死霊のささやきの物語【無常堂夜話2】
戻子たちが所属する学部限定で、最悪の決断をする生徒が続いていた。
それは、構内にある古墳から出土した『蘇生の仮面』が展示された日からであることが分かる。
『蘇生の仮面』と生徒たちの自死は関係があるのか?
戻子の先輩をはじめノブさん助教、梅ちゃん准教授、そしてソラも含めて、事件の原因究明に臨む。
起・ざわめく学内
前回、『雨竜島』の調査では不思議な体験をした私、一条戻子は、友人の貴家鏡子と一緒に資料整理にかかっていた。
まだ残暑が厳しい時期、私たちはまるで猫のように、少しでも涼しい場所を見つけようと必死だった。もちろん、下宿でクーラーをガンガン効かせて過ごすのもいいが、そこは仕送りで生活している身、電気代がとても気になる。
ということで私たちは、うちの学部が持つ資料館で資料整理を進めていたのである。
「しかし、ホンマにソラっちゅう男は存在しとってんな。うちは戻子が熱射病で幻覚を見とんのかと思った」
資料整理の最中、何枚かの写真に写っている丸顔で天然パーマの男性、化野空、通称『ソラ』さんを見て、ようやく私の言っていることを半分信じるようになった鏡子は、私を見てそう言う。
「でしょ? だから……」
「せやかて、戻子の言う『雨竜島』に行って、島が沈んだ理由を体験したって話は、あまりにも荒唐無稽やで?
だいいち、レポートに『竜神様を封印していた一族が、その怒りを買って抹殺された』なーんて書いてみ? 梅ちゃんにどつきまわされるで?」
……私が『雨竜島に行ったことも信じて』と言おうとしたのを、先回りして否定されてしまった。
「ま、まあ、そこは当時の社会情勢や、周囲の状況を勘案して、それらしくまとめなきゃね。でさ、ソラさんのことなんだけど……」
「あー、もうお昼やー。何か食べんといかんなぁー(棒)」
私の言葉をぶった切って鏡子は立ち上がると、さっさと自習室を出て行った。
私が鏡子を追って資料館から出ると、鏡子は立ち止まって、左手に広がる森を見ている。その視線の先を追ってみると、いつもは人気もまばらで陰気な森に、たくさんの人が集まって何か騒いでいる。
「何やろ?『視蓋の森』で、また発掘作業でもしとんのかな?」
鏡子がそう言いながら森へと早足で歩きだす。
『視蓋の森』は、大学の構内に広がる森で、ここには古墳時代から縄文時代にかけての遺跡がある。管理は私たちが所属する人文学部人文学科で行っていて、主に日本古代史専攻の斎藤教授と研究室の院生、そして4年生の来島仙蔵先輩が発掘や研究を進めている。
「発掘作業だったら、センパイに頼んでちょっと見学させてもらおうよ」
「せやな♪ うちらもいつか発掘せなあかんようになるやろうし」
私たちは呑気にそう言いながら近付いて行ったが、何か様子がおかしい。黄色いテープが張り巡らされ、何やら写真を撮っている人もいる。
異様な雰囲気に立ち止まった私たちに、後ろから声をかけて来た人がいる。
「一条くんと貴家くん、そっちは今取り込み中だから近付かない方がいいぞ」
「あ、センパイ」
後ろから声をかけて来たのは、来島先輩だった。短く刈り上げた髪と四角い顔がごつい印象を与えるが、石色の瞳には優しい光をたたえている。
「センパイ、あれは何をやっとん? まるで警察が現場検証しているみたいやけど?」
鏡子が訊くと、先輩は苦々し気に首を振って、
「みたい……じゃなくて現場検証だ。また見つかってな? これで5人目だ」
そう吐き捨てるように言う。それを聞いて、私たちは顔を見合わせる。
「見つかったって……まさか……」
「ああ、今度もうちの学部だ。そろそろ警察も内部を疑い始めるんじゃないかな?」
顔色を変えた私たちに、来島先輩は冗談めかして言うが、その瞳は笑っていない。
それはそうだろう。同じ学部の人間が、次々と自ら最悪の決断をしているのだ。来島先輩としても不審に思うのは当然だろう。
いや、それよりも……
「ああ、ちょうど良かった。来島君、ちょっといいかな?」
人文学部棟から出てきた、初老の男性が先輩を呼ぶ。先輩は振り返ると、
「あっ、教授。すぐ参ります」
そう教授に答え、
「君たちも、何か悩みがあったら梅ちゃん准教授か、ノブさんに相談するようにな」
そう言って早足で歩き去った。
「2年、3年、4年生から1人ずつ。それに院生が1人。これぜーんぶ、うちらの学部やで。10月に入ってからあの森で逝っちゃった人が5人もおるのが不思議なのに、それが全部人文学部人文学科っておかしゅうないか?」
学食でお昼を食べながら、鏡子が言う。構内の森で最初の自殺者が見つかったのが10月3日。それ以降5日、6日、8日、そして今日、10日と発見されている。
「確かに……1週間で5人ってのも異常だし、それが一つの学部にまとまっているのも変よね」
そう言った後、私はふと気づいた。
「あれ、それじゃ4人じゃない? 後の一人は?」
「ああ、残りの一人は一般の方やねん。とはいっても、人文学科のOBやそうやけど」
OB!? だったら関係者って言ってもいい。
とすると、この不可思議な死の連鎖は、なぜか私たちが所属する人文学部人文学科に限って起こっていることになる。
「……なんか、不気味……」
「せやな……」
私たちは、何か背中に氷でも当てられたように身震いした。
「は!? 俺たちで原因を調査しろってことですか? 斎藤教授、失礼ですがそれは本気で仰っていますか?」
茶色の短髪に石色の瞳、ガタイのいい強面の男、来島仙蔵は素っ頓狂な声を上げる。
目の前の椅子に座っている50歳ほどの痩身長躯の男性は、白髪混じりの髪を撫でつけながら、困ったようにうなずいた。
「学部長からの依頼だ。これほど続いて自殺者が出たからには、学部として何らかの対策をすべきだろうと学長が仰ったみたいでな?」
「対策って、学生一人一人のメンタルチェックと、『視蓋の森』の封鎖以外に、何ができるんですか? これが事件なら警察に任せるべきですし、不幸な連鎖が起こっているのなら、学生たちの心を軽くするべきでしょう?」
来島がそう言った時、ドアがノックされた。
「誰かね?」
「教授、織田です」
「ああ、入りたまえ」
斎藤が言うと、
「失礼します」
と言いながら、黒髪を首の後ろでくくった若い男が入って来た。
「織田助教、何の用だね?」
斎藤がいぶかし気に訊くと、織田の後ろから少年のような女性が顔をのぞかせる。
「用があるのは私です。教授」
「平島准教授!」
斎藤は思わず立ち上がって言う。嫌悪の表情を浮かべる斎藤に、平島梅子准教授こと梅ちゃんは、苦笑いを浮かべて言った。
「学部長から、今回の騒動の原因を探れってお達しが来て、きっと斎藤先生が困ってらっしゃるだろうなって思っただけですよ」
「別に困ってはいない。来島君に調査をお願いしたところだ」
苦々し気に答える斎藤に、梅ちゃんはうなずいて、
「まあ、実家がお寺で、自身も『お祓い』を何度もしている来島君なら適任でしょうけれど、来島君は卒業論文があるんでしょう?」
そう来島を見て言う。斎藤は苦笑して、
「平島准教授、君はこの事案をオカルト的な話にもって行きたいようだね?」
そう訊くと梅ちゃんは首を振って答える。
「いいえ。私はオカルトって、信じてはいないけれど否定もしていません。だから来島君の特殊な才能が役に立つ可能性を言っただけです。
でも、卒業論文を作成している来島君一人に調査を押し付けるのも違うかなって思いまして」
「別に来島君一人に調査をさせるわけではない。私も調査するし、研究室の者も……」
「3年生と4年生、それに院生が一人ずついなくなっていますよね? だから私たちも協力したいって申し入れに来ました」
斎藤の言葉を遮って、梅ちゃんがそう言うと、斎藤は一瞬絶句し、
「……それはありがたいが、白鳥君の許可は取ったのかね?」
信じられないとでも言いたげにそう訊く。
「白鳥教授が仰ったんです。同じ人文学科として看過できないって。それに白鳥教授のところも2年生がいなくなっているんです。他人事じゃありませんから」
私たちはお昼を終え、フィールドワークのまとめを続けようと資料館に戻ったが、いい席は取られてしまっていた。
「どないする戻子。うちの家に来るか?」
鏡子がそう言う。自分のアパートに帰ってもいいが、これだけ暑いとクーラーなしではやる気も出ないだろう。それに鏡子が調べた部分は、自分でまとめてくれないと課題が次の段階に進めない。
そんなことを考えていると、私はふと、『視蓋の森』からの出土品に興味を覚えた。鏡子の家に行くなら、その前に出土品を見学しよう。どうせ来年は私たちも発掘調査に(あればのことだが)協力することになるんだから。
「ねえ鏡子、『視蓋の森』の出土品を見てみない?」
私が言うと、鏡子はすぐに賛成する。武道をやっているからか知らないが、彼女は骨董品に目がなく、それがいつの間にか古代遺跡の遺物や遺構への興味となったっていう鏡子だ、賛成するのは目に見えていた。
「あの出土品、たしか今月から資料展示始まってんな? そう言えばフィールドワークの整理が忙しゅうて、まだ見てへんかった。行こう、戻子!」
と、自分が言い出したかのように先に立って、展示室へと向かう鏡子だった。
展示室には、さまざまな遺物が所狭しと並べられている。石鏃や石刃が多かったが、中には明らかに土器と言えるものもある。
中でも目を引いたのは、補綴はされていたが巨大な土器……人がすっぽり入れるくらいの高さがある……と、黒曜石を磨いて造られた仮面だった。
黒曜石の仮面は、来島先輩が3年生の時に掘り当て、当時はかなり話題になった遺物だ。
視蓋遺跡や視蓋古墳は、これまで古墳時代から縄文中期の遺跡と言われていた。
しかし、これらの遺物の発見により、時代が遡ることになったのだ。
「この仮面、なんか気色悪いな」
鏡子は仮面を見て、目を細めて言う。確かに、能面を思わせるような静かな、表情が読めない、無機質な感じがする。『〇と〇尋の神隠し』に出てくるカオナシを思い浮かべてもらえれば、一番イメージに合う。
「見た目は単純やけど、こないな大きい黒曜石をここまで薄く削って、ひびも入れへんと目や口を開けて、表面を鏡のように磨き上げるのんって、どれだけ凄い腕持ってんねん。
ちょっとしたオーパーツやで、これは」
鏡子が言うことは分かる。これを作れと言われたら、失敗する自信しかない。
けれど私は、この仮面から何か別の、何とも言えないイヤな感じを受けた。それこそ鏡子が最初に言った、『気色悪い』以外に適当な言葉が見つからない。
そこに、思いがけない人物が現れた。
「一条くんと貴家くん、あまりその仮面や棺をじっくり眺めない方がいいぞ」
突然の言葉に、私たちはびっくりして振り返る。そして2度びっくりした。
「どうした? 俺の顔に何かついてるか?」
そこに居たのは来島先輩だった。しかし私たちの視線は、その後ろにいる人物に釘付けになった。
白髪だらけで灰色に見える天然パーマの髪、丸顔で人の好さそうな笑みを浮かべた人物は、『雨竜島』の伝説を調査しにО県に行った時、現地で出会った人物だった。
私たちが何も言えずにいると、来島先輩は見詰められているのが自分ではないことを悟り、後ろの人物を笑って紹介してくれた。
「ああ、この方は化野空って言ってな? 俺の親父の知り合いだ。
今日はちょっと俺の手伝いに来てくれたんだ」
するとソラさんは、ニコッと笑って私たちに問いかけて来た。
「お久しぶりですね。『雨竜島』の考察は進んでいますか?」
「何だ、知り合いですか?」
驚く来島先輩に、ソラさんはニコニコして
「ああ、О県の現地調査で偶然出会ってね?」
かいつまんで私たちとの出会いを説明してくれた。
「それで、『じっくり見ない方がいい』っていうのはどうしてでしょう?」
「まあ、ちょっとな。詳しいことは別の機会に話すから、悪いけれど資料館から出て行ってもらえないかな?」
私の問いに先輩がそう言う。私たちは顔を見合わせたが、ソラさんがうなずくのを見て、
「分かりました」
そう言って、資料館を後にした。
★ ★ ★ ★ ★
承・『蘇生の仮面』
「あの仮面、絶対にいわくがあるで?」
私たちは資料館を追い出された後、鏡子の家で作業の続きを行っていた。
「鏡子、自分の分の整理は終わった?」
私は鏡子に、わざと不機嫌な声で訊く。さっきから鏡子は自分のノートの整理もそっちのけで、何かを必死に調べているからだ。
しかし、鏡子は私の機嫌くらいで自分のやりたいことを止める女の子じゃない。私の言葉を華麗に無視して、一冊の本を私に見せながら言う。それは『視蓋古墳調査報告書』だった。
「あの仮面、『蘇生の仮面』言うんやって。発掘現場は視蓋古墳玄室の床下やったんやて」
「なぜ、『蘇生の仮面』って名付けられたんだろう?」
私が独り言ちると、鏡子は待ってましたとばかりに続きを読み上げる。
「同じ形の木製の仮面が、視蓋古墳の被葬者に被せられていたらしいんや。それで、木製の仮面はダミーで本物は玄室の下に埋められたって考えられとるらしいで。
呪術的なものか信仰的なものかは知らんけど、おそらく被葬者が迷わず黄泉の国に行けるように願いを込めた物って考えとるらしい。
ちなみに、被葬者や殉葬者全員が仮面とか目隠しとか、目に蓋をするような形で葬られていたから『視蓋』言うんやって」
うわぁ、殉葬の痕跡まであるのかぁ。生きながら埋められたのかどうかは知らないけれど、残酷な習慣だよなぁ。もっとも、これは現代の私たちの尺度で見た場合だけれど。
「でもそれじゃ、『蘇生』じゃないよね?」
被葬者が無事に黄泉の国に行けるような願いを込めた物なら、むしろ蘇りを防ぐものじゃないかなぁ?
「最初は、黒曜石の仮面を被葬者に付けて、蘇りを促した儀式をして、やっぱ死んどるって納得したらダミーの面に付け替えて葬ったんやないかって説もあるみたいやで。
『死人の仮面』ちゅうより『蘇生の仮面』の方が一般受けするから、そう名付けられとんとちゃうやろか?」
「まあ、それはそうかもしれないけど。『蘇生の仮面』って名前だけが独り歩きして、勝手なイメージがついても困るんじゃないかなぁ」
そう言った後、ハッと気づいて鏡子に言う。
「……てことは、先輩は今度の事案に、あの仮面が関係しているって思ってるのかしら?」
鏡子は肩をすくめて答えた。
「うちら科学者は、証拠に基づいて結論を出すもんや。その点、センパイは坊主のくせにめっちゃ合理的やから、オカルト的な考え方は最後の最後までせぇへんやろな。
ただ、センパイだけならともかく、ソラっちゅう男が現れた時点で、なんやうさん臭うなってるけどな?」
「おや、来島君だけでなく、バケ野まで来ていたのか。久しぶりだな」
『蘇生の仮面』を見て何事かを話している来島とソラの所に、織田助教がやって来た。
「信尚、相変わらずだね。君も例の件でここに?」
ソラが苦笑しながら訊くと、織田助教は肩をすくめて、
「まあ、梅ちゃんの言いつけだからね? で、バケ野くんとしてはどう視る?」
そう訊く。
ソラは笑って答えた。
「そっち系の見立ては、了順君の方が本職じゃないかな?」
「おっとっと、俺に振らないでくださいよ。データ過少で滅多なことは言えませんから。
まあ、個人的な意見を言わせてもらえば、この仮面はここに飾らない方がいいでしょうね。
千5百年以上前とはいえ副葬品だったことは間違いないし、呪術に関係していたかもしれない。その呪術も、鎮魂なのか封印なのか、教授方でも意見は相違していますしね」
話を振られた来島が言うと、織田助教はくすっと笑い、
「まあそうだな。この仮面が連続自殺事案に何かしら関係していたと仮定すると、自説が間違っていることを認めなければならない先生方が出て来るし」
そう言いながら、『蘇生の仮面』を展示しているコーナーのガラスを開ける。
「この仮面は市や県の文化財だ。どこに収納しておく?」
織田助教が訊くと、ソラは静かに言った。
「『神の物は神に、カエサルの物はカエサルに』だね。何か非科学的なことがあったら、了順くんが寺に預かってくれるだろう」
「学部からの依頼があれば、うちの寺で保管してもいいですが、佛さんが反対したらダメですよ。その時は空さんの所でお願いしますよ?」
来島の言葉を聞いて、ソラはうなずく。それを聞いて、織田助教は手袋をはめ、仮面を取り出した。織田の顔が微妙に歪む。やはり彼も何かを感じているようだった。
しかし織田は、仮面を持って事務室に行き、係員と共に収蔵庫へと向かった。
「あれを掘り出したのは、確か君だったね? 調査中に何か変わったことは起きなかったのかい?」
ソラが来島に訊くと、彼はうなずいた。
「ええ、あの仮面の調査を担当したのは、俺のほかにノブさんでしたね。別におかしなところなんて何もなかった。さっきみたいに変な気を感じたのは初めてですよ」
ソラはくすっと笑う。『蘇生の仮面』が発する雰囲気がおかしなことは、織田助教も含めて全員が感じているようだった。その時、来島は重要なことに気付いた。
「そう言えば、発掘作業に当たったのは俺とノブさんのほかに、自殺した人たちですよ。
OBの方は、玄室の再調査のために来ていただいていた方です。前回の発掘調査で玄室を測量した方だったので。
だから斎藤教授を含め、生き残りって言っちゃなんですが、3人だけです。元気なのは」
それを聞いてソラは眉を寄せたが、
「仮面に関する論文とかはあるかな?」
来島に訊く。来島はすぐに答えた。
「あ、ありますよ。俺が教授の指導を受けながら書いたんです。後でメールで送りますよ」
「頼んだよ。じゃ、ぼくはいったん戻るとするか」
ソラはそう言うと、すたすたと資料館を出て行った。
織田信尚助教は、文化財収蔵庫に『蘇生の仮面』をしまいながら、
「……だからこれは、人間の怨嗟や苦しみ、絶望なんかが封じ込められていると忠告したのにな」
そうつぶやく。今年3月、『視蓋古墳調査報告書』をまとめる時、出土した仮面の論文を書いたのは来島だったが、織田助教は来島の草稿と同じ考察をしていた。
最初来島は、黒曜石の仮面と木製の仮面は、死者が迷わず黄泉の国に行けるよう、生者に害を及ぼさないよう、まじないとして被らされたものだと推測していた。
しかし、斎藤教授は、
「被葬者の死後のために作られた仮面なら、被葬者の社会的立場から本物を被っている方が理屈に合うのではないか」
と反対し、
「殯の間、死者の蘇生を願って黒曜石の仮面を被らせ、殯終了後に木製の仮面と取り換えて埋葬された。黒曜石の仮面は、蘇生させられなかった呪物の扱いを受けたため、玄室外に埋められた」
という説で論文をまとめるよう指示した。その際、『蘇生の仮面』という一般受けするような名称を仮面に与えたのも斎藤教授らしい。
それに真っ向反論したのが織田助教だった。
彼は『視蓋古墳の規模が付近の古墳と比べ半分以下の大きさであること』『他の古墳には殉葬者が見当たらないこと』『年代的に視蓋古墳は、五つある古墳のうち2番目に古いこと』『五つの古墳の被葬者は、視蓋古墳の被葬者の時に系統が変わっていること』から、
「視蓋古墳被葬者の代に、何らかの事情で統率者が変わった。そのため視蓋古墳被葬者は、彼を放逐した新たな統率者から一族と共に殺され、その全員が古墳に埋葬された。
そして被葬者の『黄泉返り』を恐れた新統率者は、彼が生き返らないような呪力を込めた仮面を被らされた」
という考察を述べたが、斎藤教授からは
「面白い視点だが、今の文書や遺物からは言い切れない部分が多い」
と反対され、
「やはり比較言語文化出身だけあって、遺物の読み込みは独特だね」
と揶揄された。ちなみにこの件で、織田助教は斎藤研究室から平島准教授の研究室に移ることになる。
(この仮面に必要なのは、みんなに注目されることじゃない。仮面が背負っている人間の負の感情を払拭してやることなのに、誰もそれを口にしない。いっそのこと、仮面が納得するまで、思うままに人を呪えばいいのに)
そう思ってしまう織田助教だった。
次の日の昼休み、私は織田助教が梅ちゃんの研究室から出てくるのを見て、昨日のことを聞こうと声をかけた。
「ノブさん、昨日の件ですけれど」
私が織田助教に訊くと、
「あれ、相方はどうしたんだい? いつも二人で行動しているのに、珍しいこともあるね」
逆に鏡子がいないことを質問されてしまう。
「あ、鏡子は急に熱を出したとかで、今日はお休みしているんです。後でお見舞いに行くつもりでいますが。
それで、昨日は来島先輩やソラさんとどんな話をしたんですか?」
私が再び訊くと、織田助教は
「え、鏡子さんが? 鬼の霍乱って奴かな? さらに珍しい」
そんなことを言って答えを渋っている(としか思えない)。だから私はこっちから核心を突いてやることにした。
「やはり、あの『蘇生の仮面』に呪いでもかかって、むぐっ!?」
いきなり織田助教は、私の口を手で押さえる。そして目顔で
(ここではそのことを言うな)
と言ってくるので、私は目を丸くしたままうなずいた。
織田助教は手を放して、
「それはセンシティヴな話になる。梅ちゃんの研究室で話そう」
そう言って、研究室に逆戻りする。
「おや、ノブさんは昼食を食べに行ったんじゃなかったの? 忘れ物?」
部屋に戻って来たノブさんに、梅ちゃんがそう声をかける。
今年で29歳、黒い短髪に青い目という、変わった見た目をしたこの女性は、西洋文学史における新進気鋭の研究者である。ノブさんを斎藤研究室から引き取ったのは、彼の該博なる言語学の知識に惹かれたからという噂もあった。
「いえ、『蘇生の仮面』について、知りたがっている学生がいまして」
ノブさんの言葉に、梅ちゃんは呆れたように言った。
「へぇー。変わった子もいるものね。ま、たぶんそれは戻子さんと鏡子さんでしょ?
このアイスキュロスのカツラを賭けてもいいわ」
「いや、それは『髪の毛がままならない頭になるカツラ』ってことですよね?」
いけない、思わず突っ込んでしまった。
案の定、梅ちゃんは上機嫌で私に向かって言う。
「うん、いい感じの突っ込みね。でも安心して、日本にはヒゲワシはいないから」
「何の話ですかっ!?」
「いや、あなたが『蘇生の仮面』についてノブさんの話を聞きたいんでしょう? 遠慮せず聞くといいわ。かく言う私も少し気になっていることがあるの。
ついでに戻子さんに抜き打ちテストよ。ノブさん、説明はラテン語でお願いね」
いやいやいや、ラテン語なんてチンプンカンプンですから。第1外国語のフランス語ですら四苦八苦しているのに、ラテン語なんて飛んでも8分歩いて10分だ。
「に、日本語でお願いしますっ!」
必死の形相で言う私を見て、梅ちゃんもノブさんも笑っている。きっと二人して私をからかっているに違いない。学生課のお兄さんにハラスメントで訴えてやる。
「悪いね、ちょっとした冗談さ。で、『蘇生の仮面』についてだが、今、来島君とバケ野……化野君が調べている。念のため、仮面は昨日、収蔵庫に保管した。しばらくは展示しないことで斎藤教授からもオーケーをもらっている」
笑いの残った顔でノブさんが言うが、その顔は私の言葉で険しいものに変わる。
「えっ? でもさっき資料館に行ったら、『蘇生の仮面』が展示してあったんで、『別に呪いとかじゃなかったんだ』って思いましたけど」
一瞬、時が止まり、
「梅ちゃん、資料館に行ってみます!」
ノブさんはダッシュで研究室を出て行った。
梅ちゃんは難しい顔で何か考えていたが、私が取り残されているのを見ると、
「相方は病気ですって? すぐに見舞いに行ってあげるといいわ。それで少しでも変わった感じがしたら、私に知らせてくれないかしら。SSR級の人物を紹介するから」
そう優しく笑って言った。
織田助教が展示室に駆け付けると、そこに三人の人物がいて、二人は展示ケースの中を難しい顔で睨んでいた。もう一人は資料館の学芸員で、気味悪そうにおどおどしている。
ケースを睨んでいる人物のうち、一人は来島仙蔵だが、もう一人の袈裟を着た人物を見て、織田助教は背筋をピンと伸ばした。
「ご住職、わざわざおいでいただいたんですか!?」
織田助教が駆け寄って言うと、袈裟の人物はちらりと彼を見て、
「構内で起こっていることについては、了順から聞いている」
低く渋い声で言う。織田はうなずく。
「出土品の件についても、昨日話を聞いた。わしが出るまでもないと思っていたが……」
そう言いながら、ケースの中を指さす。そこには昨日運び出して、収蔵庫に収めたはずの『蘇生の仮面』が、ガラスのような輝きを見せて鎮座していた。
「今朝方、了順に資料館から電話が架かって来た」
その言葉に続けて、仙蔵が
「昨日展示室から持ち出したはずのものがここにあったので、展示を再開することになったのかという確認の電話だったんです。何かの間違いかと思いましたが、仮面がまた展示されているとのことだったので、念のため親父を連れて来たんです」
そう説明する。資料館の学芸員は、再度確認のため織田に訊いた。
「今朝、展示物をチェックしていたら、昨日助教が運び出されたはずの仮面が戻っていたので、助教か来島君が展示し直したのかと思いまして、確認したんです。
では、やっぱり展示はされないんですね?」
織田はうなずいて答えた。
「ええ、ちょっと気になることがあり、仮面を再調査するつもりでいますので、それが終わるまでは展示は中止するつもりです」
言いながら織田は、血の気が引いていくのを覚えた。目の前で話を聞いている学芸員は、すでに真っ青で卒倒寸前だった。
「考えにくいことだが、誰かがこっそり戻したってこともあり得る。すぐに防犯カメラを確認してもらえないか? オレは収蔵庫の防犯カメラを確認するので」
織田がそう言うと、学芸員はホッとしたようにその場を離れた。収蔵庫に行こうとする織田の背中に、仙蔵が呼びかける。
「俺と親父で仮面を調べてみます。しばらく寺で預かってもいいですか?」
織田は立ち止まると振り返り、一つうなずいた。
私は、梅ちゃんの言うとおり鏡子のお見舞いに行くことにした。課題については、私のパートはすでに考察も終えていたので、鏡子のパートについての考察が出来れば、後は執筆するだけだ。
「うーん、鏡子は結構好みが特殊だからなぁ」
熱が出ているのなら、あまり食欲はないだろう。それよりもアイスや氷菓みたいに口当たりがよく、冷たいものがいいかもしれない。
そう思った私は、アイスのセットを買い込むと鏡子の家に向かう。
前にも書いたが、鏡子の家は道場が併設された広い敷地にある。そこに鏡子はお父さんとお母さん、お兄さんとお姉さん、そして妹ちゃんと暮らしている。
「こんにちはー」
玄関にたどり着いた私は、汗をぬぐって声をかける。インターホンは門にしかない。
……声が小さかったのだろうか? 誰も出てくる様子がない。この時間なら英介おじさんが道場にいるはずなのに。
「こんにちはー!」
さっきよりも大きな声で声をかけるが、やっぱり返事がない。そこで私は思い出した。鏡子の家では呼び出しには特別の言い回しがあるんだった。
知ってはいても、実際声に出すとなると恥ずかしいものがある。
誰しも小さい頃はノリで言ってたけれど、さすがに二十歳近くなると『それってどうなの?』って思うことがあると思うが、この呼び出しがまさにそれだった。
でもこのままじゃ、せっかく買ったアイスが融けてしまう。私は意を決して大声で呼ばわった。
「頼もう~!」
すると、奥の方から野太い声で、
「お上がり召されい!」
そう言いながら、道着に袴姿の英介おじさんが、ニコニコしながら玄関にやってきた。
英介おじさんはうちのお父さんより8歳ほど年上なのにもかかわらず、すごく動作が敏捷で姿勢がいい。そして板の間を早足で歩いているのに、まったく足音を立てない。私は小さいときから、鏡子のお父さんは忍者だと信じていたくらいだ。
「おお、戻子ちゃんやないか。うちのお転婆のお見舞いに来てくれたのかい?」
「こんにちは。鏡子ちゃんの具合はどうですか?」
私が訊くと、おじさんは少し困ったように笑って、
「うん、昨夜急に震えだして、それからあっという間に40度近い熱発や。暑さにやられたんかと思ったが、様子がおかしいので、とりあえずうちのママに診てもらっている。
せっかく来てくれたのに申し訳あらへんが、そういうわけで鏡子は病院や」
そう、すまなそうに説明してくれた。
「それは心配ですね。鏡子が帰ったら、心配せずに早く病気を治してってお伝えください」
私がそう言ってお見舞いのアイスを渡し、玄関を出ようとしたとき、おじさんが思い余ったように声をかけて来た。
「……戻子ちゃん、ちょっと耳に入れておきたいことがあるんやが。時間を取ってもらえへんやろか?」
「……年甲斐もないと言われるかもしれんへんし、うちのママからは一笑に付されたが、ちょっと気になるんで、誰かに話しておいた方がええ思うてな」
私は英介おじさんと、道場で向かい合って座っていた。おじさんは大事な話をするときや、私と鏡子のいたずらを注意するとき、いつもこうやって道場で正座だった。
「気になること?」
私が訊くと、おじさんは
「実は鏡子がうわごとで、とんでもないことを言うんや。わしはあのような言葉遣いをするようには育てておらへんさかい、何かに憑りつかれたんやないかと心配やねん」
そんな驚くようなことを言う。そもそも、おじさんは武道を極めた方で、悪霊、悪鬼を前にしても怯むことはないって思っていたけれど……源頼政や源頼光なんか、じゃんじゃん妖魔を退治しているし……。
けれど話を聞くと、鏡子がうわごとで言っていたという言葉は、
『眠りを覚ましたものは呪ってやる』とか、
『自分だけでなく一族まで根絶やしにした恨みは忘れない』とか、
『黒霧が晴れているうちに、怨嗟を払うべし』とか、およそ物騒なことばかり延々と叫んでいたそうだ。
しかも、叫んでいる間中、布団の上に立ち上がり、大学の方に血走った眼を向けていたそうで、お兄さんや妹ちゃんは、それを間近で見てドン引きどころか泣くほど怖かったらしい。
しかも、お姉さんが、大学で起こっている連続自殺事案を話したものだから、さすがの英介おじさんも薄気味悪くなった……ということだった。
「事件が起こっているのは事実ですけれど、それがオカルト的なものなのかは分かりません。でも、来島先輩やそのお友だちが、この件を調べているみたいなので、あんまり心配は要らないと思います」
私は気休めでもそう言わざるを得なかった。だが、英介おじさんは、私の答えを聞き、
「そうか、来島のご住職の耳に入っているんはありがたい。早速、明日にでも鏡子をお祓いに連れて行こう」
そう言ってやっと少し心配が薄れたようだった。
でも私は、
(鏡子が『蘇生の仮面』に憑りつかれたり、呪いを受けていたりするのなら大変だ。これは梅ちゃんに知らせないと)
私はそう思いながら、再び大学へと足を速めた。
★ ★ ★ ★ ★
転・ソラとの再会と『無常堂』
「ふぅ~ん。とても興味深い情報ね」
私は、鏡子のお見舞い帰りに、彼女が何かに憑りつかれたかのようにうわごとを言っているということと、その内容を詳しく梅ちゃんに報告した。
梅ちゃんの研究室には、ノブさんと来島先輩が来ていたが、二人も私の報告を真剣に聞いてくれていた。
そして何よりも心強かったのは、二人の他にソラさんも研究室にいたことだった。なぜ、彼がここに居たのかをいぶかしがる私に、
「あ、化野さんは私がたまに非常勤講師としてお呼びしているの。彼、こういった方面には来島君に負けない知識を持っているから」
そう説明する。しかも来島先輩は、
「いや、空さんの知識は俺以上ですよ。俺には密教での加持祈祷に関する知識しかありませんが、空さんは神道や外国の呪術にも造詣が深いですから」
そう言う。滅多に他人をほめない(そして絶対に貶さない)来島先輩がそこまで言うのなら、ソラさんはめっちゃ頼りになるに違いない。『雨竜島事件』の時、彼がいてくれてどれほど心強かったかを知っている私は、そう思って安心した。
「バケ野、戻子さんの話を聞いてどう思う?」
ノブさんがソラさんにそう訊く。関係ないけど、『バケ野』って呼び方もいいなぁなんて思ったりした。
「うわごとと仮面の関係かい? 戻子さんに聞くが、鏡子さんは『視蓋古墳調査報告書』を読んだことはあるのかな?」
ソラさんが私に訊く。私はうなずいて、
「仮面について興味を持ったみたいで、けっこう熱心に読んでいました」
そう答えると、ソラさんは白髪だらけの頭をくしゃっとかいて、
「そうかぁ、読んでいるのかぁ。だったら、その知識が幻覚や妄想を生んだという線も捨てきれないなぁ」
そう言った後、
「……まぁ、最悪、鏡子さんの意識に直接聞いてみればいいが……」
そうつぶやく。
「仮に鏡子さんの妄想でなく、仮面に呪いなり残留思念があるとして、うわごとを言わせたり、何人もの人間に最悪の決断をさせたりするってこと、あるのかしら?」
これは梅ちゃんの疑問である。
「その前提だと、オカルティックな考察もありってことですね? ぼくは心霊現象について中立な立場ですが、残留思念がエネルギーの残滓だとすれば、それが人間の思考や認識に一定の影響を与える可能性は否定しません」
ソラさんがそう言って肩をすくめる。
「……そう考えないと説明が付かない事象も、たくさん経験していますからね。そうでしょう、戻子さん?」
「ふぇっ!? そ、そうですね」
急に話を振られてヘンな声が出た。ソラさんやノブさん、来島先輩も笑っている。
うう~っ、ソラさんこそ『雨竜島事件』では『説明が付かない事象』をいくつも引き起こしている張本人のくせに……。
「ご住職は何と仰ってるんだい?」
ソラさんの問いに、来島先輩は梅ちゃんをちらっと見る。梅ちゃんはすかさず、
「私の顔を見てどうするの? 別に私が了慶様の見立てを裁決するわけじゃないのよ?
どんな結果であっても、それはその立場で専門家が出した結論よ。門外漢の私が文句なんて付けないし、そんな失礼なことはできないわ」
そう言って来島先輩に先を促す。先輩はありがたそうに一礼して報告した。
「親父の見立ては、『障りあり』です。かなり古い怨念が封印されていたものが、あの仮面の発見と現場からの移動で封印が破れたと言っています」
「あの古墳って、いつ頃のもの?」
梅ちゃんが訊くと、来島先輩が答える。
「出土品から、5世紀後半のものだと考えています。被葬者や殉葬者の科学的調査は行っていませんが、木製の仮面の炭素年代測定結果から、やはり5世紀中盤から後半の人物だと思われます。斎藤教授も、古墳そのものの建造は5世紀だという意見です」
「その年代の文書が残っていないのが難点ですね。被葬者がどんな人物で、どういった経緯で殉葬まで行っているのか、皆目見当が付きません。
やはり仙蔵の草稿のとおり、あの被葬者の時代に政権交代が起こり、旧体制の人物が根こそぎ始末されたと考えたら、鏡子さんのうわごとも納得できますが」
ノブさんはそう言って来島先輩を見る。
「まあ、それは出土品とか、他の地域の遺物なんかを見て科学的に証明しないとね?
ところで、5世紀って言ったら今から千5百年も前よね。人間の恨みや哀しみって、そんなに長い間残るものなのかしら?
残留思念がエネルギーなら、時間と共に減衰し、消えてしまわないのかしら? その辺はどう、化野さん?」
梅ちゃんが訊く。それは私も気になる。怨嗟がそんなに長い間残るのなら、それってすごく哀しいと思った。まあ、それほどの凄い感情だからこそ幽霊とかになるんだろうけど。
「恨みや憎しみは基本的に薄れていきますよ。そこは人間にとって時間が解決する問題があるのと同じです。
ただ、怨嗟といった負の感情は、同類相哀れみます。封印されつつも、あの場に引き寄せた負の感情を喰らいながら、やがて混ざり合って得体のしれないものになる……。
ぼくたちはそれを『霊体』とか呼んでいます。これが目に見えるものになると『幽霊』ですね。中でも地面に結び付いた霊体は、減衰が遅く負の感情を溜めやすいので厄介ですよ」
ソラさんが悲しそうな眼をして言った。
結局、『蘇生の仮面』に何らかの呪いがかかっている場合、あるいは仮面そのものが霊体となってしまっている場合、私たちにできることはぜんぜんない。
「オカルト的アプローチは、了慶法印様や来島君、それに化野さんの領分ね。そちらはそちらでやってもらうとして、私たちがやっちゃいけないことってある?
了慶様には出来るだけ邪魔が入らないようにしたいから、教えてほしいな」
梅ちゃんはそう言い、来島先輩からいくつかの注意点を聞いていた。
「さて、仮面の対応は俺と親父でやりますが、貴家くんの方はどうします? 仮面の供養はかなり苦労しそうだから、俺たちは正直、貴家くんまで手が回らないと思います」
来島先輩がソラさんを見て訊く。ソラさんは片手を挙げて微笑んだ。
「あ、それは心配しなくていい。ぼくの方で対応しよう」
「助かります。じゃ、後でまた」
来島先輩はホッとした様子で研究室を出て行った。
「ノブさん、お腹すかない? 戻子さんと一緒に近くのファミレスで食事してきたら?」
なぜか梅ちゃんがそう言って、私たちを部屋から追い出そうとする。ソラさんは無表情で一心に『視蓋古墳調査報告書』と、『視蓋遺跡調査報告書集』を読んでいた。
「助教の立場にあるオレが、1年女子と二人きりで食事したら、格好の噂の的になりますよ。梅ちゃんやバケ野も一緒にどうです?」
ノブさんがそう言ってソラさんたちを誘う。するとソラさんは不意に立ち上がり、私たちを見て言った。
「みんなで食事に行ってきたらどうです? ぼくはちょっと用事が出来ましたので出かけます。すぐに帰って来ますよ」
そう言って返事も待たずに出て行ったソラさんを、私は慌てて追いかける。
「あ、ちょっと待ってください!」
鏡子の件はソラさんが対応するんじゃなかったの!? そう言いたかったが、私がドアを開けて廊下に出たときには、すでにソラさんの姿は見えなくなっていた。
「いない……」
「不思議だろう? 化野はそんなところがあるんだ。いないはずなのに急に現れたり、いるはずなのに急に消えたり。だからオレは『バケ野』って呼んでいるし、バケ野もそれを気に入っている節がある」
ノブさんが私に続いてドアの外に出てきて言う。
「ソラさんって、いったいどんな人なんですか? ノブさんはお友だちなんでしょう?」
私が訊くと、ノブさんは私を横目で見て答えた。
「オレも良くは知らない。バケ野のことを一番知っているのは、恐らく来島のご住職だろうな。オレが知っているのは、彼はどこかで神主をしていたことと、『無常堂』っていう何でも屋をしているってことだけだ」
「ささ、化野さんの詮索はそれくらいにした方がいいわ。誰しも知られたくないことはあるはずだもの。それよりみんなでご飯食べに行かない? 私に合わせてくれるなら奢ってあげるわよ?」
梅ちゃんは笑って言った。
梅ちゃんが向かったのは、高そうなイタリアンレストランだった。
「梅ちゃん、オレはドレスコードに引っ掛かっちまわないかな?」
お店の雰囲気に飲まれたノブさんがそう言ってしり込みするが、
「大丈夫。ここは私の親友がやっているお店だから、よっぽどぶっ飛んだ格好でない限りは問題ないわ」
梅ちゃんはそう言ってずんずんと店に入って行く。私たちも仕方なくそれに続いた。
「何名様ですか?」
受付のお姉さんが訊いて来るのに、
「3名よ。タバコは吸わないわ」
梅ちゃんは慣れた様子でそう言うと、私たちを振り向き『ついて来なさい』というように笑う。
食事は品がよく、それでいて豪勢だった。恥ずかしながら、生まれて19年目にして初めて食べたものが多かった。パッと見で判ったのは、パスタくらいのものだった。
「戻子さんは女の子なのに、あんまりこんなお店に来たことないの?」
梅ちゃんに訊かれて、私は縮こまってしまう。外食はファストフード、よくてファミレスで、コンビニ弁当とスイーツが頑張ったご褒美だった私は、ご飯や洋服にお金を使うより、その分を本に費やしてきた。
そんな自分を顧みて、
(もうちょっと衣食にもお金をかけるべきだったかな?)
そう反省した。
「……私が化野さんに初めて会ったのは、2年ほど前のことよ」
急に梅ちゃんがそんなことを言い出したので、私は食後のコーヒーを思わず下に置いた。
そんな私を見て、梅ちゃんはニコリとして言う。
「興味があるみたいね? だったらこのままお話しさせてもらうわね?」
私が思わずうなずくと、梅ちゃんもノブさんも微笑む。そして梅ちゃんは、化野空という人物について語り始めた。
その頃私は修士課程を終えて、博士論文に取り組んでいたわ。
知ってのとおり、私の専攻は西洋文学史。修士論文のテーマは『ディオニューソスとオルフェウス教』だったけれど、博士論文ではぜひ『魔女と中世社会』をテーマにしたかったの。でも、なかなかいい原書が見つからないのよね。
ある日、私が気晴らしに構外を歩いていると、見たこともない路地を見つけたのよ。私はこの町に学生時代から数えて9年も住んでいて、たいていの道は知っているつもりでいたから、とても不思議に思ったわ。なんで今まで気付かなかったんだろうって。
未知のものがあれば、知りたくなるのは私の習性ってやつでね、私は躊躇なくその路地に足を踏み入れたの。狭くてごみごみしてはいるけれど、不思議と明るくていい匂いもする、いわゆる『路地』ってイメージじゃなかったわね。
その路地の先に、何があったと思う?
「『猫の恩返し』にあった、猫の事務所ですか?」
私が思わず訊くと、梅ちゃんは噴き出しそうになるのをやっとのことで抑えて、
「……まさか。でも、雰囲気はそれに近いわね。そこにあったのが、化野さんの『無常堂』だったの」
そう言うと梅ちゃんは、遠くを見る目をして続けた。
『無常堂』は昔の駄菓子屋みたいな木造の2階建てで、木の引き戸にはまっている歪んだガラスや、開いた入り口の横に立てかけてある『無常堂』の木製看板が、酷く懐かしさを感じさせて、しばらくはノスタルジーに浸っていたわ。
で、なぜか『ここになら、欲しい本があるかも』って直感したのよね。不思議よね、どんなお店かまったく分からないのに、なぜか確信してしまったの。
私が店に入ると、それはそれは素晴らしい光景だったわ。左手にはアンティークの家具や調度品、時計や何か判らない機械まで雑然と並べてあって、右手には壁一面に本が並べられていたわ。
誰かいないのかと声をかけたら、外から化野さんが帰って来て、私を見てびっくりした顔をしていたの。『若い女性のお客が来るのは珍しい』って。
私が論文のことを話すと、彼はしばらく本棚を眺めていたけれど、やがてうなずいて、
『これなら、参考になりますよ』
って、数冊の本を見つけ出してくれたわ。
これが、私と化野さんの出会いよ。
「不思議な出会い方ですね。その『無常堂』ってどこら辺にあるんですか?」
私は気になって訊いた。その『無常堂』に行ってみたくなったのだ。
しかし、梅ちゃんは首を振り、寂しそうに答えた。
「その時以来、『無常堂』には行けてないわ。どこにあるのかも判らないの……」
★ ★ ★ ★ ★
結・恩讐の彼方に
来島先輩が『蘇生の仮面』をお寺に引き取ってから1週間が経った。
何でも先輩は、お父様の了慶和尚と共に数日にわたる加持祈祷を行って、仮面をご供養したそうで、そのおかげか『視蓋の森』で最悪の決断をする人は絶えた。
また、ソラさんが不意に消えた次の日、鏡子はそれこそ『憑き物が落ちた』って感じで、普段どおり講義にも顔を出していた。ソラさんが消えたあの夜以降、高熱も下がり、変な夢も見なくなり、怨嗟の言葉を叫ぶこともなくなったという。
「じゃ、『呪ってやる』とか叫んだこと、ぜんぜん覚えていないの?」
喫茶店で軽い昼食を摂りながら私が鏡子に訊くと、鏡子は頭をかきながら、
「うちの兄貴や姉貴、笙(妹さんのことだ)からも聞かれてん。何も覚えてへんのかって。
せやけど、うちは悪夢にうなされたことしか覚えがないねん。その悪夢も、どないな夢かは忘れてもうたけど」
ドリアを口に運びながら鏡子が答える。まあ、悪い夢なら忘れるに限る。思い出せないのなら、強いて思い出してもらわなくてもいいや……私はそう考えて話題を変える。
「実は、鏡子に憑りついた悪霊(?)は、ソラさんが対応してくれたんだけれど、鏡子、どんなことをされたか覚えていない?」
鏡子は肩をすくめて答えた。
「……知らへん。そもそも、ソラさんが来たんも覚えてへんわ」
そして逆に、身を乗り出すようにして私に言う。
「それよか、梅ちゃんが言う『無常堂』に行ってみたいと思わへんか? 見知らぬ小路の向こうにある、古びた骨董品屋なんて浪漫の塊やん」
「そりゃあ私も行ってみたいけれど、梅ちゃんの話では本当に偶然そこに行けたみたいで、行こうとして行けるような所じゃないみたいよ?
ノブさんや来島先輩も、『縁が結ばれないと行けない場所なんだろうな』って言ってたし」
私はそう言うが、鏡子は諦めない。
「なんやそれ!? それじゃソラさんは異界の人間か、人間やないって言ってるようなもんやないか?
うちも確かにソラさんに人間離れしたもんは感じるけど、だからっちゅうて人間やないとは思えへん。せやから『無常堂』にも、どうにかして行けるはずや。
戻子、今から行ってみるで!」
「あ、ちょっと鏡子、待ってってば!」
私が止めるのも聞かず、鏡子は喫茶店を飛び出して行った。私は鏡子の分までお会計を済ますと、
(後で鏡子の分は請求しようっと)
そう思いながら外に出る。鏡子は外で私を待っていたらしく、
「鏡子、お会計……」
と言いかける私に皆まで言わせず、
「梅ちゃんが歩いとったって言う通りはここやで。せやから端から端まで歩いたら、その不思議な小路が見つかるはずや!」
そう言ってずんずんと歩き始めた。私は仕方なく彼女の後をついて歩く。
通りを何度も往復したが、それらしい小路は見つからない。私は
「今日はもう諦めよう。課題の続きも書かなきゃいけないし……」
そう言いかけた時、私は不意に手を引っ張られる感じがして、路地裏へと連れ込まれてしまった。
その路地は狭いけれど明るくて、梅ちゃんが言っていたほどごみごみとはしていなかった。むしろすっきりとした感じで、塵一つ落ちていない。
私は、
(ついに見つけた!)
と思って、鏡子に声をかけようと振り返ったが、不思議なことに二人で歩いていた喫茶店のある通りは見えなくなってしまっていた。
「嘘ぉん……」
思わず間延びした声が漏れる。これでは路地を先に進むしかないではないか。
しかし、私はこの先に『無常堂』があることを知っていたので、梅ちゃんとは違った意味でワクワクしながら路地を進んで行った。
50メートルほど進んだろうか? 路地は明るくて広い場所につながっており、向かって右側に少し大きめの、木造2階建ての店が見えた。
私はドキドキする胸を抑えながら近寄った。板張りの壁、歪んだガラスが嵌った木製の引き戸、そして『無常堂』と掘られた木製看板……すべて梅ちゃんが話してくれたとおりだった。
「こんにちはー」
と挨拶しながら店内に入る。店の中は思ったよりも明るかった。
「……すごいなぁ……」
私は、右手に並んだアンティークの品々や、左手の壁一面を占領している本の類を見て、思わず感嘆の声を上げる。その声が聞こえたのか、店の奥から白髪だらけで丸顔の、人懐っこい笑みを浮かべた人物が近付いてきた。
「やあ、お待ちしていましたよ。『無常堂』へようこそ」
「ソラさん」
私はそう言って、何と言おうか迷った。ここはどこなのか、なぜここに来る路地はみんなには見えないのか、そして何よりも、ソラさんは人間なのか……。
私の迷いを見抜いたのか、ソラさんは優しく笑って、
「ぼくは人間ですよ。まずは座ってください、あなたをここに呼んだ理由をお話ししますから」
そう言い、椅子とお菓子を勧めてくれる。私はありがたく言葉に従った。
「まずここは、いわゆる『異界』の類のような場所ではありません。確かに大学がある町の中にあり、縁がある方ならどなたでも入って来られます。まぁ、中には『招かれざる客』ってのもいますが……」
そう言うと、私に紅茶を勧めてくれる。アンティークの陶磁器に注がれた紅茶は、それだけで美味しそうに見えた。
私が紅茶に口を付けるのを見たソラさんは、ゆったりとした表情で言う。
「ぼくは人付き合いが苦手ですし、ちょっと特殊な仕事もしているので、この店には縁がある人やぼくが縁を結びたいと思った人しか来られないよう、結界を張ってもらっています。
だから、普通の人はひょんなことで迷い込みでもしない限り、ここには来られません」
そう説明すると、ちょっとおかしそうに笑いながら続ける。
「今回、鏡子さんをお呼びしなかったのは、これからする話は戻子さんだけに知っておいてほしかったことと、鏡子さんが自分の分の食事代を払っていなかったからです。
ぼくの仕える神様は、借りを作ることを嫌いますからね」
じゃ、鏡子は私の言葉をスルーしたから、ここに来るチャンスを逃してしまったんだ……そう思うと、私は正直、少しスッキリした。
「それで、私にどんなお話があるのですか?」
私が訊くと、ソラさんは急に真面目な顔になり、
「あの仮面についての話です。あなたにも関係することなので、気分が悪くなるかもしれませんが、ぜひ最後まで聞いてください」
そう言って、『蘇生の仮面』についての話をしてくれた。
今から千五百年ほど前、この土地はアメノコヤネノミコトを祖神とする一族が統治していた。なかなかに勢力があり、人望も厚かったらしいのだが、『視蓋古墳の被葬者』……ここでは『領主』と呼んでおこうか……の代に、さらに大きな勢力がこの地に手を伸ばしてきたんだ。
ここの領民は領主のことを深く信頼し、慕っていた。他の勢力に服することに恐れを感じてもいたんだろう。
領主は、彼我の勢力の差や時代の流れを鑑みて、大勢力には抗えず降伏を考えていたらしい。しかし、領民や一部の部下の心配や反発を抑えられず、遂に戦端を開いた。
領主はかなりの戦上手だったし、地の利も分かっており、人の輪も得ていた。大勢力の軍を何度も撃退したようだ。
大勢力の主から命令を受け、軍を率いてきた将軍も、領主の存在がこの地を平和裏に手に入れ、そして統治するのに役立つことを認め、やがて友情を育んでいった。
将軍は領主の命を助け、その地位のままこの地を併合するのが、自分の主のためになると信じ、その旨を故国の朝廷に申し送った。その間、領主は将軍の説得により一時停戦していたらしい。将軍の誠意を信じたんだろうね。
しかし朝廷からの答えは、将軍の更迭だった。新たな将軍は自分の存在を隠し、宴会にこと寄せて領主たち一族を招き、不意に襲って全滅させた。
だが、知ってのとおり領主たちが祀っていたのはアメノコヤネノミコト、中臣氏の祖神とされる神様だ。そして中臣氏は神祇を司って大和朝廷に仕えた一族、その祟りと領民たちの反感を恐れた新将軍は、形ばかりの古墳を築いて領主とその一族を弔い、その怨念が残らないように、魂が黄泉の国に行くようにと仮面を作らせ、それを被せて埋葬した。
「その怨念が、仮面に憑りついていたんですね?」
私が尋ねると、ソラさんは苦々しげに唇を歪め、眉を寄せて首を横に振った。
「仮面は、怨念や怨嗟の通り道に過ぎない。本当に依代になっているのは古墳そのものだ。
だから領主たちを祀り上げ、怨念を解消しないとどうにもならない。
了慶様や了順が供養をしたが、あれは霊鎮めの役割をしただけで、仏教的にいえば『成仏』させたわけじゃないんだ。だから君に来てもらった」
「どう言うことでしょう? 私に何ができるんですか?」
不思議な話だった。領主さんたちの運命には理不尽を感じて、無念さを想像すると胸が押し潰されそうになるが、だからと言って一般人の私が何かできるわけがない。
だが、ソラさんは私を見て、真剣な顔で言う。
「戻子さんの氏は一条。これは藤原氏の流れを汲む。それに戻子と言う名前は一条戻橋を連想させる。君の遠いご先祖に、陰陽師やその類の仕事に従事した方がいるはずだ。
だから、祖神を同じくする君なら、領主たちの御霊と繋がれると思っている。協力してくれるね?」
その迫力に、私は思わずうなずいてしまった。これが、私とソラさんの『縁』を確定してしまったのも知らずに……。
ソラさんは私の然諾を見て、急に優しい顔に戻って言う。
「ありがとう。じゃ、店の奥の部屋に準備している服に着替えてくれ。ことは急を要するので、これから祀り上げをしたい」
そう言われて、私は奥の部屋に通された。
着替えの服は、一見巫女装束のようだが、袴が緋色ではなく、上下とも真っ白の衣装だった。
着替えが終わった私が部屋を出ると、そこにはお公家さんみたいな恰好をしたソラさんがいて、静かな声で私を見て言った。
「何を見ても、聞いても、決して声を出してはいけない。これを懐に忍ばせておくといい」
そう言って、何か人型に切り取られた厚紙をくれた。表面には呪文が書かれていた。
「では参ろうか。重ねて注意しておくが、何もしゃべるんじゃない。怖かったら目をつぶっておくといい。ぼくが言うまで、この宝珠を持っておいてくれ」
手渡されたのは、上が尖がって潰したスライムのような形をした水晶玉だった。私は緊張した面持ちでそれを受け取ると、無理に笑顔を作ってうなずいた。
私たちは、神社の裏手に出た。この神社は、珍しくもツクヨミノミコトをご祭神としているので、私もよく知っていた。
(『無常堂』がある広場って、ここにつながっていたんだなぁ)
そう思っていると、ソラさんは私に、
「上がってくれ」
そう言い、私の手を引いて拝殿に上がる。勝手なことをしたら怒られるんじゃないかと思ったが、ソラさんは一言、
「ここの神社の神主はぼくだ。だからちょうど都合よかった」
そう不思議なことを言い、祝詞を上げ始める。ソラさんの声は中性的で、澄んだオカリナの音色や馬頭琴の音色を思い出させた。
1時間ほど経っただろうか、私が余りの心地よさにウトウトし始めた時、突然ソラさんが、
「ぅおおぉ~」
お腹の底から響くような声を上げる。それで私の眠気は吹っ飛んでしまった。
いや、眠気が覚めたのは声のせいだけではない、突如として背後に、氷のような冷たい感触が奔り、全身の毛が逆立った。今思えば、あれが『霊気』とか『殺気』とかいうものなんだろう。
私は後ろが気になって仕方ないが、さっきとは違った祝詞を上げだしたソラさんの背中は、『振り向くな!』と言っていた。私は怖いのを我慢してぎゅっと目をつむる。ソラさんがくれたお札を仕舞った胸元を押さえながら。
何かが聞こえる。騒がしい雑音の中に、何か叫んでいる声が聞こえる。ただ、何を叫んでいるのかは、何十人、何百人もの声が重なって、はっきりとは聞き取れない。
そして、
「戻子、宝珠を!」
ソラさんの声にハッとした私は、思わず目を開けてしまった。そして私は、『それ』を見てしまったのだ。
それは何か、肉の塊と言うか、靄のようなものと言うか、実体はないように見えて生々しい何かだった。それがソラさんの顔を覗き込み……眼なんかは見えなかったが、私にはそう思えた……ソラさんはそれを鋭い目で睨み返している。
そんな光景を目の当たりにして、思考能力と行動の自由を奪われた私だった。
「戻子、宝珠だ!」
私は何とかソラさんに宝珠を手渡すと、そのまま気を失った。
次に目を覚ましたのは、すでに明け方だった。私はいつの間にか自分のアパートに寝かされていた。
しばらく天井をぼーっと眺めていた私は、ふっとあの悍ましい『それ』を思い出し、身震いしながら飛び起きる。窓の外の空はオレンジに染まり、だんだんとそれが夜の闇を駆逐していくところだった。
(ソラさん、どうなったんだろう。いや、そもそもあれは現実に起こったことなのかな?)
私は無意識に胸に手を当てる。何か固いものが服の下にある感じがして、それを引き出してみると、ソラさんがくれた人型だった。表面に書かれていたはずの呪文が、かすれて見えなくなっている。
でも、これであれは現実の出来事だと知った。私は不意に、ソラさんのことが心配になった。あんな気味の悪い、そして私でも感じ取れるほどの悪意を持った何かと対峙して、ソラさんが無事である気がしなかったのだ。
ふと私は、ミニテーブルの上に一枚の紙が置かれていることに気が付いた。私がベッドから起き上がってそれを手に取ると、毛筆で書かれたソラさんの文字が目に飛び込んできた。達筆だった。
『今回はとてもお世話になりました。おかげで無事、彼らを祀り上げることができたよ。
ぼくは通常、お祓いのような真似はしないのだけど、君という助けがあったし、領主たちの祖神とも多少の縁があったので、ちょっと手を出させてもらった。
君は、いつでも『無常堂』に来られる縁がつながったので、いつか店に来てくれないか? 今回の借りをお返ししたいんだ。ぼくの神様は、知ってのとおり借りを作るのを嫌われるんでね? 化野空』
私はそれを読んで、微笑むとカーテンを開け、明け行く空を見た。今日はとても清々しく、いい一日になる……私はそう確信して、うんと背伸びをした。
(終わり)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、事件だけでなく平島梅子助教授と『無常堂』の出会いも書いてみました。
作中、ソラがまるで死霊を祓えるような描写をしていますが、彼自身が超自然的な能力を持っているのではなく、あくまで道に則り、アイテムや祝詞で何かの力を借りているだけです。
祝詞や真言を使って悪霊・生霊・あやかしと対峙し、サクッと封印したりって言うのも考えたのですが、『縁』や『絆』というものを書くのなら、普通の人間と神(またはそれに近いもの)を書いた方がいいかなと思います。読者の皆さんにも好みはあるでしょうが……。
とにかく、この作品は『不思議系』をメインで書いて行きますのでよろしくお願いします。
では、またいつか!