が解けるとまた一つ
新たな疑問が湧いてくるだろう
いつかの斜視夜を越えたくて
今を握った
非線形のほうき星のように
遠く早く>
歩めば何かに立ち止まるだろう、止まれば尚更沈んでくだろう、一つ疑問が解けるとまた一つ、新たな疑問が湧いてくるだろう。
ジャパハリネットの非線形のほうき星の歌詞はいつも田渕に勇気をくれた。
もう一度戦う勇気をくれ!田淵は友人達の前で熱唱した。
「お前ら聞け!!俺はもう逃げないぞ!!」
マイクを握り締めた田渕が拳を天に掲げ宣言した。
よっ!いいぞ!!!周囲から歓声が上がった。
すると田渕は勢い良く上半身裸になり油性マジックを取り出した。
「直樹!!!俺の体に刻め!!熱い想いを!!!」
「まかせろ親友!!」
そして直樹は田渕の体にデカデカと一言書いた。
<逃げない!!>
「田渕!!!まだまだ気合が足らないんじゃないか!!」
友人の将臣が悪乗りでバリカンを持ってきた。
「おう!!!スッキリやってくれ!!!」
・・・こうして田渕は体に逃げないと書かれた坊主頭の男になり再出発を切った。
翌日から田渕の戦いは始まった。
坊主頭はまたしても会社の失笑の的だったが、何かが吹っ切れた気がした。
しかし、いままでサボっていた人間が急に仕事が出来るわけがない。
いつもの様に部長に怒られ、同僚に馬鹿にされ続けた。
だが、いままでなら何とも思わなかった事が今では悔しく感じる。
怒られた事を再度直して提出する。
また怒られる。
再度直してまた挑戦する。
また怒られる。
辺りから失笑が溢れる。
何度、やっても無駄だ。お前に出きっこない。だれもお前なんか認めない。
田渕の努力は周りには無様な悪あがきに見えたのだろう。
それでも田渕はあきらめなかった。
家に帰り服を脱ぐたび自分を見る。
自分の体には逃げないの一言が刻まれている。
「俺は・・・逃げない!」
薄くなった逃げないを今日も上から塗って濃くした。
それからしばらくして田渕は突然、役員から直々に部屋にくるように命じられた。
「・・・・遂にリストラか?」
田渕の脳に最悪の自体が思い浮かぶ。
そこには沖田役員が座っていた。
沖田役員は次期社長候補とされている会社のキーマンだ。
しかし、その厳しすぎるまでの仕事への徹底で台風の目と言われており、社内では恐れられている人物でもある。田渕の背に緊張が走る。
「最近、君の名前を良く聞く。」
沖田は低い声で言う。
「私の話ですか?」
「そうだ、人が変わった様に仕事をしているそうではないか?」
そう言うと沖田は一枚のファイルを机にほおり投げた。
「パチンコメーカー・剛榮の在庫管理システムのコンペだ。なんとしても取って来い。コンペは一ヶ月後、競合は30社だだ。」
「さ、30社!!」
田渕は思わず素っ頓狂な声を上げた。
30社のライバルを蹴落とし、受注を取ってこいと・・・・。
どうする・・・・?
さっそく社内のSE部門に話を持って行ったが話も聞いてもらえなかった。
30社も来る勝ち目の無いコンペに時間を割く人間は誰もいなうそうだ。
新しいSE探しからしなければならない。
どうしよう・・・・田渕は坊主頭を撫でた。
<石原>
「じゃあ、そろそろ行くな。」
「うん・・・・・また連絡してね。」
トシは寂しそうな顔を石原に向けた。その顔を見ると石原も心が揺らぐ。
「当たり前だろ。トシは俺の親友だからな。どこにいても一緒だ!」
トシの頭をくしゃくしゃと撫でる。
へへへ、とトシは恥ずかしそうにはにかむ。
入院から3ヵ月が経ち、石原は遂に退院する事となった。
以前のスピードとはいかないもののある程度は走る事が出来るようになった。
この三ヶ月間、辛いリハビリに耐えてこられたのもトシが横にいて励ましてくれたからだと思う。
トシとの交流がなければ石原の心は折れていただろう。
石原は年の離れた親友に心から感謝した。
「ねえ、シン!いつから復帰するの?僕、シンのプレー早く見たいよ!」
「あ、ああ・・・・決まったら連絡するよ。その日まで待っててくれよな。」
「うん、約束だよ!」
トシの前で明るく振舞ったが現実は厳しかった。
石原の元に東京ユニオンズからの解雇通知が来たのは一ヶ月前の事だった。
自分はもうサッカー選手ではない。しかも、28歳と選手としては晩年だ。
かつてのキレも怪我によって失ってしまった。
この先、自分を拾ってくれるチームなどあるのか?
不安が頭を過ぎる。
しかし、石原の心は前向きだった。
今はサッカーがしたい、JFLでも実業団でもいい。
熊田監督やトシが背中を押してくれたんだ。
俺は諦めない。
石原はかつて代理人をしていた人間に会いに行き、いろいろなチームのトライアウトに参加した。
しかし、一行にいい返事は無い。
石原にも焦りの色が濃くなる。
そんな時にいつも勇気をくれたのがトシだ。
「ドンマイ!!シンはこんなにガッツがあるんだ!きっと次は上手く行くよ!」
いつも明るく励ましてくれるトシのおかげでまたトライアウトに挑戦する勇気を貰った。
いつもの様に次のトライアウトに向け石原がトレーニングをしていると携帯が鳴っていた。
「はい、もしもし。」
「石原君か、神原だ。」
代理人からの電話だった。
「実は海外のチームからぜひトライアウトを受けてみないかと打診があったんだ。」
「えっ!!海外ですか!?すごいじゃないですか!!どこですか?イタリア?スペイン?イングランドですか?」
「いや・・・・オーストラリアだ。」
「オーストラリア?」
思わぬ国の名前が出てきて石原は呆気に取られた。
プロリーグはあるのか?
<木本>
「やほー、ねえちゃん久しぶりやな。お腹大きくなったんちゃうん?」
「もう6ヵ月目よ。ようやく安定期に入ったわ。」
お腹をさすりながら木本は幸せそうだ。
「あんま無理せんといてや。姉ちゃん真面目すぎるから。」
「解ってるわよ。真理絵こそ無茶しないでね。あんたいつも後先考えないんだから。」
「えへ、解ってるがな。」
「それより、お金貯まった!!ってメールきてからずいぶん日本にいたのね。何かあったの?」
「ん?まあ・・・、いろいろな。けど、ようやく世界に向けてはばたけそうやわ。今日はその報告や!」
木本の妹、真理絵は生真面目で優等生の木本と違って、明るく行動的な性格だ。
正反対の姉妹だから常に喧嘩が絶えなかったが、お互いに惹かれあっていた。
「あんたが、家飛び出して関西に行くって言ってから次は東京、次は海外なんてあんたの終着駅はどこなの?」
「そんなん、死ぬまで終着駅はあらへんよ。」
真理絵はあっけらかんと言い放つ。
「で、海外に行ったら何するの?」
「わからへん、行って決めるわ!!」
木本はため息をついた。まったく・・・この子は・・・。
「そうだと思ったわ。だから、あんたを呼び出したの。」
「なんや、また説教かいな?」
「そうしたい気分だけど許してやるわ。あんたには私の代わりに化粧品の買い付けを担当してほしいの。あんたが世界を飛び回って良いと思った化粧品を私にPRしてほしいの。そのコスメを私が良いと思ったらネットショップで限定販売する。もちろん、あんたの選んだコスメが全て採用されるわけじゃないし、最初のうちはあんたに支払う給料も出せないのと思う。けど、あんたが世界中で探し当てた化粧品を、化粧品販売のプロである私が売る。面白いでしょ?」
「面白そやな!よっしゃ!ネットでもあまり知られていないようなレアな商品ならよりいいんやろ?宝探しみたいでワクワクするわ!」
「ちょっと!遊びじゃないの。私たちは姉妹であると同時にこれからはビジネスパートナーなんだから!ちゃんとしてよね。」
「へいへい、また怒るとシワが増えるで、もう28なんやし。」
「うるさいわね!あんたも28になったら解るわよ!」
世界では日本人が知らない化粧品が数多く存在する。その中にはその国のその店に行かなければ買えない商品もたくさんある。
そんな商品を美容務員の経験を活かして売ってみたい。それが木本が昔から描いていた夢だった。
しかし、今は身重の自分、たとえ身重でなくとも世界中を飛び回り、化粧品を買い付けてくる勇気と行動力は木本には無かっただろう。
そこで、妹である真理絵に目をつけた。自分に出来ない事、自分に欠けている物は仲間と補えばいい。
完璧を目指し、周りにも完璧を押し付けてきた美容務員時代の自分が恥ずかしく思えた。
「姉ちゃん。」
真理絵が急に木本を正面から見つめ直した。
「これから、世界に一泡吹かせようや!」
真理絵は元気よくファイティングポーズを決めた。
木本はにっこり笑いファイティングポーズを決め返した。
「さぁ!明日から早速出発や!!どこに行こうかな!!」
「実は第一ヵ国目は行って欲しい国があるの。その国はフルーツをふんだんに使った美容液やパックを手作りしているヨークヨークってお店があるんだけど、そこの社長がなかなか頑固者のおばあちゃんで、買いに来てくれた人にしか売らないの。前にイギリスのコスメショップが勝手にインターネットで販売したんだけど、そのおばあちゃんイギリスまで怒鳴り込みに言って販売を中止させたらしいの。」
「なんか、うちのばーちゃんみたいやな。」
けけけっと、真理絵は笑った。
「ふふ、聞こえるわよ。そこの商品を第一段として売りたいの、なんとかそのおばあちゃん社長を口説き落としてほしいのよ。出来る?」
「よっしゃ!任せとき!!その国はどこや?」
「オーストラリアよ。」
<吉井>
「ただいま。」
スーツ姿の吉井がネクタイを緩めながら台所に入ってくる。
「あら、お帰り。どうだった?就職活動は?」
「やっぱり、厳しいね。僕の学歴は中卒だし、今までの職歴もない。学歴・経歴不問なんて企業はなかなかないよ。」
「・・・・そうか。父さんの会社も今はリストラで人を減らしているみたいで採用枠が無いんだ。力になれなくてすまない。」
両親の顔が暗くなり、下を向く。
「大丈夫!大丈夫!こういう事も経験だし、今は外へ出て、一生懸命汗をかくことがすごく楽しいんだ。明日こそ必ずいい返事を持ってくるよ!」
今、ここで自分が後ろ向きになってはいけない。そんなことをしたらマイミに笑われてしまう。
吉井は過去の自分より成長している事を実感した。
「お腹減ったな。母さん、今日のご飯は何?」
「今日は徹の好きなハンバーグよ。沢山食べてね。」
「よし!母さんのご飯を食べて明日も頑張るぞ!!!」
家族の台所にまた笑顔が戻った。
部屋に戻り吉井はインターネットで就職先を探している。
しかし、求める条件が高卒以上、25歳以下、経験者求む、資格保有者など条件に合わない。
現実と言う壁が吉井の前に立ち塞がる。
なにか打開策は無いか?吉井はありとあらゆる媒介を通して探した。
すると、一つのバーナー広告を見つけた。
「SE資格!!最短3ヵ月!!」
SEになるのには資格はいらないが、SEに関する資格は多くあるらしい。
引きこもりになってから13年、毎日の様にパソコンと触れ合ってきた。
もし、打開策があるのならこの資格を勉強してみよう。
吉井の行動は早かった。翌日から専門学校に通いSE資格の勉強に没頭した。
もともと勉強が出来た分、吉井の知識はどんどん増えて行った。
勉強をすることすら楽しいと思える時であった。
専門学校が終わると校内にある自習室で終電まで勉強した。
くる日もくる日も終電ギリギリまで勉強をした。
すると、だいたい残って勉強をしているメンバーは吉井ともう一人である。
その男性とたまたま休憩室で一緒になった。
お互い軽く会釈をする。
どうしよう・・・・前から少し気になっていたけど、どう話しかけようかな?
男は背が高く筋肉質、短く刈り上げた髪が爽やかだ。
何かスポーツでもやっていたのかな?思わず相手を観察してしまう。
<人間に一番大切なんは人を思いやる事や!つまり、相手を知ること、相手を思う事や。そこで欠かせんのがコミュニケーションや!>
マイミの事を思い出して思わず笑が溢れる。
「あの・・・いつも最後まで残って勉強されてますよね?何を勉強されているんですか?」
吉井は勇気を出して声を掛けてみた。
「ああ、英会話を勉強してるんですよ。」
筋肉質な見た目とは違い男は意外にも気さくに答えてくれた。
「貴方は何を勉強されているんですか?ああ、失礼、石原っていいます。」
「吉井です。SE関係の資格の勉強をしてます。」
「SEかぁ、すごいなぁ・・・・。僕なんか自分のスマホを使いこなすことでも精一杯なのに。」
「いえいえ、他に出来る事がないですから。英会話はなんで勉強しはじめたんですか?」
「ええ・・・、実は」
石原はサッカー選手だが今度、海外のトライアウトを受けにいくらしい。
それまでに最低限のコミュニケーションが取れるように英会話を習っているそうだ。
大怪我をして選手生命を断たれそうになった事、日本のトライアウトが全て落ちてしまった事、この海外でのトライアウトが自分にとってのラストチャンスである事・・・・。
たくさんの苦労を話してくれたが何より、年の離れた親友・トシの話を石原は嬉しそうに話してくれた。
「きっと・・・・トシがいなかったら俺は諦めていたと思います。吉井さんにはそんな人はいますか?」
「まあ・・・一応。」
やはりマイミの顔が一番に浮かんだ。
・・・マイミ・・・・会いたいよ。
「どんな人ですか?教えてください。」
今度は吉井が話す番になった。今まで引きこもっていた事、そこから抜け出す為に一生懸命努力した事、そして自分に光をともしてくれたマイミの事・・・・。
吉井も石原もひとしきり喋った。
「けど、なんだか不思議ですね。学生時代は勉強が嫌でしかたなかったのに、今ではお金を払ってまで勉強をしにきている。」
石原が遠くを見つめて言った。
「あの頃は勉強が出来る事が当たり前すぎてありがたさをわからなかったんでしょうね。失って始めて気付くって事ですね。」
吉井もしんみり言う。
そしてマイミを失った喪失感がまた胸をしめつける。
しばらくして、吉井はSE資格の試験にほとんど合格し、専門学校でも表彰を受けるレベルになった。
久しぶりに28歳のスレッドに書き込む。
ヨッシー:お久しぶりです。SE資格を数多く取得する事ができました。今持っている資格は
ITコーディネータ、情報処理 システムアナリスト、情報処理 システム監査、アプリケーションエンジニア、情報処理 基本情報技術者、情報処理 ソフトウェア開発技術者です。
頑張れば出来るものですね笑
後は仕事が見つかればなぁ・・・・吉井は深いため息をついた。
すると、新たな書き込みが入った。
東響:すごいですね!!実はヨッシーさんにお願いしたい事があります!今度会えませんか?
<田渕>
田渕は行き詰まっていた。
パチンコメーカー・剛榮の在庫管理システムのコンペまであと2週間を切ったというのに構想どころかシステムをつくるSEさえも見つけていない。
外注で大手のシステム会社に依頼を出したがどれも予算オーバーの数字を出してきた。
中堅や中小のシステム会社に依頼をしたが、約10000種類を超える剛榮の在庫管理システムなど難解すぎると言って断られてしまう。
パチンコメーカー・剛榮は近年、パチンコの景品の種類を多様化する事により女性や高齢者にも顧客を拡大し破竹の勢いで売上を伸ばしている。景品の種類もさる事ながら、各ジャンルの有名ブランドとタイアップして一ヶ月に一度、景品を更新している。
その景品の種類の多さと、更新スピードに追いつける在庫管理システムを作り上げる事ができるかがコンペを取れるかの鍵となってくる。
なんとかSEを見つけてシステムの土台ぐらいは今週中に作らなければならない。
そんな時、28歳のスレッドの書き込みを見た。
<ヨッシー:お久しぶりです。SE資格を数多く取得する事ができました。今持っている資格は
ITコーディネータ、情報処理 システムアナリスト、情報処理 システム監査、アプリケーションエンジニア、情報処理 基本情報技術者、情報処理 ソフトウェア開発技術者です。>
こんなにも多くの資格を保有している人間が近くにいたなんて思いもしなかった。
直ぐ様、ヨッシーにアポイントのメッセージを書き込んだ。
待ち合わせの品川駅近くのスターバックで田渕はコーヒーを飲みながらヨッシーを待った。
本当に来てくれるのだろうか?所詮、インターネットでの書き込みなんてあてにならない。相手だって得体のしれない人間だ。
こんなことしているのは時間の無駄ではないか?田渕の心に不安が過ぎる。
すると、スターバックの入口が開き一人の男性が入って来た。
真新しいスーツを身にまとった、色白の少し太った男性だった。
歳は田渕と同じくらいか?男は少しまわりを見渡して田渕を見つけた様だ。
田渕は立ち上がり軽く会釈をする。
「東響さんですか?」
「はい。今回はお忙しい中でお時間を作っていただき誠にありがとうごさいます。」
「いえいえ、忙しいなんて・・・・。吉井です。よろしくお願いします。今日は土曜ですがお仕事はお休みですか?」
にこやかに積極的にコミュニケーションを取ってくれる吉井に田渕は好感を持った。
「早速ですが今回、吉井さんをお呼びしたのは今回弊社で参加するパチンコメーカー・剛榮の在庫管理システムコンペのシステム作成を依頼したいのですが。」
田渕は今回のコンペの資料と剛榮のデータをまとめた冊子を吉井に渡した。
吉井はそれを隅から隅までじっくり目を通した。
「なるほど・・・・膨大な種類の景品とその更新スピード対応できるシステムが鍵ですね。しかも、各店舗のアルバイトでも使えるようなシステムにしなければならない。
これは大変だ・・・・・けど、面白い。」
田渕は関心した。今までこの仕事を難解だとか、手間が係ると表現した人間は多くいた。
しかし、吉井は仕事を面白いと言った。確かにまだこの仕事に手をつけていないのだから本当の苦しみを知らないのかもしれない。しかし、大きな壁を前にして挑戦する事を面白いと言える感覚は田渕が忘れかけていた物だった。
この男と仕事がしたい・・・・・田渕は心から思った。
「引き受けていただけますか?」
「ええ、是非やってみたいです。しかし、田渕さん。私は求職中の身です。それに資格はたくさん持っていますが、SEの実務は無いに等しい。それでもいいですか?」
吉井は怖る怖る田渕を見た。しかし、田渕の心には迷いは無かった。
「ぜひお願いします。来週末までにある程度は仕上げられますか?」
「今、面白いアイディアがたくさん浮かんできています。来週末までに完成品をお持ちします。」
「それではよろしくお願いします。共に頑張りましょう!」
田渕は握手を求めた。
「よろしくお願い致します。」
その手を吉井は強く握り返した。
<石原>
うだる日差しの中で石原はシドニー空港に降り立った。
青い空と広い大地が広がるオーストラリアに観光客は皆心を躍らせていたが、石原だけは浮かない顔をしていた。
このシドニーでのトライアウトが自分のサッカー選手としてのラストチャンスだ。
タラップから降り立った時、石原はとてつもない緊張感に襲われていた。
鼓動が高鳴り不安が過ぎる。辺りの人間が皆、自分を見ているような錯覚に石原は陥った。
石原は自分の左手首を触った。
そこには日本を離れる前にトシがプレゼントしてくれたミサンガが巻かれていた。
「シン、絶対トライアウト受かって来てね!!僕も日本で病気と戦うから!!」
出会った頃より細くなってしまった腕でトシはミサンガを巻いてくれた。
トシのためにも俺は絶対にトライアウトに合格しなければならない。
石原は自分を奮い立たせた。
到着ゲートに荷物を押しながら石原は通訳の人間を探した。
すると目の前にピンク色の文字で派手に飾られたプラカードを持った。背の高い女性が立っていた。
まさか・・・・あいつじゃないだろうな?
しかし、石原の心配は見事に的中する。
「はろーーーー!あんたがイシハラやな?うぇるかむ、とぅー、おうすとれいりあ!!!」
妙にテンションの高い女に石原は戸惑いを隠せない。
「なんや、暗いやっちゃなぁ。まあええわ、私は木本真理絵。気軽に真理絵さんてよんでええよ!これからトライアウトが終わるまでよろしくな!!」
はい・・・としか石原は答えられない。
「よっしゃ!ならはよ車に乗って練習場とホテルに行くで!今日は一日疲れを取って明日からのトライアウトにそなえな。」
「お、おい・・・・。」
「なんや?ご飯か?安心せいよ。心細いなら今日は真理絵さんが一緒に食べたるさかい。ほな行くで!!」
真理絵は石原を無理やり車に乗せると目的地に向い車を飛ばし始めた。
「プハー!最高やな!あんたは飲まんの?」
夜、地元でも有名なレストランチェーン店で石原達は食事を取った。
「・・・俺は明日トライアウトがあるからいいよ。」
「そっか・・・・ほな、うちはもう一杯貰うわ。Hey!! one beer OK?」
真理絵は豪快にビールを空けた。
「しかし、あんたも大変やな、なあ、オーストラリアってサッカー有名なん?うちの好きなトッティ様はいたりするん?」
「トッティはイタリアだよ。オーストラリアはサッカーは後進国だな。けど、ここまで日本のトライアウトでいい返事が無い。そんななかで舞い込んできたチャンスなんだ。絶対モノにしたい。」
石原は強い決意で自分の手首を見つめた、その手首にはトシから貰ったミサンガが巻かれていた。
トシ、待ってろよ、絶対に受かるからな!
その真剣な表情に真理絵も心を打たれる。
「・・・・そうか、絶対受かってな!!3日やけどもあんたをサポートするわ!!」
「ありがとう。俺はもう28だけどもう一度サッカー選手としてやっていきたいんだ。日本でもう一度活躍している姿を見せてやりたい奴がいるんだ。」
「誰なんそれ?彼女?」
「いや、トシって言って俺の親友なんだ。もうすぐ12歳になる。病気で歩けないし、学校にも行けない。だから、俺がサッカー選手として頑張っている姿を見て少しても元気になって欲しいんだ。」
「そっかぁ、トシ君もあんたが頑張ってる姿見て、元気になってくれるといいな。」
真理絵はグラスを見つめ思いにふけっていた。
「真理絵さんは大切な人はいないの?」
真理絵はハッと目を上げた。
「そやな・・・・おるよ。けど、うちが近くにいたらいかんねん。あいつはこれから外の世界に出ていろんな人に出会ってたくさんの仲間を作って、もっともっと羽ばたいていかなあかんねん。
うちといつまでもおったらあかんねん・・・・。」
「・・・・そんなもんなのか?」
「ふふ、嘘や。ほんとは怖かってん。うちな、その時あんまり人に言えない仕事しててん。その人と出会ってその人の事好きになっていったんやけど、その人が外の世界で活躍していけば行くほどうちの存在が邪魔になるかもしれへんって心配やってん。いつか、捨てられるんちゃうかって怖かったんよ。」
真理絵は節目がちに目に涙を浮かべた。
石原はなにも応える事が出来なかった。
「しんみりしてしまったな・・・・、この話止め!!けど、あんたの話聞いて勇気でたわ!あんたがトライアウト合格したら、うちも一歩ふみだしてみる。」
「おう、お互いがんばろうぜ!!」
石原と真理絵は固い握手をした。
「ところでトシ君はどんな子なん?」
石原はトシと取った写真を真理絵に渡した。
「うそー!!イケメンやん!!ジャニーズ系やん!!」
石原をよそに真理絵はキャッキャさわいでいた。
<木本>
真理絵は木本の期待どおりオーストラリアで順調に化粧品の買い付けを行なっていた。
しばらくは通訳のアルバイトをしながら買い付けをするのだとメールで知らせてくれた。
「流石、私の妹ね。」
真理絵の行動力に木本もおもわす笑みがほころぶ。
部屋には真理絵が送ってくれた化粧品サンプルがところ狭しとならんでいる。
ひとつ一つを試してみて、その化粧品の使い方を動画を使ってネット販売をする。
美容務員時代の販売のスキルが活かせている。
商品売上も上々でたくさんの嬉しいコメントも届いている。
<このサイトで購入出来るコスメってヨークヨークのコスメですよね!!旅行先で買って物凄く気に入っていたんですよ。 25歳女性>
<このルージュ超カワイイです!!また、世界中の可愛い化粧品お願いしますね!! 24歳女性>
<ここで購入した化粧水を愛用しています。夜塗ると翌日の化粧乗りが良くて、非常に助かっています。
32歳 女性>
その反響を見るたびに顔がついついほころんでしまう。
今日もお客様の美と健康の為に!昔、いつも口にしていた言葉を実践している自分がここにいる。
それと同時、日に日に大きくなってくるお腹を見て不安が無いわけでは無かった。
本当にこの先一人でこの子を育てる事が出来るだろうか?
父親の事はなんて話せばいいのだろうか?
この先この子には普通の子と同じような幸せな人生を送らせてあげる事ができるのだろうか?
ふと、木本は下腹部に異変を感じた。
その異変はだんだんと大きくなり大きな痛みへと変わっていった。
「うそ・・・・こんな時に!」
木本は強烈な陣痛に耐えながら廊下にはいでた。
わずかに破水した羊水が床を濡らした。
「おばあちゃん・・・おばあちゃん。」
苦痛に耐えながら、消え入りそうな声で助けを呼んだ。
「真理子!!大丈夫なの!!」
祖母が廊下の向うから駆けつけてきた。
「う、生まれそう・・・・救急車を」
<吉井>
「はっ!いかん、いかん。」
吉井はコンペに向けてシステムの構築をすべく連日徹夜で作業をしていた。
これでは引きこもりの時と一緒だな。
思わず苦笑いをしてしまう。しかし、引きこもりの時とは明らかに違う自分がそこにはいる。
今は目的を持って、それの向かい全力で汗をかく自分がいる。
吉井は今の自分なら好きになれそうな気がした。
「今は3時かぁ・・・30分ぐらい寝てたんだな。よし、その分を取り返すか!!」
石原は頬を叩いてパソコンに向かった。
・・・・マイミ、頑張るよ!!
一週間後、田渕と品川のスターバックスで待ち合わせた。
「完成しました。確認してください。」
田渕は早速、データと資料に目を通した。
吉井の緊張が最高潮に達していた。
田渕の表情を読み取ろうとじっと田渕の表情を見ていた。
田渕の眉間にシワがより難しい表情になった。
だめだったか・・・・吉井はあきらめようとした。
10分後・・・、
一息、ついて田渕はじっと吉井を見た。
「吉井さん・・・・。」
ダメか・・・・・吉井は半ば諦めていた。
資格を保有していても所詮は素人考えだ。まだ、実現には遠く及ばない。
「素晴らしい!!これを一週間で?」
「え?!」
その一言は吉井の予想を大きく裏切った。
吉井は田渕の勢いに驚き思わずのけぞった。
「は、はい。システムは大丈夫でしたか?」
「確かにコスト面での心配はありますが、この景品の不足分だけを小分けにして補充するアイディアはすばらしいです。システムもシンプルで問題はない。これは行けますよ!本当にありがとうございます。」
田渕は吉井と固い握手を交わした。
吉井は心のそこから叫びたくなるほど嬉しかった。
<田渕>
コンペの朝が来た。
田渕は暑いシャワーを浴びて鏡の前に立った。
少し伸びた坊主頭に、体には大きく逃げないの一言が刻まれている。
思わず自分の姿に笑ってしまう。
しかし、そんな自分は嫌いでは無い。
今は試合前の格闘家の気分のようだ。緊張と共に沸き上がる高揚感を抑える為、大きく深呼吸をした。
大丈夫だ!自分は昔の自分ではない!
戦え!田渕浩司!!!
「しゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
腹の底から大声で叫んだ。
「うるせーぞ!!!」
近隣住民からの苦情で田渕は少し小さくなった。
コンペ会場の待合室に到着した。
今回のコンペの競合は20社、中には業界最王手の日本電工システムや今、破竹の勢いのIT企業・ケミカルエージェントも含まれている。
待合室に田渕が入ると各企業の社員が最終の打ち合わせをしていた。
どの人間も自分よりも格段に仕事ができそうだ・・・・・、田渕は不安に飲まれそうだった。
自分の様な人間がこんなにも多くの人間と勝負に勝ち、受注を勝ち取る事ができるのか?
ふと、吉井の顔が思い浮かんだ。この間会ったばかりの自分の為に徹夜までしてくれてシステムを考えてくれた。彼の実力とそれを上回る熱意に田渕は感動した。
父親の顔を思い浮かべた。
結局、父と飲みにいく約束を果たせなかったな。
怪我を恐れず前に進んでみろ。石原から聞いた父が伝えたかった言葉は今も田渕の心に残っている。
このコンペで自分の力の無さを思い知らされるかもしれない。
しかし、それでも自分は挑戦しなければならない。
無様でも、場違いでもいい。ここまで支えてくれた人たち、そして自分を変える為に自分は挑戦しなければならない。
俺はもう、逃げない!!
「双葉システム様、お入りください。」
田渕は静かに立ち上がった。
<石原>
「手続き終わったで。じゃあ、うちが入れるのはここまでや。外でうちも応援してるさかい。頑張ってや!!」
「ああ、いろいろとありがとう。行ってくるよ。」
石原は真理絵と握手をして控え室に入って行った。
控え室に入ると既に多くの選手達が準備をすませて思い思いの時間を過ごしていた。
石原は思わず息を飲む、日本の選手よりもオーストラリアの選手は一回り大きく、筋骨隆々である。
サッカー選手というより、ラグビー選手のような体型の人間も中にはいる。
日本では石原は大きな部類に入るが、ここに来ると一回り小さい。
こんな選手達とまともに競い会えるのか?
準備運動を終えてトライアウトが始まった。
前半はランから、ドリブル、シュート、パス、ダッシュ、跳躍力、持久力、筋力などフィジカルのテストだった。
左膝を壊している石原はフィジカルのテストで大きく遅れを取った。
ただでさえ身体能力で勝るオーストラリアの選手たちについて行くには石原のフィジカルは余りにも軟弱になってしまっている。
午後からはゲーム形式のトライアウトだ。石原はBチームに振り分けられた。
前半のフィジカルテストの結果が良かったメンバーがAチーム、つまり、ここで活躍しなければ石原を含めたBチームはトライアウト脱落となってしまう。
石原は、本来のトップ下のポジションではなく左ボランチのポジションに着いた。
試合開始のホイッスルが鳴る。
試合は終始Aチームのペースで進む。
Aチームが高度な技術を持っている訳ではない。実力はBチームとあまり変わらない。
しかし、勝つことを目的としているAチームと勝つ事とそれ以上に自分のアピールに必死なBチームではチームワークに差がでてしまう。
ちぐはぐになったフォーメーションの隙をつかれて先制された。
「まずい!」
石原にも焦りの色が見える。
石原にボールがまわった。直ぐ様中央にドリブルで切れ込む、全盛期のスピードは無いがDFをフェイントで交わし相手を引きつける。
「ヘイ!!」
前線で手を上げるFWにパスを出す。
しかし、FWにすぐにマークが着く。
「無理するな!出せ!!」
英語で指示を出したがFWは無理に抜きにかかる。
相手DFがユニフォームを引っ張った。
それに怒りを覚えたFWが肘を高く上げた。
肘が顔面にヒットしDFが倒れ込む。
直ぐ様審判が立ち寄りFWに高々とレッドカードを掲げた。
それから3分後、前半が終了。
石原は1点ビハインドを負った状態で10人で戦わなければならなかった。
ロッカールームでBチームが皆、下を向いている。
しかし、誰とも目を合わさず、それぞれがぶつぶつ言いながら怒りをぶつけていた。
このままじゃ負ける。サッカー選手としても終わりだ。
どうする・・・・?
するとロッカーの隅の方で二人の選手が小競り合いを始めた。
それがだんだんと大きくなりついに取っ組み合いの喧嘩にまで発展した。
しかし、他の選手もそれを止めようとしない。
このままでは負けてしまう。
石原は気合を入れてロッカーの真ん中まで進んだ。
そして、スパイクをロッカーに投げつけた。
・・・・・控え室が一気に静まり返った。
突然の行動と大きな音に取っ組み合いをしていた選手や、無関心だった選手達が石原を見る。
「みんな!悪いけど聞いてくれ。このままでは俺たちは負ける。自分たちがアピールするのも大切だ。ただ、チームの勝利の為に一丸となってくれ。これは強制ではない。
ただ、勝利がなければ間違いなく俺たちは脱落する。以上だ!」
石原は覚えたての英語で、それだけ言い残してロッカールームを後にした。
ハーフタイムが終わり、後半のホイッスルが鳴った。
後半早々、Bチームにピンチがおとづれる。
サイドを突破されゴール前にセンターリングをあげられてしまう。
Aチームは190cmもある大男がFWにいる。
その大男が高く飛び、強烈なヘディングを叩きつけた。
ボールはGKの脇をすり抜けてゴールに向かっている。
万事休す!だれもがそう思った時、ゴール前に黒い影が現れた。
石原が身を投げ出してゴールを死守した。
そのままゴールポストに激突し額から血を流している。
主審が石原に駆け寄る。
「守れ!!ボールはまだ生きているぞ!!」
石原は直ぐ様立ち上がり足が止まったチームメイトに対して激を飛ばす。
石原は血を流しながらも駆け出し、ボールに食らいつく。
その気合に触発されたのかBチームも捨て身の守りでなんとかピンチを乗り切る。
それから試合はシーソーゲームになった。攻守がめまぐるしく変わるゲームの中で石原は身に付けた英語でチームをまとめ、再三チャンスを作り続けた。
しかし、Bチーム1点ビハインドで時間は残酷にも過ぎていく。
「イシハラ!!」
前線に蹴り出されたボールが石原の足元に収まった。
以前の様なスピードは無いが必死のドリブルで前に出る。
前にいるDFを味方とのパスで交わす、自分で抜きにかかっていた過去の自分より大きな成長だ。
よし!残るはGKのみ、そう思った石原の視界が大きく揺れた。
サイドからDFが強引なタックルを仕掛けて来た。
ファールギリギリの行為に味方が手を上げファールをアピールする。
しかし、審判は笛を吹かなかった。
残り3分、もう終わりか・・・・。
仰向けに倒れ込んだ石原は諦めかけた。
「オー、オー、イ・シ・ハ・ラ!!ゲット・ゴール・イ・シ・ハ・ラ!!」
幻聴か?遠くからかつての石原の応援コールが聞こえる。
「オー、オー、イ・シ・ハ・ラ!!ゲット・ゴール・イ・シ・ハ・ラ!!」
幻聴では無い!石原は声の方で顔を上げた。
そこにはユニオンズのユニフォームに身を包んだ10人の応援団が声を枯らしながら石原コールを叫んでいた。
「石原ーーー!!諦めるな!!」
「石原さん!まだ時間あります!!早く前線へ!!」
「頼むよ石原!!俺はお前のプレーをもう一度見たいんだよ!!」
わざわざ日本からサポーターが応援に来てくれた。
その応援団が持っているユニオンズのサポータフラッグには石原の応援メッセージで埋めつくされていた。
石原の胸は熱くなり、力が体の中から湧き上がってきた。
俺はあきらめない!!
石原は勢い良く立ち上がりボールを大声で呼んだ。
すると高いボールがゴール前に上がった。
最後のチャンスだ!石原は捨て身でボールに飛び込んだ。
相手のキーパーもキャッチングの為にボールに飛び込む。
石原は空中で激しくGKと接触した。
そのまま地面に叩き付けられる。
痛みに耐えながら石原はボールを探した。
ボールは・・・・・・ゴールラインを見事に割っていた。
ピー!!ホイッスルが鳴り響く。
石原は空を見上げた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
石原はその澄み切った青空に向かって雄叫びを上げた。
トライアウトが終わり石原はチームの事務所内にある別室に呼ばれた。
そこにはチームのCEOが座っていた。
石原にも緊張が走る。
「イシハラ、君のプレーを見せて貰った。スピードは無いがそのテクニックと経験はうちのレギュラーでも及ばないだろう。」
思わぬ賞賛に石原は動揺した。
「君も知ってのとおりオーストラリアはサッカーの後進国だ。しかし、私はこの国のサッカーをもっと発展させていきたいと思っている。石原、君にはプレーヤーとしてのスキルと経験がある。
この先、プレーヤーとして活躍できるのは数年かもしれない。しかし、この国のサッカー発展の為に力を貸してくれないか?」
CEOは石原の目をまっすぐに見つめた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
CEOは硬い表情を崩し手を差し伸べた。
「ようこそ、オーストラリアへ。」
石原はその手を強く握り返した。
<木本>
「木本さん。頑張ってください。もうすぐ病院ですよ。」
救急隊員にはげまされながら木本は痛みと戦っていた。
何分かおきに痛みが走り、そのたびに脂汗が体から滲み出る。
病院に到着して、看護婦の言うとおりラマーズ法での呼吸をするが痛みは一行に収まらない。
「がんばれ!がんばれ!」
すぐ隣りで同じ様に妊婦がお産の準備をしていた。傍らには心配そうに手を握ってくれる夫がいる。
「ごめんね・・・・お父さんがいなくて・・・・。」
痛みに耐えながら木本はお腹をさすった。
この子を生んでいいんだろうか?私はこの子をこの先幸せに出来るんだろうか?
不安と痛みで涙が止まらなかった。
木本は分娩室に一人搬送された。
祖母や家族は病院の手続きでいない。
木本は一人で分娩に臨んだ。
「はい、息を吸って強く息んでください。」
木本は汗だくになりながら最後の力を振り絞り力の限りいきんだ。
体中は汗まみれになり、排泄物が勢い良く出たがそれを気にする余裕は木本には無かった。
そのいきみを5回ほど繰り返した時、
「頭が出てきましたよ。もう少し。」
医師が優しく木本に話しかけてきた。
「ふううううううううううううううううううううううう!!」
木本は気を失いそうになりながらも強くいきんだ。
遠のく意識のなかで木本は産声を聞いた。
「木本さん、おめでとうございます。元気な女の子ですよ。」
そこには小さな小さな命が産声を上げていた。
それを聞いた時、今までの不安が全て吹き飛んだ。
なんて可愛い存在なんだろう。木本は始めて対面する自分の子供に今まで感じたことにない強い愛を感じた。
この子は何があっても私が守る。
自然と木本の頬に涙が伝う。
木本は生まれたばかりの小さな命にほうずりした。
<吉井>
吉井は家の中を落ち着かずウロウロしていた。
今日は剛榮のコンペの結果が発表される日だ。
本当に自分の作ったシステムで大丈夫だろうか?迷惑を掛けてしまってはいないだろうか?
考え出すと不安だけがどんどん浮かび上がってくる。
すると吉井のスマートフォンが鳴った。
着信は田渕だった。
「も、もしもし、吉井です。」
「田渕です。お疲れ様です。剛榮のコンペの結果が出ました。申し訳ありませんが、弊社まで来ていただけますか?」
「はっ、はい。今すぐ行きます。」
「ありがとうございます。住所は品川区・・・・。」
吉井は電車を乗り継ぎ田渕の会社に向かった。
会社のエントランスに着くと田渕が待っていてくれた。
「こちらです。」
田渕に案内され吉井は商談室に通された。
田渕の表情からでは結果を読み取れない。
吉井の緊張は最高潮に達していた。
「吉井さん・・・・結果が出ました。」
「はい・・・・・・・・どうでした?」
「申しわけありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・弊社に決定しました!!!」
田渕が万辺の笑みで吉井の一番聞きたかった一言を言った。
「や、やったあ!!」
吉井は情けない声を上げてソファーにへたりこんだ。
「おめでとうございます。すみません、驚かせてしまって。」
「いやー、田渕さんも人が悪い。」
「すみません、改ましておめでとうございます。そして、ありがとうございます。吉井さんがいなければ今回のコンペは成功する事は出来なかった。本当にありがとうございます。」
田渕は吉井に手を差し伸べた。吉井はその手を強く握り固い握手を握った。
「あと、もう一つ吉井さんにサプライズがあるんですよ。」
田渕が内線電話を取り、誰かと話している。
数分後、40代ぐらいの貫禄のある目付きの鋭い男が入ってきた。
そのただならぬオーラに威圧され吉井は思わずたじろぐ。
「君が吉井君か?」
40代ぐらいの貫禄のある男が問いかける。
「はい、吉井徹です。」
「沖田だ。よろしくな。」
沖田と呼ばれる男は名刺を差し出した。
名刺には双葉システム株式会社 常務取締役 沖田 雄一郎
「今回は弊社のコンペに協力してくれてありがとう。礼を言う。」
男は静かに頭を下げた。
「こちらこそ、こんな貴重な体験をありがとうございます。」
「君のシステムを見させてもらった。非常に斬新で独創的だ。素晴らしい。」
「い、いえいえ、僕は何も。」
吉井はむず痒かった。いままで褒められたのは始めてだった。
「田渕に聞いた。君は今無職と聞いたが、生計は何で立ててる?」
「最近は清掃のバイトをしながら実家で生活をしています。まあ、月に12万ほどしか稼げないので、親には迷惑をかけっぱなしですが。」
「そうか、よし!その給料の3倍出す。明日から我が社に来れるか?」
「え?え?どうして?」
動揺する吉井の横で田渕がくすくす笑っている。
「昨日コンペの成功を報告しに言った時に僕が頼んでみたんですよ。うちは中堅ですが意思決定は早いんです。吉井さんがよろしければうちに入社しませんか?これからも、うちでSEの技術をいかんなく発揮してください。」
「ぼ、僕でよろしければ、よろしくお願いします。今の三倍働きます!!」
「六倍働いてくれ、そうすれば君を取った事が大きな利益となる。」
商談ルームはしばし和やかな空気に包まれた。
その後、田渕と二人で五反田の小さな居酒屋で祝杯を上げた。
「おつかれ様です!!最初は生にしますか?」
吉井は困惑していた。
「すみません。引きこもり時代が長かったもので、何から頼めばいいのやら。」
田渕はクスクス笑った。
「なら最初は生ですよ。つまみは僕がお薦めの物を頼みますよ。」
それから、吉井と田渕は楽しい時間を過ごした。
吉井は労働のあとの酒がこんなに美味いと始めて知った。
ほろ酔い気分で自宅に帰りパソコンを開いてみる。
「おっ!」
28歳のスレッドに石原の書き込みがあった。
どうやらオーストラリアのトライアウトに合格したみたいだ。
チームメイトやスタッフとの写真を見る限り元気そうだ。
しかし、そこで吉井の酔いを覚ます写真が掲載されていた。
<通訳の木本真理絵さん、たった3日でしたがお世話になりました。>
そこには万辺の笑でダブルピースをしている女性が写っていた。
「マイミ!!!」
<田渕>
「はい、いまから商談です。うちのシステムで販売すればトロワ・スールの売上を伸ばす事が出来ると思います。」
田渕は今、課長に昇進して毎日を忙しく駆け回っている。
同期より遅い出世だったかもしれない。
けど、勝負はこれからだ!もう28歳では無い。まだ、28歳だ!
田渕は商談先に急ぐため駆け出した。
「こうちゃん!」
懐かしい声に田渕は振り返る。
そこにはあずさが立っていた。
「あれからもう1年ぐらいたつんだね。」
紅茶をかき混ぜながらあずさがしみじみ言う。
「・・・・元気してたか?」
「元気・・・・なのかな?・・・・解らないや。」
あずさは以前よりもやつれた感じをうけた。
伏目がちに語りだす。
「あの人・・・・妻子持ちだったんだ。最初は今の奥さんと別れてくれるって言ってくれたけど、結局別れてくれなくて・・・・連絡も取れなくなっちゃった。」
あずさは寂しそうにうつむく。
その姿が儚げで守ってあげたい衝動に狩られた。
「こうちゃんは今、付き合っているひといるの?」
上目使いで見てくる。
もしかしたらもう一度やり直す為にあずさは戻って来てくれたのかもしれない・・・いや。
田渕は首を横に振った。
「なあ、あずさ。人に幸福を求めちゃだめだ。君は相手に依存しすぎる。自分でしっかり幸せをつかまないといけない。逃げちゃだめだ。」
あずさの目を見て言った。
あずさは驚いた瞳を田渕に向けた。
しかし、すぐに優しい笑顔に鳴った。
「こうちゃん、変わったね、男らしくなった。今のこうちゃんなら惚れ直していたかも。」
「それと・・・いろいろ悪かったな。」
あずさは首を横に振った。
「わたし、そろそろ行くね。それじゃあ・・・・元気で。」
「ああ、元気でな。」
二人は反対の方向に歩きだした。
二人とも振り返らない様に懸命にこらえた。
春の日差しが二人を優しく包み込んでいた。
<石原>
試合終了のホイッスルが横浜国立競技場にこだました。
ケアンズレイカーズの選手達は勝利の喚起の中にいた。
あるものはユニフォームを空に投げチームメイトと抱き合い。ある者は今までを振りかえり静かに喜びの涙を流した。
石原がオーストラリアに渡って3年、日本で行われたサッカークラブの世界一を決める大会で石原はついにチームを世界一に導いた。
欧州、南米のチームが交互に優勝する現状でオセアニア地区のチームが優勝するのは史上初の快挙だ。
チームの中心に石原はいた。この三年間、身体能力しか取り柄の無いオーストラリアの選手にスキルを教えこみ、綿密な作戦で強豪国のクラブチームを撃退してきたのも、石原とクラブのスタッフの力である。
興奮した面持ちでレポーターが駆け寄ってきた。
「放送席!放送席!今日はケアンズレイカーズを優勝に導いた石原選手にお越し頂きました。石原さん、改めましておめでとうごさいます!怪我で一時は引退との報道もありましたが・・・・長かったですか?今の気持ちを一言お聞かせください。」
「ありがとうございます。そうですね、怪我をした頃、まさか自分がここに立ってこうしてヒーローインタビューを受けれるなんて夢にも想いませんでした。あの頃は日本代表を控えての大怪我で年齢も28歳もう選手生命は終わりかと思っていました。
けど、そんな中でたくさんの人たちに支えられ、助けられ、僕はここに立つことができました。
心から感謝します。」
会場から割れんばかりの拍手と石原コールがこだまする。
「今、この気持ちを一番伝えたい人がいるとお聞きしましたが。」
「そうです、僕の親友のトシです!トシ!」
石原は観客席のトシに手を振り、手招きする。
トシは急に自分にスポットライトがあてられ戸惑いながらも、係員に誘導されてお立ち台に車椅子で登った。
お立ち台にきたトシを石原は肩車した。
「トシ、お前にこの景色を見せたかった。お前は今、世界一だ。」
「シン、ありがとう。すごいや!まるで演劇の主役になったみたいだ!本当にありがとう!」
その笑顔を見て石原も嬉しかった。
ピッチの芝はライトに照らされ、金色の海のようにどこまでも美しく輝いていた。
<木本>
「うちのシステムを使った感想を教えてください。」
木本は事業拡大に向け田渕の会社にシステム構築の依頼をした。
28歳のスレッドで田渕と吉井のコンペの話を見て、木本が打診した。
田渕と木本は細かい打ち合わせを何度か重ねるうちに理想的なシステムを構築する事を実現した。
「そうですね。実際にうちは在庫をもたないので欲しい物を欲しいだけっていうのが理想だったんです。
どうしても商品管理が複雑になる。そんななかで御社のシステムはその問題を解消しました。いまやうちに欠かせないシステムです。」
木本の立ち上げた海外コスメの通販事業は順調だ。ヨークヨークを皮切りに真理絵がオーストラリアの有名店をとんどん口説き落としている。
これから世界中のコスメを売れる様に事業を拡大する予定だ。
「貴方は今、働く女性達から、子供を持つ母親達から羨望の眼差しで見られる存在ですが、それについてはどう思われますか?」
会社の広報に使う為、田渕は木本に質問する。
「そうですね・・・・、羨望の眼差しで見られるような人間ではないんですよ。美容務員の頃は自分の売上を上げる為に周りに完璧である事を押し付けていました。
子供が出来た時も不安で、堕ろしてしまおうか?一緒に飛び降りて死んでしまおうかと悩んだ時期もありました。けど、この子の顔を見るとお母さんである私がしっかりしなくちゃって思うんです。
それが事業が上手く言っている秘訣ですかね。」
ベビーベッドに眠る娘を見ながら木本は答えた。
この子がいてくれたらいくらでも頑張れる。この子がいればどんな事でも乗り越えられる。
そう思わせてくれた大切な存在だった。
「母の愛は強しってとこですかね。」
「そうなりますね。」
二人はにこやかに談笑した。
「お忙しい中で、お時間を頂き誠にありがとうございました。」
「いえいえ、こちらこそ。ありがとうございます。」
「これからも、木本さんを支える存在になれたらいいな。」
「・・・・それはビジネスの面ですか?それともプライベートの面ですか?」
木本はいたずらっぽく田渕に質問した。
女は一枚上手だな、田渕は小さく苦笑した。
<吉井+>
真理絵はこの一年でオーストラリアのコスメショップはほぼ全て制覇した。
次の地域はどこにしようか?真理絵は世界地図をみながら非常に楽しそうだっだ。
「どこにしよっかな♪ヨーロッパかな?アメリカもええな、アフリカなんてのもええな。あ?アフリカにコスメのメーカーあったっけかな?」
そんなことを考えながら真理絵は荷造りを始めた。
トランクに荷物を詰め込み、仲良くしてくれた大家に別れを告げる。
真理絵はオーストラリアを去る前に行ってみたい場所があった。
大型のクルーザーを乗り継いでその場所に着いた。
「わーーーーーーー、感動やな!」
一面に広がる海はどこまでも続くグレートバリアリーフだった。
真理絵は着ていたシャツとデニムのショートパンツを脱ぎ捨て水着になった。
そのままバリアリーフに飛び込んだ。
青い海の中はまるで青い惑星に自分が不時着したような感覚に陥った。
地球に生まれて良かった。真理絵はこの美しい世界に心から感謝した。
シュノーケリングを終え真理絵は海を眺めていた。
「あいつがこの景色見たらなんていうんやろうな?」
真理絵は思い出し笑いを噛み殺した。
あいつ、今頃なにしてるんやろうな・・・・。
「マイミーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
そうそう、こんな声やったな。ん?
「マイミーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
なんや?幻聴か?
「マイミーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
え!なんで?なんで!?
「マイミーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
海の向うから波をかき分けものすごい勢いで小型のクルーザーが進んで来た。
その船に乗った吉井が手を降っていた。
「なんやねんあんた!さぶいわ!思わず笑ってしまったやないの。」
「マイミ・・・・。」
「あんたスーツ何か着てえらい男前になったやないの。」
「マイミ・・・・。」
「その名前で呼ぶのこの国であんただけやで、はずいわ!」
「マイミ・・・・。」
「オーストラリアにいるってよー解ったな。ここまでウチに会いに来ん?それは無いわな。」
「マイミ・・・・。」
「ウチな、今、化粧品の買い付けの仕事やってるんやで!世界中を回るんや。すごいやろ?」
「マイミ・・・・。」
「社長はねーちゃんやねん。こないだ子供が生まれたから。24にしてもうおばさんや。」
「マイミ・・・・。」
「この間、サッカー選手の通訳もしたんよ。うち、サッカー選手はトッティ様しかしらんから最初は微妙やったけど、頑張っている姿みると元気もらえたな。」
「マイミ・・・・。」
「本名は木本真理絵っていうねん。マイミは好きな少女漫画の主人公から取ったんよ。小さな天使・マイミちゃん・・・。まあ。うち170あるから小さなはどうかなぁと思ったけどな。あの時はがっかりしたやろ。」
「マイミ・・・・。」
「だから!なんやねんさっきから!何が言いたいねん。」
吉井はマイミの腕を引っ張り思い切りマイミを抱きしめた。
「はわわ・・・・・。」
真理絵は顔を真っ赤にして固まってしまった。
「会いたかった。ずっと君のことだけを考えていた。マイミ、君の事が好きだ。大好きだ。」
吉井はぎゅっと真理絵を抱きしめた。
「うち、デリヘル嬢やったんやで、それでもええの?」
「そんなの気にしない。マイミはマイミだよ。」
「うちいろんなところにフラフラ行ってまうで、いまも仕事で世界中をまわらなあかん。」
「今、僕もシステム会社に務めているよ。今は世界中のシステムの構築にかかわっているんだ。」
「う、うち、わがままやし、がさつやし、洗濯物とか・・・・結構溜め込むほうやで。」
「それも含めて、僕は君が好きだ。」
「もう!!あんたはほんまアホやな!!」
グレートバリアリーフの真ん中で二人は長いキスをした。
海は今日も青く、どこまでも澄み切っていた。
木本は28歳のスレッドを覗いてみる。
「あら!」
木本は感嘆の声を上げた。
<うちの終着駅見つけたで!!>
そこには真理絵と寄り添う様に吉井が幸せそうに写っていた。
ご愛読して頂き誠にありがとうございました。
小説の主人公達は決してかっこいい登場人ではありません。
何も上手くいかず、落ち込んだり、後ろ向きになったり、かっこ悪い事だらけです。そんなかっこわるい日々を前を向いて生きていく。
等身大のかっこよさを感じてくれたら幸いです。
主人公達はそれぞれ、人との出会いによって自分を成長させて行きます。
人との出会いの大切さをこの小説で伝える事ができたら嬉しいです。
つたない文章でしたが、最後まで読んで頂き誠にありがとうございます。
人生のほんの数分でもこの小説と向き合う時間を頂き、心から感謝致します。