セレスとの別れ
小さな妖狐の少女は、桜色の浴衣をひらりと揺らして駆け寄ってきた。三つの柔らかな尾が軽やかに踊る。年齢は五つか六つぐらいだろうか。愛らしいつぶらな瞳は好奇心で輝いていた。
「お客様がいらっしゃったんですね! 」
「お初にお目にかかります」小鈴ちゃんは行儀良く正座し、額を畳につけた。「わたくしは紅葉お姉さまの妹、小鈴と申します」
セレスがほほ笑みながら返礼する。「セレスと申します。紅葉さんに助けられました」
「あーっ! セレスさんの目! きれいな虹色ですね!」小鈴は目を丸くし、精霊族の瞳を覗き込もうとする。
紅葉が咳払いをして妹を制した。「小鈴、お客様にお茶をお出ししなさい。あと昨夜の煮付けも温め直すわ」
「はーい♪」小鈴はパタパタと厨房へ駆けていく。
庵の居間には香木の甘い香りが漂い、炉端では炭が静かに赤みを帯びていた。古びた土壁には墨書きの巻物が掛けられ、その傍らには妖狐族が使う筆が揃えられている。俺は畳の上に正座し、目の前の紅葉と向かい合った。
「ユートさん、昨夜のお話……詳しくお聞かせ願えますか?」紅葉は湯飲みを差し出しながら問うた。
湯気の向こうで狐耳がピクリと動く。彼女の鋭敏な聴覚は言葉以上のものを捉えているのかもしれない。
「信じてもらえるかどうか分かりませんが――」俺はでっち上げで小屋で暮らしていたこと、ステータスのこと……あとはよくわからないとごまかした。
ただ、どこか別の場所から来たことだけは告げた。
セレスが補足する。「ユートさんは私たち精霊族とも異なる……いえ、どちらかと言えば人間と親和性が高い存在です」
紅葉は腕を組んで熟考した。「ふむ……精霊族と人間の狭間にいる存在、ですか。興味深いですわ。それに」彼女は唐突に目を細めた。「あなたの言葉遣い……異郷の香りがいたします」
ドキリとした。まさか言語翻訳スキルの存在に気づいたのか?
「いえ、単に気になっただけですわ」紅葉は扇子を開いて微笑んだ。「この国の言葉と微妙に違いますが……違和感なく通じるのは不思議ですわね」
「はい……生まれ育った環境が違うせいかも知れません」俺は曖昧に返した。
深く詮索されたくない気持ちがあった。
小鈴が盆を持って戻ってきた。「おねえちゃんが作った栗の煮付けですよ~! ウチの秘伝の味なんです!」
陶器の皿からは湯気が立ち上り、琥珀色のつゆが艶やかに光っている。一口含むと、甘辛い出汁が舌に広がり、栗のほくほくとした食感が心地よい。
「美味しいです……!」思わず声が出た。こんなに温かい味を久しく感じていなかった気がする。
「嬉しい!」小鈴は満面の笑みを浮かべる。「紅葉お姉さまにはまだまだ敵わないけど……精進あるのみです!」
食事が進む中、紅葉が懐から一枚の地図を取り出した。紙ではなく羊皮紙のように粗いが、精密な彩色が施されている。
「我々が守る森の地図です。人里への道も記されていますわ」
地図中央には紅葉たちの居住区である「妖狐の森」。東西南北に森の名所が示され、南端には街道らしき太い線が引かれている。
「最寄りの人里はここ、《エコール村》」紅葉が指差す。「この道を通れば三日もかかりませんわ」
セレスが興味深そうに覗き込む。「交易のある村ですか?」
「小さな市が立つ程度ですが、旅人向けの宿もあります」紅葉は丁寧に説明する。「ただ……最近妙な噂を耳にしましたわ」
「噂……?」俺は身を乗り出した。
「西の山脈でオークの群れが暴れていると」紅葉の眉が曇る。「旅人の被害も出ているようです。十分お気をつけなさい」
セレスが心配そうに言った。「オークですからね……」
「用心に越したことはないですわ」紅葉は筆を執り、地図に注意点を書き加え始めた。狩猟禁止区域や危険な魔物の棲み家などを朱線で囲む。
「これを差し上げます」彼女は書き終わった地図を俺に渡した。「私の印も押しましたので、森の妖狐たちの支援を得られますわ」
「本当に助かります……!」俺は胸が熱くなった。見知らぬ土地で得た友情と恩義が重い。
夕刻、庵の前で別れの時が訪れた。紅葉と小鈴が玄関口まで見送ってくれる。
「ユートさん……」小鈴が袖をぎゅっと握った。「また来てくださいね! 今度はもっと美味しい料理作りますから!」
「必ず会いに来ます」俺は膝をついて目線を合わせた。「今日の思い出はずっと忘れません」
紅葉は数枚の通行許可符を手渡してくれた。「これで妖狐領内の通過が可能になります。困った時は近くの仲間に見せてください」
俺は深く頭を下げた。「この御恩は決して忘れません」
セレスと肩を並べて歩き出す。霧深い森が徐々に明るくなるにつれ、太陽が西の峰にかかっていた。
「ユートさん」セレスが歩みを緩める。「わたしは……そろそろお暇しなければなりません」
「え……?」突然の言葉に足が止まった。
「精霊族は自然の中で生きる習性があります」セレスは寂しげに微笑んだ。「あなたの冒険と私の使命は……別の道へと導かれるでしょう」
彼女の虹色の瞳に哀愁が宿る。初めて出会った時の親しみやすさは幻のように薄れていく。
「そう……ですか」
言葉が喉につまる。出会いからたった一日なのに、すぐにお別れとはちょっと寂しい。
「最後にひとつだけ」セレスは片手を差し出した。「あなたの右手を見せてください」
言われるままに差し出すと、彼女は掌を俺の甲に重ねた。淡い緑の燐光が周囲を包み込む。
「これは……」不思議な温もりが全身に広がる。「精霊の祝福です。危機の時にあなたの魂を導いてくれるでしょう」
「セレスさん……」感謝の言葉が溢れ出る前に、彼女は踵を返した。
「さようなら」彼女の姿が森の霧へ溶けていく。振り向いた時にはもう見えなかった。
呆然と立ち尽くす俺の掌には、まだかすかに祝福の光が灯っていた。冷たい風が頬を撫で、新しい旅路の厳しさを感じさせる。
地図を握りしめ、再び歩き出す。小鈴が手を振る気配が遠ざかる。太陽は既に西に傾き、長い影が伸びていた。
人里への道はまだ長い。だが一人ではない。地図をくれた紅葉の暖かさ。小鈴の純粋な想い。そしてセレスの最後の贈り物が胸にある。
この異世界での第一歩を踏み出す勇気が湧いてきた。まだ知らない危険も待ち受けているだろう。しかし恐れない。
遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。新たな世界の幕開けを告げるように―――。
ユートが歩き始めてしばらく経ったころだった。森の出口へと続く細道を下っていると、背後から「待ってくださ~い!」という可愛らしい声が追いかけてきた。
振り返ると、小鈴が木の枝を杖代わりにしながら駆け寄ってくる。その後ろからは落ち着いた足取りで紅葉が続いている。
「もう少しで森を抜けますよ!」小鈴は息を弾ませながらも楽しそうに言った。「わたしがユートさんの案内役を引き受けちゃいました!」
「え? でも紅葉さんは……」
「心配ございませんわ」紅葉は袖で汗を拭う仕草をしながら微笑んだ。「小鈴一人では不安ですので、わたくしも同伴いたします。森の境界まででございますが」
俺は感謝の念に胸がいっぱいになった。「ありがとうございます……お二人とも」
「どういたしまして!」小鈴は狐耳を揺らして飛び跳ねた。「セレスお姉さまがいなくなっちゃって寂しいでしょうけど……わたしたちがお友達になってあげます!」
「そうね」紅葉は優雅に頷いた。
三人で並んで歩き始める。夕焼けに染まる森は茜色に輝き、枯葉が絨毯のように敷き詰められている。小鈴は時折見つけた木の実を拾い上げ、「これ美味しいんですよ!」と教えてくれた。
その屈託のない笑顔に俺の沈んだ心が少しずつ和らいでいく。
「見てください!」小鈴が前方を指さした。「あれが人里ですよ!」
木々の切れ間から、丘の麓に広がる集落が見えた。茅葺き屋根の家々がぽつぽつと連なり、遠くには石造りの塔が夕陽に照らされている。微かに人々の声と家畜の鳴き声が届いてくる。
「美しい村ですね」俺は素直な感想を漏らした。
「エコール村はのどかな村ですわ」紅葉が解説する。「農業と林業が主産業で……」突然彼女の表情が険しくなった。「しかしあの噂……」
「オークのことですね」俺は思い出した。
「そうですわ」紅葉は深刻な顔で続けた。「西の山脈だけでなく……最近は人里にも目撃例があるとか。特に若い旅人が狙われやすいと聞いております」
小鈴が震える声で尋ねた。「わたくしたちも気をつけなきゃいけませんね……?」
「もちろんよ」紅葉は妹の肩を抱いた。「でも心配しないで。わたくしがついてますもの」優しく背中を叩く。
ふと左手の甲がかすかに温かくなった。セレスの祝福の痕跡が微かに光を放っている。まるで励ましてくれているように感じる。
「何か感じますか?」紅葉が察したように尋ねた。
「いえ……」俺は少し迷った。「でも大丈夫です。二人と一緒ですから」
森の出口まであと数百メートルというところで紅葉が足を止めた。
「そろそろお別れですわ」彼女は懐から小さな袋を取り出し、俺に手渡した。「携行食と傷薬です。万が一のために」
「本当にありがとうございます」俺は両手で受け取った。
小鈴が寂しそうに俯いた。「もうお別れなんですか……?」
「小鈴」紅葉が優しく諭した。「森の掟をご存知でしょう? 我々はあまり人里に関わるべきではありませんわ」
「わかってます……でも……」小鈴の大きな瞳に涙が溜まり始める。「また会えますか?」
「もちろんさ」俺はしゃがんで視線を合わせた。「約束します。いつか必ず」
小鈴は小さな指を差し出した。「契約の証です!」
俺は微笑みながら指切りを交わした。紅葉も静かに目を閉じ、狐耳が微かに動く。
「それじゃあ……行ってきます」
「お元気で」紅葉は丁寧に一礼した。
「また会いましょう!」小鈴は泣きそうな顔で手を振った。
二人の姿が夕闇に溶けていく。俺は地平線に消えるまで見送り続けた。
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