これは、人間には無理な計算だな。……心強すぎる
人、人、人。
雑踏。
肩が触れ、視線が交錯する。
大通りを使った訓練。
一歩。
前を歩くヤツの踝を見て、動きを予測する。
目標の時間に合わせてゴールをする。
それが訓練の内容。
「……意外と難しいな」
エイドスよ。
お前、「マナー」という社会の維持費を切り捨てているの、気付いているか?
「他人と余計な摩擦を生まない。それが世渡りのコツなんだけどな」
『今は、優先順位が低いかと』
「そうなんだけどな」
他人と肩がぶつかると、毎回のように睨まれる。
意外とこたえるんだぞ、これ。
俺は人混みの隙間を縫う。
肉体が触れ合う寸前、わずか数センチの空白へ体を滑り込ませた。
◆
翌日。
街の南端に向かった。
そこに満ちるのは、湿った土とカビの匂い。
『試練 of 穴』。
世間がチュートリアルと呼ぶ、初心者の遊び場だ。
「エイドス、例の『忘れ物』は何人が取り忘れるんだっけ?」
『九十九・八%。取得条件が、一般的な成長効率と矛盾するためです』
「最高だな。俺のために用意されたようなもんだ」
入り口。
新人たちがスライムの粘液に塗れて剣を振っている。
彼らにとっては、強くなることが正解。
俺は、LV1のままでいるのが正解。
「目指す物の違い、か。少し羨ましいな――同じ場所を目指せるというのは」
『マスター・レン、訂正を。彼らは、同じ場所を目指しているのではなく、同じ方向に流されているだけであると定義する方が正確です』
その通りなんだろうけどな。少し考えにズレがある。
「厳しいな。そのマイナスを共有できる仲間がいるのが羨ましいんだよ」
『「仲間」という漢字は「人の間」と書きます。これは人との距離を測り、摩擦による熱量を無駄に消費する行為そのものを指します』
「なるほど。友情とは、維持費のかかるエネルギーロスの一種なわけか」
『肯定します。私と共に歩むことは、非・人間的な歩行――すなわち、徹底したコストカットです』
「よし、ぼっちの正当化が済んだところで、実利を回収しに行こう」
軽口は終わりだ。
ここからは、一円も損をする気はない。
「あいつらが努力を楽しんでいる間に、俺は一人で……お前と二人で、あいつらの努力を再利用させてもらうとしよう」
『地図を投影。技術は必要ですが、レベル一でも踏破は可能なルートとなります』
「ああ、行こう」
新人パーティーが、モンスターを引き付けてくれたし、俺はおこぼれを頂くとしよう。
……おっ、あっちの連中がスライムに苦戦して道を空けたぞ。
今のうちにササッと通り抜けよう。
感謝するぜ、名もなき勇者(肉壁)くんたち!
ゴーグルが起動し、視界に青いラインが走る。
それは、魔物の感知範囲を視覚化した境界線。
『マスター、スライムの右前方45度。カウントに従って座標を滑り込んでください。その際、指定した場所を踏んで移動すれば、足音を相殺可能です』
「これは、人間には無理な計算だな。……心強すぎる」
岩の隙間を縫う。
粘つく影を避ける。
足音を殺し、青いラインをなぞる。
すぐ横で、スライムが這いずる嫌な音が通り過ぎていく。
「デスペナルティは、今の俺なら対して問題はないんだよな」
『LV1の段階であれば、一定時間のステータス低下のみです』
「なら、隠密行動の訓練も兼ねるか」
一歩。
わずかな踏み込みの狂いが、赤字を招く。
鼓動が耳の奥で早鐘を打つ。
一拍ごとに生存コストを計上していく。
喉が渇く。
熱い。
再びスライム。
横を通り過ぎていく。
コイツに触ってしまうと、服の耐久力が減ってしまう。
心臓の鼓動が、一拍ごとに「死(節約の失敗)」というコストを計上していく。
喉の奥が、焼けるように熱い。
一歩。
わずか数ミリの踏み込みのズレ。それが、節約の失敗に繋がる。
慎重に、丁寧に進み……俺はダンジョン中層へ辿り着く。
静かだ。
行き止まり。
普通のプレイヤーなら「壁」にしか見えない場所の前に、俺は立っていた。
安全な場所。
だからこそ、俺は考えることができた。
(ひょっとして……)
ふと、さっき横を通り過ぎたスライムが気になった。
あのテカテカ具合、天然のコーティング剤にならないか?
粘液をバケツ一杯分、採取するだけで、靴磨き代を三年分は浮かせられるのでは?
いや、だが容器代がかかるな。
容器のコストがなくても、運搬する俺のカロリー消費が1.5円分を上回れば赤字だ。
……危ない、ダンジョンとは、こんなに恐ろしい罠がある場所なのか。
◆
「ここか?」
あちこちに石が転がっている。そして中央には奇妙な模様が大きく描かれている。
『はい。特定の順序で床に荷重することが必要となります。指示する位置に石を配置してください』
「その位なら、攻略情報が出ているんじゃないか?」
『いいえ。レベルが二を超えたプレイヤーは、物理演算が現実世界と乖離し始めます。その結果、置く石の重さに演算上のズレが生じ、万人に共通する正解が失われるのです』
「LV上げにそんなデメリットがあるなんてな」
『このズレは、マスター・レンの味方であるとお考えください』
エイドスのナビに従い、石を置いていく。
カチリ。
乾いた岩の噛み合うような小さな音が響く。
壁の一部がスライドした。
「……開いたな」
埃の舞う祭壇。
そこに鎮座するのは、一足の、何の変哲もない革の靴。
『アイテム特定:【永遠の足跡】。取得条件は「レベル1のまま、この場所に到達すること」です』
「経験値が負債だって、運営もわかってるじゃないか」
俺はニヤリと笑い、そのブーツを手に取った。
【永遠の足跡】
・種別:特殊防具(足)
・効果:薬草を靴底にこすりつけることで、耐久力が回復する。
「素晴らしいな。薬草さえあれば、この靴は永遠に現役ってわけだ」
『肯定します。通常、靴は歩行距離に応じて価値を減らす「減価償却資産」ですが、これは「永久保全資産」に該当します。この入手は、中央銀行の金利が永久固定されたに等しい勝利です』
「複利で膨らむ絶望ではなく、定額で維持される希望か。……いい響きだ」
この世界における俺の「生存戦略」が、進化した瞬間だった。




