これはただの古紙じゃない。経済新聞なんだぞ!
オデュッセウス社が所有するタワーマンション。
その28階にある一室。
ここは、俺に用意された場所だ。
内部。
足裏から伝わるのは、逃げ場のないほど滑らかで冷徹な硬質感。
大理石。成金の象徴、高級の代名詞。その白々しい光沢が眩しい。
「いいかテツ。俺はこのマンションのエントランスにも、24時間常駐のコンシェルジュにも、1円の価値も認めない」
カサカサ。
膝をつき、乾いた音を立てて新聞紙を広げる。
一枚、また一枚。
純白の床が、インクの匂いと活字の海に沈んでいく。
「こんなもの、カプセルを床にめり込ませないための、ただの土台だ。っつうか、高級すぎて触るのも怖い!」
「……お前、その新聞紙、わざわざ前のボロアパートから持ってきたのか?」
テツの視線が、俺の指先に突き刺さる。
呆れ果てているな。
だが、譲るつもりはない。俺は湿った指先で紙の端を整え、ぴたりと床に這わせた。
「失礼なことを言うな。資源回収前の有効活用だ。いいかいテツ。新聞紙を敷くという行為は物理的な保護だ。そして、俺の精神を守る行為でもある!」
ここは檻だ。
贅を尽くした、居心地の悪い巨大な鳥籠。
足元に広がる古紙の層だけが、俺の知っている世界。
これは、0円の国境線。
新聞紙の上だけが、俺の心を守ってくれる。
「それにな。よく見ろ! これはただの古紙じゃない。経済新聞なんだぞ!」
俺は紙面を指で叩く。パシッ、と高い音がリビングに反響した。
「通常のスポーツ紙に比べて繊維の密度が高い。つまり、平方センチメートルあたりの耐荷重分散率において、ゴシップ記事の塊よりも0.03%優れている計算になる。お前は、それをただの新聞であると断じるのか!」
テツの口が半開きになり、言葉が喉の奥で死ぬ。
まだだ。
この恐怖の正体を、論理の鎧で塗り固めなければならない。
そうしなければ、こいつの言葉によって、俺は『贅沢』という地獄に突き落とされてしまう。
「この大理石、傷ひとつで退去時に数万単位の修繕費を要求されるリスクがある。この新聞紙は、将来の損失を未然に防ぐ『最強の防壁』なんだよ」
窓の外に広がるのは、宝石をぶちまけたような夜景。
普通の人間であれば、勝利に酔いしれることだろう。
だが、俺の目にはそれが巨大な請求書の束にしか見えない。
見下ろすほどに、胃の腑がギュルリと絞られる。
「はあ……初月のバイト代30万、振り込まれんだぞ。……おい、どこ行くんだ。パン屋か? それともステーキか?」
「30万円は、全額『利率のいいネット銀行』に寝かせる。一銭も、だ」
「お前……この期に及んで」
テツの眉間が深く寄る。
「30万なんていう金を、俺が適切に使えると思うのか! しっかりと考えて使わなければ、残るのは胃もたれと、減り続ける預金残高への怯えだけだ」
「……お前、堅実すぎて怖いんだが。……なあ、それ……」
テツの指が向けられたのは、俺のポケット。
正確には、そこに覗く透明な物体。
プラスチックのジッパー。スライド式のつまみ。財布の代わりのジップロック。
「……その中に入ってるレシート、全部『もらったもの』か?」
「当然だ。裏面が白紙であればメモ帳になるからな」
『仰る通りです。マスター・レン』
無機質なスピーカーから、エイドスの涼やかな声が空間に響いた。
「なあ、エイドス。世の中には、正論であっても、納得しちゃいけないこともあるんだぞ」
『ロー・コンテクストとハイ・コンテクストの話ですね』
「……たぶん、それだ」
テツが力なく首を振る。
話を理解できないのではなく、考えるのをやめたんだろうな。
「とりあえず、こいつを見ろ」
俺はテーブルの上のポリ袋を漁り、一本の「耳」を掴み出した。
パン屋の隅で、無造作にカゴへ放り込まれていた端切れ。誰の目にも留まらず、ただ「無料」というラベルを貼られた廃棄寸前の塊。
「……この一口には、一銭の負債も含まれていないのに美味いぞ」
前歯で噛みちぎる。
硬い外皮から、凝縮された小麦の香りが鼻に抜けた。唾液が溢れ、甘みが舌に絡みつく。
「30万は使うべき時には使う。だが無料で済む間は無料で済ませる。それが俺の節約だ」
「分かっている。……ただ、お前の徹底ぶりに俺の頭がついていけないだけだ」
テツが手のひらで額を覆う。その動作の重さから、彼が抱いた徒労感が伝わってくる。
だが、この広すぎる空間こそが浪費の元凶なのだ。
「エイドス。この部屋は広すぎて掃除のカロリー消費が激しい。カプセルの周囲1メートルと、最低限必要となる生活スペースを計算し、それ以外を『立ち入り禁止区域』に設定してくれ」
巨大なログインカプセル。それを受け入れるための補強床。
元いたアパートでは、これを置いたら床が抜けるということで、この場所に連行されてきた。
まったく、迷惑な話だ。
「お前らしいって言えば、お前らしいんだが……。これから、どう動くか聞かせてくれ。上に報告しなければならない」
テツが姿勢を正す。
仕事の顔。
だが、俺はその問いに違和感を抱いた。
「なんだ、エイドスから報告を受けるなり、ログを確認するなりできるんじゃないのか?」
「いや、無理だ。色々と規約がある上に、ログを見るのも技術的に……いや、今のは忘れてくれ。お前の活動内容によっては、準備や配慮もできるからな。損にはならないはずだ」
軽口。
冗談めかした声音。
言葉の裏を探るなと、それらが伝えている。
なら、なにも言わないが、これだけは伝えさせてもらう。
「お前が、俺に損をさせるわけないだろ」
「……そういうこと言うな」
テツが視線を逸らし、頬を微かに硬直させる。
男の照れ。
その生理現象を、俺は冷めた目で見つめる。
一円にもならない無駄な熱量だった。




